連載小説
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#35.アンダーグラウンドワークス(前編)
「此方ヴィエルジュ。作戦行動を開始する」
 昨晩、直美の理解を超えた一面に困惑していた事が嘘のように、マナ=アストライアーは縦穴に出向いていた。周辺の道路では、午前9時のラッシュアワーが展開され、土砂降りの中を人々と車、通勤客を満載したモノレールなど交通機関が奔走しているが、ヴィエルジュの様子を知る事はない。
 人の濁流が流れているのは、あくまでもトレーネシティの表面であり、ヴィエルジュは現在、その200メートルほど下を、CBT-FLEETの蒼白い噴射縁を断続的に発し、減速しながら降下していた。
 いつものMHD-RE/005からCHD-02-TIEに換装されていた頭部のライトに照らされた縦穴には、人間が垂れ流した汚水や泥濘がくまなくまとわりつき、人肌に触れれば汗同然の湿りを誘う濃密な湿気と、えもいえぬ悪臭に支配されていた。
 全く、何が楽しくて下水道に向かわねばならないのだと、アストライアーはコックピットで呟いた。ヴィエルジュは摂氏34度、湿度90パーセントという悪臭付きの極悪環境に晒されていたが、機密構造のコックピット内部は気温22度、湿度45%の快適な環境に保たれているのは幸いであった。
 まこと、こんな中で作業させられている職員の面々も大変だなとアストライアーは思った。劣悪な職場として、しばしばキツイ・給料が安い・帰れないの所謂「3K」が用いられるが、下水道はそれに加えて汚い・臭い・気色悪い・危険、さらに暗いと、3Kどころか7K・8Kとしても言いぐらいの悪条件が揃っている。
 しかも、それに加えてACを動員しなければならないような「何か」が起こっているのだ。
 おまけに下水道はACが通れるサイズがあるとは言え、それでもACが飛びまわるには狭過ぎる。必然的に機動力が殺されてしまうため、防御の薄いヴィエルジュとは相性が極めて悪い。此処で万一にでもテロリストや同業者と交戦状態になろうものなら、回避のままならぬ中でバズーカやチェインガン、各種キャノンを浴びせられて即時粉砕もありうる。
 兎に角嫌な仕事になりそうだと愚痴りつつ、アストライアーは汚水の中に愛機を着地させた。ACの脛の中程までが沈むほどの汚水で、レーダーコンソールに目をやりつつ周辺を窺う。
 幸い、敵性反応は見当たらない。
「此方ヴィエルジュ、異常なし。作業員を降下させてくれ」
 了解、とだけ返答があり、その後1分間ほど、ヴィエルジュは水音と自らのアイドリング音があるだけの重苦しい静寂の中待機した。それを終えたのは、エンジン音を伴って降下して来たパワードスーツ姿の下水道作業員2名だった。
 少し遅れ、バケットアームを装備した水陸両用重機が、クレーンで下ろされて来る。
「うわ、こりゃひどいな……」
「どっかで流れが止まってるとしか思えん」
 現場に着くなり作業員達が囁きあう。
「プレーアデスよりヴィエルジュ、そちらの状況は?」
「水位がやけに高くなっている」
 アストライアーは水路脇のキャットウォークを浸している汚水を見て返した。
「スキュ……じゃない、ブルーネージュの方はどうだ?」
「逆。そっちの下流域に当るはずなのに、全然下水が流れてない。作業員の話だと、そっちに何かあって、送水が阻害されているとの事だ。だが、こちらに原因が担当区域内にある可能性も否定出来ない」
 そのため、自分の方でも調べてみるとブルーネージュは返した。
「分かった」
 アストライアーは今回、ブルーネージュが受けた依頼の手伝いに出向いていた。人間の生活拠点が集中しているだけに第2都市区域の下水道は広大で、自分だけの手には余るとブルーネージュは判断。アストライアーに協力要請が届いたのだった。
 直美との決闘を目前に控えていた立場であるが、どのみち依頼で生活費とエレノアの養育費を稼ぐ必要はあったし、折角関係修復したばかりの戦友を見放すわけにも行かないと思ったのだ。
 その間にも、今度はクレーンで作業用MTが下ろされていた。
「やっと、全員揃ったな」
 パワードスーツを纏っている一番年長の作業員が全員の無事を確認した。
「こちらダブルトリガー、下水溝S5縦穴に到達。殆ど下水が流れていない」
「スタティック・マンより全機へ、こっちは水位が上がってる!」
 別ルートで行動する手筈のレイヴン達からも、相次いで現状が伝えられる。
「アストライアー、どうやら君達のいる東ブロックが異変の中心らしい」
 そうであれば良いんだがと、アストライアーはオリバーに返した。
「派遣した作業員及び、付近に展開しているレイヴンと協力して、異変の調査とその解決を頼む」
 アストライアーは了解し、すぐにヴィエルジュを進ませ始めた。作業用MTとパワードスーツが、その後を粛々とついて行く。
 起床し朝食を取った直後、アストライアーがメールボックスを見ると、直美からのメールが届いていた。決闘の日時を知らせるもので、アストライアーのホームである第3アリーナのドームで決闘が行われる運びとなり、日時は7月17日の正午と記されていた。今日から10日後の予定である。元々この対戦はあらかじめ運営局で決められたカードではないが、この日はアリーナで試合はなかった事、第1アリーナのトップランカーに注目の女剣豪レイヴンと、名立たる女性レイヴン同士の対戦とあり、集客が見込めると判断した運営局が急ぎスケジュールを決めてくれたのだった。随分と急な事であったが、すでにチケットの販売も開始されている。
 形態としては生中継のもと、制限時間無制限のデスマッチ形式で行われる事も連絡された。
 結局、対戦動画から直美の素性に迫る事が出来ず、不気味さも拭えなかったものの、彼女との戦いを願ったりと見ていたアストライアーは即座に返答した。
「今度こそ、必ず……!!」
 この決闘で、今度こそ今までやられた礼をしてやると共に、今まで謎多き存在だったイレギュラーの素顔に迫って見せると、アストライアーは誓うと共に、期待した。
 だが、その前に厄介な仕事を片付ける必要があった。
 全ての原因は、昨晩、直美の事を知ろうとした余りに見逃していたニュースで報じられた「第2都市区域における下水道の異様な水位上昇」にあった。通常考えられない事態だと、戸惑う下水管理局の責任者が記者報道に応じる中で、ミラージュはすぐさま、原因究明のためレイヴンと警備隊、下水道作業員からなる調査隊を派遣した事を表明。
 だが、彼等は連絡を絶ってしまった。
 そのため、以前キサラギ管轄下の下水道で類似したトラブルがあった事をも言い含め、ブルーネージュを初めとする数名が、異変の原因とその解決、そして先行した一団の捜索のために派遣されたのだった――クモ型怪生物の存在を考慮し、それに調査隊がやられたと見たのだろう、「障害となるものは排除して構わない」とのお達し付きで。
「生体センサー付きの頭部に換えて来れば良かったか……」
 トラファルガーの呟きが聞こえた。
「そう言えばトラファルガー、この話聞いたか? クレストの研究所にも化け物が出たってのを」
「以前キサラギの下水道に出たって言う、クモ型のやつか?」
 違うなと、ストリートエネミーは首を振った。
「カニみたいなヤツでな、とんでもない耐久力で、噂だとグレネードぶっぱの直撃でも殺せなかったんだとよ」
「そんなのをどうやって倒したんだ?」
「何でも、酸性のガスを散布して倒したんだそうだ」
「成る程な。確かに呼吸器系を酸性ガスで糜爛させれば奴等を窒息させられるだろうし、同時に装甲の耐久性を落とせば、ACの火器で破壊出来るようにもなるだろう」
 経験豊富なトラファルガーはすぐに納得した。
「君はそれが此処をうろついているかも知れん、とでも言うのか? 冗談はやめてくれ」
 ストリートエネミーに随伴していた作業員が露骨な嫌悪を発し、ヴィエルジュに随伴する作業員の恐怖心をあおった。事実、通信モニターに映る彼らの顔が若干ながら青ざめているように、アストライアーには見えた。
「頼むからどっちも来るなよ……」
 ヴィエルジュの後を進むパワードスーツの作業員が慄く。
「化け物には私が当る。貴方達は問題解決に専念してくれればいい」
 本心で言えばどちらも現れて貰いたくない所であるが、アストライアーは作業員を叱咤しながら、更に下水道内を進む。進んでも水位は大して変わらない所から見ると、どうやら異変発生から相当時間が経過しているらしい。
「しかし、調べようにもこの下水の中でどうしろと……?」
 ヴィエルジュの膝までを汚す汚水に目をやり、アストライアーは訝った。
「もう500メートルほど行った所に排水口がある。そこを調べれば、何か分かるかも知れない」
「多分、シャッターが誤作動で下りてしまったか、粗大ゴミが排水口を詰めてしまったんじゃないかと思う。それを取り除けば、また正常に下水が流れ、浄水場まで引っ張られるはずだ」
「その為にコレを持ち込んだんだからな」
 恐らくは作業用MTとパワードスーツの事を言っているのだろうとアストライアーは察した。実際、大量のゴミやヘドロが流れ込んで来て排水口をせき止め、下水処理システムに支障を来たす事は幾らでも起こっており、その為に作業用MTや重機が駆り出される事もしばしばである。
「場合によっては、潜水作業用のパワードスーツを着込んで作業する事もある」
 作業員は付け加えた。
 彼の言葉どおり、500メートルほど進むと、レディ・ブレーダーと作業員の一団にE205と記されたシャッターが立ち塞がった。その脇には、管制センターよりシャッターが制御出来なくなった際、直接シャッターを操作可能なように、パネルが据え付けられている。
 そのパネルは、封鎖を示す赤いランプを灯している。
「おかしい……勝手にシャッターが下りている」
 年長の作業員は呟いた。
「管制室、E205のシャッターを上げてくれ」
 了解とだけ返答があり、数秒間空電が続いた。
「ロック解除。開放する」
 パネルの光は緑に変色し、重々しい金属音と共にシャッターが引き上げられた。開いた隙間からは溜まっていたであろう下水とゴミが流れ出したが、パワードスーツ2機は即座に上昇して事無きを得た。水流自体は、ACはおろかMTが足をとられて流されるほどではなかった。
 すぐにアストライアーは愛機を踏み込ませる。
「……下水道にしては随分広いな」
 ヴィエルジュが踏み込んだ先は、人や作業用機械が行き来するダムの様な保守用護岸が設けられた広大な空間だった。だが水位上昇した結果、護岸は半ば沈んでいる。
「そうだ。そこが排水口だ」
「ここがか?」
「排水口だと分かるよう、あえて空間を広く取っている」
 それなら暗くても多少は分かりやすいと思ったアストライアーだが、しかし溜まっていた汚水の中からACの腕が突き出していた事に気が付き、不意に愛機を止めた。
「ACの腕……?」
「通信途絶した先発隊か?」
 作業員達もACの腕を注視した。
「あ、あの……」
 ノイズ交じりの声が通信モニターから発せられた。アストライアーには聞き覚えがある声だった。
「助け……くれませんか?」
 それを裏付けたのは通信モニターに浮かんだ顔だった。
「カリンか……またしくじったのか貴様は……」
 アストライアーは呆れた。
「何? カリンちゃんが此処に居るって!?」
 この作業員はカリンのファンなのかと思いながらも、アストライアーは頷いた。
 彼女には何故、メイドランカーがここにいるのかと言う疑問はなかった。どうせカリンの事、AC操縦技術に慣れたいと見たのか、はたまた簡単な依頼だから軍資金稼ぎになるとでも見て、ミラージュの命令で下水道の調査に赴き、つまらないミスで下水に沈む羽目になった事が、容易に想像出来たからだ。
「貴様はどこまでヘタレなんだ……こんな簡単な仕事、その辺の下級ランカーにだって出来るだろうに」
「私だってミスしたくてしたんじゃないんです……」 
「うるさい」
 貴様の意見など聞いていないと、女剣豪はメイドの反論をバッサリと抑えた。
「……兎に角カリンちゃんを引っ張り出してやろう」
「だな。メイドを沈めたまんまにするってのも気が悪ぃしな」
「そうしてくれ。何が起こったのか、話も聞きたい」
 オリバーの要望もあったので、作業員達は直ちに仕事に取り掛かった。クレーン型重機がハウスキーパーの腕近くの水面にアームを下ろす一方、作業用MTはパワードスーツの2人とともに下水に入って行った。その直後に水面が揺らぎ、淀んでいる所から察すると、恐らく、ハウスキーパーに纏わり付いているゴミの撤去をしているのだろう。
「アストライアー、ハウスキーパーと通信が繋がるか?」
「それが……」
 アストライアーは通信モニターに生じるノイズと砂嵐で顔をしかめた。だが、ヴィエルジュのモニターをステータスチェックさせた所、異常がない旨が帰って来た。
「どうやらハウスキーパーの通信系統に異常が出ているらしい。あのメイドの声が途切れたり砂嵐が混じったりで、全く安定していない」
 事実、助けを求めるカリンの声がノイズと砂嵐に掻き消されたり、顔が歪んだりしている。
「これでは、満足な情報を聞きだす事は望めないだろう」
「そうか……」
 オリバーは落胆した。何が起きたかを彼女から聞き出せる可能性があったが、それが望めないと察したのだ。
「まあいい、救出してから話を聞くとしよう」
 救出を頼むと念を押したオリバーに入れ替わり、今度はクレーンの作業員から頼み事が来た。
「アストライアー、引っ張り上げるのを手伝ってくれ。どうも上手く行かないんだ。下水にAC入れる必要はないから、頼む! 腕だけでも貸してくれ!」
「了解」
 感情の見られぬ返答を作業員に返したアストライアーだが、その胸中は決して安穏ではなかった。
「やれやれ、引上げ作業をする羽目になろうとは……」
 仕事の手伝いで来ているから仕方ないとは言え、まさか最初の仕事がゴミと糞尿とヘドロの混ざり物に沈んだメイドレイヴンのサルベージになろうとは……内心で文句を垂れそうになりながらも、アストライアーはまだ下水に浸っていない護岸の最上段でショットガンをパージし、クレーンの傍らに膝をつくと、ヴィエルジュの右腕を汚水に突っ込んだ。
 レディ・ブレーダーとて、こんな事は出来るだけ避けたい所だった。大勢の市民が垂れ流しただけに、何が入っているか想像もしたくない。
「早く助けてください!」
 命ぜられたのだから言われんでもやってやるとアストライアーは苛立った。
「アスも大変だな」
 トラファルガーは抑揚のない呟きを発した。
「これ、B級以下の映画のタイトルになるぜ。“下水の女剣豪”ってな」
 笑うストリートエネミーに、アストライアーは「いつか殺す」と返しながら、汚水とヘドロの中を愛機の右手でかき回し、ハウスキーパーが沈んでいる当りを探る。左手まで沈める気は無かった。下水でムーンライトの使用に支障を来たしてしまう危険性が否めない以上に、父の形見を下水に突っ込みたくはないからだ。
「早くここから助けてくださーい!」
「やかましい!」
 ノイズ交じりの声に怒鳴るアストライアーだが、ヴィエルジュの手が引っかかったので、とりあえず引き上げに掛かる。殆ど支給された機体同然のハウスキーパーが、果たして軽量級腕部で持ち上がるのかと一抹の不安はあったにせよ。
「排泄物とヘドロの中でなんか死にたくないです!」
「五月蝿い! グダグダ騒ぐな! 余計な言うようならこの場で殺すぞ貴様!!」
 レディ・ブレーダーの語調が変わった。眉間に皺が寄り、歯をむき出し、さながら東洋の鬼を髣髴とさせる殺意剥き出しの形相で、通信モニターのカリンに怒鳴り散らす。その鬼気たるや、冷静沈着なオリバーが、一瞬たじろいだ己に気が付いたほどだった。周辺の作業員達も何事かと怯んだ。
 ストリートエネミーは己の背が妙に湿っていた事に気が付いた。そして、それが下水道内の気色悪いほどの暑さや湿気に由来するものではない事も。
「な、なあトラファルガー……アスの奴、あんなに狂暴だったっけ……か?」
 意図せずして声が震える。
「いや……」
 トラファルガーもこんな形相の女剣豪を見ただろうかと、己の記憶を疑っていた。
「俺は知らぬが……あのメイドが、どこかでアスを激怒させるほどのポカをやらかしたのかも知れん……」
 カリンが「メイドの真似事をして、しかもロクに勝てもしないのに、与太者を初めとした周囲から人気」と言う事でアストライアーの反感を買っていた事をトラファルガーは知らなかった。冷徹ゆえ人間性が悪いと評判の女剣豪レイヴンだが、実力派としても名は知られており、本質的には真面目な女性である。ゆえに自分の腕に因らず、分不相応の地位を確立していたカリンは度し難い存在であったのだ。
 ただ、当の女剣豪は、現状ではそんな事など関係なく、怒りを覚えながら何も見えない下水を掻き回すが、すぐに金属の手ごたえを感じた。
「行けそうか?」
「手は掛かった。あとは持ち上がるかどうか……」
 それでも大丈夫だとクレーンの作業員は肯いた。
「よし! 1、2の3で持ち上げるぞ! いいな?」
「ああ、やってくれ!」
「ゴミはどかしたぞ!」
 作業員達から次々返事が返ってくる。
「行くぞ! 1、2の……3!」
 号令一過、全機の出力がハウスキーパーの引っ張り上げに注力され、ハウスキーパーは汚れきった頭、次いでコアと言う順で汚水から姿を見せた。アストライアーはヴィエルジュの手を下に回し、更に引き上げようとしたが、ハウスキーパーはそこで止まった。
「くそ、何かが引っ掛かってるのか……?」
「もっと出力を上げろ!」
 そして、全員の力が再び引き上げに回され、湿った音や泡と共に、ハウスキーパーは徐々に持ち上がった。
「ああ、助かりましたぁ……」
 カリンの安堵の声は、引き上げに尽力する一同には届かなかった。ヴィエルジュとMTはハウスキーパーを一度引っ張り上げたまま固定し、もう一方の作業用MTとパワードスーツは汚水から出ての引っ張り上げに回った。
「よし、もうすぐだ!」
 作業員達は更に愛機の出力を上げ、ヴィエルジュ共々ハウスキーパーを引っ張り上げた。
 ただし、ハウスキーパーの足に引っ掛かっていた、妙に骨ばった8本足を持つ粗大ゴミまでも一緒に引き上げられてしまった。
「げっ!?」
 MTとパワードスーツは慄き後退。ヴィエルジュは咄嗟にブレードを構えた。
「もしや、あんたが殺した同業者って事はないだろうな?」
「違う……」
 アストライアーは警戒しながらも、引っ張り上げられた8本足のゴミを見やった。汚物まみれではあったが、8本足のそれが、ペンチの様な巨大な顎を持っている事はすぐに確認出来た。
「まさか、それは……」
「多分、キサラギ管轄下の下水道内で大量発見されたクモの化け物だ。既に死んでいるみたいだが」
 アストライアーが言うとおり、その巨大クモは一切の動きを見せていない。加えて、腹に当る部分がない事から、どうやら本当に死んでいるらしいと作業員達も安心出来た。
「いつだかの掃討作戦の時に出た死体だろうか……?」
 だとしたら有難いとアストライアーは言うのだが、ブルーネージュは「違う」と断じた。
「存在が確認されたのは去年の11月下旬、掃討作戦で最近行われたものだとしても3月下旬。もしその時の死体だとしたら、とっくに分解されているはずだ。ゴキブリか何かに食いつくされたり、腐敗し朽ちてなくなるかで……それに関係して、これを見てくれ」
 ブルーネージュはそう言うと、通信モニターを操作してプレーアデスのカメラアイが捕らえた映像を直接、他のレイヴン達に中継した。
 アストライアーは通信モニターをプレーアデスに切り替え、絶句した。
「私も見つけたのだが……」
 通信モニターに映し出された中継映像では、掃討されたはずの巨大な化け物クモが、足を縮こまらせていたが、殆ど原型に近いままの亡骸を晒していた。
「死体の状況から察するに、こいつはつい最近まで生きていた筈だ」
「じゃあ何か? ここにそのゲテモノがうろついているって事か!?」
「否定出来ない」
 オリバーはストリートエネミーにそう返し、全員に警戒を促した。
「とすると、この異変もあの化け物の仕業か……?」
 作業員が呟く中、アストライアーは再び下水に愛機の右手を突っ込み、10秒ほど手探りして上昇した。程なくして、所々足が千切れた化け物クモの死体が引っ張り上げられ、水路脇に放られた。
「アストライアー?」
「ひょっとするとだが……こいつの死体が詰まっているかも知れない。ならば、取り除く事で再び下水が流れるようになるはずだ」
「そうだといいんだが」
 クレーンの作業員も渋々ながらアームを下水に下ろした。程なくして、引き上げられたアームは化け物クモの残骸を掴み、脇に放った。
「気をつけろ、どんな相手か分からんからいきなり襲ってくるかも知れねーぞ」
「やめろ!」
 ストリートエネミーのジョークに対するアストライアーの姿勢は厳しい。もっとも、化け物が沈んでいる中で空気の読めない冗談を吹っかけられたのでは当然である。
「兎に角、撤去しないとな……」
 作業MTとパワードスーツは再び汚水内に戻ってゴミの撤去に掛かり、クレーンも自分の手が届く範囲のゴミを次々に撤去していくのだが、引き上げられてくるのは殆どが化け物クモの成れの果てであった。
 しかも、その量が半端ではない。30分を要しての撤去作業でも、護岸には化け物の残骸で一山が形作られたぐらいである。
「アストライアー、手伝ってくれ。ゴミが多過ぎる」
 女剣豪レイヴンは耳を疑った。
「何を言っているんだ? レイヴンは下水道作業員ではない」
「手伝ってやってくれ」
 命じれば従うだろうといわんばかりに、オリバーが口を挟んだ。
「……仕方ない」
 クライアントの命令とは言え、本当はやりたくない所であったんだがなと、アストライアーは渋々ヴィエルジュを汚水に進ませた。水深は、MLM-MX/066の膝から伸びているブレード状パーツの根元まで達するほどで、上半身まで浸さなかったのは幸いであるが、ACとは言え下水に入るのは何とも気分が悪い。
 そうして、ヴィエルジュも作業メカやパワードスーツと共に、排水溝の詰まりの除去――実質的には化け物クモの死体の引っ張り上げをさせられる事となった。
 クモの死体の状態は個体ごとにかなり差があり、あるものは原型ほぼそのままで、またある時は足だけだったり、或いは足の何本かが失われていたものもある。中には原形を留めぬほどに腐乱して崩れているものさえ見受けられた。
 さらに、クモに混じって、冷蔵庫やテレビ、自転車などの無機質な粗大ゴミが引き上げられる事もあった。
「何で私が……」
 作業中、アストライアーは何度も違和感由来の愚痴を零した。やはり、自分がしているのは傭兵のする事ではなく、本来下水道作業員の仕事だろうという認識が拭えなかったのだ。しかも、それは汚物が大量に溶けている中での作業である。
「まあ、人体の一部が出てこないだけ良いか……」
「人体の一部で済めばいいけどな」
 作業用MTのパイロットが返して来た。
「俺は3年前に、ワニとか、蛇のパイソンを見つけた事があるぜ」
「何でそんなのが出てくるんだ」
 アストライアーはクールな顔立ちのまま嫌悪を示した。
「ペットの成れの果て。飼うは良いけど育って行く内に負担が大きくなり、捨てられちまったんだろうよ。或いは飼育設備が壊れて逃げ出したか」
 どっちにしてもろくなものじゃないと作業員は毒づいた。
「それ、どっちに言ってるんだ?」
 重機の作業員が尋ねると、MTの作業員は「どっちもだ」と返した。恐らくは、下水道に現れたワニや大蛇、そしてそれを捨てた元飼い主、双方の事であろうと女剣豪は察する。
「全くろくなものじゃない……」
 MTの作業員が毒づいた。
「それでも今の俺らよりは良いだろうよ。実働部隊に化け物の襲来、身内同士の殺し合いと、ロクな事がないぞ?」
 ストリートエネミーが会話に割り込んで来た。
「俺はいっそあんたの同業者になりてぇ。何が来ても自分で対応出来る境遇にあるんだからな」
「だな。曲がりなりにも戦闘メカ使えてんだから」
 作業員2名から、自分の立場とレイヴンの苦労を無視した言葉が飛び出す。
「……他愛のない会話に耽っちまうが、仕事に戻ろう」
 手を止めていたことに気付いた最年長の作業員は、再び下水からゴミを引き上げ始めた。レイヴンと作業員達も、ゴミやクモの死体を引っ張り上げて脇に放り、左右にどかしていく。
 更にそれから20分近くを同じ作業に費やしていると、やがて鈍い水音が生じ、汚水と汚物が吸い込まれ始めた。
「やっぱりあれが詰まっていたせいか……」
 排水口の詰まりが取り除かれ、再び流れを取り戻した下水は、徐々にその水位を低下させて行った。
「下水は流れたのか?」
「とりあえずは」
「排水口を詰めていた化け物の死体をどかしたら流れ出したんで、ひとまずは御の字か」
 作業員達が次々にトラファルガーに返答する。
「分かった。水位確認の為、しばらく待機する」
 トラファルガーとアストライアー、双方が居る地点までは直線距離にして約5キロほど離れている。水の流れるスピードを考慮するに、ダブルトリガーから下水の流れが確認出来るまではもうしばらく掛かることだろう。
「だが、あの化け物が生きているであろう事が予想される以上、根本的な解決にはなっていない」
 オリバーが何の慰めにもならない、そしてレイヴン達が薄々感じている事実を呈した。
「……一度洗浄したい」
 ヘドロに塗れ、激烈な悪臭を放つようになった愛機の中でアストライアーはぼやいた。
「オペレーター、放水車を手配出来ないか?」
 友の気持ちを汲んだブルーネージュが訊ねる。
「そう言うと思い、既に放水車を手配した。要望があれば、いつでも派遣出来る」
 オリバーは即座に返答した。
 無機的な人間となっているアストライアーであるが、やはり人間の垂れ流した汚水に突っ込むのはいい気分ではない。細かいゴミやヘドロがヴィエルジュの関節や精密部品に入り込み、不具合を起こす可能性がある事は否めない上、排泄物や腐敗物、更には細菌やウィルスも蔓延と非衛生極まりない環境から戻ってくるので、整備士の精神的負担ならびに衛生面が気掛かりであった。
 その上、不潔で悪臭を放つヘドロがくまなくへばりついたACが街中を徘徊するとなれば、悪臭による心的被害や、ヘドロ内に巣食う細菌による感染症を引き起こす市民が出かねない。
 キサラギやミラージュもその当りは理解しているのだろう、下水道に差し向けたレイヴンが戻ってきた際は、必ず大量の放水でACの汚れを徹底的に洗浄してくれる。また、万一依頼主が手配してくれなかった場合は、グローバルコーテックスから放水車が派遣されたため、トリートメント面におけるサポート体制は万全である。
「アストライアー!」
 クレーンの作業員が、排水溝に向いたアームをしきりに上下させている。
「駄目だ、流れが止まってる! 排水システムが正常に機能していないようだ」
 反射的に、どう言う事だとアストライアーが返した。
「原因が分かった。下流域の数ブロックに渡って、排水システムが停止している」
 返答したのは下水道の地区主任だった。
「こちらからの制御が何故か遮断されているみたいだ。丁度、ストリートエネミーとブルーネージュが展開している当りで」
「了解。破損箇所が無いか調査する」
「こっちでも確かめてみる」
 2人のレイヴンは担当区画を走査し、壁面を走るパイプやパネルに破損が無いかどうか、進みながら確認し始めた。
「私は一度上に戻る。この糞塗れのメイドを上に連れて行かねば」
 なおも悪臭を放つヴィエルジュを操り、アストライアーはハウスキーパーを引き摺って来た道を戻り始めた。
「貴方達も一緒に来い。あの化け物がうろついている可能性も否定出来ない」
 その提案を拒む作業員達ではなかった。一人になるのは御免だとばかりに、作業員達も各々の機体で後を追い始めた。
「アストライアー及び作業員へ、大型クレーン車を向かわせたので、ハウスキーパーの引き上げは任せておこう」
 分かったとだけアストライアーは返し、来た道を戻り始めた。


「やれやれ、遂に下水道で働く羽目になっちまったか……此処がそんなにクソ塗れでないのがせめてもの救いだな」
 ヴィエルジュが戻り始めた頃、ストリートエネミーは汚水が殆ど流れていない下水溝の護岸部分を進んでいた。壁面をライトで照らして進んではいるが、パイプやパネルの類はさほど傷付いておらず、ブルーネージュやアストライアーが見つけた巨大クモの死体も殆ど転がっていない。
 いや、それを言うならこのエリア自体、動くものの影はスタティック・マン以外見当たらない。味方を示す緑色の点を除けば、レーダーも全く反応がない。こういう非衛生的環境には付き物のネズミやゴキブリさえ殆ど見られない始末だ。
「その先に排水口の手動制御パネルがある」
 パワードスーツを着込んだ作業員が先行し、スタティック・マンは対ACライフルを構えながらその後を追う。
「しっかし、ここまで何も見られないってのが妙だ……」
 平素が呑気でガサツな部分がり、全体的に粗野な印象で見られがちなストリートエネミーだが、流石に彼もやけに静かな下水道内に異変を感じていた。
 主任作業員によれば、スタティック・マンの行く先には手動制御パネルがあり、万一配線寸断や障害などで下水道の制御管制室から水門やシャッターの直接制御が不可能になっても、パネルを現地に赴いた人間が直接操作することで開放可能である。そしてそれを操作する事となるのだが、しかし下水道職員でないストリートエネミーなので、制御ノウハウは持ち合わせていない。
 その為、随伴させた下水道作業員に制御を任せることとなった。
 アストライアーに随伴していたグループ同様、作業チームはパワードスーツ2人と作業用MT1機、更に排水溝を詰めているゴミ引き上げの為のクレーン型重機という構成である。
 だが不幸か否か、今の所作業用MTや重機の出番はなさそうだった。
「誰か居る……」
 手動制御パネルが設けられた区画に辿り着くや、パワードスーツの作業員が誰かを発見して向かって行った。事実、ストリートエネミーの目にも、小部屋の様なスペースにパワードスーツが2機いたのが分かった。
「レ、レイヴンか!?」
 そのパワードスーツが興奮したような声を上げた。
「助けてくれ! 化け物だ!!」
「落ち着け! 何があったんだよ!?」
 先行したパワードスーツの作業員が落ち着かせる。
「オリバー、生存者が居た!」
「話は出来るか?」
「やってみる……」
 ストリートエネミーは通信モニターのコンソールパネルを弄って答えた。
「聞こえるか作業員。俺はストリートエネミーだ」
「Cランカーか! 有り難い、俺達を助けに来てくれたのか!」
 依頼の目的は下水道の異変調査とその解決だが、先発隊の捜索も依頼に含まれているので、ストリートエネミーは「そうだ」と答えた。
「と言うか、何があった?」
 ストリートエネミーが尋ねると、生存者2名は血相を変えて答えた。
「化け物が出たんだ! 以前、キサラギの下水道内で発見されたとか言うクモの化け物が!」
「仲間が化け物にやられて、ハウスキーパーも下水溝に転落……俺達2人だけで何とか此処まで逃げ延びられたんだ」
「ああくそ、やっぱそうなるのかよ……」
 予想していた事ではあったがと、ストリートエネミーは頭を抱えた。
「それで、シャッターを封鎖したのか?」
 先行していた作業員が尋ねると、生存者は頷いた。
「化け物が出たのはこの先の区画なんだが……」
 彼が言うように、制御パネルはシャッターがマニュアルで閉鎖されている旨を伝えている。ついでに配線がカットされていて、火花が散っている。
「だからって配線切ったのはやり過ぎじゃないのか!?」
「シャッターを開けられたら俺達が殺される所だったんだよ……」
「あいつ等の餌になる位なら、クビでも減棒でもされた方がマシだ」
 顔面蒼白で話す様子から、余程追い詰められているらしいとストリートエネミーは思った。
「安心しろ。俺が食い止めてやる。お前等は此処から逃げろ」
 そう生存者を元気付けると、作業員に頼んだ。
「シャッターを上げてくれ」
「分かった」
 生存者2名が逃げ出す中、作業員はパネルを操作してシャッター制御のマニュアル動作をオフにし、ついで実行ボタンを押した。刹那、重々しい金属音が響き、ゆっくりと上昇したシャッターの隙間から下水が急激に流れ始めた。
 スタティック・マンはシャッターに対ACライフルを向け、怪物が這い出して来るのに備えていたが、幸いな事に怪物の姿は見当たらなかった。少なくとも、ストリートエネミーの視界――ACや重機のライトに照らされた範囲内には見当たらない。
 その間にも、下水は激しい水音を立てて下水溝内を流れ下って行く。
「どうやらこれも原因の1つだったみたいだな」
 重機の作業員が呟いた。
「アス、そっちの下水は流れてんのか?」
 アストライアーからの反応はない。まさか、化け物にやられたのかと思ったストリートエネミーだが、そこから応答がない理由を思い出すのには10秒と掛からなかった。
「って、そうだったな、アスの奴は下水に沈んだメイドを上に送還してるんだ……」
 そう考えれば応答出来ないのも無理はない所である。
「こちらダブルトリガー。今、此方にも下水が流れ始めたが……」
「おお、無事機能が戻ったのか?」
「それが、溜まっていたのが流れ出したと言う割りには、水位が低過ぎるように見える」
 途中のトラブルがまだ未解決ではないかと、トラファルガーは疑念を呈した。
「こっちはシャッター開けたら下水が正常に流れるようになったぞ」
「では何でだ? アスも排水口のゴミは取り除いたと言っているからな……ブルーネージュの方で何かトラブルがあったのかも知れん。1分ぐらい前に通信したが、銃声と共に途切れた」
 銃声が起きたと言う事は、あの化け物と遭遇・戦闘でもやらかしたのだろうかと、ストリートエネミーと作業員達は息を飲んだ。
「と、とりあえず戻ろう……」
 作業員が撤収を促した時だった。
「うわああ! 助けてくれ!」
 逃げたはずの生存者2人が血相を変えて戻って来た。通信モニターには顔こそ映らなかったが、脅え上がっている事は、気が狂ったかのように大声で喚いている辺りからすぐにストリートエネミーは察した。そして、その原因が彼等の後ろから放たれた、緑色の光線にある事も。
 光線はスタティック・マンの足に命中したが、さしたるダメージではなかった。だが光線とともに迸った緑の閃光の中に浮かび上がった8本足の影と、重機のライトに照らされ浮かんだ白いシルエットを、ストリートエネミー達は見逃さなかった。
 以前、掃討されたはずの巨大なクモだ。
 恐慌状態に陥りかけた作業員と生存者の前で、スタティック・マンは即座に対ACライフルを発砲した。生体センサーがないCHD-SKYEYEなので、射撃は殆どカンに頼る事となるのだが、火線は化け物クモに次々突き刺さり、足と頭を砕いてコンクリートに叩き落した。クモは転がって下水溝に落ち、そのまま流されて行った。
「行け!」
 作業員と生存者を先行させ、ストリートエネミーは開いたシャッターから迫ってきた新たなクモに射撃し、打ち倒した。怪物の生死を確かめる前に、ストリートエネミーは通信モニターに怒鳴った。
「おい、全員警戒しろ! 化け物がまだ生きてやがる!」
13/12/07 15:05更新 / ラインガイスト
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■作者メッセージ
 原作シリーズ(4以降はどうだかわかりませんが)で対生物兵器戦があり、本作でも言及はされてるのに何で生物兵器絡みのミッションがない!? と言う事で、今回の話を書いてしまいました。
 一応、元ネタとしては原作の下水溝調査(クモ型生物兵器が出て来るアレ)ですが、作業員を出し、人数が増えた事で、もはや別物になってしまいました。

 ちなみにタイトルはヤバ気なものじゃなく、単に「地下(と言うか普段人々が暮らしているエリアよりも下)での仕事」と言うベタな感じです。
 と言うか、レイヤード自体地下だと言われちゃそれまでですが……(今更)

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まろやか投稿小説 Ver1.50