連載小説
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#12.夜行人
 普通の人間は、夜のスラム街には近寄りたがらない。
 昼間でさえ陰湿な空気が漂い、犯罪の温床となっているこの場所は、夜になると輪をかけておぞましい場所に変貌するのが常。若い女性が一人歩きしていれば強姦の対象となりかねず、少年少女が出歩けば未成年略取や人身売買の危険が付きまとう。麻薬ディーラーが恥も何もなく、若者相手にドラッグを売り捌く光景など、此処では日常茶飯事である。
 しかし今、そのスラムの住人達――ホームレス達から売春婦、ギャングの構成員達までもが恐れる一人の女が、あるものを求めてバイクに跨り、太いマフラー音を響かせて乗り込んできた。普通なら女性では扱いかねるショットガンを背負い、懐には黒曜石の様な物質で形作られた極東式の刃を忍ばせ、蒼い瞳に人ならざるどす黒い思念を宿し、半分寂れた一軒屋まで進んで行く。
 彼女にとっては、此処は既に馴染みと言える場所であり、その光景に違和感はない――脳天を撃ち抜かれた2人の男が転がっている事を除けば。
 何をして殺される羽目になったのか。マフィア同士の抗争の果てか、或いは――女はそんな事を呟くも、当然ながら骸は何も応えず、女も女で、骸に徒な感傷を抱く事はない。脇目も振らずに亡骸を通り過ぎ、古びた一軒家まで辿り付くと、そこでバイクから降り、ブーツのソールで地面を叩きながら、寂れた一軒家へと向かっく。
 そしてドアノブに手を掛けようとした時、ドアが突如開け放たれ、女の体と顔面を打ちつけた。
「誰だ!?」
 家主と、客人らしき男性が女に駆け寄る。そして両者とも、女の正体にすぐに気付いた。
「……アストライアー嬢ですね?」
 女――マナ=アストライアーが声に反応して振り返ると、首筋当りまで伸びる白銀の髪と、ターコイズをはめ込んだ様な青緑色の瞳を持つ青年の顔があった。青年は驚いた様子もなく、興味深げにアストライアーを見下ろしていた。
「オイオイ、此処でアリーナの前哨戦は止めろよ。面倒起こされると後が厄介だ」
 此方の軽い声は、この寂れた一軒家の主である情報屋メタルスフィアのものだった。彼はジャケットにジーンズ姿で、手には今時珍しいランタンを持っている。ランタンの中で揺らめく炎の煌きで、メタルスフィアとテラの頭髪はオレンジ色に染め上げていた。
「私に関する情報を買った……そう言う事だな、テラ?」
「アストライアー嬢こそ、私の最新情報でも買いに来たのですね?」
 両者がアリーナで対決するのはこの明後日。アリーナでの対決を前にしたランカー――否、戦闘行為を競技とする選手が対峙すると、時としてその場所は一触即発の雰囲気となるのが常だ。メタルスフィアも、起爆寸前のプラスチック爆弾を前にしたような、張り詰めた緊張感を感じていた。
「……まあ、此処で無理に戦う事もないでしょう。明後日の対戦で、怪我と言うハンディキャップを負う必要も無いでしょう。全力で戦ってこそ、です」
「そうだな」
 メタルスフィアの予想に反してか、それ以上の言葉を、勿論刃も交える事無く両者はすれ違った。ここで殺す事も出来るだろうが、それをしないとは。だがテラは、あくまでもアリーナでの戦いに意義を感じ、それ故相手が全力で戦ってこそと言うのが持論である。故に、ACから降りた相手を狙う理由はなかった。
 それを知らぬアストライアーはメタルスフィアへと歩み寄り、彼女と入れ替わるようにして、テラは帰路に就いた。一軒家から離れた所に倒れていた何かをテラは引き起こした。それが自転車だと、アストライアーには認識出来た。此処まで乗って来た後、盗まれない様に隠してあったのだろう。
 自転車に跨る直前、テラはアストライアーに向いた。アストライアーの顔もまた、テラと向かい合った。
「ノクターンの二の舞にならない様に」
 挑発の後に、後に激突するライバルは自転車に跨るとそのまま去って行き、この場に居るのはアストライアーとメタルスフィアの二人だけとなった。特殊効果さながらの夜風が、その辺に散らばっている紙くずや空き缶を次々に吹き飛ばしていく。
「で、あんたはテラの情報を買いに来たんだろ?」
 アストライアーはメタルスフィアに向き直ると、無言で頷いた。
「入りな」
 メタルスフィアに導かれるままに、アストライアーは寂れた一軒家に突入した。昼間でも暗かった室内だが、夜になった所で視界の悪さは変わらず、むしろ昼間とは違い、メタルスフィアがランタンを持って案内しているので、逆に昼間よりも視界は良い。
「ここで少し待ってな」
 アストライアーはいつもの電子機器と暗闇が支配する作業場ではなく、その脇の防音の利いた部屋へと通された。
 そこには、既に先客がいた。オールバックの黒髪に四角い顎をした、30代後半と言った年齢の男性だった。もし彼に見覚えがなければ、アストライアーは彼を刺客だと思って警戒していた事だろう。しかし、彼女の警戒心は一時的に消失していた。
「トラファルガーか?」
 嘗ての依頼で、幾たびか共闘したレイヴンが居たからだ。最近はアストライアーが戦線離脱していた事もあり、顔を見る機会こそ無かったが。
「久しぶりだな。いや済まん、多忙で見舞いに行く機会が無くてな……」
 恐らく彼も此処暫く、実働部隊の出現と、それに伴う動乱で幾多の戦場を行き来する事を余儀なくされていたのだろう。だからと言っても、アストライアーとしては、見舞いに来なかったことを咎めるつもりはなかった。何しろ常々人間関係に難の在るレイヴンである、見舞いに来る方がむしろ珍しいと言えたのだから。
「さあ、あんたの番だぜ」
 室内に据え付けられたソファから立ち上がると、トラファルガーは後輩の女剣士レイヴンへと簡単な挨拶を向け、メタルスフィアの後をゆっくりとした足取りで追った。
 その同業者の表情に、若干の蔭りがあった事を、アストライアーの鋭い瞳は見逃さなかった。
 誰も居ない待合室で、トラファルガーが追っていたと言うレイヴンは結局誰だったのかと、アストライアーの脳内で疑問が浮かんだ。
 アリーナファンは、自分について多くを語らない事と、搭乗ACの左腕に同様の銃が携えられていた事から、今は亡きファンファーレを有力視していた。それほど知恵を要さずとも、多くを語らない事で、過去に何かあった事を隠していると解釈出来る為だ。
 だが、アストライアーの考えは別にあった。トラファルガーが仇の銃と称して欠かさず使用している拡散投擲銃KWG-HZL30は、キサラギから普遍的に販売されている品であり、それを装備しているからとして仇と決め付けるのは軽薄だろうと、彼女は考えていた。実際、装備品を変えてアリーナに参加し続けている者は少なくない。
 また、実は仇がファンファーレよりも前に死んでいる、或いはトラファルガーよりも幾分か下のランクに居て、当事者が気付かずに勝ち上がっていただけと言う事も考えられた。それが自分かと思いかけたが、アストライアーがレイヴンとなった時、既にトラファルガーは現在と寸分の差異もない戦闘スタイルと愛機の外見を形作っていた為、自分が精神を破綻させた挙句に彼を裏切った、と言う事はないだろうと結論付けた。
 加えて、アストライアーは左腕装備用の銃を一度たりとも手にした記憶はない。デビュー当時から、既にヴィエルジュの左腕にはブレードが携えられ、今日までそれは変わらなかったし、トラファルガーの自分への接し方は基本的に好意的だった――これもまた、自分がトラファルガーの仇ではない事を裏付けていた。父・アルタイルが仇だったと言う可能性も否定出来ないが、これも彼がブレーダーである事を理由にして、アストライアーは強引に否定した。
 或いは、再び姿を変えて、どこかで行動しているか――死んだと思われたレイヴンが名と姿を変えて、別人となって振舞っている事は珍しい事ではない。
 いずれにの場合にせよ、トラファルガーが此処に来た理由も大体察しが付く――仇の情報を求めてだろう。
「おい、次はあんただぜ」
 そう考えを巡らせたとき、待合室のドアが開かれ、黒い顔にぼさぼさの銀髪、神話や寓話の妖精の様な長い耳を持つ情報屋が顔を覘かせた。
「トラファルガーは?」
 必要な情報を提供したら帰っていったと、メタルスフィアは説明した。
「まあともあれ、早く来いよ」
 メタルスフィアは、自分の仕事場には一度に1人しかレイヴンを招き入れない。複数のレイヴンを入れたとして、それが自分の抱える情報を勝手に持ち出さないかと同時に、集団で自分を取り囲んで殺傷したり、強引に要求を飲ませようかとするのではと危惧しているのだ。
 そんなメタルスフィアに導かれるまま、アストライアーは情報屋が持つランタンの光を頼りに、暗闇と電子機器の支配する空間へと歩を進めた。


 トラファルガーが何をしていたのかは気になるが、彼にいつまでも構っている理由が特にないため、アストライアーは情報を買うと、早足でバイクへと向かった。
 デジタル表示式の腕時計が示す日付は、後6分で変わる。この時刻となると、スラムと言えど人影は疎らとなる。無法者を警戒しながらバイクで疾走するも、行く手を阻む者はいなかった。
 やがてスラム街を抜けると、住宅地に通じる道に出た。二車線道路ではあるが、行き交う車はない。この区画全体が人と共に眠っている様子が分かった。アストライアーは夜間の依頼に出向くタイプのレイヴンではなく、またメタルスフィアの家へと向かうのも日中であった。それだけに、見慣れた光景も、夜に見ると随分と違った印象を受ける。
 さて、その女戦鴉はバイクを飛ばして見慣れた道路を進んでいるが、その前方に赤く光る回転灯を据え付けたモノトーンの車両と赤い梯子車が隊列を組んで停止している光景を目の当たりにした。その前方は、赤々と揺らめく焔が広がっていた。
 どうやら、火災が発生し、消火と緊急車両の乗り入れの為に通行止めとなっている様だった。
(これでは通行出来んか……遠回りだな)
 バイクを迂回させて、住宅地を抜けるコースへと進路を変えた。
 そうして暫く突き進むと、建物は疎らとなり、芝生になった更地ばかりの区画が広がっていた。道は舗装されているが、行き交う車の姿は皆無だった。人の姿も見当たらず、火災も建造物の陰と闇に埋まるように見えなくなっていた。
 トレーネシティの外れにこんな場所があるのは意外だったなと感じながら、アストライアーはバイクを進め、渡れそうな橋を探す。
 この川は生活用水に用いられているのではなく、あくまでも自然を再現したものである。数年前までは護岸されていたが、最近相次いだ水害で護岸が機能しなかった為、より自然に近い環境を再現する試みから、護岸を爆破して通常の川原としていた。
 流れの緩やかな川には、頭上に広がる、地上のそれを模した星空や月の姿が投影され、水面の変化に合わせて不思議に姿を変える。川の透明度は高く、水深も比較的浅く、流れの緩やかな場所では僅かながら川底が見える。渡れる橋を探すついでに、女戦鴉は川を横目にし、気分転換とばかりにバイクの速度を落としながら進んだ。
 川に沿って進む中で、アストライアーは反射的にバイクを止めた。川の中に何かがいて、水中をゆっくりと泳いでいたのだ。遠くに見える摩天楼を彩る光と、人工的な月光があるとは言え、暗闇では物の視認は難しい中、アストライアーは怪物体に目を凝らす。しかし強化人間手術によって、尋常ならざるほどに視力が研ぎ澄まされていた彼女には問題なかった。
 水面を割り、また潜る動作に合わせて水面が複雑に波打っていた為に詳しい姿は不明だが、人工の月明りに照らされた世界では白く見えた。大きさは良く分からないが、人間大と言った所だろうか。
 川の対岸では、それを追っていると思しき人影が見えた。蒼い光の中では、長い銀髪以外はよく見えないが、アストライアーには、裾の長いコートか何かを羽織っているように見えた。その人物の外見からは性別は分からなかった。少なくても、一目で男女を区別出来るようなものは見当たらなかった。彼(または彼女)は、怪物体とアストライアーとを交互に見やるように見える。
 怪物体は現在、アストライアーの前方の水中を進んでおり、その動きは非常にゆっくりしている。正体が何かと警戒しつつも、アストライアーは再びバイクを動かして追跡を試みる。だが物体に目を引かれるあまり、バイクは10メートルほど進んだ後、ライダーの運転ミスで横転、バイクから投げ出された女戦鴉は川原を転げ落ちた挙句、川原に転がっていた石に頭を強打した。視界が回転し、最終的にアストライアーは川岸近くにまで転げ落ちた。
 地上の様子を察知してか、川の中から白い物体がゆっくりと姿を現した時、その前方数メートルの川岸には、アストライアーはうつ伏せの姿勢で動きを止めていた。
(くっ、あの物体に気を取られていたばかりに……)
 頭を何度も打ち付けられ、平衡感覚が一時的な機能停止状態に見舞われ、マトモに立ち上がる事が出来なかった。アストライアーは常人なら死に至る可能性があるほどの衝撃に見舞われていたが、サイボーグ化していた身体ゆえ、その程度でダウンするような柔な女ではない。とは言え、脳には相当のダメージが届いていたらしく、右も左も分からなくなった様に這い回るその姿は、陸に上がったサンショウウオのように緩慢だった。
「どうしたの?」
 女性の声が聞こえた。もしアストライアーが注意して聞いていれば、水が力任せに動く音は人間の足音の様に、規則的に聞こえている事が分かっただろう。だが今の彼女の視界は回転している上に平衡感覚まで失われ、そこまで注意を払うだけの状態ではない。
 暫く這い回った後、やっと視界が安定して来たアストライアーは肩膝をつき、何とか身を起こそうとする。頭を何度も打ち付けたダメージが残っており、上手く立ち上がれない。サイボーグとは言え、生身の脳が強い衝撃を受ければそれなりのダメージは来る。
 鞘に収めたままの黒百合を取り出し、支え棒代わりにして体を起こそうとする。頭の中では、まだ星が回転していた。
「ねぇ……大丈夫?」
 声は彼女の前を流れる川から聞こえて来た。アストライアーが顔を上げたとき、川岸に女性が立っていた。外見は純白で、人工の月明りの下ではやや青みがかっていた。ウェストまで届く長い髪は水で濡れて滴っていた。脛の中ほどから下はまだ河の中にあった。
 その様子から、アストライアーは先程の白い物体の正体が彼女だと認識した。改めて彼女の顔を見てみる。直後、アストライアーは両目を見開いた。その瞳は月明りの様に蒼く、濡れた頭髪は翡翠を糸状に削り出した様にも見えた。
 アストライアーの記憶にある限り、この容姿を持つ女は一人しかいない。それが分かったとき、彼女は本能的に立ち上がり、無意識ながらも戦闘体制に移行した。
「直美……なのか、貴様?」
 何故、此処に居る――それが率直な疑問だった。だが、アストライアーの驚きを他所に、目前の女――直美は微笑を返すだけ。
「だが貴様……その格好は何だ? そして、貴様は何をやっているんだ?」
 直美が何も身に着けていない事をアストライアーは察した。顔から脚の先端までが白く、視界がまだ若干不良状態だった為、アストライアーには生まれたままの姿でいる様に見えた。ただし、直美は実際は白のビキニ姿であった。
「何って、行水してただけだけど?」
「露骨に怪しいぞ、貴様……何を企んでいる!?」
 アストライアーは立ち上がると、背負っていたショットガンを目前の女レイヴンへと向けた。銃身内には12ゲージショットシェルが6発装填され、スライド部を前後させ、かつ引き金を引くだけの力が残っていれば、バックショット(鹿等の中型動物猟用。軍用でも一般的)が放たれる。至近距離で放てば、防弾着の上からでもその衝撃波だけで人体を破壊出来るだろう。
「ちょ、ちょっと……その物騒な物をまず下ろして!」
「貴様が事の詳細を言い終えれば下ろしてやる」
「だから……本当に行水してただけなの!」
「それで納得の行く説明になってると思って――」
 全てを言い終える前に、アストライアーの右手側から飛んで来た何かが、彼女の体を横殴りに吹き飛ばした。ショットガンは発砲される事なく手から離れ、川原に転がる。
 突然の事態に、アストライアーは顔を上げた。脇腹が何か硬い物に直撃されたのか、激しく痛む。口の中に土の味が広がっている。痛みを押さえながら立ち上がった彼女は、直美を庇う様にして、別の人影が自分と直美の間に立ちはだかっていた事に気が付いた。夜風に靡く銀髪と紅く光る左眼が、アストライアーに幽鬼じみた印象を与えたが、その姿はどこかで見覚えがあった。
 自分を突き飛ばしたのも奴か――そう判断し、アストライアーはショットガンに向けて飛び、回転しながら片腕で銃身を構える。だが幽鬼の脚が既に恐るべき瞬発力を発揮し、一瞬でアストライアーに追いつくと、散弾銃を蹴り上げ、暗闇の中に吹き飛ばした。しかしアストライアーは拳銃を抜き出し発砲、弾丸は男の左腕に当るが、金属音と共に弾丸は跳ね飛んだ。再度発砲を試みるも、直後には、拳銃はなぎ払われた左腕に叩き落された。
 ならばと今度は黒百合を抜刀、相手が再び向き直る間に、黒い刃を振り下ろした。
 斬りかかった瞬間、目が合った。不気味な蜃気楼のように揺らめく銀色の頭髪、紅く光る左目、群青色の右目。それらを双方の眼下に宿したその顔は細面の青年とも女性とも取れる、中性的な印象を形作っていた。
「ダメよ、アキ――」
 直美が全てを言い終える前に、黒曜石の刃が振り下ろされ、目前の幽鬼に突き刺さる――筈だった。
 繰り出される刃が突き刺さる寸前、それは甲高い金属音を発して弾き飛ばされ、川原に突き刺さった。直後、右フックがアストライアーの胸に打ち込まれ、彼女の体を2メートル吹き飛ばした。
 この一発も、骨格を金属フレームとし胸部を防御用の装甲板としていたアストライアーにはさしたるダメージにはならなかったが、打撃を受ける一瞬前に見えたその顔が、疑問を確信へと変化させた。
「貴様は……アキラか……」
 直美がいる場所には貴様も居ると言う事か。アストライアーは薄々抱いていた予測が当たった事に、胸中で頷いた。
 袖の短いロングコートを纏うアキラの左腕はガントレット(籠手)のようになっていたが、その籠手の手首部分が昆虫の大顎の様に左右に展開し、彼の前腕ほどの長さがある鋭利な刃を出現させていた。刃の根元に柄が見当たらない当りから、刃は籠手の中に予め仕込まれていたようである。
「お前……何の真似だ?」
 ヘテロクロミアの瞳が女剣士に向く。左右で異なる色の瞳だが、そこに宿る冷酷さと殺意は共通しているように感じられた。泥を含む唾を吐き捨てながら、女剣士は目前のイレギュラーを睨み返した。
「同じような事を直美に聞いていただけだ。そう言う貴様も何をしていた?」
「直美を行水させてやっていた。ただそれだけだ」
 この男は何を言い出すのだと言うのが、アストライアーの率直な感想だった。
「行水……だと?」
「他に何かしているように見えたか? 私は兎も角、直美は生身の人間だ。しかも格好が格好だ」
 アキラはアストライアーを一目見て続けた。彼の瞳に映るアストライアーには、以前対決した時ほどの気迫がなかった。
「お前は何をそこまで警戒しているんだ? BBの犬か? エースの刺客か?」
 私の危惧している対象を知っているのか――胸中を察された驚きと恐怖を感じる前に、既にアキラは次なる言葉を口にしていた。
「お前が何を考えているかは知らんが、たとえエースやBBと言えど手を貸す気はない。そもそもBBには標準語すらも使うに値しない」
 アキラにBBの息がかかっていないであろう事を、アストライアーは断片的ながらも理解したが、同時に、例え自分が最大限の礼儀や忠節を尽くしたとしても、自分と共にBBを倒す可能性は限りなく低いと意う事も察した。
「成る程な……しかし、何故行水?」
「個人的な好みよ」
 直美は河岸近くの浅い場所に座り込んだ。ウェストの部分まで水に浸かり、両手で水をすくっては自分の体に掛けている。
「こうしていると……戦乱で荒んだ心も浄化される――そんな気がするの。加えて、今日は暑かったからね……」
 レイヤードの暦が狂っていなければの話だが、今は3月21日の午前0時39分。地上では春が訪れているはずで、レイヤード内の気候もまた春(を再現している)筈だった。だがこの日は何故か最高気温が33度を超え、今もアストライアーの視界の脇に記された外気温表示は28度を指し示している。通常考えられない気候だった。
 その気温だから、確かに今の時期とは言え、直美がビキニ姿で行水しても不思議はないか。そう結論付けたアストライアーは、定番ファッションである濃紺のロングコートと言う、傍目には暑苦しい姿で出歩いていたが、本人にその自覚はなかった。常人が暑いと認識する温度でも、彼女にとっては如何ほどでもないのである。
 そんな女剣士レイヴンの、敵意交じりの冷徹な視線がまだ自分に向けられている事を、直美は察した。
「……まだ、わたしを疑ってるの?」
 表情を崩さないアストライアー。アキラの視線もまた、冷たい輝きを宿すままにアストライアーへと向けられていた。必要とあれば、ガントレットに収納されたブレードを再び展開し、レーザーブレードを携えたACさながらに斬りかかって来るだろう。
 だが、その警戒心は直美の更に突拍子もない一言で消え去った。
「何なら、この場で裸にしてみます?」
「いや、その必要はないだろう……」
 まさか其処まで言うとは。危険度のある台詞を笑顔でさらりと言う直美だが、その笑顔は戦乱とは無縁のような無邪気さが見え隠れしていた。
 こうして見ると、同じ人間なのにこれほど印象は変わるものなのかと、アストライアーは不思議がっていた。
 以前レイヤードの地下遺跡で遭遇した時は戦う女パイロット、病院に現れた時は母性的な印象すら漂わせる温和な女性だったが、今の直美はモデルの様な長身かつ適度な細さと豊満を兼ね備えた魅力的な体型を白い水着で覆っただけの、殆ど裸と変わらぬ妖艶な姿だった。
 女神の様な優しい微笑みは以前病院で目の当たりにしたそれと同じだが、再現された月光にライトアップされ、河の中に佇むその姿は、今の彼女を水底から現れた魔性の存在のように見せていた。色気に惑わされた男が精気を吸い取られた挙句、水中に引き摺り込まれる光景を、アストライアーは連想していた。
 それとは対照的に、直美の傍らに佇んでいるアキラは、以前地下遺跡で遭遇した際、通信モニター越しに見た姿と印象が全く変わらない。ただ、後ろ髪だけが長い銀髪やコートの裾を風に揺らめかせながら闇夜の中に佇んでいると、幽霊か、不気味な蜃気楼のようにも見える。アキラは自分が影のように付き従う女の傍まで近寄っていたが、河に入ろうとはしなかった。そして依然として無表情を保ったまま。一体、何を考えているのか不明だ。
 そんな事を考えながら見詰めても、直美は体型や優しい顔立ち、言葉など、あらゆる点においてレイヴンには似つかわしくない。そして、その容姿は大抵の男性なら簡単に魅了する事も出来るだろう。
 それを前にしながらも、アキラは鋼鉄を叩き上げたかの様に、表情の変化に乏しい。そしてその顔立ちからは、男性か女性かも分かりづらい部分がある。
 アキラも直美も、まるで別世界から現れた人間のようにも見えた。もしかしたら人間ではないのでは――そんな印象すらある。特に、何にも動じないアキラの、機械的ともいえる瞳からは、自分と同じ強化人間の印象を感じ取れた。
 そして、何を秘めているか分からぬ不気味さも感じられる。
「貴様等……何を考えているんだ?」
「さて、何でしょうね」
 直美は完全に水浴びに興じており、アキラは無表情のまま、周囲に視線を巡らせ、外敵を警戒している。無論、警戒心の矛先はアストライアーへと向けられていた。
 謎の多い両者に対する疑念や畏怖を感じながら、アストライアーは川原に突き刺さっていた黒百合を引き抜き、拳銃を拾い上げると、二人の前から離れ、横転したバイクの元へと向かった。
 その途上、何か硬い物がアストライアーの足に触れた。足元に、細長い黒々とした者が転がっている事はすぐに分かったが、何かは拾い上げるまで分からなかった。
 だが拾い上げた事で、物体の正体は分かった。アキラに蹴り飛ばされたショットガンがそれだった。とりあえず、今は使う事もないだろうとセーフティを掛けると、それを背負ってバイクの元へと歩んでいった。
 バイクは直美達から50メートルほど離れた土と雑草の上で、横転したままになっていたが、後輪は高速回転を繰り返していた。一端エンジンを切ると、アストライアーはバイクを引き起こすとエンジンを再始動、颯爽と跨って、しかし逃げるようにして夜の闇へと戻って行った。


「アストライアーさんって、カッコイイと思わない?」
 女剣士が去った直後、直美はアキラにそう呟いた。勿論、妖艶な姿のまま、身体ごとアキラに向いた上で。
 しかも、自分を殺そうとしていたにもかかわらず。
「……血生臭い女だがな。まあ、私も他人の事はいえんが」
 アキラはそう頷き返すのみだった。女性に萌える事も、如何なる相手を前にしても恐怖感を抱く事の無い、氷の様に冷たい瞳と頭脳が、アストライアーに如何なる考えを巡らせているかは、直美でも分からなかった。
 だが直美は、アキラが如何なる存在かを知っている。無論、彼または彼女にとって、自分に手を出さない限り、アストライアーはどうでも良い存在でしかない事を。
 考え方や印象の差異こそ有れど、アストライアーが去った後も、二人はその背中を見送るように目を向け続けていた。
14/10/16 13:28更新 / ラインガイスト
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■作者メッセージ
「番外:情勢整理」に続く、前BBSの仕様のために生まれた突発話の第2弾です。ただ、当時は番外編のネタが全く思いつかなかった為、次回展開されるテラとアス姐の試合前の様子を描く事としました。
 このころ既に、テラとアス姐の試合の様子は8割がた完成状態にあり、後は微細なところを調整して投稿しようという段になったので、その調整とほぼ同時期に進行でした。
 そのためか、この前日談も割とスムーズに執筆が進みました。

 ただ、プロットは最初の段階から大きく変わってしまい、最初は前半部のメタルスフィア邸のシーンだけだったのですが……
 気がつけばアキラが登場するようになり、そこで止せば良いのに白ビキニ姿になった直美さんまで登場する始末orz
 完璧にAC3世界ベース作品の範疇を逸脱しとりますよ……リアリティと原作の世界観を損なわないのが本作のウリなのに。

 まあでも、2人ともイレギュラーな存在なので、多少は得体の知れないところを出すのは必要でしょうね(苦笑)

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まろやか投稿小説 Ver1.50