連載小説
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#21.蒼の者
 夜風に吹かれるアストライアーは、今何をしているのだと、己と己が心に問いかけていた。
 ここまで彼女は、自分の周囲を嗅ぎ回っていたリサーチャーを恫喝、BBの情報を聞きだし、警察関係者にエレノアの捜査状況を尋ね、自身でもアリーナやコーテックス支部に顔を出したBBを、気付かれない様に尾行したりと、自身でもあの手この手と言う様相で動いた。
 だが、遂にエレノアを見つけ出す事は適わず、彼女はスキュラとの接触により、BBがエレノアに何かしらの形で関わったのだろうと判断した。スキュラがあの様子であったから、エレノアもBBの手に落ちたのだろうと察したのである。エレノアに何かをする前に、探し出してケリをつけねばならない――そう決意しての、ACを用いぬ出動だった。
 本来なら、これにはACを使いたい所だった。
 だが4日前、サイラス以下整備士達がアストライアーに扱き使われるのは御免だとサボタージュを決め込んでしまい、謝罪して容れられたものの、ヴィエルジュの整備は1週間の期限付きで「勘弁しろ」と言う事になってしまった。
 一時的ながらもACを使えなくなったアストライアーは、エレノア捜索と、直美との遭遇で生じた疑問への詮索を一時中断し、BBの首を独自で狙う事に切り替えていたのだ。
 その前章となったのは、アストライアーに宛てられた「Nachtfalter」と署名のあるメールだった。メールには、BBが拠点としている場所とその周辺マップが添付されていた。「レヒト研究所での侘びだ。使ってやってくれ」と言う、ナハトファルターからの一応の謝罪と、「アリーナの変革を期待しているぜ」との激励も添えて。
 メールの信憑性を得るべく、射殺を覚悟しての数日に渡る尾行を行った末、BB一派がスラム街の外れにある、表向きは閉鎖された古い雑居ビルに姿を消した事から、其処が拠点である可能性は高かった。メールに記されたマップ通りだった。
 そこを隠れ蓑としている可能性も無くはなかったが、既にその位置情報は、脳内に記録されたマップに記してある。あとは、隠密行動のうちに然るべき行動を果たすのみだった。
 アストライアーは周囲の人間に自分の姿が解らない様、ビルの屋上を渡り歩いていた。サイボーグ――アストライアーは誰にも言わなかったが、彼女の身体は暗殺や特殊工作を主眼としたセッティングである――ならではの超人的身体能力が成せる技だ。市外にはネオンが溢れていたが、誰もアストライアーの姿には気が付かない。最も、ビルの屋上に人がいたとしても、普通は頭上を見上げる機会が少ない人間は気にも留めていないだろう。
 アストライアー自身も、普段からビルの屋上に注目してはいない。そこで、移動経路に用いる目立たない場所の候補に、こうしてビルの屋上を選んだ。
 以前、BBからの追っ手を警戒していた時は下水道を通っていたが、しかしアストライアーはそれを避けた。以前は白昼だった為、ビルの上を通っていたならば怪しまれる事から下水道を使ったに過ぎない。
 加えて、地下水道跡に産み付けられたおびただしい卵と、それから孵化した巨大な蛆を目の当たりにしている。あれに再び遭遇するのは、アストライアーとしても願い下げであったし、そもそもBBとその一派を警戒している上で、蛆にまで注意を払う余裕はない。
 以上の事から、アストライアーはフリーランニング選手でも滅多にやらぬ事を選択したのである。
 もっとも、普通の人間が、ビルからビルへと飛び移るアストライアーの姿に気がつく事はないだろう。何故なら、彼女の特徴ファッションである群青色のコートは外され、代わりに新たに仕立てられたボディスーツをまとい、その上に漆黒のコートを羽織っていたからだ。夜の闇の中では完全に保護色となっていて、偶然上を見上げていたとしても、人間の目では捉えるのはきわめて困難だ。
 その下には拳銃を収めたホルスターや、ベルクロで留められたパウチ、弾薬帯等が隠されている。あとは秘密裏のうちに暗殺を行うのみだ。
 オフィスビルの転落防止柵から百貨店の看板へと飛び移ろうとして、アストライアーは一旦足を止めた。そして、歩道を行く人間のひとりに目を凝らした。女性だとはすぐに分かったが、表通りを歩くにしてはあまりにも異質過ぎていた。
 彼女は何かに脅えているのだろうと分かった。顕微鏡のように視野を拡大すると、息を荒げ、落ち着きなく周囲を見渡している。格好はランジェリーだけで、所々に血が付着――と言うよりは殆ど血達磨の様相である。彼女は走りながら、周囲の道行く人々に助けを乞っていたが、道行く人々はその形相を前に肝を潰して立ち尽くすか、ギョッとして身を引くだけだった。
 アストライアーには、何者かに陵辱されたように思えた。しかし、そうだとしても血みどろにする理由が分からない。血を見るのを喜びとするサディストでもない以上、陵辱で血を流す必要性があるとは思えなかった。
 いずれにせよ、もし人間の仕業であるなら、そいつは絶対普通じゃない。
 出くわしたら八つ裂きにしてやるかともらし、本来の任務に戻ろうとした所で、アストライアーは女が通った跡に再び目を凝らした。地面に転々と、血が滴っていたのを見つけたのだ。
 血痕は、アストライアーの向かう先から転々と続いていた。何があるのだと、アストライアーは限界まで拡大させた視野で確認しつつ、ビルの上から辿って行った。
 だが、血痕を辿っていくうちに、オフィス街から路地裏へと場所は変わり、やがて普通の女性が出入するとは思えぬ所まで伸びていた。老朽化し閉鎖された雑居ビルや粗末なアパートが立ち並び、路上には紙くず等ゴミが散らばるだけで、人の通りも殆どない。アストライアーは一旦、視野の拡大率を通常レベルに戻すと、壁面の配水管を伝って、コンクリートで舗装された地面へと降り立った。
 血の滴った跡は路地裏へと続いていた。
 アストライアーは反射的に、コートに手を忍ばせると、ホルスターからサイレンサー付きの拳銃を引っ張り出して血痕を辿った。
 地面に残る血痕は、道を辿るごとに大きくなり、またその数も増えていた。血濡れの足跡もあったが、それは先程の女の足跡だろうと、アストライアーには分かった。
 角を曲がった所で、血痕は終点を迎えていた。そして、そこでは3人の男が凄まじい死に様を晒していた。手足も男根も引き千切られ、頭は叩き潰され、心臓が抉り出されていた。その血溜まり周辺には、引き千切られた女物のスーツがあった。先程の女が身に付けていたものだろうと、アストライアーは察した。そして、そこからは血まみれのブーツの跡が続いている。
 女の血の出所も此処だろうとアストライアーは察したが、この男が一体何をしてかような死に様を晒したのかが分からなかった。強姦ゆえとは察するも、詮索の時間はなかった。背後から叫び声がしたため、即座に全速力でその場を離脱せざるを得なかったのだ。
 程無く、警官と鑑識と目撃者と野次馬とで、この辺一体は騒がしくなるだろう。そうなると、アストライアーにとっては好ましいものではない。
 幸い、死体はアストライアーの脳内マップに記されている、BBの拠点と思しきエリアへの通過点上にあり、血濡れの足跡も彼女の目的地方向へと伸びていた為、本来のルートを辿ると共に、足跡の追跡も可能だった。勿論、人目につかないような所から配管を伝って、屋上へと移動して発見されるリスクを軽減しながらだったが。
 寂れた街を進むにつれ、アストライアーは異様な空気を覚えた。半分スラムとなった区画とは言え、やけに静か過ぎる事に気付いたのだ。
 現在時刻は5月25日の19時51分で、まだ万人が寝静まるには早い時間である。ホームレスか何かの話し声や、ストリートチルドレンがゴミを漁る物音ぐらい、聞こえてもいい筈だった。
 だが人間の姿は、アストライアーの周囲には全くない。彼女の周囲にあるのは、遠くのオフィス街の活気を窺わせる車のエンジン音など、僅かな生活音を響かせるだけの、空ろな静寂だけだった。
 この、何かに押さえつけられたような空気は何だと違和感を肌で感じながら、アストライアーは慎重にビルの上を渡って進んで行く。目標地点までは、そう遠くはないはずだ。
 脳内マップにあるとおり、BBの拠点らしき古ビルが視界に入るのにそれ程時間は要さなかった。だが、以前見た時の様子とは違い、窓は殆どが割られ、横にある倉庫の巨大な扉は閉ざされていたが、人間用の出入口の扉は蝶番から外れていた。
 物陰に隠れてビルを観察していたアストライアーは、中で人影が動いたのを見た。詳しい所までは分からなかったが、銀色の頭髪が揺らめいていたようで、まるで幽鬼か何かのように見えた。
 どこかで見た事があるようだなと思った矢先、その人物は次々にドアを蹴破って行った。程無く、銃声と、驚きと混乱の声が上がったが、すぐに恐怖の悲鳴と苦痛の呻きに変わった。
 何があったかは知らないが、今は立ち入るべきではないだろう。アストライアーは近くに放置されていた空のゴミ箱の中に身を潜め、沈静化を待った。
 金属や木材やガラスの砕ける音、紙が乱れ散らされる音、そして悲鳴が、ゴミ箱に隠れてから暫くの間、アストライアーの聴覚を刺激し続けた。


 しばらくして、外は異様なまでに重苦しい静寂が支配するのみとなった。仇の拠点で暴れ回ったであろう存在が地獄に戻ってくれた事を期待しつつ、アストライアーはゴミ箱の蓋を、時間をかけてゆっくりと持ち上げた。
 しかしアストライアーは、すぐにゴミ箱の中に頭を引っ込めた。ビルの中から人間が一人、駆け出して来たのだ。
 暗闇のうえ、ゴミ箱の蓋からは僅かしか見えなかったが、アストライアーは金髪碧眼の若い容姿から、その人物がロイヤルミストであると断定出来た。しかしその顔は血塗れで、恐怖が刻まれていた。先客に追い立てられて飛び出した様子が良く分かった。
 彼を恐怖させたような奴は一体何者なのだろうか。アストライアーに考えられたのは、やはり、先ほど突入した幽鬼の様な存在だった。
 そいつが味方であってくれれば良いと期待しながら、アストライアーは巣穴から出る小動物宜しく、周囲を何度も確認しながら、ゴミ箱からゆっくりと、なるべく音を立てないように抜け出すと、素早く倉庫の外壁に張り付き、外れかかった扉の隙間から中を窺う。
 内部はAC用のガレージとなっているのが分かった。その主役となっているのは、黒く塗装された、重々しく禍々しい重量級逆間接ACだった。左肩に刻印された、化け物と「BB」と言うアルファベットをあしらったエンブレムと、昆虫の様な扁平な頭部は、アストライアーにとっては忘れられない存在だった。
 その機影を見て、此処が紛れもなくBBの拠点となっているのだろうと分かったが、人影は全くなかった。何者かの襲撃に慌てて出て行ったのか、皆殺しにされたのかは分からなかった。ガレージの床には血と、血を引き摺った痕が残っているのだが……
 アストライアーは倉庫を離れ、ビルの入り口へと向かった。ビルは6階建てで、最上階の窓からは何やら煙が立ち上っている。
 エントランスになっていた1階部分はガランドウだった。弾痕は勿論、その他の争った様子も特にないようで、閉鎖された時のまま放置されている様子が分かった。
 カモフラージュの為だろうかと思いながら、アストライアーは重苦しい静寂の中に足を踏み入れる。時折、何やら人の声のようなものと、物音は聞こえて来るが、一体此処で何が起こっているのか、アストライアーには見当もつかなかった。
 だが良く見ると、1階部分は埃が積もっておらず、彼方此方に足跡が刻まれている。そして、その足跡は何れも階段へと向けられていた。確かに、誰かがいる。
 誰も来ない事を祈りながら、アストライアーは階段へと歩を進めた。もしも階段で襲われたら逃げる事は出来ないし、戦うにしては狭過ぎる――そう危惧しながら中二階まで来て、足を止めた。
 狭いスペースに死体が横たわっていた。
 道中で目の当たりした3人の男と同様、この死体も両手足がなくなっていた。先程の死体を残した猟奇殺人鬼が此処を襲撃したのだろうかと思いながら、アストライアーは死体をまたぎ、2階部分へと足を踏み入れる。二度と動くな、と言うか動く筈はあるまいと、自らの恐怖を抑えつつ。
 2階部分もまた静寂に満ちていた。拳銃を構えて警戒するが、何者かが襲ってくる気配すらもない。
 視界を肉眼モードから赤外線モード、更には動体探知モードに切り替えても、特に注意を払うべきものは見当たらない。
 目に付いたのは、転がされていた3つの亡骸だった。
 この3つの死体は弾痕が幾つも見られ、何者かに撃たれた事による出血多量や外傷性ショックで死んだものとは分かるが、両手足は動体と繋がったままだった。
 一体何が起きているのだと、訳の分からない事態に首をかしげながら、アストライアーは階段に戻り、更に上のフロアへと向かう。
 階段や室内には、争いの跡と思われる血痕が、随所に見受けられた。
 上へと進んでいくにつれ、此処がBBの拠点として機能していたであろう事が、アストライアーには良く分かった。室内には関係レイヴン達の名簿やアリーナでの勝敗などを記した書類が散乱していた他、アリーナの動画を再生していたラップトップPCが見られ、ゴミ袋や布団が敷かれたベッドなど、生活の様子をうかがわせる気配もある。それらが幾つか見受けられた所からするに、BB傘下のレイヴンの幾人かも、此処で寝泊りさせられていたのだろう。
 しかし、室内はことごとく荒らされた上、当のBB傘下のレイヴンは一人も見当たらない。
 厳密に言えば、その成れの果てと思える者は数名見受けられた。だがその何れもが、手足がなかったり、目を抉り出されていたりと無残な姿になっていたり、顔面が叩き潰されるなど損傷が酷く、誰が誰だかまでは分からない。
 アストライアーは鑑識ではないため断言は出来ないが、最初の死体も含め、被害者の傷口は酷く不均一で、筋等が引っ張られて露出している事から、刃で斬られたものではなく、力任せに引き千切られた傷だと分かった。
 だが、そうだとしても疑問は残る――こいつらを、一体、誰がやったのか? 少なくとも、アストライアーには、まともな人間の殺し方には見えなかった。普通の人間の力で人体を引き千切るなど、無理だろうと思っているからだ。強化人間ならば話はまた別だが。
「此処で何があった!?」
 半分死んだも同然となった男を捕まえて尋ねるが、恐怖と苦痛の呻き声や、血を吹く音を発するだけで、誰一人としてアストライアーの問いに答えられる者はいなかったのだ。そして、開いた口を見てアストライアーは顔をしかめた。
 彼等は何れも舌がなかった。舌は剥ぎ取られ、抉り取られた眼球共々床に打ち捨てられていた。
 訳が分からない事態への恐怖や苛立ち、そして嫌悪感に駆られ、アストライアーは階段へと戻った。既に5階まで辿り着く事が出来、残るは最上階のみである。BBはそこに居るに違いないと思いつつ、階段に踏み出す。
 だが、踊り場まで足を踏み出したアストライアーは、其処で歩を止めた。僅かに聞こえてきた話し声から、人の気配を察知したのだ。踊り場から見て、階段には見張り役の人間がいないと分かったが、ドアは吹っ飛んだように蝶番から外れており、室内の様子が分かる状態になっていた。
 6階は、どうやら専用の居住スペースになっているようだった。室内には数名の男女がいるが、いずれもアストライアーには気付いていないようだった。
 しかし、何よりも目に付いたのが、磔にされたスキンヘッドの巨漢と、その傍で銀髪を靡かせる、幽鬼のような蒼い人物だった。アストライアーは先程見た幽鬼の正体が彼だろうと即座に分かったが、それ以上に目を惹くのが、そのスキンヘッドの巨漢だった。
 忘れもしない、資料写真等で幾度も見たBBの姿である。
 だが、BBは暴君と呼ばれていたのが不思議な程の醜態を晒していた。裸にされた上半身や顔面は随所にアザが見て取れ、その顔には不遜とも言える態度が相変わらず浮んでいたが、それとともに、はっきりとした恐怖が浮んでいた。
「貴様……これがどう言う事か分かって――」
 全てを言い終える前に、幽鬼はBBの顔面に鉄拳を見舞った。
「黙れ」
 幽鬼が低い声を発した。男性とも女性とも付かぬ声の主の横顔は、即座にアストライアーの脳内で照合された。この場で最初に見た時から、まさかとは思っていたが……
「この俺をどうするつもりだ! アキラ!」
 BBのうめきから、やはりなとアストライアーは頷いた。声は勿論、銀髪、赤と蒼の瞳、士官用ロングコートを思わせる見慣れない服装と言う特徴から、一目見た地点でまさかとは思っていたのだ。それに今更驚く事はない。
 しかし、それ以上にアストライアーの思考を支配していたのは、何故アキラがBBの元に現れたかと言う事だった。
「解体前の豚に等しい分際でほざくな」
 アキラはBBが喚くのも、そしてアストライアーに横顔を見られているのにも構わず、紅い左目からレーザーを照射した。肌を焼かれ、暴君は苦痛のうめきを発したが、アキラは構わずレーザーを照射し続け、背中に文字を刻んだ。
 紅いレーザーが消えると、「I am PIG(俺は豚)」の文字が、背中の火傷となって現れた。
「背中にクールなタトゥーを刻んでやった。よく似合ってるぞ」
 周囲の人間達が嘲笑した。
 アキラはまるで、その辺のゴミを転がすかのようにBBを弄び、心身ともに痛め付けている。恐らく、レイヤードでも有数の力を有しているであろう暴君が相手にも関わらず、それを蔑ろにするあの立ち振る舞い。アキラの正体が何であれ、末恐ろしいものであった。
「BBよ……貴様の苦しむ顔を見るのは実に心地がいい。今まで何度それを見たいと思った事か……」
 アキラの目が細められ、細い口元がつり上がっている――哂っていると、アストライアーには分かった。
 本能的なおぞましさを感じ、アストライアーの背筋で鳥肌が立った。
 今、アストライアーには、アキラ=カイドウと言う名の悪魔が生贄を得て、嬉々としているように見えた。登場AC名がルキファー――恐らくは、地上時代の神話において語られる、神に反逆して悪魔達の長となった大天使ルシフェルに因んでいるであろう事も相まって。
 それもまた、アキラの末恐ろしさを印象付けていた。
 更に、アキラのミステリアスさを際立たせている要因として、その声があった。アストライアーの中では、アキラは外見的は男性であるのだが、その声は不定期で機械的なエコーが掛かったり、女性そのままの声に変化していたりしたのだ。
 アキラは女性だったのだろうか? 今更ながら、アストライアーはそんな事を考えた。
 だが、自分はBBを抹殺する為に此処に来たと言う事を忘れたわけではなかった。
 手にした拳銃を構え、磔にされているBBの頭を狙う。恐らく、今が仇を討つ好機だろう。それを逃しては――
「動くな!」 
 後頭部に硬いものが押し当てられ、背筋が冷えたのを感じた。
 そっと後ろを振り向くと、完全武装した男性が、アサルトライフルを構えていた。その銃口は、当然のようにアストライアーに向けられていた。
「立て!」
 言われるがままに立ち上がりながら、アストライアーは自分に銃を向けた男を一瞥する。見た所、彼の身長はアストライアーよりも10cmは低い。
 アストライアーの身長は168cmだが、レイヤードの成人男性の平均身長が173cmである事を考えると、随分と小柄な男性である。因みにレイヤードの女性平均身長が160cmであるので、この男はそれ並か更に小さい。
 そのいでたちは特殊部隊風だとすぐに分かったが、ミラージュやクレストの一般兵用の支給品が無節操に据え付けており、何処の所属かは分からない。だが、身体が小さい分、アサルトライフルがデータ上の数値よりかなり大きい得物に見えた。
「……貴様、特殊部隊にしては小柄だな?」
「黙れ! 銃を捨てろ!」
 小柄である事がコンプレックスだったのか、男の語調が荒くなった。その声は若々しく、はっきりと少年である事が分かった。自分よりも5、6歳は若いだろうとアストライアーは思った。
 だが、アストライアーはそれに対しては全く感情を抱かなかった。15歳未満の少年が、反企業のゲリラ組織等に身を投じて戦闘員となる事は既知だった事に加え、彼女自身も16歳でレイヴンデビューを果たしているのだから。
「貴様か……」
 BBへの拷問を出し抜けに中断し、アキラが他の連中を引き連れて向かって来た。
 アキラの顔は、左半分は端正なままだったが、右半分は醜い火傷の痕に覆われ、部分的に金属部品が露出している。戦いの果てに傷付いたものなのか、あるいは……。
 当のアキラは、火傷の理由を詮索するアストライアーなど眼中にないかのように、その場に居合わせた全員に告げた。
「警察が五月蝿く嗅ぎ回り始めたようだ」
 アキラが言うとおり、警察車両のサイレンが、遠い夜風に乗って微かに聞こえてきている。しかもそれは、徐々に明瞭になっている。警察車両が接近している様子が伺えた。
「早く行け。私はこの女に用がある」
「アキラさんも逃げましょう!」
 武装した少年の声に、アキラは首を振らなかった。
「この女に用がある」
「しかし……」
「心配はいらん。必ず帰る」
 アキラはアストライアー以外の全員に命じた。
「早く行け! 街の外れで落ち合おう」
 その場に居合わせた者達は言われるがまま、急いでビルから退去し始めた。階段を駆け下り、中には強化人間なのだろうか、踊り場から飛び降りたり、隣の雑居ビルのパイプに飛び移り、木を登るサル宜しくパイプを伝って逃げる男もいた。
 そうして周囲の面々は立ち去り、階段の踊り場に残ったのは、アキラともう一人、得体の知れない謎の女だった。
 いつも傍らに居る直美ではない。
 直美と比較すると、その女は頭一つぶんほど身長が低く、精々平均的なレイヤードの女性程度の身長だった。そして頭髪は、アストライアーに似ていなくもないボブヘアだったが、髪の色は紺色のアストライアーとは違い、サファイアを削り出したような鮮やかな蒼で、瞳の色も同じような色合いであった。
 誰もいない事を察すると、アキラはおもむろに口を開いた。
「BBを殺しに来た……そうだな?」
 アストライアーは警戒しながらも、無言で頷いた。
「……と言う事は、とりあえず敵ではないようだな」
「何故BBを……」
「邪魔だからだ」
 アキラが言うには、これまでBBは幾度もアキラの行く手を妨害するだけに留まらず、遂には企業戦力や他のレイヴンに、金や武力を背景にして干渉し、自分を潰そうとして来たそうである。BBが口を割らなかった為、結局それは分からなかったそうだが。
 だがアストライアーの判断材料としては、それでも十分なほどだった。彼女が思うに、アキラがイレギュラーとなった要因は、BBが繰り出してきた刺客や、彼に動かされた企業戦力を悉く蹴散らして来た為で、彼(または彼女)が此処に現れた理由も、その報復のため。
 恐らくはBBがそうだったように、二度と自分に刃を向ける気を起こさせない様に、彼自身は勿論、その傘下にいた連中をも手に掛けたのだと。
 だが、それでも疑問は尽きなかった。
「邪魔なら殺せば良いものを……」
「殺す?」
 意外だなと言う顔をして、アキラは続けた。
「まさか……私は“殺すほど慈悲深くなどない”」
「どう言う事だ?」
 今度はアストライアーが驚いた。
「そのまま死ぬより、手足やら目や舌やらを失ってもがき苦んだ方が、後のバカどもには薬になろう。それに、下衆が自らの所業で身を滅し、もがき苦しむ姿を見るのはいいものだ」
 確かに一理あるなとアストライアーは思った。
 エンターテイメント作品においても、悪徳商人は法の下に裁かれ、腐敗した軍属は部下に殺される。だからこの手の復讐劇の人気は不滅なのであり、そう考えればアキラの振る舞いも何となくではあるが分かる。
 だが、だからと言ってアストライアーには、BBを生かしておくと言う選択肢はなかった。理屈は二の次で、兎に角BBを二度とこの世に存在させたくはなかった。だから彼女はBBを赦さず、自らの手で殺したかったのだ。
「まあ、貴様が現れ、今また警察が騒ぎ出しているからやむを得ずあの様にしてやるに留めるが……」
 金属的な光を発する瞳がアストライアーに向く。
「……殺るのか?」
「当然だ」
「まだ殺すな」
「何故だ!?」
 アストライアーの語調が、意図せずして感情的になった。
「まだ全てを知ったわけではない。それに、私や仲間達が味わった苦痛の代償を支払わせ――」
 全てを言い終える前に、業を煮やしたアストライアーの鉄拳がアキラの顔面を捉えた。
「そこをどけ!」
 アキラを押し退け、アストライアーは拳銃を手に、BBに向けて突進しようとした。
 だが、アキラは素通りを許さなかった。
「あれは私の獲物だ!」
 アキラはアストライアーの左肩を右手で掴み、強引に引っ張った。直後、アストライアーの儀体は転落防止柵を突き破り、15メートルは先の雑居ビルの屋上まで吹き飛ばされた。
 怪物的な力によってコンクリートに叩き付けられ、血管が破裂するのを感じたアストライアーは、苦痛のうめきを発しながらも立ち上がり、眼前にアキラが飛び移ってきたのを見た。常人の成せる技ではないなと、アストライアーは脳内で呟いた。
「そうか、アキラも強化人間と言うわけか……」
 ならば手加減は一切不要と判断し、アストライアーも戦闘モードに移行。まだ手にしていた拳銃を即座に向けるが、拳銃は弾を吐き出す前に真っ二つにされた。
 アキラの左腕は、血で赤黒く変色したガントレットから隠し刃を展開していた――以前、川原で邂逅した時と同様に。
 そのブレードが頬に叩きつけられる寸前、アストライアーは雷光の如き速さで黒百合を抜き、刃を打ち払った。
 次いでブレードのなぎ払いが襲ったが、アストライアーは上体を捻り、際どい所で回避。
 アキラは更に右手のガントレットからもブレードを展開し、斬り上げたが、刃はアストライアーの鼻先を数ミリの差で掠める。
 アストライアーも反撃するが、剣戟は振り終えた右腕のブレードに防がれる。しかし両者とも、互いの力を誇示するかのように刃を押し続け、双方の刃が金属的な音を立てて震える。
 しばしの押し合いの後、アキラは左腕を突き出し、ブレードを刺そうとしたが、これまたアストライアーは上体を捻って刃を受け流した。
 即座に黒百合を突き刺そうとしたアストライアーだが、しかし黒百合が届く寸前、アキラの右足に脛を払われた。足をとられた彼女は転倒し、左側頭部をビルの屋上に打ち付けた。
 ショックで脳を痺れさせたアストライアーだが、このままでは危険と本能が察知し、右手側に転がった。本能的な咄嗟の行動が幸いし、アストライアーの儀体はブレードに貫かれずに済んだ。
 女剣士を仕留め損なったアキラは、コンクリートに突き刺さったブレードを力任せに引き抜き、敵が体勢を立て直すのを待たず、馬乗りになってアストライアーの動きを封じる。
 そのまま、二人はがっぷり四つに組み、素手でつかみ合って屋上を転がった。
 しばらくしてアキラが上になり、頭蓋をコンクリート諸共砕く勢いで右腕を振り下ろす。首を傾け、間一髪で避けたアストライアーは、手にしていた黒百合を、胸部の下から振り上げ、アキラの胴体を貫いた。
 アキラは自分の胴体が貫かれた事が分からなかったようで、右腕を振り抜くと同時に左腕を繰り出した。今度も、アストライアーは皮一枚で避ける事が出来た。左腕を元に戻す前にと、アストライアーは腕力をフルに搾り出してアキラを横に倒すと同時に飛び退き、再び立ち上がった。
 遅れてアキラも立ち上がった。アストライアーにとっては予想外の事に、心臓の辺りを貫かれたにも拘らず、アキラは一切の苦痛の表情も、更には血も見せていなかった。
 視界を赤外線モードに切り替える。相手の体温を察知したアストライアーは、冷えて青黒くなっていたアキラの身体の中で、高温を示す右の胸の辺りを突き刺していた。エネルギー源か、少なくとも強化人間の第2の脳と心臓を兼ねる「コア」がそこだろうと読んだのだ。
 そこを貫かれた以上、常人は勿論、普通の強化人間ですらも死んでいておかしくない筈だが……。
「こいつ……心臓(コア)を貫いたはずなのに生きている……」
 ならば、次はその脳天を吹き飛ばしてやるまでだ。アストライアーは隠していた折り畳み式のショットガンを手早く展開し、アキラに飛びかかった。
「普通ならな。だが……」
 至近距離より散弾が叩き込まれる。しかし、アキラは散弾を食らっても全く意に介さない。二度、三度と銃撃が繰り返され、アキラのコートは下の表皮諸共ズタズタに引き裂かれる。しかし、アキラの動きは止まらない。
 散弾が全く効かない事に驚いたアストライアーから、アキラはショットガンを打ち払い、反撃も許さず首を掴む。
「私は、異常(イレギュラー)だ」
 言い終えるや否や、アキラはアストライアーを放り投げた。
 力任せかつ無造作な攻撃だったが、75kgの体重とショットガンは紙屑のように宙を飛び、15メートルは離れた別の雑居ビルに落下。
 再び立ち上がろうとしたアストライアーだったが、顎を蹴り上げられてビルの転落防止柵に後頭部を強打、更に首を掴まれて、10メートル先の閉鎖済みのアパートの窓へと放り投げられた。粗末な外壁が窓ごと破壊され、アストライアーは室内まで吹き飛んだ。
 これほど吹き飛ばされながら、よく生きてられるものだと呟きながら立ち上がろうとしたアストライアーだったが、膝が崩れた。
 遠くでサイレンが鳴り響いている。恐らく、BBの拠点での騒ぎを聞きつけたか、あるいは自分とアキラの戦闘を何事かと思って来たか――出来れば前者であって欲しいと祈りながら、アストライアーは何とか立ち上がろうと努力した。その努力はすぐに報われる事となったが、その時、既に眼前にはアキラの姿があった。
 アストライアーはイレギュラーの手で高々と持ち上げられ、天井に頭を叩き付けられた。視界が揺れ、頭蓋の中に火花が散るような激痛を更なる激痛で上書するが如く、アキラはアストライアーを今度は床に叩き付け、右頬を蹴り上げた。
 朦朧とした意識の中で、アストライアーは、アキラが尋常ではない存在である事を、痛いほど認知させられていた。反撃の一つもしたいところだが、頭に受けたダメージが残っており、手が動かない。這いずり、その場から少しでも離れようとするのが精一杯だった。
 反撃の糸口を見出せないアストライアーの腹に、今度はアキラの体重を乗せたブーツの一撃が叩き込まれる。
「お前を殺すと直美のヤツに何を言われるか分からんからな、殺さないでおいてはやる」
 もはや戦闘不能のアストライアーにまだ意識があるだろうと認めると、アキラは彼女の首根っこを掴み、片手で無造作に放り上げると、彼女を掴んだままにも関わらず、ビルからビルへと飛び移り出した。
 アストライアーがアパートに着弾した際に生じた激しい音で、アキラはBBのアジトに向かっていた警察が自分達を察知したと判断、まだ話す事があるアストライアーを引き摺って場所を変えることとしたのである。その移動能力は強化人間である事を差し置いても現実離れしており、アストライアーへの扱いも容赦ない。彼女がビルの壁面や転落防止柵にぶつかろうが引っ掛かろうがお構い無しである。しかも、アストライアーという重石を抱えながらも、アキラの動きには重さを全く感じさせない。
「強化人間ならばこの程度では死なんだろう」
 どれぐらい移動しただろうか、スラム化した区画を抜けると、アキラはマンションの屋上で停止し、アストライアーの顎を掴んで持ち上げた。
 ハンガーで乾された洗濯物のようにぶら下げられていたアストライアーを屋上へと引きずりながら、アキラは何かを言っていた。ふらついたアストライアーの頭でも、言っている事は分かった。
「機会は何れ貴様に訪れる。それを待つ事だ」
 それを聞いて、アストライアーは消えかけた意識を取り戻した。
 だがアキラは、アストライアーを足元に下ろすと、彼女の両足を掴み、人間ではありえないスピードで高速回転し、遠心力任せに彼女を放り投げた。翼もないままに空を飛ぶ間に、アストライアーは気が遠くなった。
「全く、何回吹っ飛ばされれば良いんだ……」


 アストライアーを吹き飛ばしたアキラは、黒百合が刺さったまま周囲を見渡した。
 先程まで自分達がいたBBの拠点は、既に警察車両の赤いライトに取り囲まれていた。女剣士との戦いは気づかれていない様だなと、アキラは一先ず胸を撫で下ろした。
「アキラ……」
 自分を呼ぶ声に気が付いたのは、そんな時だった。
 声の出所を辿ると、アストライアーが開けた大穴を見上げる形で、一台の乗用車が止まっていた。その傍らには、アストライアーにとっては得体の知れない女の姿があった。それは先程、BBの拠点で彼女が見た女性だった。
「皆さんは無事街を出られました。私達も離脱しましょう」
「分かった」
 アキラはビルの屋上から飛び降りると、引き抜いた黒百合を手に、女の後を追って乗用車に乗り込んだ。エンジンが掛かり、乗用車は警察やシティガードに知られることなくスラム街を後にすると、他の自家用車が行き交う流れへと姿を消した。


 ジャイアントスウィングで放り投げられたアストライアーは、自分に降りかかる夥しい水滴とコンクリートによって、再び意識を取り戻した。
 アキラとの戦闘で随所が損傷しているだろうとは分かっていたが、それでも死ななかったのはどう言う風の吹き回しかと、自分の強靭さを一瞬嘲笑したが、背後からの女の悲鳴で、自分の置かれている状況が、ある意味で更に悪化している事を即座に察知した。
 だが、高温を示す反応が周囲に溢れていて、赤外線モードでは何がなんだかよく分からない。
 視野を通常に戻すと、自分の周囲は床も壁面もタイル張りだが、壁は自分が吹っ飛んだ際にぶち抜かれて大穴が開き、破片を周辺にばら撒いているのが分かった。これだけなら何も意に介する事はないが、背後には裸の若い女性が、胸と局部を手で隠し、恐怖と羞恥心ゆえの悲鳴を上げていた。
 入浴中にお邪魔してしまったらしいと判断するや、アストライアーは即座に身を引き、穴から外に飛び出した。
 飛び出した先には床も地面もなかった。
 いや、地面はあったが、それは10メートルぐらい下だった。しまったと思った時、アストライアーの身体は自家用車のボンネット上に墜落した後だった。
 車に据え付けられていた防犯ブザーがけたたましい音を発し、即座に近隣住民達がざわめき立った。
 アストライアーは逃げ出した。自動車破壊による賠償請求や、脚部を初めとしたボディの損害状況はどうでも良かった。今は一刻も早く、この場から立ち去らねばならないと、彼女は見ていた。
 しかし足のダメージが酷く、最高のパフォーマンスはおろか、本来の半分の性能も発揮出来ない状態である。その結果、アストライアーの速力は常人並みにまで低下してしまっていた。
 この時、悲鳴やサイレン、車のボンネットがひしゃげる轟音は近所中に響いていた。何事かと思って外に出て来た近所の人々には、強化人間としては尋常ならざる低速度で全力疾走するアストライアーの姿が見えていた。
 しかし、彼女はそこまで注意を払っていなかった。彼女の意識は、インドアのオタク並みの速力で猛ダッシュする自分と、遠くから聞こえるサイレンの音に傾けられていた。
 近隣住民が通報したのだろうか、或いは先程のスラムでの一幕を嗅ぎつけたのか、それとも別の理由が有るのか……いずれにせよ此方に来るなとアストライアーは祈った。
 祈りながら、アストライアーは住宅地の裏まで逃げると、誰も見ていない事を確認し、マンホールの蓋を力任せに引っ張り上げ、その中に逃げ込んだ。消耗しきった体と足で逃げ切るのは不可能と見たのだ。
 勿論、怪しまれない為に、マンホールの蓋を元に戻すのも忘れない。
 程なくして、警察車両のサイレンが一層大きくなって来た。隠れているのがバレたか、そうでないならさっさと消えろと願いつつ、アストライアーは内心冷や汗の出る思いでマンホールを見やった。
 やがて、マンホールの隙間から紅い光が僅かに見え、次いで一台の車両が通り過ると、サイレンもそれにつれて小さくなって言った。
 当面の危機は去ったなとアストライアーは思った。しかしまさかの事態がある為、彼女は此処に留まるつもりでいた。
 本来なら下水道を通ってガレージ近くまで逃げたい所だったが、今回は以前の逃避行に用いた視覚補助装置がないうえ、何が出て来るか分からない。最悪、以前目の当たりにした蛆か、或いは巨大な蜘蛛か、その手の生命体達が現れる可能性も否定出来ない。
 視野を赤外線モードに切り替えたが、何かが腐敗・発酵して化学変化でも起こしているのだろうか、気温が高く様子がよく分からない。そして下からは激烈な悪臭が生暖かい風に乗って湧き上がってきている。
 しかも、その中で親指大のナメクジみたいな生物が梯子近くを這い回っている。外気温との差が、そのままナメクジ型になっていたので識別できるのだ。暖かい中で赤外線を使っても気づけない可能性を考えると、気温が高い中は歩けない。
 だがよく見ると、ナメクジの何匹かはいつの間にかアストライアーの足に取り付き、戦闘服越しに噛り付いているではないか。
 アストライアーはとっさに足を振り回し、ナメクジどもを潰そうとした。だが、ナメクジどもは粘液と自身の歯でしつこくスーツにくっ付いている。そいつらの歯はボディスーツを破るには至らないが、人体に食らい付くナメクジの姿は不気味極まりない。
 アストライアーは背中と足を伸ばし、落下しないよう体を固定した上で、梯子を握る手をはずし、ナメクジ達を引っ剥がしにかかった。ブーツや太股に取り付いていたそいつらを引き剥がすとポンと音がした。どれだけの力で吸い付いていたんだと思いながら、そいつらを握りつぶして下に落とす。
 と、アストライアーは何かに噛まれたのを感じた。見ると、今度は右上腕にミミズみたいなヤツが噛り付いていた。周辺からも同様のミミズが這い出して来ている。サイズはアストライアーの上腕ぐらいで、太さも彼女の親指程度しかないが、小さな牙が無数に生えた口を開閉して迫る姿は、おぞましい以外の適切な形容詞がなかった。
 すぐさま未使用だったナイフを取り出し、ミミズの頭に突き刺す。体液を噴出させてミミズはのた打ち回ったが、すぐにアストライアーに打ち払われて落下していった。
 続いて迫る2匹も、まず最初の個体の頭を切り落とし、もう一方の個体は口を全開にし、いよいよアストライアーに噛み付く所でナイフを口内に突き刺され、頭を振りながら落ちて行った。そして、近くにいたナメクジにもナイフを次々に突き立てる。
 ようやく自分の周囲からナメクジとミミズを払いのけたアストライアーだが、すでにアキラから受けたダメージがかさんでいる上、周辺には肉食のミミズやナメクジがうろつく始末。その上、腐臭を放つ連中の体液が手足にかかり、時々ゴキブリが自分の近くを通過する。
 それでも声や音を発するわけにはいかない。先程の騒ぎのほとぼりが冷めるまでは、こうするしかない。
 攻撃的ではあるが愚かではないアストライアーは、暗闇の中を手探りで進むリスクを犯す事を避け、ナメクジやミミズ、その他のグロテスクな蟲どもと戦いながら、事態の沈静化をひたすら待ち続ける事とした。


 日付が変わってから43分後、アストライアーは再びマンホールの蓋を押し上げ、周囲の様子を窺った。
 流石に喧騒は失せ、遠くから聞こえてくるサイレンも全く聞き取れない。アストライアーはようやく、自分が警察機構の手に捕まらずに済んだと察した。
 マンホールに潜伏していた3時間はまさに生き地獄であった。グロテスクな生物との戦いも相まって、アストライアーに尋常じゃないほどの精神的消耗をもたらしていたが、安堵するまもなく、彼女はマンホールから這い上がり、力任せに蓋を閉じると、アスファルトの上を狂ったように転げ、取り付いている蟲やミミズ、ナメクジと言った連中を全て振り払った。振り払われなかった連中は、全て潰れて粥の様な有様となった。
 全く、気色悪いにも程がある。アストライアーは愚痴りつつも、偶然近くにあった散水用の蛇口を捻り、コートとスーツの粘液を洗い流した。
 既にアキラによって相当痛め付けられ、常人はおろか強化人間でも死ぬかも知れない中で、よく此処まで持ったものだと、彼女は己の身体の強靭ぶりに苦笑した。
 とりあえず、周囲に人の気配はないと察し、もう大丈夫だろうと確信した。そして、己の脳内マップに記された情報を元に、アストライアーは静まり返った市街地を横切り、帰途に就く事にした。
 だが、数分もしないうちにアストライアーの足が限界を迎えていた。視野の片隅に表示されるコンディション・チェッカーでは、両足に「損傷」を示すオレンジ色の表示がされ、自己修復を開始するかどうかの選択をしている。背中や左胸なども同様。だが、此処で大量のエネルギーを消費する自己修復を開始したら倒れかねない。
 アストライアーは損害を無視するよう、擬体のコンディショニング・システムに命じた。少なくとも、ガレージに帰り着くまでエネルギーを温存して置きたかった。
 しかし、脳内マップによれば、現在位置とガレージは6キロ近く離れており、今のコンディションでは歩いて帰ると軽く2時間半は掛かるだろう。損傷した身体ではきついし、道中にBBか何かからの刺客が現れないとも限らない。
「仕方ない、奴の御厄介になるか……」
 アストライアーは進路を変更、住宅地の北に広がる森林へと足取りを進めた。手足は激痛を発し、いつ千切れ飛ぶのかとネガティヴな考えが浮ぶが、暫くするとそれは浮ばなくなった。
 と言うか、意識すらも朦朧となってきた。
 思えば、BBのアジトへの殴りこみ、短いが激しいアキラとの戦い、意図的ではないがシャワー室やボンネット上への落下、更に警察車両のやり過ごしや未知の敵への警戒と、心身とも磨り減らすような出来事が連続していた。その程度で音を上げるわけにも行かないが、しかしアキラとの戦いで被ったダメージは大きい。特に脳細胞は何百万と言う単位で死んだろうなと、アストライアーは薄れ行く意識の中で苦笑した。
 そのままフラフラと歩き続け、郊外に出た所で、彼女の意識はぷつりと途絶えた。
 だが、彼女の身体は意識がないながらも歩みを止めず、倒れるまでの1時間近い間、擬体はトレーネシティの郊外を、ゾンビの如く不安定な均衡を取りながら進み続け、運転中のドライバー数名や夜遊びしていた若者数名にその姿が目撃される事となった。
 その結果「アストライアーの夢遊病疑惑」が、後日のスポーツ紙の芸能面に記載されるが、それはまた別の話である。


 再び意識が戻った時、アストライアーの視界には、空いていたベッドのシーツを交換している青い髪のメイドが映り、自身は入院用のガウンを着用されてベッドに寝かせられていたことを認知した。
 両足がまだ痛んでいたが、コンディション・チェッカーによれば、まだ両足は胴体と繋がったままだった。
 青い髪のメイドはまだ気が付かないようで、新しいシーツをベッドに広げ、布団の墨にたくし込んでいる。自分に似たヘアスタイルの彼女に、アストライアーは見慣れたメイドの姿を見出していた。
「セドナ……か?」
 期待を込めて呟く。
「あ、目覚められましたか?」
 気付いたメイドが振り返った。セドナに似ていたが童顔で、瞳の色も蒼ではなく緑がかった色合いであった為、明らかに別人だと分かった。
 ただのメイドであったならば、アストライアーは自分を助けた存在であっても警戒していただろう。だがメイドの左胸に装着された、エプロンドレスには似つかわしくないIDカードには、彼女の名前や所属と共に、雇い主のシンボルである野薔薇と矛槍が描かれており、彼女がアストライアーの意図した場所に辿り着いている事を無言で語っていた。
「済まないが、お前の主人と会わせてくれないか? 私は彼に頼みがあって来たんだが……」
「え……ええ?」
 童顔のメイドは戸惑った。
 目の前にいる人物がマナ=アストライアーである事を知っているのは勿論だが、その一流レイヴンが、自分に対し、しかもいきなり主人に合わせてくれと言い出したのだから、事情を飲み込めず、判断に窮したのだ。
 アストライアーも、部外者である自分が、いきなりメイドに頼み事をした事はまずかったかと自省した。
「いや、良い。それより、私のコートは?」
「そこに掛けてありますけど……」
 メイドが指差した先では、お馴染みである濃紺のコートがフックに掛けられていた。無造作にそれを取ると、ポケットをまさぐり、カードを取り出してメイドに提示した。
「もう一度だけ言うぞ。お前の主人と会わせて欲しい」
 メイドはアストライアーのカードを手に取り、目を落とした。
 カードには「通行許可証」の文字に加え、「A.O.Spencer」の直筆サインと、彼の家紋である野薔薇と矛槍が描かれていた。メイドのIDカードに書かれているものと同じシンボルである。
「は、はい! すぐにお呼びいたしますっ!」
「もう来てるよ、シンディー」
「はいーーーーっ!?」
 シンディーと呼ばれたメイドは腰を抜かさんばかりに驚いた。まあ、主人であるアーサー=オズウェル=スペンサーが、気配もなく後ろに立っていたと知ったら、彼女でなくても驚くだろうか。
 そのアーサーは、漆黒の燕尾服に蝶ネクタイをつけ、シルクハットを被った姿である。
「何だその格好は?」
「さっきまで資産家のジジババどもや、オツム空っぽのバカセレブが集うパーティに出席してたんですよ」
 僕としては研究とACの整備に専念したかったんですけどねと、アーサーは愚痴った。彼は蝶ネクタイやシルクハットを外してシンディーに手渡すと、それを片付けてくれと指示を出した。
「何でまた……」
「本来出る筈の兄――うちの財団の総帥が急な用事でね。僕はその代理」
「貴様も大変だな」
「そっちよりは大変じゃないと思うけどね。大体――」
 アーサーはアストライアーを覆う布団を捲り上げて続けた。
「両足と肋骨損傷、内出血7箇所とまあ随分と派手な怪我だったんですよ? 3日間寝かせて自己修復に専念させたら何とかなったレベルだったは言え、よくうちの敷地の雑木林まで歩いて来たもんですよ。警備員の数を通常の倍にしてたら見落としてたかも知れませんでした」
 その喋りからするに、どうやら診断などは終わっているらしい。だが最後の警備員の数については引っ掛かる部分があった。
「警備員を倍って、何があったんだ?」
 アーサーの顔が途端に曇った。
「あまり言いたくない話なんだが……実はあんたが担ぎ込まれて来る前日、あんたを出せと、暴力団の連中がうちの財団の本部に来たんだよ」
「私を!?」
 アストライアーの顔が強張った。
 アーサーが言うには、武装した暴力団の連中が、アーサーの研究所から10キロほど離れたスペンサー財団本部に殺到、アストライアーの身柄を引き渡せと要求し、彼女はいないと要求を拒否したスタッフや警備員と衝突。要求が通らないと見るやショットガンやライフル、拳銃等を発砲してきた。そして警備員達や要請を受けて現れた警官隊と銃撃戦になったと言う。
 恐らくBBの差し金で、アストライアーに思い当たりのある場所を次々に洗えと命じられたのだろうとは、当人は勿論アーサーの想像には難くなかった。
 だが、警備員と銃撃戦と言う事に対しては、アストライアーは別段疑問を感じていない。何しろアーサーの実家であるスペンサー財団は、孤児院や医療機関への人道支援で知られる一方、民営の武装警察を運営している事でも有名だったのだから。
「そいつらはどうなったんだ!?」
「……訳が分からん内に虐殺されたよ」
「何だって?」
「銃激戦している最中に、ACが乱入したんだ」
 そのACの写真もあると、アーサーはアストライアーに手渡した。おつかいの帰りに銃撃戦に巻き込まれながらも辛うじて生き延びたメイドが、携帯のカメラ機能を使って撮影したものだと補足説明して。
 写真に写るそのACは手ブレによって輪郭がぼやけていたが、アストライアーが大まかな特徴を確認するのに何ら支障はなかった。
「アルカディアっぽく見えるな。色は違うが」
 アストライアーは率直な感想を発した。
 そのACは、肩が出っ張ったデザインのミラージュ製軽量腕部MAL-GALEになっていた点、装備しているライフルがスナイパーライフルではなくミラージュ製ライフルMWG-RF/220である点、ターンブースターが装備されている点を除けば、アルカディアに酷似していた。
 ただし、カラーリングは群青色に紅蓮と、エースの性格からは想像出来ない派手なものだった。むしろ、アストライアーが見る限りでは、ルキファーのカラーリングと同じであった。
 アーサーによると、そのACは突如現れてチェインガンを乱射、暴力団員を全滅させると、即座に立ち去ったという。
 この一件で警備員からは4名の殉職者と7名の負傷者、武装警察隊からは6名の負傷者を出した。更に戦闘に巻き込まれたスタッフ5人とメイド2人が死傷。23人いた武装暴力団員は、現在も意識不明の2人を除いて全員の死亡が確認された。
 スペンサー財団総帥は、現在、その事後処理に追われていると言う。
「アキラが来たのだろうか?」
「僕もそう思う。対立が鮮明になっているBBの手先を狩りに来たとしても、不思議じゃない。レイヴンでも、BBに味方したとされる相当数がアキラに殺されてるそうだ」
 ただし、その点についてはアーサーも確証は持てないと言う。彼でも、特にあのイレギュラーについては、知らない事は多々ある様だ。
「そういう事情があったが、今のところ財団の隠れ家である此処は何ともない。あんたの身体も、もう僕が手を掛けるまでもなく大丈夫だ」
 異常がなかったら帰っても良いと言い、アーサーは退室した。だが、去り際に口走った一言が、アストライアーの中で長きに渡って残響した。
「危険があんたに迫っている。くれぐれも気をつけて」
13/04/29 11:33更新 / ラインガイスト
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■作者メッセージ
 今までもBBサイド、そしてアス姐サイドと平行しての描写はしたのですが、今回はさらにアキラサイド(+諦観者アス姐)が入り混じると言う、今まで工房の旧小説板で度々されていた、しかし本作ではあまりやらなかった事もちょっとやってみました。
 もっとも、話の中心はアス姐という方針を変更した訳ではないので、結果としてはアキラが暴れる中でもアス姐はあんな感じに、と言う話になりましたが。
 前々からアキラの出て来る話は異質すぎて何度も訂正したくなるものなんですが、これは正直何度リテイク出そうかと思ったか(苦笑)

 ちなみに、再投稿に伴い、アキラ対アス姐の直接戦闘シーンを少し変え、またマンホール内でのゲテモノ格闘シーン(ぇ)を追加しました。

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まろやか投稿小説 Ver1.50