連載小説
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#29.心機一転
 朝が来た。
 外は昨日、管理者実働部隊との交戦の余波で、遠くの所々から黒煙が立ち上り、部分的にまだ火災が発生してもいたのだが、アストライアーにとっては、変わらない日常、変わらない部屋の光景、そして変わらない日々のサイクルがまた始まることを意味していた。
 だがアストライアーは起床してから1秒と経たぬ間に、この日の朝が、それまでに迎えた朝とは全く違う点が2つある事を肌で感じ取った。表面上は確かに、これまでと変わらぬ人工の朝日がカーテン越しに来るそれだったのだが、その日のアストライアーからは、BBへの殺意が、完全に失せていた。
 それもその筈、本懐を遂げてから最初の朝なのだ。
 しかしBBが消えようが消えまいが、彼女の日々のサイクルに変化はない。目覚めた時から、サイボーグの身体は戦いに向けて既に動き始めていた。その為には、まだ残っている生理的要求に従う必要はあった。
 アストライアーはベッドから抜け出そうとして、ある事に気がついた。見なくなって久しかった幼女が、自身の左腕にしがみ付いていた。それこそが、起床直後から気付いていた、2つ目の違和感の原因にして、今や彼女の“娘”となったエレノア=フェルスだった。
 しかしアストライアーは首を捻った。何時から、エレノアが一緒に眠るようになったんだ? 
 昨晩の記憶を辿り、自身が眠る直前に何をしていたのかを可能な限り思い出す。確かに昨晩、エレノアは自分のベッドで寝た。そして自分はメールの確認をしていた所、BBとの決戦や管理者実働部隊迎撃で蓄積していた疲れにより、段々ウトウトしてしまい、少し横になると決めたんだと思い出した。
 その後の記憶が一切ない所、そして昨晩の姿であるYシャツにネイビーブルーのGパン姿である所を考慮するに、どうやら横になってすぐ意識をなくしたらしい。布団を被っていた所からすると、どうやら無意識的にもぐり込んでいたんだろうとも推測出来た。
 だが、それは大した問題ではない。
 それ以上に、このまま手にしがみ付かれるのはどうかと言う事が、アストライアーの当座の問題となっていた。BB一派の仕業とは言え、今まで満足に接してやれなかったエレノアだから、無意識的に自身を求めて抱き付いているのは分かる。だから、そのままにしてやっても良いとは思ったが、かと言ってこのまま放置して、後で空腹をうるさく訴えられるのも考え物だった。
 それに、朝飯を早く喰えとアストライアー自身も脳味噌に訴えられている。一日一食でも必要なエネルギーを賄えるほどエネルギー摂取効率を高められているアストライアーだったが、主な活動時間帯である昼間に依頼で出向くと昼食を食べる暇はなくなる。長期化すると夕食にもありつけない事があった。
 普通の人間なら参ってしまう所だが、アストライアーは朝食を人並みに食する事で、一日に必要なエネルギーを完全に賄う事が可能だった。他だと必要に応じて食する事もあったが、とにかく朝食を抜いては、流石のアストライアーと言えど活動に支障が出てしまう可能性があった。肉体的には全く問題なくても、精神的に違和感が出てしまって正常な判断が出来なくなるのではと言う、ささやかな恐怖心すらもある。
 兎に角、朝食の準備が必要だ。
 アストライアーはまだ眠っている愛娘の手をそっと引き剥がした。甘えたい盛りのところで申し訳ないと思いつつベッドから立ち上がろうとして、その動作を止めた。
 エレノアは、今度はアストライアーの左太腿に両手を回していたのだった。
 離れたくないのは分かったが、だがこのままだとその姿がいとおしくなり、自信もエレノアから離れられず、朝食を取るのが遅れる可能性をアストライアーは考えた。
 確かにエレノアは愛しい。それこそ狂おしい位に。そしてエレノアが望むなら、今すぐにでも抱きしめて、多少の我が侭も笑顔で許してやりたい所だった。あの娘の存在は、自身にとっては必ずしもマイナスにはならないとアストライアーは思っている。
 唯一、エレノアのせいでもっと悪い状況になるとしたら、それはエネルギー不足の身体で構い過ぎたばかりに、食料摂取を疎かにし、グウグウ鳴る腹を抱える事になるぐらいであろう。
 丁度、今がそうであるように。
「……すまん」
 小さく呟き、アストライアーは娘を引き離した。代わりに、自身が先程まで頭を預けていた枕を抱かせた。
 部屋から出る寸前で、アストライアーは足を止め、ベッドを見た。エレノアは枕を抱きしめ、顔面を埋めていた。呼吸は大丈夫なのかと思ったが、笑っているような横顔が見えたので、その心配はしなくて良いなと判断し、朝食の準備に向かう事にした。
 そのまま、部屋は静かになった。ただ、エレノアの寝言と、キッチンからの物音が僅かに聞こえて来る程度だった。
 しばらくして、エレノアは枕に頬擦りを何回かした後で、手を動かして無意識的に気がついた。先程までいたお母さんがいない。自分が抱いているものからはお母さんの匂いがするけれど、それは間違いなくお母さんじゃない。
 保護者不在に気付いたエレノアは本能的に眼を覚ました。そして、母――アストライアーが部屋から消えていた事に、すぐ気がついた。
 まさか、また以前みたいに離れ離れになったのではないか。
 母の姿を求め、エレノアは急いで部屋を飛び出した。
「……どうした?」
 驚いたのはアストライアーだった。荒々しくドアが開かれたと思いきや、血相を変えたエレノアがいきなり部屋を飛び出したのだから。
 やはり、BBの手の者に誘拐された事が、大きな恐怖感をもたらしてしまったんだなと、この時アストライアーは思った。
 ともあれ、エレノアはアストライアーの姿を見て安堵した。
「よ、よかったぁ……おかあさんがいて……」
「オイオイ、私は貴女を見捨てた覚えはないぞ?」
 兎に角今朝食の準備しているから、落ち着いて座ってくれとエレノアに促す。
「ごはんはなに?」
「ちょっと待っててくれ」
「はーい」
 イスに座ったエレノアはフォークを片手に、現在準備中の朝食が運ばれるのを待った。


 この日の朝食は、フレンチトーストが振舞われた。エレノアが消える前、食物レパートリーの拡充を図っていたアストライアーが、エレノアが誘拐される寸前になってやっと調理法を体得したものだ。そして、出された直後には、エレノアの大好物の一つになっていた。
「ごめんな、また失敗してしまった」
 アストライアーはエレノアの皿に乗せられたフレンチトーストを見下ろし言った。以前、エレノアから「もっとふわふわしたのがいい」と言われ、何とかその「ふわふわ」を出そうと腕を振るったのだが、結果として出来たものは、普通のフレンチトーストだった。
 キツネ色の焼色こそついているが、焦げ付いている様子は全くない。だがエレノアの要求至上のアストライアーにとっては、紛れもなく失敗作であった。こんなものは、その辺の料理本を見れば簡単に出来るが、たとえそれでも、エレノアから文句を出されたと言う地点で、成功ではないのである。
 全く、家事こそ出来るが、女性のくせに料理が不得手とはどうした事かと、アストライアーは自己嫌悪に襲われた。確かに、腹が減ったらパスタやら何やらの、手軽に作れるもので間に合わせて来た自分が悪いのだが、それにしてももう少し何とかならないものかと苛立った。料理もブレードスキルと同じで、すぐやって完璧に出来る物ではなく、トライアンドエラー等で回を重ねてやっと形になる物であると言う事を分かっているだけに、尚更だった。
 そんな母の複雑な胸中を察してか、エレノアはフレンチトーストにかぶりついて、租借して笑った――それでもおいしいよ、と。
「そうか……良かった」
 難しく考えてしまいがちだったが、エレノアがおいしいと言ってくれたからそれで良いか。アストライアーは肩を落とした。
 そして、自分が微笑んでいた事に気がついた。そして、その微笑みが、彼女をより安らいだような気持ちにさせてくれた事を感じていた。
 安堵感の中で、アストライアーは思った。
「料理の方も本気で練習しないとな……」


「ねえおかあさん、きょうどうするの?」
 フレンチトーストも食べ終わり、食器を後片付けするアストライアーにエレノアが呼びかけた。エレノアは既に着替え終え、紅い短パンに白のポロシャツと言う姿になっていた。
「出かける。色々と買いたいものとかがある。エレノアも付いて来るんだ」
「いいの?」
「良い。と言うか、今日は離れないでくれ」
 食器を片付けたアストライアーは、物憂げな顔をしてそう言った。
 エレノアは幼稚園や学校の類には通っておらず、アストライアーが依頼なり何なりで不在の時は、必ず託児所に預けられる。アストライアー自身は、何れエレノアを幼稚園、年齢が適切だと分かった場合は小学校に預ける事も考えていた。
 だが、まだエレノアの詳しい年齢は分からない。一応戸籍の照合及び作成は頼んだのだが、管理者の暴走に伴うコンピュータ・ネットワークの断絶及び暴走で、それが出来ない有様となってしまったのだ。
 だから託児所に預けるしかなかったのである。
 しかし、アストライアーとしては今、託児所に預ける気など毛頭なかった。目を離した隙に、自身に恨みを持つレイヴンに誘拐でもされたらたまったものではない。今日は、いや、今日からしばらくはエレノアを絶対傍から離すまいと、心に決めた。
 マスコミの評判や一般市民の目など、最早構わない。
 そう決意して部屋に戻り、アストライアーはお馴染みとなった父親の肩身のコートを手に取った。
 だが、そこで彼女の手は止まった。
「このコートは、もう……」
 アストライアーが父のコートを身に付けていた理由は、父の無念を晴らし、彼がBBよりも優れている事を暗に示すためだった。父親のものをなぞった戦闘スタイルに、父の容姿。これらを合わせて振舞い、戦い、復讐を果たす事に意義があると、アストライアーは信じて疑わなかった。
 だが、仇は既に討った後。このコートを身に付ける理由はない。
 だが、愛着のある父親のコートを捨てるわけにも行かない。幾多の戦いの中で随分とボロボロになっていたが、それでも長らく纏っていたコートは、既に自身の体の延長にもなっていたような気がしており、捨てるに捨てられない。
 アストライアーは俯き、手にしたコートをクローゼットに戻した。そして、代わりに薄手のジャケットを1枚引っ張り出して羽織った。そして外出用のバッグを手に取る。
「バイクでおでかけだね」
「いや、今日は歩きでだ」
「ほえ? なんで?」
「まず床屋に行く」
「かみきるの?」
 アストライアーは自宅のドアを出た所で、エレノアの顔を見たのちに、今度は彼女の髪を触りながら続けた。
「エレノアの髪、大分伸びただろ? 私も髪を切りに行くから、エレノアも一緒にやってもらおうと思ったんだ」
「おかあさんがきるんじゃないの? おともだちのあーちゃんとスーちゃんはおかあさんにかみをきってもらったっていってたよ?」
 ああ、託児所にいた同年代の子供達は母親が散髪を手掛けるのか。苦笑したアストライアーだったが、そんな彼女も、小さい頃、母に散髪してもらったっけなと思い返していた。そして、母親から動くなと散々注意された事も。当時はじっとしているのが嫌な性分で、散髪されるのは苦痛にも等しい嫌な行為だったが、今思えばそれもいい思い出だ。
「私が切れるのは食べ物と、怖いレイヴンだけだよ」
 だから床屋に頼むんだと、歩を進めながらアストライアーは言った。ブレーダーのクセに髪の毛も満足に切れないのかと嘲笑されそうだが、ブレードスキルと散髪は別問題だ。
 大体、ハサミを手に直接散髪するのと、機械的な操作を介してACで剣戟を食らわすのは全く別次元のレベルであり、比較した所で何の意味もないと、アストライアーは見ている。
「じゃあ、おかあさんはかみきれないの?」
「私がやると頭まで切ってしまいそうだからな……エレノアもイヤだろ?」
 エレノアは頷いた。ちょっと苦しい言い分だったが、分かってくれたようで何よりだと継母は安堵した。
「だから、散髪の上手い人に頼むんだ」
 アストライアーはそう言いながら、前髪をかき上げた。長く伸びた前髪が邪魔なのだ。
 思えばエレノアがさらわれてからと言うもの、刺客の返り討ちやらエレノア捜索、いまだに行方不明のスキュラの事と、色々と多忙だった事も合って散髪どころの話ではなかった。その為に放置していたアストライアーの前髪は、いまや目に届くほど伸び、彼女の視界を妨げ始めていた。
 このまま放置しておけば、依頼どころか日々の生活にまで支障が出かねないとすら見ていた。
 全く、エネルギー消費の効率化のために一部を除いて体温が低くなり、生理機能も変質していると言うのに、頭髪が全く影響がないと言うのは、こういう時に都合の悪いことだとアストライアーは思った。強化人間化した当初はスキンヘッドだったので頭髪云々の話ではなかったが、その内に自身の生身の皮膚から髪が伸び、今ではこの有様。
 体温が低いんだったら新陳代謝も遅くなり、場合によっては毛根を維持出来うるレベルにも達さなくなるはずなのに、全く良く出来たもんだとアストライアーは自身を皮肉っていた。人間に擬態するなら、頭髪は無いよりはあった方が、不自然な目では見られまいとも思ってはいたが。
 そんな事を考えながら歩いている間も、アストライアーはエレノアへの目配りを忘れていなかった。
「疲れたか?」
「ううん、だいじょうぶだよ」
「そうか」
 そんな感じのやり取りが暫く続いた末、アストライアーは足を止めた。
「今まで気がつかなかったが、ここに美容室があったんだな……」
 アストライアーの視線は、“マロン・リバー”と看板の出ている美容室へと向いていた。普段バイクを利用するような距離を行き来しているので、まさか10分ぐらい歩けば行ける様な近所にこんな店があった事に、気が付かなかったのだ。
 まあ、顔見世ぐらいには世話になってやるかと思い、アストライアーは自動ドアの前に立った。
「いらっしゃいませ」
 その声で出迎えたのは栗色の髪をした2人の女性だった。身長は同じぐらいで、一方は途中からウェーブの掛かったセミロングヘアで、もう一方はショートヘア。前掛けの下は二人ともノースリーブのワンピースで、前掛けには店の名前がプリントされていた。先客はいなかった。
 アストライアーはエレノア共々、空いているイスに誘導された。
「ここにこんな店があったとは気づかなかった」
「ですよね」
 ショートヘアの方の女性が、アストライアーの髪を湿らせながら話す。
「1ヶ月ぐらい前に、ここに店を開いたんですよ」
 成る程、気付かない訳だとアストライアーは納得した。1ヶ月前と言えば、アストライアーはエレノア誘拐、直美相手に連敗続き、未だ行方の知れぬスキュラの裏切り等、胸の悪くなるような出来事ばかりが重なり、余裕など全くないほどの荒れ具合だった。
 その頃からアストライアーは自宅に帰っておらず、ガレージとその周辺に潜伏する日々を過ごしていたので、尚更といえた。
「儲かってるのか?」
「ええ、そこそこ。ところで、どんな具合に致しましょうか?」
「短くしてくれ。ただし全体的な印象はこのままでな」
 端的な注文を出して、アストライアーは押し黙った。そして隣で早くも散髪開始されていたエレノアへと視線を向けた。
「ママと一緒に来たの?」
「うん」
「じゃあ、車で来たんだ」
「ううん、あるいてきたんだよ」
「疲れなかった?」
「だいじょうぶ。まだまだげんきだよ」
「へー、すごいじゃない」
 散髪されながらも、エレノアは嫌悪の様子を全く見せていなかった。
「この女……慣れてるな」
 エレノアを容易にあしらう様子を見て呟いたアストライアーだったが、エレノアがあまりに人の言う事を聞き過ぎる性分だからと言う事も有るのかと、途中から考えを是正した。
「あの……」
「何だ?」
「アストライアーさん……ですよね? レイヤード第3アリーナの」
「……それがどうした?」
 自身がレイヴンである事を知っていると悟られ、アストライアーの語調が無意識のうちに低く、ドスの利いたそれに変わった。
 まさか、こいつ等は美容師と名乗ってはいるものの、実際は自分を含めたレイヴンを殺そうと狙っているものではなかろうなと、警戒し出したのである。
 悲しきか、無法者の世界を歩んできたがゆえの疑心暗鬼だ。
「改めて見てみると……凄くカッコイイですね」
 何を言い出すんだとアストライアーは思ったが、口には出さない。
「アリーナでの試合中継を見た時に、女性なのにあんなにタフな闘いが出来るんですねって驚きました。最近ちょっと負け続けているみたいですけど、また以前……ワルキューレやテラと戦った時みたいに、大逆転してくれたら良いなって期待してますよ」
 美容師の声に敵意は全くなかったが、アストライアーは何も言わない。
「周囲から嫌われてるようですが、仕方ないですよね……あれだけ急にランクを上げてると、周囲から恨み辛みもいっぱい買った事でしょうから……でも、私も姉もそうは思ってませんよ」
 美容師は後ろ髪をカットしながら続けた。
「アストライアーさんの境遇を考えると、私達が疑われても仕方ないって思ってますから。BB派の人達にも相当狙われるみたいでしたし、娘さんの事もありますから。同じ境遇だったら、私も疑心暗鬼にもなってしまいそうです」
 それだけ言い終えると、アストライアーの周囲は沈黙が支配した。
「……ひょっとして私達を警戒してませんか?」
「済まん、さっきまでしていた。自分に美辞麗句を向けて来たものでな、ついつい謀殺か何かを目論んでいるのではないかと考えてしまった」
「いえいえ、気になさらずに。ただアストライアーさんが勝ったら、ここにも2人、嬉しく思うって人がいる事を覚えていただければ、それ以上の事はありませんよ」
 彼女の言葉は、ここの美容師2人が揃ってアストライアーのファン、しかもアストライアーの立場まで理解してくれている、かなり出来たファンである事を物語っていた。
 理解者を疑ってしまって申し訳ないと、アストライアーは頭を下げた。
 大体、血生臭く同業者から悪評高い事は、彼女自身も自覚していたし、アリーナファンからも、時に対戦相手を再起不能に追いやったり、死人すら出すスポーツマンシップの無さがしばしば叩かれている。そんな自分を、女性で、しかも此処まで好意的に見てくれた人は早々いないだろうと思ったのだ。
 男性で同じ事を言うときな臭くも感じ、それに罪悪感など欠片も感じなかったが、今回は疑ってはならない相手を疑ったと言わざるを得なかった。
 文字で表せば同じ言葉となっても、男性と女性のそれでは意味合いが違うものと言う事は、幾らでもあるのだから。
「……まさか女性から高評価されるとは思わなかった。嫉妬はするだろうなと思っていたが」
「カッコイイうえ、物凄く男前ですから」
 もう一方の美容師が言った。
「男に靡かずに、真っ直ぐ生きている……そういう女性には、必ず味方が居るものなんですよ」
「やっぱり姉さんもそう思うでしょ?」
 ショートヘアの美容師は、もう一方の美容師と頷き合った。その様子に、アストライアーは頭に疑問符が浮かんだ事に気が付いた。
「姉妹なのか?」
 アストライアーは視線を美容師に向けた。
「ええ、姉妹で経営してるんです。珍しいですよね? 姉も美容師だなんて」
「あまり聞かないな。普通、兄弟姉妹は別々に職に付くものだと思っていたが……」
 全く不思議なものだとアストライアーは呟いた。因みに彼女の髪を手掛けているショートヘアの美容師は、妹の方である。
「そう言えば、店の名前もあまり聞かない感じだ」
「私達の名前から取ったんですよ」
「なまえ?」
 エレノアが声を上げた。どうやらエレノアにも聞こえていたらしい。
「じゃあ、おねえちゃんたちのなまえって……」
 美容師姉妹を交互に見て言う。
「マロンさんとリバーさん?」
「そうじゃなくてね……」
 姉の方がエレノアにどう教えたら良いのか迷っている間に、妹のほうがアストライアーにこっそり教えてくれた。
「姓の“栗”と“川”を訳したんですよ」
「と言うと……いや、それ以上は言うまい……」
 アストライアーは個人情報を口にする事を良しとしないために口をつぐんだが、二人のファミリーネームがクリカワ(栗川)と言う、日系と呼ばれる人達風のものであることは察した。
 レイヤード内において、日系と呼ばれる人種への風当たりはあまり良いとは言えない。と言うのも無能な政治家達のせいで「旧ニホンは国民の技術や忍耐は評価出来るが、役人は評価にすら値しない」「緊急時の初動対応が遅すぎる」等のイメージが付き纏ってしまい、更には幼女を食い物にするようなメディア輸出も重なっている事も後押ししているからだ。
 実際、アストライアーも日系の血を引いている為に、幼少時代に差別を受けた過去がある。
 こうした過去ゆえ、アストライアーも余計な事を口走るまいと無意識的に配慮していたのだった。
 だがクリカワ姉妹はそんな事に動じる様子も、アストライアーを察する素振りもなく、ただ目の前の仕事に没頭していた。
「本当にこれで良いんですか?」
「ああ、構わんさ」
 アストライアーは鏡を見て、殆ど整えられた自分の髪を前に、満足そうに頷いた。
 アリーナで見られるアストライアーの頭髪は、顎の辺りで切り揃えられた、ニホン人からは“おかっぱ”と呼ばれる髪型に近かった。若干ボサボサな所はあったものの、それでもアストライアーのイメージは大して変わらなかった。
 だが現在のアストライアーは、特に当たり障りの無いただのショートヘアになっている。もっとも、以前から頭髪は短かったので、イメージがそう大きく変わるものではなかった。しかしアストライアーは復讐を終え、これからの新たな戦いに向け、心機一転を図る狙いがあったのは確かだった。
 一方でエレノアのヘアカットも終わっていた。こちらは以前の髪型そのままで、単に短くなっただけであった。
「整髪料はいかがですか?」
「このままでいい」
 頭に整髪料を塗ろうとした理容師を止めたアストライアーだったが、その後の細かい所の仕上げはハサミで切り残しを処理するだけと言う事なので、止めずにおいた。
 最後に前掛けを外し、衣類に付着していた頭髪を払うと、散髪の全工程が終了した。先に全工程を終えたエレノアが、出口近くの椅子に腰掛け待っていた。
「さて、支払いと……」
 アストライアーの前で、カウンターに移動して来た栗川姉妹はばつが悪そうに顔を見合わせた。何を考えているかは知らないが、精算という時点に来てこう言う顔をするあたり、アストライアーから金を取る事を渋っているのだろう。勿論、美容室経営の事もあるから、金を取らない訳にも行かないとも思っているのだろうと見た。
 アストライアーは即座に財布を開き、成人と幼児の頭髪カット料金、計45ドルを引っ張り出して手渡した。
「貴女達も生活や此処の経営もあるだろう。遠慮せずに請求しろ」
 実働部隊や暴走兵器の鎮圧があると言う前提ではあるが、報酬は稼ごうと思えば稼げるものだし、何より一ファンの感情と現実は別問題である。だからアストライアーとしては、幾らファンがした事とは言えサービスで済ませる気は毛頭ない。それに自分だけ特別扱いと言うのも、どこか気分の悪い話だった。手早く会計を済ませ、店を後にする。


 散髪を終えたアストライアーとエレノアが次に向かったのはバイク屋だった。距離が長いため、アストライアーは途中から歩き疲れたエレノアを背負っての強行軍と相成った。
 アストライアーが此処に訪れたのは勿論、バイクを買う為であった。
 アルタイルが乗っていた大型バイクは依然として運行可能な状態ではあったのだが、アストライアーがラフな運転を連発していた事が災いし、ボディは傷だらけで相当のダメージを受けていた事を認めざるを得なかった。
 修理を頼みたいのは山々だったが、何せあのバイクはアルタイルが20年来乗り回していた、既に旧式のバイクである上、メーカーがどこか分からない。メーカーを示す装飾は無くなっている上、車種も全く分からない、挙句の果てには車検の際の書類を自宅にて紛失と、手がかりがなさ過ぎた。
 それに、今日は己の心機一転に費やすと決めている。少なくとも、散髪を終えて暫くの後には、そう確定していた。
 だから自分の中でも印象を強くすると言う意味で、新しいバイクの購入を決意し、報酬片手に“セレーノ・ガレージ”の自動ドアを潜る。
 ここはバイク屋とは言え、一部が系列グループ運営の操車場兼小規模なサーキットに繋がっており、必要があれば試乗も可能となっている結構大規模な店であった。時折、サーキット疾走を目的に訪れるライダーもおり、走るついでに店舗も覘く、と言うこともあるらしいとアストライアーは聞いていた。
 そして、訪れたのはここが一度や二度ではない。バイクの修理の際、しばしば世話になっていたのである。
 幼女とは全く縁がない場所というのもあり、頭がちんぷんかんぷんのエレノアを従えながら、アストライアーは人気の少ない店内を物色。スクーターには目もくれず、大排気量のバイクがずらりと陳列される野外展示スペースへと移動。
 そこで最初に目に付いたのは、クルーザーバイクと呼ばれる長距離移動用の大型バイクだった。アストライアーは、100キロ単位の長距離をバイクで移動する気がない事もあってあっさり通過した。
 次にアストライアーは、レーサーレプリカタイプの派手な車種に目をやったが、赤と黒、黄色といった派手なカラーが好みではなかった為に、これもすぐに関心外になった。
 次いで目にしたのはストリートタイプだった。比較的小型の、取り回しの効くもので、ファッション性も重視したデザインの車種も数多く陳列されていた。店員に話を聞いた所、この手のバイクは操作性にこそ優れるが、小型軽量のバイクが多く、絶対的な性能はそれほど高くないという。特に高速で巡航するような用途には適していないとの事だった。ダメだ。アストライアーは首を振った。
 以前、アルタイルが生前使っていたと言うか、つい先頃まで自分が乗っていたようなタイプのバイクが望ましいと思っていた。だが車種が分からないので、どういうタイプのバイクに分類されるのかは当然分からなかった。
 ただ、そのバイクにそっくりな車種はすぐに見つかった。クレスト系のバイクメーカー・ブレアモーターズのユニコーンと言うバイクだった。流石に型が新しい為、細部の所々は違うのだが、全体的にはアルタイルのバイクに酷似しており、ひょっとしたらメーカーは違うかも知れないが、多分車種もこれの親類だろうと見た。
 これに近いやつで何かないだろうかと見て回って、アストライアーはあるバイクに目を留めた。
 それはごく一般的な、舗装路向けのバイクの列の中に陳列されていたカウルのないバイクで、青を基調に白と黒で塗装されていた。近寄ってそのバイクを見下ろす。フレームのデザインは違うが、特徴としては以前乗っていたバイクに似ていた。
 店員を呼んで、詳しい話を聞いた。だが、排気量、エンジンとその最大出力、駆動方式、サスペンションなど用語がずらずらと並んだ為に途中からアストライアーにも訳が分からなくなったが、とりあえず分かった事としては、排気量から普通自動二輪車のカテゴリに入るので、今ある免許での運転が可能な事と、今年の2月から販売が開始された最新鋭車種である事、そして「剣」を意味するグラディウスと言う名が冠されている事だった。
 正式にはグラディウスGR.8と言い、ミラージュ系列のバイクメーカー・モトルドスクエア社の看板商品であるグラディウスシリーズの8代目だと言う。店員がそう説明してくれた。
 同じ車種は野外に6台も並んでおり、アストライアーの目に止まったものと同一のカラーリングが施されていたのはもう1台あった。紅く塗装された同車種のフルカスタムモデルが店内に展示されていたが、アストライアーの関心は野外に陳列されていた青いグラディウスに向けられていた。
「おい、ちょっと」
 店員を呼び、アストライアーは早速尋ねる。
「こいつを試乗したいんだが」
 全く顔の知らない店員が振り返る。アストライアーが意識してなかっただけで、実際は彼女を知っている店員かも知れなかったが、彼女の意識はそこまで及んでいない。
「試乗ですね。では此方で準備を」
 店員はバイクのロックを固定し、サーキットのピットまでグラディウスを引っ張って行った。他のライダー達が周辺で試乗しており、何人かは既にその場で購入を決めたと見え、料金の交渉に入っている姿もある。
 その間に店員は青と白黒のバイクを調整し、キーを挿す。その間に別の店員が、アストライアーにバイクとヘルメット、更に肘や膝などを保護するプロテクターを着用させた。
「OKです。試乗出来ます」
 アストライアーは早速跨り、エンジンを始動させた。グラディウスはゆっくりとピットから進み出てサーキットへと向かう。下手をすれば大事故につながりかねない為、アストライアーは初めて触る車種を慎重に操る。まだ買ってもいないのに事故ってはたまったものではない。下手をすれば気に入らないかも知れない代物を高値で買わされるどころか、損害賠償を請求される恐れもあった為である。
 だがそれも、運転開始から2分が経過する辺りまでだった。アストライアーは運転に完全に慣れたと見え、スピードを上げ出したのだ。急な加速により、先行する同車種とライダーの後姿が一気に近付く。追突の危険を察し、すぐに速度を緩めに掛かる。
 速度は一気に緩み、車間距離が十分に保たれた所で、アストライアーは再びサーキットを走り出した。分からない事は多々あるが、ステアリング性能、加減速、最高速度だけは確めようと、決して広いとはいえないサーキットを走る。
 しかしながら、試乗を5分そこいらで終えてピットに戻ると、アストライアーはバイクを降り、満足げに店員に頷いた。
「いかがでした?」
「凄いヤツだな。気に入った」
 操った感じでは、今までのバイクとは比較にならない操作性が光っていた。力強い駿馬でありながら小回りが利き、操作にも素直に応じてくれる。最高速度こそ出していないが、メーター上では今までのバイク以上に速度が出るのは疑いようのない所だった。流石は最新鋭車種だけあり、父が乗り回していた、アストライアー並みに年を食っている旧式バイクとは別次元の性能であったと言うのが、アストライアーの抱いた率直な感想であった。
 しかもカラーリングも、アストライアーと同じく蒼が基調であり、車種名も“剣”を意味している。レディ・ブレーダーが駆る新たな鋼の駿馬として、これ以上のものはないだろう。
「よし、こいつを買おう」
「ありがとうございます」
 購入を決めると、アストライアーはカウンターに通された。そして、説明を受けながら各種必要書類にサインを入れ、残すは料金交渉のみとなった時だった。
「お支払いは以下のコースから選べますが?」
 返済額の何回払いかなどと書かれた料金プランを無視し、アストライアーはバッグから札束を引っ張り出し、今まで自分の知識を元にして訳の分からん説明をしてくれた礼とばかりに、店員の前にドンと置いた。
「即金で頼む」
 店員が驚くのも構わず、アストライアーは提示されていた料金分、合計7700ドルの札束を何の躊躇もなくバッグから引っ張り出して積み上げた。
「心配するな。この間の管理者部隊撃破で稼いだ金だ」
 店員も周囲の客も、唖然とするばかりだった。此処に居るのがレディ・ブレーダーであるのが既成事実であった事を言い含めても。
「何か問題でも有るのか?」
「い、いえ。ただいま勘定しますので、少々お待ちを……」
 店員はただちに札束の勘定に入った。かなり狼狽しているように、アストライアーには見えた。
 しかし、それも無理のない所であろう。大抵、バイクはローンを組んで購入するのが当たり前であり、アストライアーが何の躊躇も無いまま、即金で購入しようと札束を幾つも持って現れるとは想定もしていなかったのだろうから。
 店員が札束の勘定を完了するまでに、20分掛かった。何せ持ち込んで来た金額が莫大だったので、店員が数人がかりで、何度も勘定し直していたのだから。
「毎度有難う御座います」
 店員の声がやけに上向いていた事を、アストライアーは聞き逃さなかった。
 いったん会計を終えても、アストライアーは店を去らなかった。エレノア用のメットとプロテクター各種を追加で購入し、手早く取り付けてやる。
 そしてアストライアーは新たなる機械の駿馬を路肩まで引っ張り、最早慣れた動作でエンジンをかけ、颯爽と跨った。その背中にエレノアがしがみ付いたのを確認し、アストライアーはエンジンを唸らせて足早に走り去った。
「ねぇ、まえのバイクは?」
「まだ捨てる気はない」
 大分傷付いているとは言え、まだ動くバイクであるから、アストライアーは捨てずに残しておく考えだった。これからはグラディウスが愛車となるのだが、だからと言ってあの旧式バイクに愛着がないわけではない。ひょっとしたら、気が向いた時に乗り回す事もあるかも知れなかった。
 処分するにしても色々と面倒なので、いずれにせよ、当面あのバイクはそのままにしておくつもりであった。
 バイクさえ手に入れれば、後の予定は素早く済む筈だと分かっていたので、アストライアーは最早慣れっこのトレーネシティ郊外を疾駆する。何度も通っている道だけに、迷いはない。
 不安材料としてはグラディウスの運転に味をしめ過ぎる事だった。性能と操作、両面に置いて認めたものの、慢心で操作を誤って事故を起こす事は勿論だが、制限速度超過でしょっ引かれる事もありえない話ではなかった。
 そのアストライアーだが、しかし彼女は中央分離帯がやたらと荒れていたのに気が付いた。ガードレールが壊れ、標識や街路樹、ランプがへし折られ、「中央分離帯 立入禁止」と書かれた看板が見事に倒され、その上にタイヤ痕が残っている。
 誰がやったんだと思っていたら、その先に黒い自家用車が、パトカーと白バイに挟まれるような形で止められていた。そして、一目で警官だと分かる男性の前で悪態を付く男が目に付いた。
「やれやれ、またあいつか……」
 アストライアーは男の姿を認めるや、溜息をついた。
 その理由は、目の前にいたのが以前倒したホスタイルだったからである。そして、その名を聞けば中央分離帯が荒れているのも自ずと分かった。
 ホスタイルはせっかちで落ち着きがなく、しかも血の気が濃い性格として知られている。その性格が災いし、実生活ではしばしば軽犯罪を引き起こしている事で有名だった。特に無謀運転や器物損壊、スピード違反など、道路交通法違反の常習犯として有名であり、一説ではブラックリストに載るほどの人物らしい。
 そんなホスタイルだから、恐らくは何かの用事に急ごうとして中央分離帯に乗り上げたのだろう。悪態をついているが、助ける理由もないのでアストライアーは無視して先に行く事にした。そのうちホスタイルは運転免許を取り上げられるだろうなと思いながら。
「……おなかすいた」
 エレノアがYシャツの裾を引っ張り、訴えて来た。
 そうだった、忘れがちだったが今回はエレノアが居たんだったとアストライアーは思い出した。バイク移動の時は大抵ひとりである事が多く、その為に自分の都合で動いていたのだが、流石にエレノアの腹具合を無視出来ない。エネルギー摂取効率を高められた自分と違い、彼女は普通の人間なのだから。
 しかも、現在時刻は午後1時半を過ぎようかという所。バイク屋でかなりの時間を食った結果、既に昼飯時は過ぎている。
 昼食が急務となったアストライアーだが、幸いにも次の目的地である複合ショッピングモールは既に近い上、その敷地内にレストランがある。そこで昼食にするかと、すぐに決めた。
 間もなくグラディウスは、ショッピングモールの一区画へと乗り入れた。


 昼食も平らげ、エレノアの腹も鳴らなくなったところで、再びアストライアーは行動を開始した。好物のミートソーススパゲッティでしばらくは大人しくなるだろうが、それ以上に自分の腹具合が気になる所だった。
 アストライアーはレストランでは何も頼まないつもりでいた。朝食だけで一日に必要なエネルギーはほぼ賄える彼女なので、必要以上の食事の必要性がなかったのである。ところが何も頼まないと聞くと、エレノアは母の事情をまるで知らぬかのごとく、こう言ったのである。
「おかあさんのからだにわるいよ? おかあさんはだいじょうぶでも、おかあさんのおなかがなにもたべないのはいやだっていってるよ?」
 自分を気遣ってくれていることが、すぐに分かった。我が侭な自分の子供時代と比較すると、エレノアは良く出来ているなと、親心ながらも思ったものである。
 かくしてエレノアにそう薦められた事もあり、何も食する心算はなかったアストライアーは、エネルギー飽和で問題でも起きないかどうかを懸念しながらも、サンドイッチとコブ・サラダ、アイスティーと言う予定外の昼食を摂取する事となったのだった。
 過剰摂取ではあるのだが、果たして大丈夫かとアストライアーは思った。
 とは言え、余剰エネルギーは体内に蓄積され、食物摂取が出来ない場合にエネルギー源となる他、負傷した際の自己再生用ナノマシンのエネルギーにもなる。特に、ナノマシンの活動では活動時間が数分の1減少するほどの大量のエネルギーが消費されるため、余剰エネルギーが蓄積されていれば、それはそれで好ましい事ではあるのだが。
 当分摂食制限が必要だなと、アストライアーは溜息をついた。
 そんな事を考えながら、アストライアーはエレノアを伴ってブティックへと突入した。以前、エレノアと出会った翌日に訪れた店である。
 本来なら自分の服装だけ整えればよかったのだが、エレノアが今朝になって服がキツイと訴えたので、急遽彼女の分の服も調達する必要に迫られたのだ。思えばエレノアは成長期、彼女の身体はこれからさらに伸びて行く時期なのである。身体的成長の止まった――と言うより、サイボーグ化されたに伴って不可能になったアストライアーと同列に扱ってはならなかったのだ。
 店に入ってすぐの事だった。
「これこれ!」
 これが欲しいと、アストライアーの裾を引っ張って指差した。
「キ、キャラモノ……」
 アストライアーは多少のむず痒さと違和感を覚えた。何せ指差した先では子供、それも女の子向けアニメ番組として現在放映中の「魔法少女ピクシー」のヒロイン達のえがプリントされたシャツが陳列されていたのだ。
 その概略は、小〜中学生の女の子4人組が、ふりふりひらひらのドレスを纏った魔法使い「ピクシー」に変身し、悪い怪人やモンスター達をやっつけたり、困っている人を助けたりするというお話であり、愛・友情・希望・夢と言ったものがテーマになっている。破壊と殺戮、裏切りと否定が常のレイヴン世界を生きて来たアストライアーとは180度逆の存在であった。
 彼女としては、こう言うものは15年ぐらい前に触れたいものだった。
 しかし否定だけはするなと、アストライアーの良心が訴えている。確かに彼女自身、死と破壊で他のレイヴン達を散々粉砕し否定し続けてきた経歴はあるが、子供の夢まで粉砕・否定する理由はない。
 あの薄汚い生き様のストリートエネミーですら、子供に手を出す真似はしないと公言しているではないか。だから子供の夢を潰すような真似はしてはならないだろう。もう、自分はその辺に転がっているレイヴンとは違い、娘の為に動くべき存在なのだからと、アストライアーは自身に言い聞かせていた。
 そんな胸中のアストライアーが見ている中、エレノアは手早くシャツを選んでいた。ピンクと白、それぞれ1着ずつ。
 エレノアがこれで言いと言うので、アストライアーも自身の服を選ぶ事とした。
 今までは濃紺のロングコートと言うスタイルだったが、BBが消えた今に心機一転を狙っているので、同じ衣装にする心算はない。だが、以前のスタイルに愛着がないわけでもないので、まずやるべき事と定めてカウンターに直行した。カウンター近くの「オーダーメイドお引き受けします」の札を確かめた上で、店員を捕まえる。
「失礼、オーダーを頼みたい」
「はい。どのような服をお望みで?」 
「コートだ」
 店員はポカンとしてアストライアーを見詰めた。
「コートですか? 今の暑くなって来ている時期に?」
「いや、ちょっと変わったコートだ。これから言うのでメモして欲しい」
 アストライアーは近々第一層の特殊実験区、雪原の只中にあるリツデン情報管理施設に出向かなければならないと理由をでっち上げた上で、トレンチコートをオーダーメイドでこさえるよう発注した。
 店員はシーズンオフの品物を発注された事で若干難色を示したが、
「分かりました。ご注文を受諾致します」
 と、了承の意を示した。
 これで以前のファッションを引き続き演出出来るようになったが、恐らくは以前そのままとはならないだろう。
 何せ、父が生前纏っていたのは防弾・抗刃・対爆仕様の軍用コートで、不定期で開かれるミラージュ軍給品の払い下げ市で購入したものだと聞いている。軍給品なので限られたルートでしか購入できないので、何れまた、そこに赴かなければ以前のコートは入手できないと分かっていた。
 長らく纏っていたので、やはり父のコートに愛着があったのである。
 だが、それを別としても、もっと他に衣装が欲しかった。今の時期は夏場だからまだ良いが、Yシャツ姿でグラディウスを運転すると、風圧で冷える。それはアストライアーにとってはさしたるダメージにはならないのだが、流石にYシャツ姿でバイクを運転するのは考え物だった。それに激しい風圧の中でそんな格好で運転していると、周囲から心配の、アストライアーにとっては鬱陶しい視線が注がれるだろうと言う懸念もあった。
 そんな訳で、メンズファッションのコーナーを物色する。レディースファッションには全く興味がない。女物で性別が分かって暴行でもされるのは避けたい所であるからだ。
 コーナーを巡る中で、アストライアーは1枚のジャケットに目を留め、小脇に抱える。次いでジーンズと、更に幾つかの品を手にとって試着室に急ぐ。
 エレノアが試着室の外で待機して数分で、アストライアーは満足げに外に出て来た。そしてエレノアの選んだキャラものシャツ共々レジに送り出し、手早く会計を済ませ、背負っていた外出用バッグに押し込む。
「あれ? おようふくはきないの?」
「まだだ」
 アストライアーはエレノアをバイクに乗せて言った。
「一端ウチに帰ってからだ」
 再びグラディウスに跨り、エンジンを掛ける。数瞬の後、鋼の駿馬は新たな自身の居城へと、わき目も振らずに進み出した。


 自宅に戻るや、アストライアーはバイク屋から手渡された各種書類、エレノアのシャツ等を全てバッグから引っ張り出した上で、自身の衣類を手に部屋へと戻った。そして適当に着替えると、再び駐輪場に赴き、前のバイクからボックスや多機能パックを外し始めた。
「おかあさん、ばんごはんどうするの?」
「何かリクエストしてくれ」
 注文受けないと何を作るかも決まらないから、エレノアが好きにして言いとアストライアーはグラディウスにボックスを据え付けながら言う。
 しかし、一方では不安もあった。自身の手には余る、それこそシェフが作るようなシロモノを注文でもされたらどうしようかと言う懸念だ。料理のあまり得意ではない自分に、そうしたものを作るのは酷な話である。かと言って、何も注文を受けずにいて、パスタか何かで連日済ますのも考え物である。
 エレノアの胃袋は、そういう点で厄介なのだ。
「じゃあ、ポークビーンズ!」
「何だって?」
 まさか手間の掛かるシロモノではないだろうなと、アストライアーは一瞬戸惑った。
「どんなヤツだ?」
「ちいさいつぶつぶみたいなソーセージだよ。あーちゃんがおべんとうにいれてたの」
 私に作れるものなのかとアストライアーは焦ったが、買い物に行っていたときの記憶を辿って思い出した。確か肉のコーナーに、同様のシロモノがパックで売られていた事を。確か、普通は家畜の内臓(もしくはそれに類似したもの)にタネとなる肉を詰めるのだが、その肉を詰めないで、豆状にしたものが売られていた。
 多分、それの事を言っているのだろうとアストライアーは思った。
「分かった」
 手早く多機能パックを据え付け終えると、アストライアーは再びグラディウスに跨った。
「一緒に来るんだ」
「いや」
 エレノアは首を横に振った。
「もうおそいからおうちでまってる」
 そう言われてアストライアーは気が付いたが、既に日が傾いている。子供が外で遊ぶ時間帯は過ぎ、熟や予備校通いの面々なら兎も角、大抵の子供はもう帰宅している頃だ。そんな時間帯に子供が出歩くのは好ましくない。犯罪に巻き込まれる可能性や、警官に見つかり、保護者たる女剣豪が小言を貰う可能性だって考えられる。
 ならば仕方ないなとアストライアーは納得し、エレノアを自宅へと連れ戻す。そして、出かける前に念を押した。
「誰も家に入れたらダメだぞ! いいな!?」
 そう約束させると、玄関は勿論窓まで施錠して駐輪場にとって返し、グラディウスで夕食の調達に出かけた。最新鋭バイクで買い物かという話も有ろうが、アストライアーはもとよりバイクで買い物を済ます人種なので、全く気にしてはいない。


「あれ、お姉さまじゃないの?」
「アスお姉様?」
 自分を呼ぶ声に敏感に反応し、アストライアーは即座にグラディウスを反転させた。派手なブレーキ音と共にスピンターンしたバイクを、声の主の元へと持って行く。
「呼んだか?」
 ライトに照らされたその姿を、アストライアーはひとりずつ検めた。そのうちの一人は、もうお馴染みのミルキーウェイだと分かった。乳白色の頭髪にピンクのリボン、ルビーレッドの瞳がその裏づけだ。
 他の2人は見慣れない顔だが、素性そのものは知っている。
 同業者兼ミルキーウェイの友人だ。彼女達がミルキーウェイと同じガレージにACを置いており、しばしば一緒になって談話している様子を見た記憶がアストライアーにある。
 うち一人は、ミルキーウェイと同じか少々背が高く、アストライアーが見た限りでは身長160センチぐらい。しかし肉付きは細身体型の割りに良く、胸も服の上から分かる程度に大きい。白い肌に青い瞳、ストレートロングのブロンドヘアもあってか、中々アダルトな雰囲気が漂う。そんな彼女が、第3アリーナに最近登録された補充ランカーだと、アストライアーは知っていた。
 名前はハニームーンで、参戦以来、ミルキーウェイとしばしば一緒に共闘しているレイヴンだと話を聞いている。また試合に置いても、アリーナの2on2制バトルにおいて、以前の相方だったファナティックに代わってミルキーウェイをサポートしている様子を見た事がある。それ以前に、アストライアーは復讐優先だったりエレノア第一の姿勢であった為に、彼女が今まで眼中に入らなかった。
 搭乗ACのミッシングルナは、カラーリングがレモンイエローと琥珀色のツートンになっていたものの、今は亡きリップハンターが操っていた中量2脚ACルージュと似ていたと、アストライアーは記憶していた。それでも、頭部はCHD-SKYEYEに変わり、武器がレーザーライフルからマシンガンに、オービットキャノンがミサイルになってレーダーがMRL-MM/009に格下げされており、中量2脚としては軽妙な戦いが目を引くものの、他はこれと言って特筆するべき点はなかった。
 もう一人は、赤毛のボブヘアで瞳は茶色、身長はハニームーンと同じか少し高いぐらいと言う程度。体系は良くも悪くも普通と言ったところである。何にしても、あまり馴染みのない顔だった。
 ただ、初めて見る顔ではなく、サニーメイプルと言う名前と、ピーチスパークと言う機体名は聞いた事があった。ただ、どんな機体を操っていたかは、逆関節ACでスナイパーライフルを持っていた、ぐらいしか記憶にない。
 そんな彼女達が何故アストライアーだと分かったのかは、当の女剣豪が、無用心にもヘルメットを被らずにグラディウスを運転していた為であった。
「あ、新しいバイクだね」
 ミルキーウェイがすぐに気が付いた。
「それに服も新しいヤツじゃない?」
 黄昏時とは言え、ファッションの変化にすぐに気付いたミルキーウェイの後ろで、少女レイヴン2名がひそひそと囁き合っている。
「いつものロングコートじゃない……」
「主旨換えしたのかな?」
 ハニームーンとサニーメイプルの囁きは、アストライアーにも聞こえていた。
 そのアストライアーは、先程購入したブルーのライダースジャケットにストーンウォッシュ加工の黒いGパン、後ろに向けてなびく群青色のスカーフでコーディネートされた姿になっていた。手は先程のバイク屋で仕入れたグローブで覆われ、パウチが腰に留められている。
 公で見かけるコート姿とは打って変わり、かなりラフな姿であった。
「でもカッコいいよね……」
「男にも負けない位凛々しいね……」
 容姿こそ違えど、女性から受ける印象は変わらんのか。先の栗川姉妹の評価も含め、アストライアーは溜息をついた。ただ、嫌われているよりは良い事に変わりはない。
「やっぱ二人ともそう思うよね」
 ミルキーウェイ達は囁き合った。
「やっぱカッコいいよ。カッコいいんだけど……」
 ハニームーンがグラディウスの後部に目をやった。アストライアーが座席後部に据え付けたボックスや側面に据え付けた多機能パックの中から、マヌケな事にネギや大根が頭を出していた。ショッピングモールからの調達品である事は論を待つまい。
「折角カッコイイのにこれじゃあ……」
「知った事か」
 私の物なのだからどう使おうと勝手だ。そう言わんばかりに、アストライアーがすかさず反撃に転じた。
「そんな細かい事を気にしてどうする。生きるか死ぬかの瀬戸際にあるレイヴン足るたるもの、余計な事は考えずに目の前の事に当るべし」
 再びグラディウスのエンジンを掛け、アストライアーは去り際に言い放った。
「貴女達もレイヴンなら余計な事は無しにしろ」
 アストライアーは去って行った。
「……余計な時間を食ってしまったな」
 自宅に急行しながら、アストライアーは愚かにもそんな連中に付き合ってしまった自分へ、胸中で愚痴を吐き連ねた。
 エレノアが要求していたポークビーンズは数箇所のショッピングセンターや百貨店を巡ってやっと見つけ出したはいいが、それまでに軽く2時間以上を費やしてしまった。エレノアが腹を空かせて待っているかも知れないどころか、ともすれば自分への意趣返しとしてエレノアを狙っている輩が出現する可能性もある。
 意趣返しだけは絶対に御免だと、アストライアーは制限速度超過ギリギリの速度で自宅へと急いだ。逸る気持ちを抑えながら。
 それはエレノアに何かあるのではと言う危惧に基づいての事だったが、幸いにも自宅は無事であった。
「おかあさん、おかえりーっ!」
 そして出迎えてきたエレノアにも全く異常はなかったので、アストライアーは安堵した。
「ただいま。待ってな、すぐ飯にしてやるから」
 アストライアーの次なる行き先はキッチンだった。そして到着早々、エレノアのオーダーに基づき入手したポークビーンズをフライパンで熱しにかかる。
 しかし、これとライスだけではアストライアーが考えている食事としては不十分だった。
 そこでアストライアーは作戦を変更、ポークビーンズを熱し終えて皿に盛るや、同じフライパンで次なる料理に掛かった。タマネギとキャベツ、先程のポークビーンズをまな板の上で刻み、まだ熱が抜けていないフライパンに卵を投下。白身と黄身を混ぜてスクランブルエッグにし、そこにライスと、刻んだ食材、塩コショウを投下した。
 これまでエレノアと共に生活してきたアストライアーが学んだ事として、エレノアが成長期の子供にありがちな好き嫌いが全くない事が挙げられた。元が路上生活孤児だった事もあり、食物の選り好み以前にその日の食事にすら事欠く生活を送っていた事が、好き嫌いのなさに繋がっていたのだろうとアストライアーは見ていた。
 いずれにせよ、これは、アストライアーにとっては非常に助かる事であった。何せ、作る料理にさほど拘らずとも良く、エレノアの方も、母が作ったものなら何ででもおなかいっぱいになれると言っているようなものだったのだから。
 だが、それでも多少は料理のレパートリーを広げたいアストライアーは、普段作らない炒飯にチャレンジしていたのだった。比較的簡単な料理とは言え、エレノアを飽きさせない為にも、少しずつでも作れるものを増やしたかったのだ。
 そのアストライアーは、米がパラパラになるまで炒めて皿に盛った後、スプーンで一口すくって試食。初めてなのでコレで良いかどうかは分からないが、とりあえず食するには耐え得るだろうと判断、一端の主婦気取りで刻みパセリをふりかけ、エレノアの元へと運んで行った。
 既にエレノアはポークビーンズを美味しそうに摘んでいたが、新たな料理が運ばれてきた為、関心をそちらに移した。 
「なにこれ?」
「とりあえず、試しに作ってみたんだが……」
 エレノアは見慣れぬ料理に少々おっかなびっくりと言った様子で、母から渡されたスプーンを伸ばす。
「なにいれたの?」
「ネギとタマネギと卵とポークビーンズ。変なのは入れてない」
 そもそも、奇抜な食材にまで手を伸ばした覚えはない。
 エレノアは緊張に顔を凍て付かせた母を前に、少々警戒しながら炒飯を口に運んだ。あまりの緊張で、アストライアーは自身の心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえた。
 夕食時にはそぐわぬ、重苦しい沈黙が二人を包む。
「……おいしい」
 アストライアーの心拍数が最高点から降りた。
「おいしいよ♪ でもちょっとにおいがきついかなぁ……」
 多分ネギのせいだろう。少々多過ぎたかも知れないとアストライアーは思い返した。
「済まない、次から気をつけるよ」
 そう言っている間に、ポークビーンズと炒飯が次々にその量を減らしている。
「うん……でもおいしいよ♪」
 エレノアがそう言っている事だし、今回は良しとしようと母は頷いた。最も良さの度合は七部程度と言った所、まだ改良の余地はある。
「さて、もう一つ……」
 そういうと、アストライアーはキッチンにとって返し、小皿と包丁、そしてリンゴを一つ持って戻って来た。小皿には自作の炒飯が、自分が食べる分量だけ盛られている。その量はエレノアが食する量と大差ない。しかしエネルギー摂取効率を高められた結果、少食になっているアストライアーにとってはこの程度で十分量なのである。
 そして、もう一度キッチンに赴くと、今度は小皿と小さなフォークを持って戻って来た。
「なにするの?」
「ちょっとした小技だ」
 アストライアーは包丁を手に取り、リンゴにあてがうと、それを少しずつ回転させ始めた。リンゴの皮が1センチ程の幅で剥かれ、ヘビのように連なって伸びる。
 エレノアの手が止まり、視線と注意がリンゴと皮に向いた。その間にも剥かれる皮はどんどんその長さを増していく。どれほど長く伸びたのかを見せるべく、アストライアーは徐々に立ち上がりながらリンゴの皮剥きを続ける。
「くそっ、切れた……」
 剥かれた皮の重みに耐え切れなかったのか、或いはアストライアーの手元が僅かに狂ったか、エレノアの見てる前で皮の伸びが止まった。
「でもすごいよ? だって、ほら」
 エレノアも一時的だが席を離れ、剥かれた皮の先端部を持って立ち上がる。
「あたしとおなじぐらいながいんだもん」
 ほう、そんなに伸びていたのかとアストライアーは眼を見開いた。エレノアの言う通り、剥かれたリンゴの皮はエレノアの身長よりも若干低いぐらいの長さに達していた。
 その様子に微笑みながら、アストライアーはリンゴの残った皮を剥き、露わになった身に包丁を入れる。芯などの余計な部分が取り除かれ、二等分、ついで四等分とリンゴが切られ、最終的には八等分となった。これが今宵のデザートとなる。
「本当はもっと皮長く伸ばせる所だったんだが……」
「もっとながくできるの?」
 出来るとアストライアーは頷いた。
「近いうちにもう一回してほしいか?」
「うん!」
 分かったとアストライアーも返事を返した。そして笑顔で食事に戻るエレノアを前に、アストライアーも自身の食事に取り掛かった。
 食事の中で、日常、あるいは変哲のない今日も、このまま平穏に過ぎてくれとアストライアーは願った。


 その願いが聞き入れられたかは定かではないが、炒飯も食し、リンゴも食べ終え、その後の入浴、更には就寝寸前に至るまで、特にアストライアーとエレノアを妨げる出来事はなかった。管理者の機能不全に基づく戦乱で大量の死人が出ている今の時勢では極めて珍しい事と言っても良かった。
 アストライアーはエレノアと共に、その平穏に身をゆだねていたのだが、これが嵐の前の静けさでなければよいのだがと、気持ちはしばしば懸念へと動いてしまう。
 とは言えこの一日が平穏に過ぎている中では、その懸念はただの考え過ぎでしかなかった。
 事実、午後9時4分を回った今、エレノアがベッドに潜り込んで傍らのアストライアーを見詰めているという状況下において、如何なる敵性反応の存在も認められなかった。あるのはただ、夢の世界へと旅立つ準備を終えたエレノアと、ジャケットを脱いでその下のYシャツを露わにしていたアストライアーの姿だけである。
 エレノアが眠るまで、傍にてやろうと考えていた為である。
「ねえ、おかあさん」
 食べ物の事から家の事、日々世話になっている託児所とそこの友達のこと等、色々と話が弾んだ末に、エレノアが訊ねた。アストライアーは、何かを頼んでいるような目に見えた。
「いっしょにねてほしいの……」
「なッ……!?」
 今までに、エレノアがしばしばじゃれ付いてくる様子は度々有ったから慣れている。しかし、一緒に寝てくれという注文は初めて聞いたとアストライアーは我が耳を疑った。何せ、エレノアはアストライアーに見届けられながら眠りに落ちた事はあっても、自分から一緒に寝ようなどとは言わなかったからである。
 無表情で戸惑いかけたアストライアーだったが、直後に沸いたのは、自分は何をしているのだと言う嘲りの視線だった。子供相手にいちいち悩んでどうするのだ、母が自分にしたようにやればよいではないかと、内なる己が蔑んでいる。
 アストライアーは少々もったいぶったが、結局はエレノアの寝る隣にその身を横たえた。我が子の小さい身体と細い手が密着して来る。それに応じ、自然とアストライアーの手がエレノアの頭を優しく撫で始めた。
「おやすみ……」
 エレノアの目がゆっくり閉じられ、程なくして静かな寝息が上がる。
「さて、私はこれからどうするんだ……?」
 そう呟いたものの、当然ながら誰もその疑問には答えない。このままずっとこうしているのかと思いかけたが、しかしながら今日はもう特にする事がない。今日を振り返る事ぐらいが精々だ。
 確か今日は、心機一転を図るつもりで散髪し、新しいバイクや服を買い、普段は作らない炒飯を作ったりで、何かと多忙だった。まあ日頃の戦いに比べれば別に大した事ではなかったものの、それでも多忙な事を否定はしなかった。それには「普段やらない事をやったから」と言うのも一因としてあった。
 だが、今日計った心機一転も、全ては己の為。
 相手がイレギュラーとその仲間達であれ、管理者戦力であれ、これから戦うであろう相手は、己が打ち倒したBBなど比較にならぬほど強大な存在である。しかも、自身はそれと戦う明確な動機、つまり戦意の源泉を持たないのである。自身がその身に刻んできた復讐心による戦いは、もう意味を成さない。
 相手が変わった以上、何れ、全てとまでは行かないにしても、生き残る為には己の何かしらを変えなければならないだろう。今日は、その始まりに過ぎない。
 傍らで眠る幼子を抱き、アストライアーは次なる戦いにその目を向け、この戦いに必ず生き延びてやると誓う。復讐を終え、新たな人生を踏み出したレディ・ブレーダーとして、そしてエレノア=フェルスの母として。
12/04/28 12:36更新 / ラインガイスト
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■作者メッセージ
 前話に引き続き、戦闘どころかACが出ないお話です。
 と言うか、ホントは戦闘描写がある筈だったのですが、連日の疲労やらスランプやら何やらが祟ってしまい、半端な所でガス切れ、しかもその後のネタが浮かばず、結局ボツになってしまいました。
 当初のエピソードがボツになったに及び、予定を変更、戦闘描写なしのお話を急造しました。

 アス姐の心機一転と言うことで、まあ日常生活レベルでの小さなこと(バイク即金で買ってるぞ、と言う突っ込みはさておき)から変化させて行こうと言う事で、描写上の理由から普段はカットしている所を書いた、と言う感じですね。

 戦闘描写に力を入れすぎた結果でしょうか、日常描写を書くのが意外と難しい……。

 そしてやっぱりエレノアたんの描写で体がムズ痒く(以下検閲削除)

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まろやか投稿小説 Ver1.50