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2012
7. 2

◎7月2日から今夏の節電期間が始まりました。関西電力など7電力は、2010年比5~15パーセントの節電目標という。東京電力は電力に余裕があり今夏は数値目標を設けないという。原発の事故解明もされず、電力停止に対するリスクの対策など安全面の課題が消えない中、脅しともいえる電力不足を理由に大飯原発が再起動しました。
 今でも余震が連日続く中、暑さの心配より大きな不安が消えません。

 『義民木内宗吾家は現在も続いています』
◎ずっと以前から行ってみたかった所の一つが、義民木内宗吾(佐倉惣五郎)の御魂を祀る宗吾霊堂でした。京成電鉄宗吾参道駅より1キロの所に10万平方メートルに及ぶ敷地に大本堂を初めとした幾つもの建物が配置された立派な古刹がありました。
 ちょうど紫陽花祭りの期間中で、アジサイの花をバックに撮影会も行われていました。また本堂前で二胡奏者による演奏会もあり、いいひと時を過ごすことができました。

・芝居で有名な佐倉宗吾は、本名を木内惣五郎といい、下総国印旛郡公津村(現成田市公津)の名主でした。飢饉と国家老の暴政による重税を直訴しはりつけになり、子ら4人も打ち首になったのです。なお、妻は直訴の前に離縁して木内家を去っています。 命を懸けた直訴により、村人の苦しみは救われたのでした。
家族全員が極刑になったのですが、実は娘二人は嫁いでいて刑を免れたのでした。常陸の国小野村に嫁いでいた下の娘ハツは、その後夫の死別により公津村に帰って、木内家を継いでいます。この子孫が現在宗吾旧宅にお住いの方だそうです。木内惣五郎の復権は、およそ100年後、当時の藩主堀田正信の孫で山形藩より移封、佐倉入りした堀田正亮が当時の失政を悔い、惣五郎の100回忌を行った時からです。


 正亮は、その際惣五郎に「宗吾道閑居士」の法号を与えました。それから、惣五郎は木内宗吾とか佐倉宗吾と呼ばれました。

・蛇足ですが、ハツの孫(血は繋がっておりませんが)伊久(イク)は、藩主堀田正睦の側室で最後の藩主正倫の母にあたります。幕末には藩主と木内家は親戚になったのですね。縁は不思議なものです。
 宗吾御一代記記念館には、66体の人形を配し、義民木内宗吾伝を構成しており、解説もして頂きました。その後、客殿で無料のお茶席に立ち寄り帰りました。

   
    ※
記念館の展示、最後の処刑場の場面

宗吾霊堂…鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂。寺院の縁起は、桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が房総を平定し、戦没者供養のために建立された真言宗豊山派の寺院という。義民佐倉惣五郎を祀る。

2012
7. 9

◎印西市長選が7月8日投開票され、新顔の前市議、板倉正直氏が、3選を目指した現職の山﨑山洋氏を破り、初当選しました。

 『忍法 ななふし』
◎東松戸の緑の窓口に切符を購入に行き、時間があったので市川市大町動植物園に接している自然観察園に寄ってきました。 観察園は、平日の為か木道を歩く人もあまりなくのんびりと散策することができました。
 ただ、野鳥は数も種類もとても少なかったです。それでも、奥の池にはカワセミ狙いのカメラマンが10数人大砲のようなレンズ付きのカメラを構えていました。
木道をゆっくり歩き、蛙や昆虫、クモなどを見つけては撮影していました。ネムノキの花にやってきたナガサキアゲハ、上空を悠然と飛ぶオニヤンマの姿、それにブオー、ブオーと大声で鳴き、水面から大きな目玉を出しているウシガエルなどが目立ちました。しかし、草や樹木の葉裏などに潜むハムシやカメムシなどの小さな生きもの達も主役の構成メンバーです。
 ・お目当てのキイトトンボは見られませんでしたが、帰りに木の枝や笹の葉に忍者のごとく取り付いていたナナフシを見つけました。
 1960年代に週刊少年サンデーに連載されていた「伊賀の影丸」に登場する村雨兄弟が得意とした忍法「ななふし」は、まさにこの昆虫ナナフシが、周囲に擬態することから名がついたのです。


 敵を欺く術を昆虫は色々と持っていますが、ナナフシはまさに天才だと思います。
 木の枝になりきっている姿は、動かない限り見つけられません。これぞ擬態の究極でしょうか。
 しかし、それでも目が慣れてくるとここにも、あそこにもと、全部で6匹も見つかりました。

   

ナナフシ…ナナフシ科の昆虫、全長70ミリ~95ミリ。ナナフシモドキの名前で呼ばれることもある。コナラ林に多く、その葉を食べて生活する。野外で木などに止まっていると極めて探しづらい。また単為生殖で増えるので、普通に見かける個体は雌ばかりだそうです。
2012
7. 17

○那智の滝を登ったとして世界的に有名なクライマーを含む3人が逮捕されました。
 滝は熊野那智大社の御神体であり、大社側は怒り心頭だそうです。マナー違反もここまで来たのかと呆れてしまいます。

 『白鳳道』
◎印旛沼付近には、竜にまつわる伝説があります。龍角寺・龍腹寺・龍尾寺にまつわる伝説に、小竜が干ばつに苦しむ村人の為に自らの命と引き換えに雨を降らせ、自分は大竜により体を3つに裂かれてしまったという話があります。
 3つに裂かれた体を収めたところにそれぞれ寺を建てたといいます。それが龍角寺、龍腹寺、龍尾寺です。

・そのうちの頭を納めたといわれる龍角寺から真南に道がのびています。古代の印旛沼まで通じていたと推測されている旧道で、「白鳳道」と呼ばれています。

 風土記の丘資料館前に案内看板があり、ここからほぼまっすぐに龍角寺まで続いています。
 特に資料館よりの半分の道はまさに昔の道でした。
うっそうとした木々に囲まれ、低いが両側がきり通しになったところもあり、歩くだけでまさに歴史散歩になるみたいです。


先日、新聞に載っておりました岩屋古墳は、GPS計測により方墳としては日本最大のものと確認されました。この岩屋古墳も案内看板から500か、600メートルの所にあります。一度、出かけてみませんか。なお、この地区の散策は7月18日の房総のむら散策会で訪れます。

   

◆龍角寺…7世紀の後半に建てられた地方豪族の氏寺といわれ、関東地方で最も古い寺院の一つ。本尊の「銅造薬師如来坐像」(国重要文化財)は、頸部以下が補修されているが、千葉県最古の白鳳仏。

2012
7. 23

◎7月24日は、河童忌。芥川龍之介が1927年のこの日、多量の睡眠薬を飲み自殺した日です。代表作の小説「河童」から河童忌と呼ばれています。

 『これも沼の住人?』
◎先日、手賀沼のほとりをほんの少しだけ散策して来ました。我孫子駅から市役所前までバスで行き、沼にそって歩きました。アシ原の中で鳴くオオヨシキリや、水面を飛ぶツバメなど数種の野鳥を観察する程度で野鳥の姿はほとんど見られませんでした。
 芥川龍之介の代表作河童とは、特に何のつながりはないと思いますが、沼の中央部に河童のモニュメントがありました。しかし、本来なら噴水になっているのですが、今は止めてあるようでした。

・このモニュメントの回りと岸部のデッキ付近に水鳥のオオバンの姿が見られました。この場所は、沼の主のコブハクチョウの定位置でもあります。また、沼の中央から対岸にかけてハスの葉がびっしりと茂っていて、ちらほらハスの花も見えました。
 双眼鏡でひとしきり沼面を覗き、帰ろうとした時、岸辺に赤ら顔の鳥がいることに気づきました。もう何年も前から沼に住んでいる家禽バリケンでした。最近各地の公園などにすみついており、見たことがある方も多いのではと思います。
 ニワトリとアヒルとシチメンチョウを合わせたような不思議な姿が面白く滑稽でもあります。
 バリケンは野鳥ではありませんが、沼の主(?)に敬意を表すためにも1枚写真撮影をして沼を離れました。その後、水の館(県立)と鳥の博物館(我孫子市立)に立ち寄ってから帰途につきました。


   
    手前でゆったりと寝ているのがバリケン。
    奥で水面にいるのはオオバン(我孫子市の市の鳥)です。


バリケン…中央アメリカから南アメリカに生息する。ノバリケンが家禽化されたもので、公園の池などにいることが多い。目のまわりは裸出し、雄にはニワトリのとさかのような肉粒がある。

2012
8. 1

◎今日8月1日は八朔です。八朔とは八月朔日の略で旧暦の8月1日のことです。
 徳川家康は天正18年8月1日に初めて公式に江戸城に入城したことから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としたそうです。

 『相馬市松川浦の様子を見てきました』
◎早くも東日本大震災から1年5カ月になろうとしております。震災後、次々と色々なことが起こり、つい地震・津波による大災害のことが薄れがちになってしまいます。
 しかし、まだまだ津波の爪痕、そして原発事故による放射能被害はそのままです。
 震災直後からとにかく現地に行ってみようと思っておりましたが、出かける切っ掛けがなく今になってしまいました。
 昨年度できなかった相馬野馬追を実施するという情報を得て福島を応援する意味を兼ね、ずっと気にかかっていた相馬市の海岸沿いに広がる松川浦(県立自然公園の潟湖)に行ってきました。

・ずたずたに分断されてしまった常磐線を代行バスを含め乗り継いでの旅でした。
 南相馬市原ノ町地区の雲雀ヶ原祭場で野馬追(甲冑競馬と神旗争奪戦)を見た後、相馬駅に戻りタクシーで松川浦に向かいました。
 被災から1年半近く経ち、随分復興をしたと思っていましたが現地に立つと声が出ませんでした。
 ほとんど無言で、崩れて瓦礫と帰した護岸の松川浦漁港や卸売市場などを見てまわりました。

 浦の向かいに壁のように見える大洲は、あちこちが津波で切れています。名所になっている松川浦大橋も立ち入り禁止でした。
  


 堤防の上に、依然として打ち上げられているプレジャーボートの姿を見て改めて被害の大きさに心が痛みました。
  

・漁港にたたずむ古老の話や漁港脇の旅館の方と少し話をして、相馬駅に向かいました。帰りはタクシーの運転手さんの配慮で一本裏の道を通ってきました。
 ここはまともに津波の被害を受けた地区でした。
  

 道路の右も左も何もない。ただコンクリートの土台があちこちに広がっているので街があったことが分かります。まさに街そのものが忽然と消えていたのです。亡くなられた方々の無念さ、悲しみなどを思っていましたら、なぜか鳥肌が立ってしまいました。・また、いつかこの続きを書きたいと思います。
亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。合掌!

◆松川浦…福島県浜通り北部、相馬市東端の潟湖。明治末期まで相馬塩の主産地で、今もわずかに残る。塩が専売品になってからは、ノリとカキの養殖場になった。県立公園に指定されている。2011年3月11日の津波の波高:21.3メートル。

2012
8. 7

◎この数日は真夜中にもアブラゼミの声が聞こえます。団地の駐車場の明かりと蒸し暑い気温のせいだと思いますが、眠りを妨げる一因になっています。

『相馬野馬追』
◎昨年は大震災のため中止になっていました相馬野馬追が実施されると聞き7月29日の本祭りを見に行ってきました。500騎を超える騎馬武者の威風堂々とした姿は、戦国絵巻そのものでした。

・昨年も出陣式など小規模な催しはあったそうですが、今年は本来の規模で行われたといいます。震災で多くの馬を失い馬を集めることから大変な苦労をしたということです。見学したのは、祭りのハイライトである7月29日に行われた「甲冑競馬」と「神旗争奪戦」、それから「お上がり」でした。
 甲冑競馬は、正午、陣螺(じんがい)、陣太鼓が鳴り響くと、兜を脱ぎ白鉢巻を締めた若武者が、先祖伝来の旗指物をなびかせ、人馬一体になって風を切り疾走する勇壮な競技です。
   


◆野馬追の由来…相馬家の始祖・平将門は昔、軍事力として馬の活用を考え、下総葛飾郡小金ヶ原(現千葉県流山付近)の牧に野生馬を放牧し、軍事訓練として野馬追を始めたとされている。その後、相馬家は奥州行方郡(現福島県南相馬市)に移り住んでからも、代々の相馬領主がこの行事を連綿と続けている。なお、現代も総大将は相馬家の子孫が務めている。ただし、今回は相馬家の当主の都合で、相馬市長が名代になって務めていました。


 神旗争奪戦は、午後1時、山頂の本陣から戦闘開始の陣螺が鳴り渡ると、騎馬武者たちが雲雀ヶ原一面に広がる。そこへ花火が炸裂し、二本のご神旗がゆっくりと舞い下りてくるのを、数百騎の騎馬武者がご神旗の下に群がり旗を奪い合うのです。
   

 お上がりは、29日の夕刻、雲雀ヶ原に出陣していた宇田郷勢の騎馬武者らが、相馬中村神社への帰路につき、相馬市内を凱旋する行列のことです。
   

・慌ただしく見学し、相馬を離れましたが、地元の人たちの意気込みと伝統の祭りを愛する気持ちがひしひしと感じたお祭りでした。
 祭りは、次の日の30日、旧警戒地区で今年4月にやっと立ち入りが可能になった南相馬市の小高地区で神事「野馬懸」が行われ終了となります。

2012
8. 13

◎オリンピックも終わってみれば、過去最多の38個のメダルを獲得しました。今回のオリンピックは、強化拠点となったナショナルトレーニングセンターの効果が大きいと報道されていました。やはり、メダルの数は経済的な背景が必須なのですね。

 『今の時季、幼鳥の姿があちこちで見られます』
◎電線に何羽も止まっているのは、ツバメの子。まだ尾が伸びきらず、全体に寸詰まりの感じがします。
 時折、親鳥が虫を捕ってきて給餌している様子が見られます。また、電信柱の上でシーシーと鳴き、口の中が真っ赤に見えるのはハシボソガラスの子。
 草原や河原を数羽で飛び交っているハクセキレイの幼鳥は、体の羽が全体に茶褐色からグレーで目のまわりの黒い線(過眼線)もはっきりしません。
 今、森や林、河原や草原、そして街中など、どこででも野鳥たちの幼鳥(若鳥)の姿が見られます。
 幼鳥はクチバシが黄色かったり、体の羽の色や模様がぼんやりしているなど様々ですが、やはり、どれも幼い感じがします。
 高原の林の中の木の枝に一羽の小鳥が止まっていました。ほとんど動かずじっとしていましたので、カメラをとり出し撮影を始めたら親鳥が脇にやってきました。全体に白っぽく、目がまんまるの幼鳥の種別は分かりませんでした。



しかし、親鳥の出現で判明しました。高原に多いシジュウカラ科のコガラの親子でした。子は丸まっこく可愛い姿でした。
 2、3枚撮影した後、親鳥は飛び去ってしまいましたが、幼鳥はずっとそのまま止まっていました。
今、幼鳥があちこちで見られます。ちょっと気をつけて探してみませんか。
   

コガラ…シジュウカラ科の小鳥。九州以北の山地の林に生息。ツツ、ジャージャーと鼻にかかったような声で鳴く。特徴は頭に黒いベレー帽を被っているような模様が目立つ。

2012
8. 20

◎竹島、尖閣など領土問題がマスコミを賑わす昨今です。力で抑え込んだり、対立路線での解決は難しいのではないでしょうか。解決へのルール作りが大切だと思います。

 『セミの声』
◎今年もニュータウン(印西市)の市街地で、クマゼミのシャワシャワという大きな鳴き声が聞こえています。今現在も窓の外からシャワシャワがうるさいです。
 中心はアブラゼミやミンミンゼミの声ですが、クマゼミの声はそれらより数段大きいので、たった1匹でも負けていません。関西ではこのクマゼミが中心というので、きっと耳を塞ぎたいほどだと思われます。

・8月7日付の谷津田だよりに相馬野馬追について書きました。その本祭りの会場で甲冑競馬や神旗争奪戦を見ていた時、すぐ脇の木(ケヤキかサクラ?)の樹上からギィーギィーの声がしました。何の声か分からなかったのですが、脇にいた地元の人がセミだよと教えてくれました。
 千葉県では、まず見られませんエゾゼミの鳴き声でした。アブラゼミより一回り大きくクマゼミほどの大型のセミです。そのエゾゼミが、先日訪れた信州の高原を歩いていましたら、樹上高くから聞こえてきました。数は多くはありませんが、クマゼミと同じく遠くまで響く声で鳴いてました。地上近くにエゾゼミの抜殻も見られました。やはり抜殻も大きく立派でした。

・今、セミたちの声が真っ盛りです。
 先週位まではアブラゼミに、ミンミンゼミが中心でしたが、この数日はこのほかにツクツクボウシやヒグラシの声も聞かれます。
 ツクツクボウシが鳴き出すと夏も終わりといわれます。熱中症対策ももう少しで終わるのでしょうか。




   
    高原で見つけたコエゾゼミ

エゾゼミ…北日本では平地にもいるが、関東地方から西日本では山地に見られる。
 オスは木の幹に下向きに止まることが多く、ギィーギィーと鳴く。 千葉県では、まず見られない。
 59~68ミリ。 分布北海道から九州まで。

2012
8. 27

◎先日イオンモールにあるアウトドアグッズの店を覗いてみました。小物から本格的な登山用品までびっしりと揃っていました。ペットボトルの容器カバーを買い、ぶらぶらショッピング街を歩いていましたら、フーテンの寅さんの旅行鞄そっくりの革鞄が展示してありました。そういえば今日8月27日は「男はつらいよの日」だそうです。1969年のこの日、山田洋二監督・渥美清主演の「男はつらいよ」が初公開されたといいます。

 『泳ぎの苦手な魚です』
◎先日三番瀬干潟に行ってきました。例年の夏の三番瀬干潟は、砂浜いっぱいの日よけテントとバーベキューの煙、そして砂浜の水打ち際で遊ぶ子ども達、貝を掘りに来る人の群れであふれているのです。しかし、昨年の大震災による干潟の液状化、津波、地盤沈下等に依り、海浜公園のプールもテニスコートも野球場も皆復興中で営業停止状態です。特に夏に人気だった屋外プールは、復旧できず全て撤去してしまいました。夏にも関わらず閑散とした干潟に降り立ち、被害の大きさに改めて驚かされました。今は液状化の痕跡も地割れの跡もほとんど分らなくなっておりますが、堤防(防泥堤)は、途中が大きく陥没していたり、例年は干潟が現れる場所が海水でいっぱいだったりして、被害の大きさが推測されました。

・今回は非公募の会でしたので、私を含めて15名という少人数でしたので、皆で底生生物や、水鳥などを見ながら干潟を移動しました。地震により干潟が半分以下になってしまったといいますが、それでも見渡す限り干潟が見られました。砂地ではカニやゴカイ、貝など、タイドプール(潮溜まり)や堤防脇では、小魚やエビなどを探し、観察しながら散策しました。
 採取した生き物は、昼食後に皆で観察しました。全体に生き物が少なかったです。特にゴカイやカニ等は激減と言っていいほど少なかったです。それでも、数十種の生きものが採取できました。
 その中に今回最大の発見物がいました。それは、全長2、3センチほどの褐色に不規則な黒い斑紋が目立つ魚でした。その魚は何と小さな水槽の底を歩いていました。泳ぐのではなく歩いていたのです。よく観察すると胸ビレと腹ビレが足のようになっていて、それで歩いていました。以前はイザリウオと言われ、差別用語撤廃のため、改名された名をカエルアンコウという熱帯から温帯にかけて分布している魚の幼魚でした。
 ・背びれの一部が遊離して先端部が疑似餌をつけた釣り糸状になっており、小魚等をおびき寄せ素早く飲み込んでしまうというすごい魚です。本来は、伊豆諸島から小笠原、沖縄あたりに見られる魚らしい。図鑑によると魚のくせに泳ぎが得意ではなく歩く方がいいみたいです。皆で観察した後、採取物をリリースして終了しました。


なお、生き物が減っている原因と震災の関係はよく分りませんが、何度も発生している青潮が大きな一因とも考えられます。

 今回は震災の被害の様子、干潟の復興の様子、そして生きもの様子などを見ることが目的でしたが、やはり行ってみると思いがけないものを見られるものだと実感しました。干潟はすごい!

 カエルアンコウの写真を貼ります。
   

                     (撮影者 : Mさん)

   
                     (撮影者 : Sさん)

◆カエルアンコウ…硬骨魚綱アンコウ目カエルアンコウ科の魚類。
 外観がヒキガエルに似ており、当名前がついた。
英語名は、Frog Fish 全長10センチ前後。
 なお全長5センチ前後の幼魚は潮溜まりでも見られるという。

2012
9. 2

◎9月になっても子らが公園で遊んでいた。そういえば、月初めが土日で学校は明日3日からという。また暑さがぶり返すようですので、子らも私たちも体調には十分気をつけたいものです。

 『弁天川沿いを歩く』
◎手賀沼の排水口である弁天川と六軒川の合流地についた時は、空には薄黒い雲がありましたが、いくらか青空も見られました。ここは、手賀沼(下手賀沼も)から流れ出る手賀川の水が利根川に注ぐ出口です。

 この手賀川は布佐駅南およそ1キロ地点付近で二手に分かれます。北側を流れる川が六軒川、南側が弁天川です。この2つの川は、再度合流して利根川に流れ落ちるのです。合流地の岸辺には印西市立中央公民館、利根川側には手賀沼排水機場の建物があります。水はこの排水機場の水門(普段開いている)から、利根川に流れ込んでいるのです。

・機場の建物前のブイにはカワウがのんびりと羽を広げ乾かしている姿が見られました。ふと、弁天川の上流に向かい水面を飛ぶ小さな褐色の鳥の姿が目に入りました。留鳥のイソシギの飛翔でした。
お天気が大丈夫そうなので、弁天川に沿って歩くことにしました。水面に水草が繁茂している場所があり、双眼鏡で見るとナガエツルノゲイトウという外来種でした。この種は近年全国的に増え、水質の悪化を進めるとともに、在来の水草を駆逐してしまうことから、外来生物の指定種になっています。上流方面に小さく見える水鳥は手賀川に住み着いているコブハクチョウのようでした。しばらく進むとカモ猟に使用すると思われる船が係留されていました。もっとも今の時季は禁猟期のため使用していないようです。

・遠くにまだ造られて新しい太鼓橋風の橋が見えてきました。その向こう側にはJR成田線の鉄橋も見えました。ちょうど上り電車が鉄橋を渡っていました。


太鼓橋風の橋に到着したころには、空模様があやしくなりました。まだ雨もぱらぱら程度で傘は必要ない位でした。
 橋のたもとに六軒厳島神社があり、境内に立派な土俵がありました。この地域は江戸時代から相撲が盛んで、第24代横綱「鳳谷五郎」関を生んだ場所でした。境内には鳳関の等身大の碑が建っていました。碑の脇に江戸期に若者たちが競い合った力石が置かれていました。石碑の写真を撮っていました時、雨粒が少し大きくなってきた感じがして、折り畳み傘をとり出しました。傘をさしたかささないうち、ザーザーと降り出しました。唯一の雨宿り場所は、神社の社殿の軒下しかありません。急ぎ走りこみ、ほっとしたその後、更に雨脚が激しくなりました。

 間一髪という感じでした。ふと気がつくと、隣に弁天川にいた釣り人も駆け込んで来ていました。
 30分ほどで雨脚が弱くなったので散策をあきらめ、近くのバス停に向かい帰路につきました。弁天川沿いのコースは、11月23日勤労感謝の日の利根川土手コースの際に歩きます。

   
  
弁天川にかかる太鼓橋風の橋とその向こうを走る成田線の電車

◆六軒厳島神社祭礼…六軒厳島神社は、この地の開拓に携わった宮島勘右衛門が、広島の厳島神社から勧請したものとされています。
毎年7月中旬に祭礼が行なわれる。


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