連載小説
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#14.アイアンメイデン
 テラとの試合から3日が経過した。
 雨が続いている中、アストライアーはトレーネシティの公園の噴水前に、アタッシュケースを片手に佇んでいた。
 この公園は、どれ位前だっただろうか、彼女が以前クレストのMT部隊に包囲された場所だったなとアストライアーは思い出していた。あの時の戦闘の後か、公園の出入り口付近には何かを燃やした様な黒い燃え跡が生々しく残っていた。彼女が倒したMTがあそこで爆発したのだろう。
 だろうと言う抽象的表現だが、実際あの時は爆発するMTの様子などいちいち見ていられる状況ではなかった故、推測するより他無かったのだ。そんな暇があったら大抵のレイヴンは包囲網を強引に突破して逃げているか、一斉攻撃の前に崩れ落ちているのかのどちらかだ。
(遅いな……何をやっているんだ?)
 さて、この雨の中、アストライアーは先程から人を待っていた。腕時計は午後1時59分を指し示している。約束時間は2時である為、時間的猶予は1分程度しかない。
 それなのに、まだ人は来ない――否、この雨の中公園にいる人間自体稀だ。見渡す限り、そんな人間はマナ=アストライアーただ一人だけである。最も、当の彼女も人間と呼べるかどうか、極めて怪しい存在では有るが。
(仕方ない、もうしばらく待つか……)
 遅れるようならば文句でも言ってやろうかと思いながら、アストライアーは雨の中で、自分を目的とした人間が訪れる時を静かに待つ事にした。


 そうして、それから更に10分が過ぎた。
 あまり知る人間は少ないが、アストライアーは結構時間に厳しい。もしこれで、彼女を呼び出したのが同業者だったら、その者は文句を言うだけ言われ、その後はロクに取り合おうとはしなくなるだろう。
 やはり来ないのかと懸念するが、しかし今回の用件はそれを理由に蹴る訳には行かないことを、当事者であるアストライアーは痛いほど分かっている。
 もう少し待ってやるしかないかと思った直後、遠くから足音が接近してきた。とは言え、単に聞いただけでは水溜りや濡れたアスファルトの水が跳ねる音にしか聞こえず、それも遠くを行き交っているであろう車のタイヤが放つ、より大きな水音にかき消される。
 しかし、雨粒が落ちた時の音と比較して大きく、そして規則正しく聞こえて来るので、アストライアーには足音と分かった。
 足音の聞こえて来た方向に視線を向けるアストライアー。青い瞳の先には、レインコートに身を包んだ、青いショートヘアーに青い瞳の女性が歩いていた。
 それは以前、演習場に現れたメイド服姿の女性であった。
 あの時はストリートエネミーとミルキーウェイが場に居るだけで、アストライアーはあの場にはいなかった。普通なら警戒するのではと思われるが、しかし彼女は警戒の色を表に出さず、また、その必要性もないと認識していた。何故なら、このメイドと女剣士レイヴンは顔見知りであるからだ。
「マナ=アストライアー様ですね?」
 女性の問いに肯くアストライアー。
「遅かったじゃないか、セドナ」
 アストライアーはその女性――以前演習場で戦ったインテリ風ACパイロット・ドクトルアーサーを主とするメイドの名を口にした。最もメイドと言うのは外見だけで、実際はただのメイドには決してこなす事など出来ない、別の役目をになっているのだろう。第一、アーサー共々、グローバルコーテックスの演習場に現れる辺りからもそれが窺える。
「途中道路の深みにはまってしまい、立ち往生していたのです……申し訳ありませんでした」
「いや、別に良い。それより急いだ方が良いのでは? 貴女の主が待っている筈だ」
「そうですね……では車へ」
 やがてアストライアーは、セドナに連れられて公園を後にした。この公園に車両は原則として乗り入れ禁止、したがって彼女の車は公園の外に停車されていた。車は純白の塗装が施された、何処のメーカーでも見られる形状の一般車両で、装飾的な様相は一切が排されていた。
 レインコートを纏ったメイドと女剣士レイヴンを乗せると、車は雨の中へと走り出した。
 車に乗せられて20分位すると、車はトレーネシティ郊外の、とある大きな屋敷にやってきた。アストライアーはいつもの能面の様な表情を崩していないが、その表情には再び警戒の色が表れている。彼女にとって此処はもう馴染みとなった場所であるが、しかしその屋敷の主が、彼女に警戒の念を抱かせていたのだ。
 ただ屋敷といっても、貴族が住まう邸宅にしては多少小さく、同時に質素な外見をしている。彫刻やオブジェが殆ど無い事もあいまって、屋敷と言うよりは、中小企業の営業所の様な印象を漂わせている。
 その屋敷の門をくぐり、車は屋敷の正面で停車した。車のエンジンが停止すると、アストライアーはセドナと共に下車し、屋敷の内部へと歩を進めた。
 質素な外見とは裏腹に、建物の中は意外なまでに広々としていた。正面玄関はまるでロビーの様になっており、部屋の隅には監視カメラが設置され、天井には作動停止状態のスプリンクラーが見て取れる。
 セドナに先導される形で、アストライアーはブーツの音を立てながらロビーを左手側へと進んでいく。白い壁に緑色のタイル床で一面が張られた廊下は、どこかの病院を思わせた。
 やがてセドナは「契約者以外立入禁止」の張り紙が出されていた部屋の前で歩みを止めた。
「ご主人様、アストライアー様をお連れしました」
 セドナが携帯端末で報告すると、若い男性の声は通してくれと次げた。同時に扉のロックが外れる事を示す金属音と共に、部屋のドアは開かれた。
「お入り下さい」
 セドナからの指示に従い、アストライアーはドアを潜る。
 導かれるままに踏み入れたドアの向こうは、まるで医療機関の待合室の様な造りで、長椅子が設置されている。この長椅子はベンチのような物ではなく、ちゃんとくつろげる様に作られている。此処の主がその豊富な資金力で用意した物らしい。此処は医療機関の待合室にありがちな、消毒液の臭いはそれほど強くはなく、精々「無くは無い」と言う程度であった。
 その待合室の中にもう一つ、今度は少々厳重そうな扉がある。扉は普通のドア2つ分ほどの大きさで取っ手がなく、扉の右にはカードリーダーがある。セドナがそこにカードキーを差し込むと扉が開き、アストライアーを扉へと誘う。
「雨の中、わざわざご苦労様です」
 扉の向こうには、今回アストライアーを呼び出した人物の主――ドクトルアーサーことアーサー=オズウェル=スペンサーが控えていた。ただし、彼は以前見たパイロットスーツ姿ではなく、研究者風の白衣であった。
 その点が、彼がドクトルアーサー――“アーサー博士”と言うレイヴン名を用いている所以でもある。そして頭頂部から裾まで流された漆黒の短髪に、知性ありげな印象を演出する小洒落た銀縁の眼鏡が、やけに似合っていた。このあたりはレイヴンの柄ではなく、彼等には寧ろそぐわない、洗練された知性と品性が漂っている。
 毎度の事ではあるが、流石は貴族の出身者だとアストライアーはそう思った。
「調子はどうですかな?」
「別に、至って正常だ」
 部屋には手術台が設けられ、さらに周囲にはメスや注射器のほかに機械用の工具が並べられている。更にセドナが別の部屋から「無断で持ち出した輩は極刑に処す」と書かれたカプセルを運び出している。
 部屋にはさらに数名の、同じく白衣を着用したスタッフが機材の点検や工具の手入れをしている。
「それは何より、と言いたい所だが定期的メンテナンスは必要ですぞ。人間と同じ治癒能力があったとしても、機械化した身体だ」
 そう、アストライアーが此処に来たのは自らの体(機械化済み)の定期的なメンテナンスの為であった。
 と言っても、その内容は儀体各所の点検と、常人ならざる治癒能力の要であるナノマシンの補充程度であり、そのナノマシンはアーサーが生成したものであった。アストライアーにとっては詳細不明のシロモノだが、彼でなくては生成出来ないようなシステムで生成されている事は薄々感じていた。
 この場所においては、いくらアストライアーと言えど、生殺与奪の権利を彼に握られた獣も同然だった。だからアストライアーは、常々ここを警戒していたのである。
「……と、じゃあ僕らは隣に一時退避しますんで、準備が終わったら一言頼みますよ」
「承知しました」
「はい、野郎どもは全員退避だ。じゃ、後よろしく」
 アーサー以下男性スタッフ達は手術室から退避。部屋に残ったのはセドナとアストライアーの2名だけとなった。
「では、作られたままの姿になって下さい」
 言われるがままに、アストライアーは服を脱いで「作られたままの状態」へと変化。コートの下に隠れていたYシャツにジーンズ、護身用の装甲板を外していくと、擬似構築された彼女の身体が露わとなった。
 セドナはこの姿を「作られたままの姿」と表現している。本来ならこれは「生まれたままの姿」とでも表記していい状態だが、しかしアストライアーは体が既に機械されている為、表現としては不適当である。故に「作られたままの状態」が、表現としては妥当な所であろうとセドナは考えていたのである。
 更に言えば、アストライアーの身体には所々に整備用のパネルラインや、外部機器との接続用コネクターある程度で、男性が期待するようなものは一切無い。女性特有の「胸のふくらみ」でさえ、防御のための装甲板になっている有様なのである。
 さて、セドナはアストライアーを生命維持装置から延びるコードやパイプに接続し、アストライアーにマスクを着用させる。マスクは睡眠効果を及ぼすガスを詰めたガスボンベへと接続されている。
「では、暫くお休みしてもらう事になりますが宜しいでしょうか?」
「覚悟はしている。早くしてくれ」
 アストライアーの意思表示を確認したセドナは、ボンベのバルブを緩めた。刹那、マスク内に催眠ガスが注入され、徐々にアストライアーの意識を奪う。彼女の意識は朦朧となり、やがて消失した。これであとは、彼女のサイボーグボディのメンテナンスを開始するだけとなった。
「ご主人様、準備は整いました」
 暫くして、セドナに呼ばれたアーサー以下スタッフ達がぞろぞろと手術室に戻ってくる。スタッフは何れも男性で、解剖医やナノテク工学者、その他医療従事者数名で構成されていた。彼等はこうして、女性強化人間のメンテナンスを行う際には、開始前に被験者の意識が消えるまでの間、全ての処置をセドナに任せていた。被験者の女性に対しての、精神的な配慮である。
 女性スタッフが他にいれば良いのだが、とはアーサー談。
「ご主人様、既にナノマシンの準備は完了しております」
「手際が良くて助かるよ」
 他のスタッフ達も、既に工具や手術道具一式を手にしてスタンバイを完了している。室内には、先程までは薄かった消毒液の臭いが、急速なまでに濃密さを増していた。
「では……これより強化人間手術被験者ナンバー057“マナ=アストライアー”の整備を執り行う!」
 機械化女性レイヴンの手術は、スタッフ達が彼女の身体に付けられたプラグにコードを差し込む所から始まる。コードはスタッフ達の手元にある小型コンピュータから伸びている。
 早速、コンピュータが外部(この場合はアストライアーの身体)との接続を許可するかを聞いてきた。勿論許可した後、スタッフがパスワードを入れて来る。長いパスワードは全てアスタリスク(星印)で表示され、視覚的に読み取られない様にされている。
 入力完了から数秒後、小型コンピュータはアストライアーのボディと接続、それを確認するとスタッフが別のパスワードを入力。直後、アストライアーの両上腕部及び下腕部、胸郭、大腿部、脛部のパネルラインが開放され、人工臓器で構成される内部構造が露わとなる。
 胸郭を見てみると、人間で言うならば肋骨が胸を割り、丁度2つに分かれた様な状態に相当する状態となった中に、人工心肺や小型の生命維持装置などが見て取れ、エネルギーや体液を送るチューブがそこから体内の各器官に伸びている。
 その中でもひときわ目を引いたのが、肋骨と肋骨の繋ぎ目の下、みぞおちの上当りにある小さな球状の物体だった。その突起からは寄生生物よろしく繊維が伸び、脊髄やその他の神経系に接続している。これが強化人間達の人ならざる能力の源である「コア」と呼ばれる部位で、その役割は運動を司る脳内器官と同一のもの。そして動作なども完全にリンクしている。
 つまり、アーサーが手がけている強化人間達は運動神経を別の所でも補助的にコントロールする事で、運動能力を高めているわけだ。だがこのコアは傷付きやすい器官である為、下手をするとコアのダメージで脳の運動中枢もやられる危険性がある。その為、コアは強化プラスチックの様な、透明かつ強固な素材で覆われていた。
 両手足のどす赤い細胞壁の中には、金属製と合成繊維製のコードの様な物が整然と、隙間無く並べられている。これらが、人間で言うところの筋肉と同様、収縮することで身体を動かす機能になっている。
 勿論、こうした器官は全て人工物で構成されており、血液や頭脳、神経、表面を覆う皮膚組織など一部を除けば、アストライアーの身体は殆ど機械であった。
「よし、内視カメラを入れろ」
 開放された整備パネルから、内部の様子を探るべくカメラが入れられた。だが早々に、彼女の体には異常が確認された。
「銃弾……ですかね?」
 内視カメラのモニターには、恐らく他のレイヴンによる意趣返しの結果だろう、紅い繊維の壁に銃弾が食い込んでいた。
 別のモニターでも、アストライアーの内部が映し出され、スタッフが目を凝らしている。
「こっちにも金属片を確認」
「摘出してやってくれ」
 アーサーの指示に応じ、解剖医はいそいそとメスやピンセットと言った手術用道具を手に取る。
 一方、別のスタッフは「無断で持ち出した輩は極刑に処す」と書かれたカプセルを開いていた。カプセルの中にはまた別の小さな、ゴルフボールサイズのカプセルが幾つも収納されていた。その一つ一つに、コネクターや接続端子が見受けられる。取り出されたカプセルは、その全てがアーサーへと手渡された。
 同様のカプセルは、アストライアーの体内――肝臓の下辺りにも埋め込まれていた。数ある人工臓器の中にあって、肝臓は細胞の集合体からなっている。マナ=アストライアーに残された、数少ない生身の細胞組織の集合体だ。
「ナノマシン増殖触媒のカプセルを交換する」
 スタッフの一人がアストライアーに接続されたカプセルに、スタッフの一人が手を掛けた。コネクターが外され、体液に塗れたカプセルが引き上げられる。少し遅れて、もう一つのカプセルも引っ張り出され、取り外された。内臓器官を髣髴とさせるカプセルに接続されていたコードが露出し、糸を引く。
 入れ替わるように、アーサーが露出したコードにカプセルの端子を繋いで行く。カプセルから延びたコードも全て体内の装置に接続すると、先程のカプセルが入れられていた場所へと戻した。
 同じ事を、カプセルを取り出した回数分繰り返す。


「では……整備終了ですね。パネルを閉じて下さい」
 1時間後、アストライアーの身体はメンテナンスを終了し、開放されていたパネルラインは再び閉じられ、スタッフの手元にある小型コンピュータによりロックされ、開放不能の気密壁を形成した。
 アストライアーの身体は表面の彼方此方に傷が目立ち、また内部の数箇所に金属片が混入してはいたが、問題は特に無く、金属片の摘出と自己修復用ナノマシンの補充だけで終わった。
 まだ20歳のマナ=アストライアーだが、しかし逆を言えば、この若年齢でありながら、レイヤード第3アリーナで「レディ・ブレーダー」と恐れられるまでに至ったのは、機械化されたこの体のおかげとも言える。
 人道的にどうなのか、と言う声やら見解が確実に出てくるのだろうが、彼女はそんな事など殆ど考えようともしなかった。BBを殺す為の力が得られるなら、自分が人を棄てようとどうでも良い――その程度に考えていたのだから。
 最も強化人間手術は、ACに乗れねば社会不適応者でしかないレイヴンや、プライドの塊の様な一部のレイヴンどもにとっては、力を得られるという意味では賞賛に値するものだった。
 若く、力に飢えていたアストライアーもその例外ではなく、彼女は、強化人間化した自身の身体を、迷う事無く受け入れた。
 そして、アーサーもまたそれで構わないのだろう。自作ナノマシンのデータが取れれば。レイヴンはあくまでも被検体、彼等によって完成した技術は、別の場所で用いられるべきものなのだと、マッドサイエンティストは信じて疑わない。


 科学者レイヴンの意図など知らず、術式が一通り終わった後、意識を取り戻したアストライアーは再び待合室で椅子に座り、佇んでいた。
 待合室には、既に新たな客人が現れていた。
「この間の試合……全く随分と無理したんじゃないですか?」
「それは貴様に言う台詞だ」
 そして、その客人とは、3日前に行われた試合の相手であったテラであった。
「敵対関係でもないってのに、随分と物騒なお方ですね」
「文句ならBBとか言うゲス野郎と、此処で手術に精を出す狂科学者に言う事だ」
 アストライアー同様、テラも同じ様にして椅子に腰掛けていた。彼もまた、此処で強化人間手術を施され、アストライアーと同じ様に義体のメンテナンスの為訪れていたのである。
 因みにテラは、此処の強化人間ナンバーで言えば046に当たる。アストライアーが057であるから、強化人間となったのはテラが先だ。
「アストライアー様、ご主人様がお呼びです」
 セドナに呼ばれると、テラと別れた女戦鴉は、呼び出しに応じアーサーの下へと向かった。その右手には持参して来たアタッシュケースの取っ手が握られている。長らく此処に通っている彼女は分かっているのだ。この後にメンテナンス代を請求されると。
 一方アーサーは、部屋のブザーが鳴ると、開いているとだけ口にし、身体をデスクに向けたまま、上に散らかっている書類や論文の束と向かい合っていた。彼には相手が誰なのか分かっているのだ。
 分かっている相手とは、青い髪をした彼お抱えのメイドと、先程義体のメンテナンスを施した女剣豪レイヴンであった。入室し、科学者とほぼ同時にテーブルに向かうと、アストライアーはアタッシュケースを開いた。中には既に数を勘定してあるドル札の束が、一般庶民の経済観念では及びもつかないほどに並べられていた。
 ドル札はどれも相当使い込まれており、精巧な印刷技術に基づいた、複製防止の為の意匠が随所に盛り込まれ、旧世代の偉人の顔が印刷されている。印刷されている番号はどれ一つとして一致しない。つまりこの札束は本物であり、そうでなければならない。
 アタッシュケースを開くと、アストライアーは予め空けられていた椅子に腰を下ろす。既にアーサーは椅子に腰掛け、札束の数を指で素早く数えていた。
「掻き集めるのに苦労したぞ。最近は現生(げんなま)が不足しているようでな」
 アーサーも不敵な笑みを浮かべ、のらりくらりと返す。
「かと言って電子マネーも最近じゃ信用の置けない存在ですからねえ。管理者絡みのトラブルが彼方此方で起きてますが、金融機関も例外に非ず、ですよ」
 今日、電子経済はレイヤードのあらゆる場所において、市場や経済を支える基盤となっているものの、前時代から引き続いて紙幣での取引も行われている。最近は管理者絡みのトラブルにより、電子マネーの残高消失、キャッシュディスペンサーから引き出し不能と言った事態が相次いでおり、そうした事からも紙幣での取引に切り替わる人間が増え、紙幣が不足していたのである。
 アーサーはそうした事を見越してか、既に現金での取引にこだわりを持っていた。
「ま、現金を掻き集めるのに苦労ってのは同情に値するけど」
 アーサーは勘定し終えた札束をテーブルに積み上げると、次の札束を勘定し始める。
「電子マネーを介しての取引は記録(ログ)に残ってしまうからね……そうなると僕も貴方も少々面倒ですよ」
「分かっている」
 アストライアーが言うまでもなく、裏舞台の人間は記録に残るような取引は好まない。また、数値だけの存在である電子マネーとは違い、直に現金を目の当たりにした際、相手の欲望に及ぼす影響は今でも絶大だ。それで相手を釣る事も出来るのだから。その為今でも、現金での取引に拘る者は多い。
「最も、そのために私も異端でなければならんのだがな。第一、最近現生を持ち歩く奴は少ない――それも、これほどの大金をな」
 そう言うアストライアーだが、現金を持ち歩く人間が急激に増え、またそれ以前から電子マネーと現金を併用している人間も少なからず存在していた為、彼女は自分で言うほど異端な経済的立場ではない。常人離れした大金を持ち歩くと言う事では、アストライアーの異端ぶりに間違いはなかったのだが。
「暫く前よりはマシだとは思いますがね。あの時は何千cとか何万cと言う単位で借金を支払ってましたからな」
 アーサーが札束を勘定する中で、セドナは用意したカップに茶を注いだ。
「それは既に済んだ事だ」
 アストライアーの表情が強張る。元々彼女はアーサーに助命と強化人間手術を施した代償として天文学的借金をしていた過去が有り、それを思い出したのだ。一命を取り止め、力を得た彼女だったのだが、その代償は経済面にも大きく圧し掛かっていたのである。
「今更口走った所で、どうにかなる問題でもあるまい。実際、その件については、借金の全額返済と言う経済的決着を見ている筈だ」
 アストライアーはカップを持ち上げ、味見をするように茶を啜る。元一般庶民の彼女にとって、最高とは言えるのかどうかは分からなかったが、それでも質の良いアールグレイだとは分かった。
「貧乏暇なし、ってね」
「ご主人様」
 セドナの咎めるような視線に当てられ、アーサーは畏まった。
 しかしながら、この狂科学者は毎度の事ながら癪(しゃく)に障る奴だ。アストライアーは殴ってやろうかと思い立ったが、セドナに止められるだろうと察し、とりあえず暴力沙汰に及ぶ事は避けた。戦鴉といえど、このメイドは敵に回せば厄介な存在になる。それを彼女は知っていたのだ。
 一見、虫も殺さぬ面構えではあるセドナだが、レイヴンであるアーサーについて回る辺り、彼女は只者ではないと分かっている。そして、実際にも……
 その横で、アーサーが自分に対して何かの考えを向けているように見えた。料金不足か、あるいは――いずれにせよ、明確にさせる必要はあった。
「……何か不満か、或いは問題でもあるのか?」
「いえいえ」
 アーサーはのらりくらりと言うに止まった。
 その間にも彼は、アタッシュケースから取り出された札束を次々に勘定し終え、遂に最後の一束を勘定していた。少なくとも今、アーサーの関心事は、自分との間に積み上げられた札束にしかないようであると、女戦鴉は察した。
「貧乏暇なしってさっき言いましたけど、あんたもその御蔭でアリーナでも名を売り、コレぐらい荒稼ぎ出来るまでになったんだから、案外貶してばかりでもないんでしょう」
 アストライアーの、石膏を固めたような無表情は相変わらずだった。
「まいどあり。指定金額5000ドル、確かに受領しましたよ」
 最後の札束を積み上げると、アーサーもカップを手に取り、紅茶を啜った。
 決算を終えたアストライアーは、早々と空になったアタッシュケースを閉じ、カップに残る紅茶を一気に飲み下すと、早々と席を立った。
「もう帰りますか?」
「メンテナンスと決算を終えれば、特に用はない」
 だがその会話は、ドアが荒々しく連打され、次いで室内に痩せぎすの男がドアを蹴破って踏み込んで来た事で中断された。銀髪に紅い瞳、色素の欠乏した白い肌を振り乱している姿は、アルビノの野獣を彷彿とさせた。
 アストライアーはその姿に、以前目にしたイレギュラーの姿を重ねて見ていた。銀髪に紅い瞳と言う特徴が共通していたからだ。だが、その獣じみた男からは、如何なる覇気の類も感じ取れない。
 詰まる話、この男はただ野蛮なだけの存在と言う事である。
「何者だ!」
 アーサーの語調が急激に荒くなった。だが男は何も答えないばかりか、獣の如き奇声を発してアーサーに飛び掛って来た。アーサーに恨みを持っているのか、或いは何らかの理由で発狂したのか。だが吐き出される言葉は歯切れが酷く、何を喋っているのか分からなかった。獣の吠え声の様なものを声とすればの話だが、ここに獣の言葉を理解できるような人間は一人も居なかった。
 アストライアーは忍ばせている黒百合に手をかけた。今、この野獣の様な男を阻止しなければ、自分をメンテナンス出来る存在を失う事に――
 だがそれよりも先に、怒りを爆発させたセドナが、主に飛びかかろうとする男の前に飛び出すと、掛け声と共に強烈な右ストレートを繰り出した。床に落ちる前に、今度は左フックを顎に叩き込む。目にも留まらぬ速さで2発のパンチを食らわされた男は登場時と同様、荒々しく室内から強制退場させられた。
 アストライアーは黒百合の柄から手を離し、冷たい顔でセドナの行動を見詰めていた。やったのか?
 いや、まだ警戒態勢を緩めるには早いようだ。アストライアーは再び黒百合の柄に手を伸ばす。先程のケダモノじみた男が、今度は天井から鉄パイプを引っ剥がし、それを握って再び現れたのだ。そして有無を言わさず、自分を先程痛め付けたメイド――セドナに向かってきた。
「蛮行も場所を選べ!」
 これ以上暴れさせまいと、アストライアーも男を取り押さえようと急接近する。そして男はアストライアーもセドナもお構いなしに、自分の目の前にいる女2名に向け、鉄パイプの連続攻撃を繰り出した。常人であったならば成す術も無く喰らっていた所だが、アストライアーもセドナも、それを身を捻り、踊るように回避してしまう。だがセドナは、幾度も回避行動を繰り返した末、顔面に鉄パイプの直撃を食らい、床に倒された。
 常人ならば頭蓋骨を割られ、脳にまで衝撃を受けて即死していても不思議の無い衝撃だった。アストライアーも死んだか、と察した。これ以上犠牲者を増やすまいと、遂に黒百合を抜刀、鉄パイプを握る狂人を標的と定め、最大戦闘速度での急速接近を開始――しようとして、動きを止めた。
 死んだはずのセドナが、何事も無かったかのように立ち上がったのである。
 アストライアーは呆気にとられた。表情は石膏を固めたように無表情だったが、それでも呆気に取られていた事に変わりはなかった。左頬の表皮が出血と共に剥け、無機質な銀色の皮下組織が露わになっていた事を除けば、セドナの表情は全く変化していない。
 奇声を発しながら、男はもう一度セドナに向けて鉄パイプを振り下ろした。メイドはそれを片手で遮り、襲撃半ばで食い止めると、野獣も顔負けの力を発揮し、鉄パイプを男から奪い取ると、それを傍らに放った。
 繁殖期の獣の様に再度咆哮すると、男は素手でもセドナに襲いかかろうとした。だが彼女が動いたのが先だった。セドナが一瞬、手が何十本もあるように見えたかに思えたが、次の瞬間には、男はまたも室内から強制排除させられた。セドナが吹っ飛んだ男の後を追うと、アストライアーとアーサーもそれに続いた。
 男の顔面は、まるで落石にでも巻き込まれたかのように形が変わっていた。
「ちゃんと手術を受けてください」
 手に付いた埃や泥でも払うように、セドナは両手を叩く。
 騒ぎに気がついたか、テラが拳銃を片手に走り寄って来た。そして彼は、叩きのめされた男の姿で全てを理解した。
「また出たんですね……強化人間手術の失敗者」
 アーサーとセドナは厳粛な面持ちで頷くと、倒れた男を駆けつけた警備員とともに引き摺って行った。多分あの男は、その頭脳すらも後に弄られ、表向きには謎の失踪を遂げたと言う事で処理されるだろうなと、アストライアーは考えた。
 そんなアーサーとセドナだから、彼女は二人に刃を向けると言う選択肢を排除していた。自分も同じ目に遭うだろうと危惧しているのである。
 エレノアの世話、そしてBBへの復讐と、やるべき事が多い以上簡単には死ねない。故に、あの狂科学者に刃を向けてはならないと、アストライアーは弁えていた。


「よく死ななかったな」
 獣じみた男を片付け、アーサーとセドナが戻って来た時に発したアストライアーの一言がこれだった。
 自分が拾い上げた鉄パイプで強打されても、セドナは平然としていた事は、アストライアーを驚かせるには十分な材料だった。自分は脳にもナノマシンを投与されているとは言え、基本的には頭脳は生身のままであり、もし殴られていたらどうなっていたか知れなかった。しかし、それほどの攻撃を喰らっても平然としていた事、そして何より、左頬から露出している銀色の無機質な輝きは、アストライアーにある予感を抱かせるには十分だった。
 しかもセドナは、アストライアーが思って程なく、すぐにその真相を口にするのだった。
「実は、私も強化人間なのです。しかも、ご主人様が私に強化人間手術を施したのです」
 初耳だなと呟きながらも、アストライアーは己の勘が当たっていた事に大きく肯定した。だとしたら何故強化人間に、と言った質問が飛び出てくる前に、セドナの方からその疑問に答えてきた。
「ご主人様のナノマシンが完成し、強化人間手術を実際に行うに当たり、被験者として私が強化人間手術を施され、“ナンバー000(トリプル・ゼロ)”としてナンバリングされたのです」
「貴女が被験者にならずとも良かったのでは?」
「他に被験者が居なかったので、私が志願したのです」
 アーサーがやっているのはレイヴンの間でもあまり表沙汰にならない、言わば暗黒面の部分である。そうした実験や依頼には得てして非人道的な話が付き物なのだが、まさかその被験者が、当のアーサーお抱えのメイドだったとは。
 だがその横では、アーサーは苦い顔を浮かべていた。眉間に皺が寄っている所を察すると、相当の苦渋である事が窺える。
「でも僕は反対だった。幾ら自分の為とは言え、そんな真似を――しかも長らく突き従ってくれた者にする事など……」
 技術の安定していない強化人間手術を、しかも自分の傘下に居る者にしてまで自分のやる事に向かって進むのか、それともこの尊い犠牲を糧に、自分の研究を完成させるのか。アーサーは科学者と人間としての倫理の狭間で、長い間苦悩した様子が窺える。アストライアーとテラは、過去を語るアーサーの顔から、今もなおその過去と苦渋に苛まれている様子が窺えた。
 結局はセドナに強化人間手術を施し、それでも十分ではなかったからレイヴンを実験台にしたんだなと、アストライアーは発しようとした。だがその言葉は、喉に張り付いたまま出てこない。言うべきか否か、判断しかねていたのだ。そして何より、自分が同じ立場で、同じ事を言われたとき、それを秤に掛け、判断を下せるか――それを考えていたのだ。そしてもし、同じ事をエレノアから言われたら、恐らく自分は猛烈に反対するだろうに違いない。
 そうした事から、アーサーがセドナから、自分に強化人間手術を施せと促された時に反対した事は、同情するに値するとの判断を下していた。
「でも、結局は強化人間手術を施したと言うわけか」
「何故なら私はアーサー様に仕える立場、ご主人様にプラスとなるならば如何なる事でも致します」
「その話は止めろ!」
 アーサーは叫んだ。セドナは主人の為と言っているが、しかしそれが結果としてアーサーを苦悩させる事になっている事を、セドナは理解しているのだろうか?
「それだったら、こうは言いたくは無いのだが――」
 アストライアーは冷たい表情のまま続けた。
「セドナを解雇する、と言う選択肢もあった筈だが?」
「確かに、そう考えた事もある」
 アーサーは深呼吸し、アストライアーに視線を向けた上で続けた。
「でも、そうはしない」
 人間的な温かみを感じさせない、深海の様な蒼い瞳は「何故だ?」と問い返す。
「自分が生み出した強化人間をメンテナンスし、さっきの白い奴みたいな存在が発生しないように努める事が、僕が此処に存在する意味だと思う。強化人間術を施し、それで問題が起きたとすれば、それは僕の責任だ。だからセドナ姉さんを、常に僕の傍から離す訳にはいかないんだ」
 アストライアーを睨みつけるように視線を向け、アーサーは更に続ける。彼の顔に、毒舌を飛ばすレイヴンの面影は欠片も見当たらなかった。レイヴンと科学者、一体どちらが本当の彼の顔なのか、一瞬だが、アストライアーには分からなくなった。
 しかしながら、そこまで強固な信念に基づいた行動とあれば、アストライアーとてこれ以上食い下がる必要は無く、「分かった」とだけ返して沈黙した。最早、余計な詮索は不要だと判断したのである。
 その一方では、テラがセドナに何やら色々言っているのが聞き取れた。
「それにしても、主人の為に人体実験に身を捧げ、更に主人に危害を加えるものは排除、か……何とも一途ですね……」
 その動機が「主人の為」だと知ったテラは、こう呟いたという。だがセドナはその呟きにさえも、涼しい顔でこの一声を返すのみだった。
「メイドとはそう言う存在ですから」
 先の関心は何処へやら、アストライアーはセドナに呆れていた。主人も主人ならメイドもメイドだ。何時から此処はアニメや漫画の世界になったんだと、首を捻らざるを得なかったのだ。最早理解の範疇を超えていたが、ここにおいてはそうした疑問の類は、どうせ軽く流されるだけだろうと思い、アストライアーはそれを口にはしなかった。
「さあ、次はあんただ。手術室まで来るように。姉さん、その女剣士の送迎は頼みますよ」
「はい」
 僕も暇人ではないんだからとぼやいているアーサーに先導され、テラはアストライアーと短い言葉のやり取りを最後に、手術室へと向かう。
「では、アストライアー様」
 分かっていると頷き、アストライアーは一度部屋に戻り、空のアタッシュケースを手に下げると、セドナと共に研究所を出て、此処に来る時に用いた白い自家用車へと乗り込む。
 女剣士が退場すると同時に、主人を迎え入れた手術室のドアは重々しく閉じられた。
14/10/16 14:18更新 / ラインガイスト
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■作者メッセージ
 アス姐の儀体メンテナンス。詳細な描写をすると此処の規約的に不味いので、この程度に抑えました。
 この話のプロットを書いていたのは3年ぐらい前――まだ工房が「診療所」と分割運営されていた頃だったので、人体描写などはかなり影響受けました。
 ただ、人体の解剖と言う見地から正しい、とは断言出来ない……と言うか、多分間違ってたり、有り得ない事すら描写されていたはずです。第一、私は医療・医学関係者ではないので、その辺に関する知識はあまりないのです。
 最強の抗生物質バンコマイシンに耐性菌がある事とかは知ってますが(←無駄知識)。
 まあ何にしても、「サイボーグだからある程度は変な描写しても大丈夫なんじゃ?」的な考えをされたらそれまでの様な気もします(爆)
 これは雰囲気が出て言えば御の字、という状態ですね。

 セドナが人外ぶりを発揮する一方、主人のアーサーについては少し描写が薄くなったかと反省。
 まあ、アーサーがレイヴンをやっているのが「被験者集め」だけではない、と言う事は多少なりとも記述出来たかなと思いますが……。

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まろやか投稿小説 Ver1.50