#31.Bleu Neige 〜蒼い雪〜
全く、最近は一寸先が闇だ。
今更そんな事に気が付いてどうするんだと言う気を抱えている中、マナ=アストライアーは6月14日の午後1時22分現在、ベッドに横たわっているエレノアの傍らにいた。
彼女はモスグリーンのコートに身を包んでいた。北半球の地下に存在し、地上の環境を再現しているのが基本であるレイヤードなので、6月としては場違いな衣装ではあるのだが、管理者の異常が囁かれているこの時勢に置いて、その指摘は愚というものである。
管理者の何が狂ってしまったのかは定かではないが、6月だと言うのに第1層の一部セクションが厳寒となっていたのである。トレーネシティを例に挙げると、最高気温は摂氏7度、夜に至っては氷点下を記録したと言う異常事態である。更にトレーネシティでは報告されていなかったものの、別の都市では水道管が凍り付き、第1層の都市・セクション767では降雪まで観測された。
その為、急激な気温変化によって体調を崩した人間が多数発生してしまい、風邪を引いたエレノアもその一人となってしまったのである。昨日一昨日と連日30度越えの猛暑が続いていただけに薄着となっていた事が災いした。しかしそれも仕方のない事である。そもそも、夏場に気温が氷点下に下がるとは誰も想定などしていない。自然界では決して有り得ない事だからだ。
しかしAI管理機構によって管理されるレイヤードである。神と同義と扱われるとは言え、所詮は人が作り出した機械。故障とそれに伴う異常事態は考えられ得た事だった。レイヤードの人間の中にはまだそれを知らぬ者もいるが、少なくともアストライアーには周知の事実だった。
だが、エレノアの看病に追われるアストライアーに、そんな事を考える精神的余裕はとてもではないがなかった。
「ううぅ、さむいよぉ……」
エレノアが布団の中で小刻みに震えていた。寒いと言う事なので、まだ熱が上がるかも知れないとアストライアーは嫌な顔になった。寒気を覚えていると言う事は体温上昇のサインであると言う事を聞いた覚えがあったからだ。
しかしながら、アストライアーは医者ではないので分からない事が多かった。一応エレノアは小児科医には連れて行き、処方箋を貰い、先程与えた。にもかかわらず、エレノアが寒いと言うので、アストライアーはそれが風邪だけが原因ではないだろうと薄々察知した。
「全く、こんな時にエアコンが故障とは……」
アストライアーやエレノアの白い息が、室内の低温を、そしてエアコンの動作停止状態を物語っている。
「アストライアーさん、エアコンの件ですが……」
ドアをノックし、修理要請に基づいて現れた作業員2人のうち、先輩格の方が顔を覗かせた。エレノアにちょっと待っててくれとだけ言うと、アストライアーは作業員を伴ってエレノアの部屋からリビングへと移った。
「先程確かめたのですが、電源系統以外にもリモコンがおかしいようなのでこれから交換に掛かりますが……」
「直るのにどれぐらい掛かる?」
この寒さがいつまで続くかは兎も角、夏場の猛暑の中で冷房が使えないとなると困るので数日越しで使えないのは勘弁して欲しいのだがと、アストライアーは内心で思った。猛暑にしろ、今の寒さにせよ、エレノアに文句を垂れられるとなると面倒だからだ。
「そうですね……部品交換すれば住むので数時間で直ります。遅くとも夕方までには」
「分かった。では、早速修理を頼みたい」
「承知しました」
修理屋たちは早速エアコンを壁から取り外しに掛かった。
「ところで、私はこれから数時間ほど留守にしなければならないのだが……安心してくれ、修理が終わるまでは戻って来られる用件だ」
「では、何か連絡可能なものがあれば……」
「携帯端末を持って行くので、それに連絡を頼む」
先輩格の作業員は了解し、再びエアコンの修理に戻った。電話番号は問い合わせの際に伝えたので今更伝える必要は無かった。修理開始を見届けると、アストライアーは再びエレノアの元へと戻った。
「少し出かけてくるが……何か欲しい物はあるか?」
「んーとね……オレンジジュースのみたい」
分かったとアストライアーは頷いた。
「いいか、大人しく寝てるんだぞ?」
「うん……」
エレノアに念を押すと、アストライアーは外出用バッグを片手に駐輪場まで全力疾走、グラディウスに跨り、颯爽と飛び出した。
夏の暑さから一転して真冬同然の冷え込みとなった為、外出先で見かける人間の姿もまちまちだ。アストライアー同様のコート姿から、ウィンドブレーカーにジーンズといういでたち、今のシーズンだから冬物を仕舞ってしまったまま出せなかったのだろう、薄手のシャツやスラックスで寒そうにしている人も居る。そのためアストライアーは妙な違和感を覚えた。
しかしバイク運転中なので、道行く人間ばかりに気を取られているわけにはいかない。赤信号に引っ掛かって停止してしまったとは言え、余所見は交通事故に直結しかねないのだから。
「アストライアーさんですか?」
停止中に呼び止められ、アストライアーは不意に振り返った。そしてその先にビデオカメラを持った男とマイクを持ったスーツ姿の男を認め、しまったと内心で悔やんだ。彼等は見るからにどこかの取材記者やパパラッチの類だと分かる連中だったからだ。どういう風の吹き回しか、何かの取材帰りに偶然遭遇してしまったらしい。
「BBが亡くなった事についてコメントはありますか?」
アストライアーは何も答えない。前々から、彼女はマスコミを嫌っているからだ。事実、これまでに有名なアリーナランカーという理由だけで何度も雑誌やテレビなどから取材オファーやインタビューなど、各種メディアからの取材が来たが、彼女はそれを悉く断っている。
彼女がインタビューを許すのは、アリーナの勝利者インタビューの際に現れる女性インタビュアー数名のみだが、それは彼女達がマスコミ関係者ではなく、グローバルコーテックスのアリーナ運営局の一職員だからである。声やルックスが良いからアリーナのインタビュアーをしているだけであり、平素の彼女はグローバルコーテックスの職員に過ぎない。そしてそれは、アストライアーにも周知の事実であった――ただそれだけの理由なのである。
何より、自分の情報がマスメディアに流れれば、それは敵を増やす事に直結する。何しろ、BBへの復讐を面目として彼女が取った行動は、決して誉められたものではないからだ。
「アストライアーさん! BBが亡くなった事について何か!」
当然それを知る由もない記者達はしつこく質問攻めしてくる。
アストライアーは何も言わないまま、バイクを強引に路地裏へと向けるや、知った事かと言わんばかりに路肩を突っ走り、そのまま路地裏へと走り去った。記者達は急いで追いかけたが、徒歩でバイクに追い付ける筈もなく、あっさり見失った。
小うるさい連中でしかないマスコミを振り切ったアストライアーは再びバイクを飛ばし、ミラージュのトレーネシティ支社へと急いだ。今日はどうしても、此処に行きたいと願っていたのだ。ただし、それは依頼や報酬を受け取ったり、要人や恩師へと面会する為でもない。彼女の目的は、トレーネシティ支社前の駐車場に設営されたテントの中にあった。
直ちに駐輪場にバイクを停め、テントへと全力疾走する。
テントの中では、ジャケットやパンツ、ホルスター、ケブラーやスペクトラ等の特殊繊維を使用した抗弾ベスト、ケブラー製パッド内蔵のボディアーマーベスト、サスペンダー、各種ポーチ、ヘルメット、士官用のサービスコスチューム等が売買されており、ミリタリーファンを中心とした人間達が集まっている。
これはミラージュが「民間人に渡った所で差し支えない」程度の代物を払い下げる為、不定期に開催しているマーケットであった。そして、アストライアーはここで父の纏っていたコートと同様の物が手に入るだろうと判断、この機を逃してはならないとやって来たのだった。
女剣豪は迷い無く軍服類のコーナーへと向かう。フライトジャケットや防弾チョッキ、パイロット用対Gスーツ、中古のアーマー類、耐熱服、果てはガスマスクまでが陳列され、周辺では目当ての服を探す数名が居たものの、アストライアーに対する反応は様々であった。斬られる事を恐れて目を合わせない者、好機の目を向ける者、そして何故此処にいるのかと言う驚きなど。
だが、敵意を露わにするか、或いは協力を申し出る、もしくは目的遂行に関係のある場合を除けば、アストライアーは周囲の目線には無関心だった。
そんな中でアストライアーの目に止まったのが、嘗て自分が着用していた、父の形見である濃紺の士官用コートと寸分違わぬコートだった。このコートは男性用・女性用とも同一のデザインであり、サイズさえ合えば男女関係なく身に付けられる。
見つけるが早いが、アストライアーは早速手に取ると、サイズを確認した上で、試着所へと持ち込み、纏ってみる。
「よし……少し裾は長いが、まあ良いだろう」
鏡に写る自分の姿に、アストライアーは満足げに頷いた。コートは、身長168cmの彼女を無難に包み、その裾は踝を隠す事はなかった。生前の父が着用していたコートよりは裾が少々長く、ブーツの脛は殆ど隠れてしまうが、問題ないだろう。
因みにアルタイルの身長は、アストライアーより3センチほど高い程度である。だから彼の遺品であるコートを、娘は大した問題もなく見に付ける事が可能だったのである。
アストライアーはコート以外には関心を示さなかったが、この払い下げ市は中古品ながらも軍用品が手に入るということでミリタリーファンには受けが良く、これを目当てにやって来る人も多い。その殆どが男性であった為、女性であるアストライアーは、それだけでかなり目立つ存在だった。事実、コート姿のアストライアーはミラージュで将校をしていても全く不思議はないであろう威風と凛々しさを漂わせており、その姿に見惚れたミリタリーファンも居た模様。
しかし、周囲の視線など意に介さず、アストライアーは代金を払うや、律儀に外出用バッグへと収納し、元のコートを羽織ると、さっさとテントから出て行った。そしてグラディウスに跨り、爆音を轟かせながら去っていく。
この後、この市に来ていたミリタリーファンのうち数名が、新たにアストライアーのファンになり、アリーナに試合を見に行くまでになったらしい。だが、当然アストライアーにはどうでも良い事である。
初期目標を達成した今は、エレノアの為に動くべきだと思考回路を切り替えていた為である。そして、そのために向かうはトレーネシティの百貨店地下1階の食品売り場にあった。
「エレノアはオレンジジュース飲みたいといってたが……それだけではアレだな」
どうやらアストライアーの中に別の標的がインプリンティングされたようだ。
「折角だ、色々と買って行ってやろう」
そんな事を考えながら、百貨店へとバイクを飛ばす。
「おや、アストライアー嬢じゃありませんか」
嫌味がかった声がアストライアーの鼓膜を震わせる。彼女が反射的に振り返った先では、カーキ色のジャケットに黒のジーンズ姿のテラが、どう言う訳かネギや大根が突き出した買い物袋をぶら下げていた。
「エレノア嬢はどうしたのです?」
「風邪引いて寝込んでる」
「そうですか……」
テラはそれ以上訊ねようとはしなかった。気温が30度オーバーから摂氏1桁と言う急激な寒暖差によって体調を崩したと言う事が容易に想像出来たからだ。
「こちらもヴァッサーリンゼ殿がカゼで寝込んでしまいまして……」
「あいつもか……寒暖差激しいからな」
「いえ、彼はウィルス性の風邪でして」
そして、その原因もテラは知っていた。以前、トレーネシティ攻防戦にてスキュラを救出した際、彼女のセキやくしゃみによってウィルスに二次感染した結果である。当時、テラとヴァッサーリンゼは風邪を移される事を危惧していたが、結局はその通りになってしまったのだった。
「幸い落ち着き、今は粥ぐらいなら口に入れられる程度には回復したのですが」
「大変だな」
その時、携帯端末の着信音が響いた。アストライアーには、それが自分の携帯端末の着信音だとすぐに分かった。エアコンの修理屋から通達だろうかと思いながら、携帯端末を取り出し、メール受信トレイを開く。
「スキュラ……!?」
メールの送信主は、既に音信不通となって久しい旧友からだった。
「マナ、今晩そっちに行く。話がある」
たったこれだけの文章が記されていた。
「遂に来ましたか……」
何か知っているのかと、アストライアーの視線がテラに向く。
「私とヴァッサーリンゼ殿が彼女に会った時から、貴女に一言謝りたいと、常々口にしてましたのでね……ようやく動いた、と言った所でしょうか」
「私に……?」
アストライアーは沈黙した。そして、此処へ来て音信不通だった友との再会と、それによって生じる気まずさ等が複雑に絡み合いだした。
「まあそう言う事ですので、今晩、スキュラ嬢がそちらに行きます。そのおつもりで」
テラはそう言い残して去って行った。
アストライアーは暫し呆然としてその場に立ち尽くしていたが、そんな事をしても何の解決にもならない時が付き、再び歩を進める。だが、それでも思考は久方ぶりにコンタクトして来た旧友へと向いてしまう。エレノアの為に買い物に来たにもかかわらず。
だがそれも無理のない話で、一度亀裂が生じた人間関係を修復するのは難しく、大抵はすれ違いのまま離別してしまう事が多い。ましてや裏切りの横行するレイヴンとなると関係改善はほぼ不可能である事が多く、人間関係の拗れから殺し合うケースも珍しい事ではなかった。
時折、生き残った方が事後に昔を思い出したりし、旧友を殺した事に苛まれる例も考えられるが、そもそも人間性の悪い人種が集うレイヴンのこと、それとてどれ位あるか分からない。
だから、スキュラとはもうコンタクトは取れないだろうと、アストライアーでさえ半ば諦めかけていた位だった。その旧友との、突然持ち上がった再会が、彼女に動揺と狼狽をもたらした。表情には一切出ないまでも。
向こうは謝罪する気でいるが、アストライアーは何を言ったら良いのか分からなかった。と言うより、どうすれば良いのかさえも分からなかった。これまで20年生きて来た中で、元彼氏の別れを初めとし、一度こじれた人間関係を修復すると言う事が無かったのだ。もう直らないだろうと割り切って生きて来て、それきりだったのだから。
しかし、スキュラの身を案じていないと言えば嘘になる。これまでは依頼やBBへの復讐、管理者実働部隊との戦い、エレノアの事等、他に優先すべき事に思考を傾けていただけで。
そのスキュラと再開するに当り、自分はどんな顔で迎えればよいのか、アストライアーは迷った。
今まで通り静かに迎え、自分を裏切った事を全て水に流すべきなのか。あるいは過去の過ちを問うのか。だが、前者は自分を、後者はスキュラを不快な気分にさせるだけだと察し、アストライアーは決断し損ねていた。
「お客様、ちょっと失礼」
背後から声がしたので振り返ると、店員が潰れたダンボールを乗せた台車を押してアストライアーの後ろにいた。搭乗機さながらのサイドステップで道を開ける。
店員が過ぎ去る間に、アストライアーは自分が手にしていた買い物カゴに気がついた。オレンジジュースがその中に入れられている。ボトルではなく、子供が飲みやすいよう小さくパック詰めにされているものだ。そうだった、自分はエレノアの為に買い物に来ていたのであり、ボケーっと突っ立ったまま悩む為に来たのではない。
本来の目的を思い出したアストライアーは、スキュラの事が気掛かりではありながらも、再び売り場を進み始めた。
買い物を追え、外出用バッグを片手にアストライアーが無事に帰宅して来た頃には、エアコンそのものの修理は終わり、作業員2人がかりでの据付け作業を残すのみとなっていた。エアコンの事はとりあえず任せておき、アストライアーはエレノアの部屋へと向かう。
横になっていたエレノアだったが、ドアの開く音に敏感に反応して起きたか、或いは作業員が立てる音で寝付けなかったのか、すぐに養母の方へと顔を向けた。
「あ……おかえり……」
「ただいま。調子はどうだ?」
「う〜ん、ちょっとあつくて、まだあたまがくらくらする……」
暑いと言うことは、熱が上がる兆候であるとされる寒気は消えたらしい。頭がくらくらすると言うのは気掛かりだったが、風邪で寝ている上に目覚めたばかりなので、平衡感覚の若干の狂いから来るものだろうと見た。多分、寝ていれば直る事だろう。
「あ……オレンジジュースは……?」
「そう言うと思って、ちゃんと買って来てやった」
外出用バッグからは、たしかにエレノアの注文どおりのオレンジジュースが、レジ袋と共に引き出された。すぐにエレノアはその袋をまさぐり始める。
袋の中には、ジュース以外にも、飴玉や卵ボーロがシロップが入っていた。
「あれ? これって?」
「小さくて食べ易そうだったからな。あと飴玉は糖分、卵ボーロはカルシウム補給にでも口に入れててくれ。ただし、食べ過ぎて夕飯入らなくなった、何て事のないようにな」
「うん……わかった」
エレノアが大人しくしてくれる事を期待しながら、アストライアーはリビングに移動し、エアコンの据え付け作業がどうなってるか見に行った。
既に作業は完了していたので、アストライアーはいくらか質問し、修理代を払って作業員が帰って行くのを見送った。途中、つまらない私情で家を空けてしまった放任気味な自分はどうかと思ったが、作業員自体は親切に質問に答えてくれたり調べてくれたりしたので、アストライアーとしては本当に助かる事だった。
これでリビングに埃が散らばってなければ、何も言う事は無かったのだが、掃除すれば済む事なので、アストライアーは物置から掃除機を引っ張り出してコンセントを繋ぎ、最低出力でスイッチを入れた。とりあえず、スキュラが来ると言うのでそれまでに片付る必要はあろう。
それにしても、何故今になってスキュラは謝罪の為に家に来る事となったのだろうか、アストライアーは掃除機の電源を入れたまま頭を捻った。
確かに、自分を裏切った事を何とも思っていない訳ではないが、元凶であるBBは既に自身の手によって抹殺したし、過ぎた事である為、もうアストライアーの内において、大した問題とはなっていない。スキュラの方は罪悪感を感じており、それ故今回の行動に至った事は想像に難くないが、今それをぶり返して難になるというのか、アストライアーには分からなかった。
いや、そもそもスキュラにどう対応したら良いのかさえ分からない。一度袂を分かった相手が再び自分に戻って来るなど、これまで経験したことが無かったからだ。
「どうすれば良いのか……」
人生始まって以来の事態を前に、アストライアーは呻くように呟く。
「と言うより、何を言えば良いんだ?」
しかし彼女の疑問に答える者は誰もいない。壁やモノが回答を語るわけもないし、エレノアもこのケースに対する打開策や回答案を、何ひとつ持ち合わせていない。まだ幼女だからそれも当然であるし、卵ボーロとオレンジジュースを腹に入れ、すぐに眠ったから答える事など出来っこない。
悩めるアストライアーは、不意ながら窓の外に目が行った。外は薄闇となり、ナトリウムランプの街灯が点けられてアスファルトの路面を照らしている。そのオレンジ色の光に、白い粒が幾つもちらつき、地面に落ちていく。
「雪か……」
6月でありながら、トレーネシティ周辺が積雪に見舞われ出したのである。
「依頼や交通網に影響出ないと良いんだが……あとスキュラにも」
女剣豪レイヴンが呟く間にも、雪は降り積もって行く。
「……いかん、掃除機つけっ放しだった」
電源を入れたままの掃除機が虚しく空気吸引を続けている事に気が付き、アストライアーは薄暗くなった部屋の照明を点け、旧友が来る前に掃除を片付ける事に頭を切り替えた。
「全く、最近の私はどうなってるんだ?」
考え事をしていると、ついつい周囲の事が疎かになってしまう。それだけ真剣に考えられる事は、アストライアーの長所……と言えるのか、当人には分からなかった。
数時間して積雪が止まり、結局危惧していた交通網への影響が出なくなった所で、唐突にインターホンが鳴った。既に部屋を片付け、以前と殆ど変わらぬ様子となっていたリビングで腕を組み、ソファに鎮座していたアストライアーは腰を上げる。
遂に来たか――旧友との対峙を覚悟し、アストライアーは玄関へと掛けて行く。ドアを開けた先には、一帯どんな顔で旧友が待っているのか。
「ちわー、宅配便でーす」
壮絶に違っていた。一瞬拍子抜けしてよろけかかったアストライアーだが、中年の配達員への応対に当る。荷主を確認すると、行きつけのブティックの名があり、中は「衣類」となっている。先にオーダーメイドしたコートが届いたようだ。
「受け取りにサインお願いします」
アストライアーは反射的に玄関に置かれたペンケースを開き、蒼いペンを取り出して手早く署名した。彼女の母がそうしてきた事だが、アストライアー家には宅配便等の応対用として玄関先にペンケースが置かれている。待たせては悪いと言う母の教えを、アストライアーはレイヴンとなった今も忠実に守っていたのだった。
待ち合わせなどにおける時間厳守の姿勢も、そうした教えが産んだものだ。
かくして配達員は殆ど時間を要す事無くアストライアーに荷物を渡し終えると、伝票を片手に去っていったのだった。
その配達員を見送る中で、アストライアーは気が付いた。階段の影から、自分を見つめている人影に。
「……そこで何をしている?」
明らかに普通ではなかった。しかし、照明に照らされていたその姿を見間違えるアストライアーではなかった。黒のウィンドブレーカーに身を包み、所々が逆立ったようなボサボサのボブヘアをし、眼鏡をかけたその姿を、何も知らなければ刺客かストーカーだと見なしていた事だろう。
だがアストライアーは確信していた。長らく見ていなかったが、その姿は紛れも無くスキュラであると。
「外は冷えるぞ」
スキュラを咎めるでもなく、ごく日常的な言葉が発せられる。その口調はスキュラが知る、いつものアストライアーだった。
「ウチ入って暖を取ったらどうだ?」
そのまま、睨み合いにも似た、長い沈黙が続いた。スキュラは気まずさから、頭を振る事も踵を返す事も出来なくなったが、アストライアーはそれでも彼女の次なる動きを待った。
相手の出方を待つと言う意味では、一部アリーナを初めとしたレイヴン同士の戦闘に通じる所もある。否、アストライアーにとってこの行為はれっきとした「戦い」だった。ただACを使わず、火器の代わりに言葉を用い、舞台がアリーナなどではなく自分の家であり、相手が自分とスキュラの過去であるぐらいの差異でしかない。
長い事動きが無かったが、やがてスキュラが折れたのか、ゆっくりとした足取りでアストライアーへと近寄って来る。それで良いんだとアストライアーは小さく頷き、一度家に戻った。
もう覚悟を決めるしかないとスキュラが上がり込むと、アストライアーはキッチンに向かい、鍋の中をかき回していた。鍋の中は卵粥で、アストライアーはそれを味見しては、注意深く調味料を追加していた。
「それは……」
「エレノア用だ。風邪を引いてしまってな……とりあえず、そこにでも座っててくれ」
言われるがまま、スキュラは椅子に腰を下ろした。アストライアーはそこで、スキュラがリュックを背負っている事に気が付いたが、その中身については訊ねなかった。
「済まないな、紅茶のストックを切らしてしまっていてな……」
出せる物が何もないのが悔やまれると、アストライアーは呟いた。
「マナ……すまない……」
「どうした?」
「私は……愚かだった……BBの策に、まんまとはめられてしまった……」
粥をかき回していたアストライアーの手が止まった。
「勿論、私も断った……抵抗したのだが……エレノアを人質に取られていて……断ったらエレノアを殺すと言われて、仕方なく……」
スキュラが懺悔する中でも、アストライアーはまるで聞いていないかのようにサイドボードを開け、オイスターソースとソイソースのボトルを手に取り、果たしてどちらを使ったら良いものかと品定めをしていた。
「マナと戦った後、BBに生きているのがバレたら何をされるか分からないと見て、今日まで身を隠していたんだ……」
アストライアーは何も言う事は無く、ただ、友が謝るに任せ、自身はソイソースを卵粥に注ぎながら、調味を続けていた。一口さじですくって味見し、少し味が薄いかと思いつつソイソースを注意深く足していく。
「本当にすまない……」
アストライアーの手が止まった。そして、そこでようやくスキュラに振り向いた。
「過ぎた事だ、気にするな……誰にだって、止むを得ない事はある」
まるで貴女自身がそう体験してきたような言い草だなとスキュラは思ったが、口を噤んだ。実際、アストライアーは他に選択権のない中での戦いを余儀なくされて来た立場にある。ましてや暴君であるBB一派と戦ってきた身で、しかも強化人間と言う立場上、ACに乗れなければ社会的には抹殺されていても何ら不思議の無い立場である。形振り構っていられるような人間とは思えなかった。
だが、スキュラが見たアストライアーは、当の形振り構わぬ筈の立場でありながら、「父と同じスタイルで戦い、BBを殺す事にこそ意味がある」として、女だてらに剣を振り回し、積もうと思えば積めるキャノン系武器に対して全く関心を払わないと言うストイックな、そしてある種の誇しさが漂う戦闘スタイルを続けて来たのだ。しかも、自分と違って他者に靡く事がなかった。
一応ミラージュに与して戦っているとは言え、それはあくまでも自分を鍛えた旧師がミラージュの軍人となっていたからと言う、義理に基づいての事なのである。
「もし、貴女が責任を感じているならば……」
アストライアーはスキュラに面を上げるよう促した。
「自分なりに、それにケジメを付ければ良い」
アストライアーの口調はいつになく優しい。それと言うのも、これからの行動次第でチャラに出来るならそれで良いと、彼女自身が割り切ったのである。結局、エレノアに限らず、人間関係は素直に渡り合えばそれで良いのだろうと、悩んだ末に結論付けたのである。それが新たな問題の火種になる可能性も考えられ得たのだが、それはまた別問題だ。
「あれ? ……スキュラのおばちゃんきてたの?」
フラフラとした足取りで、エレノアがドアから出て来た。
「ダメだ、まだ大人しくて寝てないと」
まだ完治してないのだから無理してうろつくなとアストライアーは押し留めたのだが、エレノアはもう大丈夫だと返した。
「まだ大丈夫だとしても、身体はダメだという場合もある。第一、まだ熱下がって……」
エレノアの額に、アストライアーは手をやった。
「……るかどうか分からないじゃないか?」
「だいじょうぶだよ? ぜんぜんあつくないし」
「脳ミソが大丈夫でも、身体はそうじゃないかも知れない」
アストライアーはすぐにエレノアを部屋へと戻し、ベッドに横たえさせると体温計をわきの下にあてがった。
そこで、グウとエレノアの腹が鳴った。
「……おなかすいた」
卵ボーロとオレンジジュースを腹に収めてもどうやら食事には影響が無い事にホッとしたアストライアーだったが、それは同時に食事の用意を早く終わらせろと言う恫喝でもあった。エレノアはあんなに食いしん坊だったっけかと思いながら、先程味付けしてそのままだった粥を何とか最終調整し、小さな碗によそってエレノアへと渡す。
ついでに検温が終わった体温計がエレノアから手渡される。デジタル表示の体温計は、摂氏36度8分を示していた。
「良かった……熱下がったな」
とりあえずは大丈夫だろうと安堵している間に、エレノアは早くも粥をスプーンですくっていた。
「……うすい」
「ごめんな。ちょっと我慢してくれ」
次以降はソイソースをもうちょっと増量してやるかとアストライアーは反省した。
「……エレノアも無事そうで安心した」
先程まで無言だったスキュラだが、一時期BBに人質にされていた事を忘れていたかのようなエレノアと、彼女に振り回され気味のアストライアーの姿を見て、先程のネガティヴな姿勢はいつの間にか霧散していた。
「スキュラが不在の間に、色々と片付いた事が多かったからな。だからもう、スキュラが気に病む必要は――」
「アレックス」
言葉を遮られ、何を言うのかとアストライアーは固まった。
「アレクサンドラ=グレイアム……今まで言ってなかったが、私の本名だ」
「それは分かったが……何故今になって本名を名乗った?」
「レイヴン名を変えようと思ったからだ。第3アリーナに、私と全く同じスキュラと言う名前のヤツが最近エントリーしたんだ。しかも何の偶然か分からんが、機体名・戦闘スタイルまで私とよく似た奴だったからな……同一人物扱いされてマスコミに集られるのは嫌だ」
「そうなのか?」
下位ランカーの事は意識していなかったから良く分からないし、最近も多忙ゆえに気が付かなかったとアストライアーは返した。スキュラことアレックスも、友が何かと多忙だった事を察してか、それ以上は言わない事にした。
いずれにせよ、アストライアーとアレックスの間に存在していた隔たりは、この時点で完全に失せていた。
「この際だから、愛機のアセンブリも変えようと思う。心機一転には丁度良いかも知れない」
「そうか……」
私と同じ事をする心算なのだろうとアストライアーは思った。BBが消えた事で、自分を変えようとしているレイヴンが、此処にもうひとりいる。
「アレックス、もう一つ聞かせてくれ。さっき背負って来たあのリュックは何だったんだ?」
「ちょっと、エレノアに見せたいものがあってな」
「あたしに?」
決して美味しいとは言えない粥をすくうスプーンを止め、エレノアが顔を上げた。ちょっと待っててくれとエレノアに言うと、アレックスは椅子の脇に下ろしていたリュックサックを担ぎ、その中身を披露した。
それはプラネタリウムで見かけるプロジェクターに近い装置だった。アストライアーとエレノアが見慣れない装置を無言で見詰める中、アレックスが訊ねる。
「部屋の照明を消して欲しい」
何を言い出すんだろうかと思いながら、アストライアーはエレノアに部屋が暗くなる旨を伝え、了解が出たので照明を落とした。カーテンがかかっていたので、一切の街灯から遮断されて真っ暗闇となった。
その中で、装置のスイッチが入れられる。
カチッと音が鳴った次の瞬間、作動した装置から蒼い光が発せられ、闇の中を舞う粉雪を蒼く輝かせた。気温に一切変化が無い所から見ると、闇の中に輝くこの蒼い雪は立体映像だろうと言うことが、アストライアーはすぐに分かった。
事実、アストライアーは肌に刺さる雪の冷たさを一切感じておらず、目に見えるのも、闇の中にきらめく蒼い光と、それが浮かび上がらせる家具類の蒼い輪郭、そして輝く蒼い雪だった。修理され完全復活した空調システムの働きで、室温も摂氏22度、湿度52%から変化がない。
「きれい……」
エレノアはベッドの中でその光景を見た。彼女の顔も、月夜を思わせる蒼い光に照らされている。
「色々な点で無理かも知れないが、プレアデス星団ってのも間近で見るとこんな感じなのかも知れんな……」
部屋に溢れる蒼い雪の中で、アレックスはぼそりと呟いた。
「蒼い雪……不思議なものだ……」
何となくではあるが、見ていて精神が落ち着いた感じになるようだとアストライアーは感じていた。思えば、こうして暗闇で何かが発光していても不気味さを感じる事が多かったが、青系の光であれば見ていて不思議と精神が安定するような気分になると、前々から感じていたものだった。
「しかしこれ、どこで見つけて来た?」
「元同僚――もちろん、MTパイロット時代のだが、それからのもらい物だ。どこで売られていたか、までは分からないが……」
なら聞いた所で仕方ないなとアストライアーは思った。
それにしても、ホログラムとは言えこの美しさは中々のものだとアストライアーは思った。暗闇の中、蒼い光が迸り、蒼い雪が舞い散るその様子に、彼女は宇宙の星の輝きを髣髴とさせていた。
勿論、レイヤードは地底にあるので実際に宇宙を観測したりするのは不可能だが、地上時代の人間達から継承された宇宙観測データや天体写真などは、ネットワーク上や書物等で知識として入手する事が出来る。おかげでレイヤードに暮らす人々が宇宙や天体について知る事は可能であった。アストライアーも、そうして知った情報を元にして、宇宙の大まかなイメージを、その脳裏に構築する事が出来たのだった。
中には、いつの日にか地上に帰還して、星空や宇宙を目の当たりに出来るかも知れないと考える知識人もいるらしい。もっとも、アストライアーにはあまり関心のない所であるが。
「星天女……よく言ったものだ」
アレックスも似たようなイメージらしいなとアストライアーは思った。実際、星天女は女神アストライアー――レディ・ブレーダーの名の由来たる女神の別名でもあったからだ。そして、宇宙を髣髴とさせる蒼い光と青い雪に照らされて浮かぶ自分の姿が、それに重なったのだろうとも。
「アレックス、貴女はレイヴン名を変えると言ってたな、確か」
確かにその心算だとアレックスは頷いた。
「まだ決めていないのか?」
「まだだ」
「どれから名前を取るのか、その方向性ぐらいは決めたのか?」
「それが、まだなんだ」
何かから冠するにしても、どれから名前を拝借したらいいものかとアレックスはぼやいた。なにしろ、名前の出典元を伝承や神話に限定するにしても、登場人物や幻獣、モンスター、悪魔の類から武器・防具、地名に至るまで数限りないのだから。実際、ワルキューレは北欧神話の戦乙女、ミダスは触れたものを全て黄金に変えたと言われるギリシャ神話の王と、実に様々だ。
そうでなくても、レイヴンの殆どは何かしらの固有名詞から名前を拝借している者や、ロイヤルミストやストリートエネミー等、二つ以上の単語を組み合わせて名前にしているレイヴンが多い。
グローバルコーテックスではレイヴン名の縛りは基本的にないため、放送禁止用語などの余程卑猥・下劣な単語でない限りは命名したところで差支えがない。だがその命名に対する自由度が、逆にアレックスの新たなレイヴン名決定の妨げになっていたのだった。
「それなら提案ぐらいはさせてくれ。丁度良いのが閃いた」
何を言い出すのだとアレックスは耳を疑ったが、アストライアーが本気だと分かると、友の提案に耳を傾けようと決した。
「ブルーネージュ」
「蒼い……何だ? ブルーは青と言う意味は分かるが……」
アレックスは首を捻った。
「……私のヴィエルジュの名の由来は分かるな?」
「乙女座、と言う意味だろう。マナが乙女座生まれで、そのレイヴン名の由来であるギリシャ神話の正義の女神アストライアーが、人間の退廃振りを嘆き、天に昇ってその星座になったと言う。そのフランス語名」
「そうだ。そして、ブルーネージュもそのヴィエルジュと同じ、フランス語だ」
「それは分かった。で、意味は何だ?」
「これだ」
アストライアーは舞い散る蒼い雪に視線を向けた。
「“蒼い雪”と言う意味だ」
「成る程……」
自分は星の光を髣髴とさせていたが、友は蒼い雪と言うイメージをしていたか。そして、それを発生させる装置を持ってきたのは他ならぬ自分であり、自分の類似品がアリーナに出て来ていた事で、名前を変えようにも、今まで適当な名前が浮かばなかった。
ならば、詫びのついでに友の好意を受けるのも良いだろう。
「では、明日早速コーテックスにレイヴン名変更申請をして来よう。私・スキュラは――これより、ブルーネージュと名乗るとしよう」
スキュラ改めブルーネージュの決意の後、3人は部屋を舞う蒼い雪を一緒に眺め続けた。
「マナ……聞こえてるか?」
聞こえていると、アストライアーは友に目を向ける。
「今日は……色々と有難う」
「……気にするな」
私は兎も角、互いに友として認識しているのだからありがたいし嬉しい所ではあったのだが、それが上手く言葉に出来ない。以前、直美の時もそうだったのだが、感謝しているつもりでもそれを表に出すのが苦手だ。人を貶し騙す事が恒常化し、常日頃から疑心暗鬼となる事で生じてしまったこのヒネクレ具合はどうにかならんものかと、アストライアーは内心で思っていた。
しかし、とりあえず関係改善が出来たのでアストライアーにとっては御の字である。
暫くホログラフ装置を運転させると、照明をつけるようアストライアーに促し、ブルーネージュはホログラフ装置のスイッチを切った。蒼い雪が消え、一瞬真っ暗になったと思った間には、照明が点けられて部屋の様子は元の通りに戻った。まだ残っていた粥を口にし、おかゆがさめちゃったとエレノアは呟いた。
その前で、ブルーネージュは装置をリュックに戻していた。
「さて、話したい事も話し終えたし、私はそろそろ帰る」
「良いのか?」
ブルーネージュはまずエレノアへ、次いでアストライアーへと視線を向ける。
「……病人の邪魔になると良くないからな」
それもそうだなとアストライアーは頷いた。
「さて、また次の依頼かガレージで」
「そうだな。今度は“敵”ではなく“味方”として会おう」
アストライアーはブルーネージュを送り出すと、リュックを背負ったその姿が見えなくなるまで、玄関から見送った。またBBの時みたいに裏切らないでくれと願いながら。
「おかーさぁん、おかゆあっためなおしてー!」
友の姿が見えなくなった所で、エレノアの呼び出しに応じてアストライアーは家へと引っ込み、再びキッチンへと向かった。
そして翌日、目覚めたばかりのアストライアーにブルーネージュからのメールが届いていた。
送信者:ブルーネージュ(旧スキュラ)
件名:レイヴン名及び機体変更連絡
先日の知らせ通り、レイヴン名変更申請を完了した。
よって、本日からブルーネージュ名義となるので宜しく。
また、機体も「プレーアデス」と名を改め、
脚部を4脚から2脚に変更、メイン武器もマシンガンとミサイルにした。
これで、ヴィエルジュが苦手とする遠距離戦は
此方でカバー出来るようになった。
何か、役に立てそうな依頼があったら是非呼んで欲しい。
出来る限りの事はしよう。
名前以外にもメールエフェクトまで変更されており、ブルーネージュとなった友のメールエフェクトは、新たなレイヴン名を物語る蒼い吹雪が舞い込み、雪が晴れた後には「プレアデス星団」の七つ星を描く配置で7つの蒼い雪の結晶が出現、それを蒼白いリングが取り囲んでメールエフェクトは終わった。機体名の由来も、恐らくはプレアデス星団だろう事が、アストライアーにはすぐ分かった。
だが、メールの文面だけではどんな機体なのかは分からなかったので、とりあえずガレージに出向いて機体を拝見するつもりではいた。
「なあ、エレノア」
アストライアーは風邪から復活し、ジャムを塗ったフランスパンに噛り付いているエレノアに訊ねる。
「ちょっとガレージ行こうと思うのだが……」
エレノアはフランスパンを口から放した。フランスパン丸ごとではない、エレノアが食しているのはあくまでも輪切りにした中の一切れだ。
「おかあさんについていきたい」
だろうな。そう来ると思ったとアストライアーは肩を落とした。出来る事なら自宅で大人しくさせたかったのだが、この歳の子供の例に漏れずエレノアも甘えたい盛りの上に遊びたい盛りなので、じっとしている事が出来ないらしい。
そもそも、外に出るとレイヴン同士の抗争に巻き込まれ、BBがした様な事をされる可能性も高い。だからこそ自宅待機させるべきだとは思っていたのだが、エレノアの頼みを断れなかった。
よって、朝食を終えたアストライアーは、エレノアの頼みを断れなかった自分を呪いながら、グラディウスを飛ばしてガレージへと向かう事となったのだった。
昨日までと打って変わり、トレーネシティには季節相応の暑さが戻っており、昨日までの季節外れのコート姿は見られなくなり、都市部を行き交う人々も、ビジネススーツ姿や作業用のつなぎと言った仕事着の類を除けば、シャツや薄手の上着と言った姿ばかりだった。これが普通の姿ではあったのだが、赤い短パンに「魔法少女ピクシー」柄の半袖シャツというエレノアとは対照的に、アストライアーの姿は季節外れも甚だしい、昨日届いた真っ黒なオーダーメイドのトレンチコートである。
ガレージ到着後、見てるだけで暑いから脱げと言う声が周辺の整備士達からしばしば上がったのだが、アストライアーは元より露出が嫌いなので、それをしたがらない。お馴染みのサイラス達整備士連中や、整備完了していつでも出撃可能な状態のヴィエルジュをスルーし、アストライアーはバイクに跨ったままブルーネージュの所へと向かう。
その中で、アストライアーは気が付いた。
「ストリートエネミー達がいないな……」
ネージュやスタティック・マンと言った機体は有るのに、肝心の搭乗者の姿が全く見当たらない。少なくとも、いつも彼らがタムロしているサイラス達の周辺にはいない。
いや、今日は顔見知りの姿が全く見当たらない。トラファルガーとパイク、ツヴァイハンダーは負傷で戦線離脱中、テラはヴァッサーリンゼの看病だから仕方ないにしても、お馴染みの面々がいない。アストライアーは微かな寂しさと、苦手な人付き合いをしなくて済むと安堵している人間嫌いの自分がいる事に気が付いた。
「マナ……じゃない、アストライアーか」
ブルーネージュがその姿に気付いた。アストライアーも友の姿を認め、すぐ近くにグラディウスを停めた。エレノアがその後部からすぐに降りる。
「機体を変えたそうだな」
「ああ、この通りな」
ブルーネージュが指差した先では、すぐにでも出撃させる事が可能な状態に整備されていたプレーアデスが、ハンガーに固定されていた。
「このまえはむしとかどうぶつみたいだったのに、ずいぶんかわっちゃったね」
エレノアが率直な感想を抱いた。
プレーアデスの頭部とコアはデルタ時代と同じ、MHD-MM/004にCCM-00-STOであったが、腕部はCAL-44-EASに、脚部は最早見慣れたCLM-02-SNSKに取り替えられていた。腕にはCWG-MG-500に投擲銃KWG-HZL50が携えられ、背部にはMWM-DM24/1とMWM-S42/6と言う2種類のミサイルを搭載、更にエクステンションにもMWEM-R/24が接続されていた。カラーリングも紺と青白で、モノアイの光がコバルトブルーだったりと、全体的に青系の塗装に変更されていた。
そして、アストライアーの目を引いたのが、左肩に刻まれた「プレアデス星団の星配置と同じパターンで配された、7つの蒼い雪の結晶」を描いたエンブレムだった。メールに添付されていたアニメーションの最後に表示されるエンブレムと全く同じだ。
エンブレム以上に、機体からチェインガンが外され4脚ではなくなったことで、見た限りでは最早別物となり、かつ随分と物々しさが薄れたような印象を、アストライアーに抱かせた。だが、その分クセが無く性能バランスは遥かに良好な機体に仕上がってそうでもあった。
「武器をミサイルにして大丈夫か?」
「大丈夫だ。昨日、貴女と別れてからテストランして、大体の操作感覚は分かっている。いずれ、以前のように使いこなせるようになる筈だ」
そう言うと、ブルーネージュはそっとアストライアーに耳打ちした。
「実はBBが死んだと聞いたその日から、こっそりアセンブリだけはしていたんだ……」
その割には姿が見えなかったのが疑問であったが、恐らくはアストライアーやBBの残党の目を隠すようにアセンブリした後、地下の格納スペースにプレーアデスはしまい込まれていたのだろう。何にせよ、それが本当ならば大丈夫だろうとアストライアーは納得した。
「ストリートエネミー達が見たら何と言うかな」
ブルーネージュが言う通り、今までの連射兵器てんこ盛りのアセンブリから一新されたこの姿を見た時の反応が想像出来ないところだが、そこでアストライアーはある事に気が付いた。
「あいつ等はまだ知らないのか……」
「何でも、ミルキーウェイは夏風邪にかかってダウンしたらしい。ストリートエネミーはその看病をしていたそうだが、風邪をうつされてくたばったそうだ」
さっきメールで自己申告があったとブルーネージュは言い、携帯端末を提示した。確かに、彼女の携帯端末では「レイヴン名及び機体変更連絡」と銘打たれたメールの返信で、「ミルキーのヤツにカゼ移されて寝込んでるから当分顔合わせ出来ねぇ」と言う主旨の返信が届いていた。
「先程からいないなとは思っていたが、風邪でダウンしていたのか……」
これでブルーネージュやヴァッサーリンゼに続き、アストライアーの周辺で4人のレイヴンが風邪で倒れた計算になる。更に、エレノアも昨日まで風邪で寝込んでいる。
「……最近風邪流行ってるらしいな」
「おかあさんもきをつけないとダメだよ?」
「ああ、全くな」
明日は我が身かと、アストライアーとエレノアが風邪に対する警戒意識を強める隣で、ブルーネージュは新たな機体とその戦いぶりについて、考えを馳せていた。
「普段はマシンガンと投擲銃で事足りるとは思うが……」
「ミサイルの御厄介にならなければそれに越した事は無いだろう。ミサイルを依頼で使うと弾単価がえらく掛かる」
「うん、だからミサイルはAC相手でもない限りはなるべく温存したい所だが……」
アストライアーとブルーネージュはそんな事を呟きながら、しばしプレーアデスの姿を眺めていたのだった。
今更そんな事に気が付いてどうするんだと言う気を抱えている中、マナ=アストライアーは6月14日の午後1時22分現在、ベッドに横たわっているエレノアの傍らにいた。
彼女はモスグリーンのコートに身を包んでいた。北半球の地下に存在し、地上の環境を再現しているのが基本であるレイヤードなので、6月としては場違いな衣装ではあるのだが、管理者の異常が囁かれているこの時勢に置いて、その指摘は愚というものである。
管理者の何が狂ってしまったのかは定かではないが、6月だと言うのに第1層の一部セクションが厳寒となっていたのである。トレーネシティを例に挙げると、最高気温は摂氏7度、夜に至っては氷点下を記録したと言う異常事態である。更にトレーネシティでは報告されていなかったものの、別の都市では水道管が凍り付き、第1層の都市・セクション767では降雪まで観測された。
その為、急激な気温変化によって体調を崩した人間が多数発生してしまい、風邪を引いたエレノアもその一人となってしまったのである。昨日一昨日と連日30度越えの猛暑が続いていただけに薄着となっていた事が災いした。しかしそれも仕方のない事である。そもそも、夏場に気温が氷点下に下がるとは誰も想定などしていない。自然界では決して有り得ない事だからだ。
しかしAI管理機構によって管理されるレイヤードである。神と同義と扱われるとは言え、所詮は人が作り出した機械。故障とそれに伴う異常事態は考えられ得た事だった。レイヤードの人間の中にはまだそれを知らぬ者もいるが、少なくともアストライアーには周知の事実だった。
だが、エレノアの看病に追われるアストライアーに、そんな事を考える精神的余裕はとてもではないがなかった。
「ううぅ、さむいよぉ……」
エレノアが布団の中で小刻みに震えていた。寒いと言う事なので、まだ熱が上がるかも知れないとアストライアーは嫌な顔になった。寒気を覚えていると言う事は体温上昇のサインであると言う事を聞いた覚えがあったからだ。
しかしながら、アストライアーは医者ではないので分からない事が多かった。一応エレノアは小児科医には連れて行き、処方箋を貰い、先程与えた。にもかかわらず、エレノアが寒いと言うので、アストライアーはそれが風邪だけが原因ではないだろうと薄々察知した。
「全く、こんな時にエアコンが故障とは……」
アストライアーやエレノアの白い息が、室内の低温を、そしてエアコンの動作停止状態を物語っている。
「アストライアーさん、エアコンの件ですが……」
ドアをノックし、修理要請に基づいて現れた作業員2人のうち、先輩格の方が顔を覗かせた。エレノアにちょっと待っててくれとだけ言うと、アストライアーは作業員を伴ってエレノアの部屋からリビングへと移った。
「先程確かめたのですが、電源系統以外にもリモコンがおかしいようなのでこれから交換に掛かりますが……」
「直るのにどれぐらい掛かる?」
この寒さがいつまで続くかは兎も角、夏場の猛暑の中で冷房が使えないとなると困るので数日越しで使えないのは勘弁して欲しいのだがと、アストライアーは内心で思った。猛暑にしろ、今の寒さにせよ、エレノアに文句を垂れられるとなると面倒だからだ。
「そうですね……部品交換すれば住むので数時間で直ります。遅くとも夕方までには」
「分かった。では、早速修理を頼みたい」
「承知しました」
修理屋たちは早速エアコンを壁から取り外しに掛かった。
「ところで、私はこれから数時間ほど留守にしなければならないのだが……安心してくれ、修理が終わるまでは戻って来られる用件だ」
「では、何か連絡可能なものがあれば……」
「携帯端末を持って行くので、それに連絡を頼む」
先輩格の作業員は了解し、再びエアコンの修理に戻った。電話番号は問い合わせの際に伝えたので今更伝える必要は無かった。修理開始を見届けると、アストライアーは再びエレノアの元へと戻った。
「少し出かけてくるが……何か欲しい物はあるか?」
「んーとね……オレンジジュースのみたい」
分かったとアストライアーは頷いた。
「いいか、大人しく寝てるんだぞ?」
「うん……」
エレノアに念を押すと、アストライアーは外出用バッグを片手に駐輪場まで全力疾走、グラディウスに跨り、颯爽と飛び出した。
夏の暑さから一転して真冬同然の冷え込みとなった為、外出先で見かける人間の姿もまちまちだ。アストライアー同様のコート姿から、ウィンドブレーカーにジーンズといういでたち、今のシーズンだから冬物を仕舞ってしまったまま出せなかったのだろう、薄手のシャツやスラックスで寒そうにしている人も居る。そのためアストライアーは妙な違和感を覚えた。
しかしバイク運転中なので、道行く人間ばかりに気を取られているわけにはいかない。赤信号に引っ掛かって停止してしまったとは言え、余所見は交通事故に直結しかねないのだから。
「アストライアーさんですか?」
停止中に呼び止められ、アストライアーは不意に振り返った。そしてその先にビデオカメラを持った男とマイクを持ったスーツ姿の男を認め、しまったと内心で悔やんだ。彼等は見るからにどこかの取材記者やパパラッチの類だと分かる連中だったからだ。どういう風の吹き回しか、何かの取材帰りに偶然遭遇してしまったらしい。
「BBが亡くなった事についてコメントはありますか?」
アストライアーは何も答えない。前々から、彼女はマスコミを嫌っているからだ。事実、これまでに有名なアリーナランカーという理由だけで何度も雑誌やテレビなどから取材オファーやインタビューなど、各種メディアからの取材が来たが、彼女はそれを悉く断っている。
彼女がインタビューを許すのは、アリーナの勝利者インタビューの際に現れる女性インタビュアー数名のみだが、それは彼女達がマスコミ関係者ではなく、グローバルコーテックスのアリーナ運営局の一職員だからである。声やルックスが良いからアリーナのインタビュアーをしているだけであり、平素の彼女はグローバルコーテックスの職員に過ぎない。そしてそれは、アストライアーにも周知の事実であった――ただそれだけの理由なのである。
何より、自分の情報がマスメディアに流れれば、それは敵を増やす事に直結する。何しろ、BBへの復讐を面目として彼女が取った行動は、決して誉められたものではないからだ。
「アストライアーさん! BBが亡くなった事について何か!」
当然それを知る由もない記者達はしつこく質問攻めしてくる。
アストライアーは何も言わないまま、バイクを強引に路地裏へと向けるや、知った事かと言わんばかりに路肩を突っ走り、そのまま路地裏へと走り去った。記者達は急いで追いかけたが、徒歩でバイクに追い付ける筈もなく、あっさり見失った。
小うるさい連中でしかないマスコミを振り切ったアストライアーは再びバイクを飛ばし、ミラージュのトレーネシティ支社へと急いだ。今日はどうしても、此処に行きたいと願っていたのだ。ただし、それは依頼や報酬を受け取ったり、要人や恩師へと面会する為でもない。彼女の目的は、トレーネシティ支社前の駐車場に設営されたテントの中にあった。
直ちに駐輪場にバイクを停め、テントへと全力疾走する。
テントの中では、ジャケットやパンツ、ホルスター、ケブラーやスペクトラ等の特殊繊維を使用した抗弾ベスト、ケブラー製パッド内蔵のボディアーマーベスト、サスペンダー、各種ポーチ、ヘルメット、士官用のサービスコスチューム等が売買されており、ミリタリーファンを中心とした人間達が集まっている。
これはミラージュが「民間人に渡った所で差し支えない」程度の代物を払い下げる為、不定期に開催しているマーケットであった。そして、アストライアーはここで父の纏っていたコートと同様の物が手に入るだろうと判断、この機を逃してはならないとやって来たのだった。
女剣豪は迷い無く軍服類のコーナーへと向かう。フライトジャケットや防弾チョッキ、パイロット用対Gスーツ、中古のアーマー類、耐熱服、果てはガスマスクまでが陳列され、周辺では目当ての服を探す数名が居たものの、アストライアーに対する反応は様々であった。斬られる事を恐れて目を合わせない者、好機の目を向ける者、そして何故此処にいるのかと言う驚きなど。
だが、敵意を露わにするか、或いは協力を申し出る、もしくは目的遂行に関係のある場合を除けば、アストライアーは周囲の目線には無関心だった。
そんな中でアストライアーの目に止まったのが、嘗て自分が着用していた、父の形見である濃紺の士官用コートと寸分違わぬコートだった。このコートは男性用・女性用とも同一のデザインであり、サイズさえ合えば男女関係なく身に付けられる。
見つけるが早いが、アストライアーは早速手に取ると、サイズを確認した上で、試着所へと持ち込み、纏ってみる。
「よし……少し裾は長いが、まあ良いだろう」
鏡に写る自分の姿に、アストライアーは満足げに頷いた。コートは、身長168cmの彼女を無難に包み、その裾は踝を隠す事はなかった。生前の父が着用していたコートよりは裾が少々長く、ブーツの脛は殆ど隠れてしまうが、問題ないだろう。
因みにアルタイルの身長は、アストライアーより3センチほど高い程度である。だから彼の遺品であるコートを、娘は大した問題もなく見に付ける事が可能だったのである。
アストライアーはコート以外には関心を示さなかったが、この払い下げ市は中古品ながらも軍用品が手に入るということでミリタリーファンには受けが良く、これを目当てにやって来る人も多い。その殆どが男性であった為、女性であるアストライアーは、それだけでかなり目立つ存在だった。事実、コート姿のアストライアーはミラージュで将校をしていても全く不思議はないであろう威風と凛々しさを漂わせており、その姿に見惚れたミリタリーファンも居た模様。
しかし、周囲の視線など意に介さず、アストライアーは代金を払うや、律儀に外出用バッグへと収納し、元のコートを羽織ると、さっさとテントから出て行った。そしてグラディウスに跨り、爆音を轟かせながら去っていく。
この後、この市に来ていたミリタリーファンのうち数名が、新たにアストライアーのファンになり、アリーナに試合を見に行くまでになったらしい。だが、当然アストライアーにはどうでも良い事である。
初期目標を達成した今は、エレノアの為に動くべきだと思考回路を切り替えていた為である。そして、そのために向かうはトレーネシティの百貨店地下1階の食品売り場にあった。
「エレノアはオレンジジュース飲みたいといってたが……それだけではアレだな」
どうやらアストライアーの中に別の標的がインプリンティングされたようだ。
「折角だ、色々と買って行ってやろう」
そんな事を考えながら、百貨店へとバイクを飛ばす。
「おや、アストライアー嬢じゃありませんか」
嫌味がかった声がアストライアーの鼓膜を震わせる。彼女が反射的に振り返った先では、カーキ色のジャケットに黒のジーンズ姿のテラが、どう言う訳かネギや大根が突き出した買い物袋をぶら下げていた。
「エレノア嬢はどうしたのです?」
「風邪引いて寝込んでる」
「そうですか……」
テラはそれ以上訊ねようとはしなかった。気温が30度オーバーから摂氏1桁と言う急激な寒暖差によって体調を崩したと言う事が容易に想像出来たからだ。
「こちらもヴァッサーリンゼ殿がカゼで寝込んでしまいまして……」
「あいつもか……寒暖差激しいからな」
「いえ、彼はウィルス性の風邪でして」
そして、その原因もテラは知っていた。以前、トレーネシティ攻防戦にてスキュラを救出した際、彼女のセキやくしゃみによってウィルスに二次感染した結果である。当時、テラとヴァッサーリンゼは風邪を移される事を危惧していたが、結局はその通りになってしまったのだった。
「幸い落ち着き、今は粥ぐらいなら口に入れられる程度には回復したのですが」
「大変だな」
その時、携帯端末の着信音が響いた。アストライアーには、それが自分の携帯端末の着信音だとすぐに分かった。エアコンの修理屋から通達だろうかと思いながら、携帯端末を取り出し、メール受信トレイを開く。
「スキュラ……!?」
メールの送信主は、既に音信不通となって久しい旧友からだった。
「マナ、今晩そっちに行く。話がある」
たったこれだけの文章が記されていた。
「遂に来ましたか……」
何か知っているのかと、アストライアーの視線がテラに向く。
「私とヴァッサーリンゼ殿が彼女に会った時から、貴女に一言謝りたいと、常々口にしてましたのでね……ようやく動いた、と言った所でしょうか」
「私に……?」
アストライアーは沈黙した。そして、此処へ来て音信不通だった友との再会と、それによって生じる気まずさ等が複雑に絡み合いだした。
「まあそう言う事ですので、今晩、スキュラ嬢がそちらに行きます。そのおつもりで」
テラはそう言い残して去って行った。
アストライアーは暫し呆然としてその場に立ち尽くしていたが、そんな事をしても何の解決にもならない時が付き、再び歩を進める。だが、それでも思考は久方ぶりにコンタクトして来た旧友へと向いてしまう。エレノアの為に買い物に来たにもかかわらず。
だがそれも無理のない話で、一度亀裂が生じた人間関係を修復するのは難しく、大抵はすれ違いのまま離別してしまう事が多い。ましてや裏切りの横行するレイヴンとなると関係改善はほぼ不可能である事が多く、人間関係の拗れから殺し合うケースも珍しい事ではなかった。
時折、生き残った方が事後に昔を思い出したりし、旧友を殺した事に苛まれる例も考えられるが、そもそも人間性の悪い人種が集うレイヴンのこと、それとてどれ位あるか分からない。
だから、スキュラとはもうコンタクトは取れないだろうと、アストライアーでさえ半ば諦めかけていた位だった。その旧友との、突然持ち上がった再会が、彼女に動揺と狼狽をもたらした。表情には一切出ないまでも。
向こうは謝罪する気でいるが、アストライアーは何を言ったら良いのか分からなかった。と言うより、どうすれば良いのかさえも分からなかった。これまで20年生きて来た中で、元彼氏の別れを初めとし、一度こじれた人間関係を修復すると言う事が無かったのだ。もう直らないだろうと割り切って生きて来て、それきりだったのだから。
しかし、スキュラの身を案じていないと言えば嘘になる。これまでは依頼やBBへの復讐、管理者実働部隊との戦い、エレノアの事等、他に優先すべき事に思考を傾けていただけで。
そのスキュラと再開するに当り、自分はどんな顔で迎えればよいのか、アストライアーは迷った。
今まで通り静かに迎え、自分を裏切った事を全て水に流すべきなのか。あるいは過去の過ちを問うのか。だが、前者は自分を、後者はスキュラを不快な気分にさせるだけだと察し、アストライアーは決断し損ねていた。
「お客様、ちょっと失礼」
背後から声がしたので振り返ると、店員が潰れたダンボールを乗せた台車を押してアストライアーの後ろにいた。搭乗機さながらのサイドステップで道を開ける。
店員が過ぎ去る間に、アストライアーは自分が手にしていた買い物カゴに気がついた。オレンジジュースがその中に入れられている。ボトルではなく、子供が飲みやすいよう小さくパック詰めにされているものだ。そうだった、自分はエレノアの為に買い物に来ていたのであり、ボケーっと突っ立ったまま悩む為に来たのではない。
本来の目的を思い出したアストライアーは、スキュラの事が気掛かりではありながらも、再び売り場を進み始めた。
買い物を追え、外出用バッグを片手にアストライアーが無事に帰宅して来た頃には、エアコンそのものの修理は終わり、作業員2人がかりでの据付け作業を残すのみとなっていた。エアコンの事はとりあえず任せておき、アストライアーはエレノアの部屋へと向かう。
横になっていたエレノアだったが、ドアの開く音に敏感に反応して起きたか、或いは作業員が立てる音で寝付けなかったのか、すぐに養母の方へと顔を向けた。
「あ……おかえり……」
「ただいま。調子はどうだ?」
「う〜ん、ちょっとあつくて、まだあたまがくらくらする……」
暑いと言うことは、熱が上がる兆候であるとされる寒気は消えたらしい。頭がくらくらすると言うのは気掛かりだったが、風邪で寝ている上に目覚めたばかりなので、平衡感覚の若干の狂いから来るものだろうと見た。多分、寝ていれば直る事だろう。
「あ……オレンジジュースは……?」
「そう言うと思って、ちゃんと買って来てやった」
外出用バッグからは、たしかにエレノアの注文どおりのオレンジジュースが、レジ袋と共に引き出された。すぐにエレノアはその袋をまさぐり始める。
袋の中には、ジュース以外にも、飴玉や卵ボーロがシロップが入っていた。
「あれ? これって?」
「小さくて食べ易そうだったからな。あと飴玉は糖分、卵ボーロはカルシウム補給にでも口に入れててくれ。ただし、食べ過ぎて夕飯入らなくなった、何て事のないようにな」
「うん……わかった」
エレノアが大人しくしてくれる事を期待しながら、アストライアーはリビングに移動し、エアコンの据え付け作業がどうなってるか見に行った。
既に作業は完了していたので、アストライアーはいくらか質問し、修理代を払って作業員が帰って行くのを見送った。途中、つまらない私情で家を空けてしまった放任気味な自分はどうかと思ったが、作業員自体は親切に質問に答えてくれたり調べてくれたりしたので、アストライアーとしては本当に助かる事だった。
これでリビングに埃が散らばってなければ、何も言う事は無かったのだが、掃除すれば済む事なので、アストライアーは物置から掃除機を引っ張り出してコンセントを繋ぎ、最低出力でスイッチを入れた。とりあえず、スキュラが来ると言うのでそれまでに片付る必要はあろう。
それにしても、何故今になってスキュラは謝罪の為に家に来る事となったのだろうか、アストライアーは掃除機の電源を入れたまま頭を捻った。
確かに、自分を裏切った事を何とも思っていない訳ではないが、元凶であるBBは既に自身の手によって抹殺したし、過ぎた事である為、もうアストライアーの内において、大した問題とはなっていない。スキュラの方は罪悪感を感じており、それ故今回の行動に至った事は想像に難くないが、今それをぶり返して難になるというのか、アストライアーには分からなかった。
いや、そもそもスキュラにどう対応したら良いのかさえ分からない。一度袂を分かった相手が再び自分に戻って来るなど、これまで経験したことが無かったからだ。
「どうすれば良いのか……」
人生始まって以来の事態を前に、アストライアーは呻くように呟く。
「と言うより、何を言えば良いんだ?」
しかし彼女の疑問に答える者は誰もいない。壁やモノが回答を語るわけもないし、エレノアもこのケースに対する打開策や回答案を、何ひとつ持ち合わせていない。まだ幼女だからそれも当然であるし、卵ボーロとオレンジジュースを腹に入れ、すぐに眠ったから答える事など出来っこない。
悩めるアストライアーは、不意ながら窓の外に目が行った。外は薄闇となり、ナトリウムランプの街灯が点けられてアスファルトの路面を照らしている。そのオレンジ色の光に、白い粒が幾つもちらつき、地面に落ちていく。
「雪か……」
6月でありながら、トレーネシティ周辺が積雪に見舞われ出したのである。
「依頼や交通網に影響出ないと良いんだが……あとスキュラにも」
女剣豪レイヴンが呟く間にも、雪は降り積もって行く。
「……いかん、掃除機つけっ放しだった」
電源を入れたままの掃除機が虚しく空気吸引を続けている事に気が付き、アストライアーは薄暗くなった部屋の照明を点け、旧友が来る前に掃除を片付ける事に頭を切り替えた。
「全く、最近の私はどうなってるんだ?」
考え事をしていると、ついつい周囲の事が疎かになってしまう。それだけ真剣に考えられる事は、アストライアーの長所……と言えるのか、当人には分からなかった。
数時間して積雪が止まり、結局危惧していた交通網への影響が出なくなった所で、唐突にインターホンが鳴った。既に部屋を片付け、以前と殆ど変わらぬ様子となっていたリビングで腕を組み、ソファに鎮座していたアストライアーは腰を上げる。
遂に来たか――旧友との対峙を覚悟し、アストライアーは玄関へと掛けて行く。ドアを開けた先には、一帯どんな顔で旧友が待っているのか。
「ちわー、宅配便でーす」
壮絶に違っていた。一瞬拍子抜けしてよろけかかったアストライアーだが、中年の配達員への応対に当る。荷主を確認すると、行きつけのブティックの名があり、中は「衣類」となっている。先にオーダーメイドしたコートが届いたようだ。
「受け取りにサインお願いします」
アストライアーは反射的に玄関に置かれたペンケースを開き、蒼いペンを取り出して手早く署名した。彼女の母がそうしてきた事だが、アストライアー家には宅配便等の応対用として玄関先にペンケースが置かれている。待たせては悪いと言う母の教えを、アストライアーはレイヴンとなった今も忠実に守っていたのだった。
待ち合わせなどにおける時間厳守の姿勢も、そうした教えが産んだものだ。
かくして配達員は殆ど時間を要す事無くアストライアーに荷物を渡し終えると、伝票を片手に去っていったのだった。
その配達員を見送る中で、アストライアーは気が付いた。階段の影から、自分を見つめている人影に。
「……そこで何をしている?」
明らかに普通ではなかった。しかし、照明に照らされていたその姿を見間違えるアストライアーではなかった。黒のウィンドブレーカーに身を包み、所々が逆立ったようなボサボサのボブヘアをし、眼鏡をかけたその姿を、何も知らなければ刺客かストーカーだと見なしていた事だろう。
だがアストライアーは確信していた。長らく見ていなかったが、その姿は紛れも無くスキュラであると。
「外は冷えるぞ」
スキュラを咎めるでもなく、ごく日常的な言葉が発せられる。その口調はスキュラが知る、いつものアストライアーだった。
「ウチ入って暖を取ったらどうだ?」
そのまま、睨み合いにも似た、長い沈黙が続いた。スキュラは気まずさから、頭を振る事も踵を返す事も出来なくなったが、アストライアーはそれでも彼女の次なる動きを待った。
相手の出方を待つと言う意味では、一部アリーナを初めとしたレイヴン同士の戦闘に通じる所もある。否、アストライアーにとってこの行為はれっきとした「戦い」だった。ただACを使わず、火器の代わりに言葉を用い、舞台がアリーナなどではなく自分の家であり、相手が自分とスキュラの過去であるぐらいの差異でしかない。
長い事動きが無かったが、やがてスキュラが折れたのか、ゆっくりとした足取りでアストライアーへと近寄って来る。それで良いんだとアストライアーは小さく頷き、一度家に戻った。
もう覚悟を決めるしかないとスキュラが上がり込むと、アストライアーはキッチンに向かい、鍋の中をかき回していた。鍋の中は卵粥で、アストライアーはそれを味見しては、注意深く調味料を追加していた。
「それは……」
「エレノア用だ。風邪を引いてしまってな……とりあえず、そこにでも座っててくれ」
言われるがまま、スキュラは椅子に腰を下ろした。アストライアーはそこで、スキュラがリュックを背負っている事に気が付いたが、その中身については訊ねなかった。
「済まないな、紅茶のストックを切らしてしまっていてな……」
出せる物が何もないのが悔やまれると、アストライアーは呟いた。
「マナ……すまない……」
「どうした?」
「私は……愚かだった……BBの策に、まんまとはめられてしまった……」
粥をかき回していたアストライアーの手が止まった。
「勿論、私も断った……抵抗したのだが……エレノアを人質に取られていて……断ったらエレノアを殺すと言われて、仕方なく……」
スキュラが懺悔する中でも、アストライアーはまるで聞いていないかのようにサイドボードを開け、オイスターソースとソイソースのボトルを手に取り、果たしてどちらを使ったら良いものかと品定めをしていた。
「マナと戦った後、BBに生きているのがバレたら何をされるか分からないと見て、今日まで身を隠していたんだ……」
アストライアーは何も言う事は無く、ただ、友が謝るに任せ、自身はソイソースを卵粥に注ぎながら、調味を続けていた。一口さじですくって味見し、少し味が薄いかと思いつつソイソースを注意深く足していく。
「本当にすまない……」
アストライアーの手が止まった。そして、そこでようやくスキュラに振り向いた。
「過ぎた事だ、気にするな……誰にだって、止むを得ない事はある」
まるで貴女自身がそう体験してきたような言い草だなとスキュラは思ったが、口を噤んだ。実際、アストライアーは他に選択権のない中での戦いを余儀なくされて来た立場にある。ましてや暴君であるBB一派と戦ってきた身で、しかも強化人間と言う立場上、ACに乗れなければ社会的には抹殺されていても何ら不思議の無い立場である。形振り構っていられるような人間とは思えなかった。
だが、スキュラが見たアストライアーは、当の形振り構わぬ筈の立場でありながら、「父と同じスタイルで戦い、BBを殺す事にこそ意味がある」として、女だてらに剣を振り回し、積もうと思えば積めるキャノン系武器に対して全く関心を払わないと言うストイックな、そしてある種の誇しさが漂う戦闘スタイルを続けて来たのだ。しかも、自分と違って他者に靡く事がなかった。
一応ミラージュに与して戦っているとは言え、それはあくまでも自分を鍛えた旧師がミラージュの軍人となっていたからと言う、義理に基づいての事なのである。
「もし、貴女が責任を感じているならば……」
アストライアーはスキュラに面を上げるよう促した。
「自分なりに、それにケジメを付ければ良い」
アストライアーの口調はいつになく優しい。それと言うのも、これからの行動次第でチャラに出来るならそれで良いと、彼女自身が割り切ったのである。結局、エレノアに限らず、人間関係は素直に渡り合えばそれで良いのだろうと、悩んだ末に結論付けたのである。それが新たな問題の火種になる可能性も考えられ得たのだが、それはまた別問題だ。
「あれ? ……スキュラのおばちゃんきてたの?」
フラフラとした足取りで、エレノアがドアから出て来た。
「ダメだ、まだ大人しくて寝てないと」
まだ完治してないのだから無理してうろつくなとアストライアーは押し留めたのだが、エレノアはもう大丈夫だと返した。
「まだ大丈夫だとしても、身体はダメだという場合もある。第一、まだ熱下がって……」
エレノアの額に、アストライアーは手をやった。
「……るかどうか分からないじゃないか?」
「だいじょうぶだよ? ぜんぜんあつくないし」
「脳ミソが大丈夫でも、身体はそうじゃないかも知れない」
アストライアーはすぐにエレノアを部屋へと戻し、ベッドに横たえさせると体温計をわきの下にあてがった。
そこで、グウとエレノアの腹が鳴った。
「……おなかすいた」
卵ボーロとオレンジジュースを腹に収めてもどうやら食事には影響が無い事にホッとしたアストライアーだったが、それは同時に食事の用意を早く終わらせろと言う恫喝でもあった。エレノアはあんなに食いしん坊だったっけかと思いながら、先程味付けしてそのままだった粥を何とか最終調整し、小さな碗によそってエレノアへと渡す。
ついでに検温が終わった体温計がエレノアから手渡される。デジタル表示の体温計は、摂氏36度8分を示していた。
「良かった……熱下がったな」
とりあえずは大丈夫だろうと安堵している間に、エレノアは早くも粥をスプーンですくっていた。
「……うすい」
「ごめんな。ちょっと我慢してくれ」
次以降はソイソースをもうちょっと増量してやるかとアストライアーは反省した。
「……エレノアも無事そうで安心した」
先程まで無言だったスキュラだが、一時期BBに人質にされていた事を忘れていたかのようなエレノアと、彼女に振り回され気味のアストライアーの姿を見て、先程のネガティヴな姿勢はいつの間にか霧散していた。
「スキュラが不在の間に、色々と片付いた事が多かったからな。だからもう、スキュラが気に病む必要は――」
「アレックス」
言葉を遮られ、何を言うのかとアストライアーは固まった。
「アレクサンドラ=グレイアム……今まで言ってなかったが、私の本名だ」
「それは分かったが……何故今になって本名を名乗った?」
「レイヴン名を変えようと思ったからだ。第3アリーナに、私と全く同じスキュラと言う名前のヤツが最近エントリーしたんだ。しかも何の偶然か分からんが、機体名・戦闘スタイルまで私とよく似た奴だったからな……同一人物扱いされてマスコミに集られるのは嫌だ」
「そうなのか?」
下位ランカーの事は意識していなかったから良く分からないし、最近も多忙ゆえに気が付かなかったとアストライアーは返した。スキュラことアレックスも、友が何かと多忙だった事を察してか、それ以上は言わない事にした。
いずれにせよ、アストライアーとアレックスの間に存在していた隔たりは、この時点で完全に失せていた。
「この際だから、愛機のアセンブリも変えようと思う。心機一転には丁度良いかも知れない」
「そうか……」
私と同じ事をする心算なのだろうとアストライアーは思った。BBが消えた事で、自分を変えようとしているレイヴンが、此処にもうひとりいる。
「アレックス、もう一つ聞かせてくれ。さっき背負って来たあのリュックは何だったんだ?」
「ちょっと、エレノアに見せたいものがあってな」
「あたしに?」
決して美味しいとは言えない粥をすくうスプーンを止め、エレノアが顔を上げた。ちょっと待っててくれとエレノアに言うと、アレックスは椅子の脇に下ろしていたリュックサックを担ぎ、その中身を披露した。
それはプラネタリウムで見かけるプロジェクターに近い装置だった。アストライアーとエレノアが見慣れない装置を無言で見詰める中、アレックスが訊ねる。
「部屋の照明を消して欲しい」
何を言い出すんだろうかと思いながら、アストライアーはエレノアに部屋が暗くなる旨を伝え、了解が出たので照明を落とした。カーテンがかかっていたので、一切の街灯から遮断されて真っ暗闇となった。
その中で、装置のスイッチが入れられる。
カチッと音が鳴った次の瞬間、作動した装置から蒼い光が発せられ、闇の中を舞う粉雪を蒼く輝かせた。気温に一切変化が無い所から見ると、闇の中に輝くこの蒼い雪は立体映像だろうと言うことが、アストライアーはすぐに分かった。
事実、アストライアーは肌に刺さる雪の冷たさを一切感じておらず、目に見えるのも、闇の中にきらめく蒼い光と、それが浮かび上がらせる家具類の蒼い輪郭、そして輝く蒼い雪だった。修理され完全復活した空調システムの働きで、室温も摂氏22度、湿度52%から変化がない。
「きれい……」
エレノアはベッドの中でその光景を見た。彼女の顔も、月夜を思わせる蒼い光に照らされている。
「色々な点で無理かも知れないが、プレアデス星団ってのも間近で見るとこんな感じなのかも知れんな……」
部屋に溢れる蒼い雪の中で、アレックスはぼそりと呟いた。
「蒼い雪……不思議なものだ……」
何となくではあるが、見ていて精神が落ち着いた感じになるようだとアストライアーは感じていた。思えば、こうして暗闇で何かが発光していても不気味さを感じる事が多かったが、青系の光であれば見ていて不思議と精神が安定するような気分になると、前々から感じていたものだった。
「しかしこれ、どこで見つけて来た?」
「元同僚――もちろん、MTパイロット時代のだが、それからのもらい物だ。どこで売られていたか、までは分からないが……」
なら聞いた所で仕方ないなとアストライアーは思った。
それにしても、ホログラムとは言えこの美しさは中々のものだとアストライアーは思った。暗闇の中、蒼い光が迸り、蒼い雪が舞い散るその様子に、彼女は宇宙の星の輝きを髣髴とさせていた。
勿論、レイヤードは地底にあるので実際に宇宙を観測したりするのは不可能だが、地上時代の人間達から継承された宇宙観測データや天体写真などは、ネットワーク上や書物等で知識として入手する事が出来る。おかげでレイヤードに暮らす人々が宇宙や天体について知る事は可能であった。アストライアーも、そうして知った情報を元にして、宇宙の大まかなイメージを、その脳裏に構築する事が出来たのだった。
中には、いつの日にか地上に帰還して、星空や宇宙を目の当たりに出来るかも知れないと考える知識人もいるらしい。もっとも、アストライアーにはあまり関心のない所であるが。
「星天女……よく言ったものだ」
アレックスも似たようなイメージらしいなとアストライアーは思った。実際、星天女は女神アストライアー――レディ・ブレーダーの名の由来たる女神の別名でもあったからだ。そして、宇宙を髣髴とさせる蒼い光と青い雪に照らされて浮かぶ自分の姿が、それに重なったのだろうとも。
「アレックス、貴女はレイヴン名を変えると言ってたな、確か」
確かにその心算だとアレックスは頷いた。
「まだ決めていないのか?」
「まだだ」
「どれから名前を取るのか、その方向性ぐらいは決めたのか?」
「それが、まだなんだ」
何かから冠するにしても、どれから名前を拝借したらいいものかとアレックスはぼやいた。なにしろ、名前の出典元を伝承や神話に限定するにしても、登場人物や幻獣、モンスター、悪魔の類から武器・防具、地名に至るまで数限りないのだから。実際、ワルキューレは北欧神話の戦乙女、ミダスは触れたものを全て黄金に変えたと言われるギリシャ神話の王と、実に様々だ。
そうでなくても、レイヴンの殆どは何かしらの固有名詞から名前を拝借している者や、ロイヤルミストやストリートエネミー等、二つ以上の単語を組み合わせて名前にしているレイヴンが多い。
グローバルコーテックスではレイヴン名の縛りは基本的にないため、放送禁止用語などの余程卑猥・下劣な単語でない限りは命名したところで差支えがない。だがその命名に対する自由度が、逆にアレックスの新たなレイヴン名決定の妨げになっていたのだった。
「それなら提案ぐらいはさせてくれ。丁度良いのが閃いた」
何を言い出すのだとアレックスは耳を疑ったが、アストライアーが本気だと分かると、友の提案に耳を傾けようと決した。
「ブルーネージュ」
「蒼い……何だ? ブルーは青と言う意味は分かるが……」
アレックスは首を捻った。
「……私のヴィエルジュの名の由来は分かるな?」
「乙女座、と言う意味だろう。マナが乙女座生まれで、そのレイヴン名の由来であるギリシャ神話の正義の女神アストライアーが、人間の退廃振りを嘆き、天に昇ってその星座になったと言う。そのフランス語名」
「そうだ。そして、ブルーネージュもそのヴィエルジュと同じ、フランス語だ」
「それは分かった。で、意味は何だ?」
「これだ」
アストライアーは舞い散る蒼い雪に視線を向けた。
「“蒼い雪”と言う意味だ」
「成る程……」
自分は星の光を髣髴とさせていたが、友は蒼い雪と言うイメージをしていたか。そして、それを発生させる装置を持ってきたのは他ならぬ自分であり、自分の類似品がアリーナに出て来ていた事で、名前を変えようにも、今まで適当な名前が浮かばなかった。
ならば、詫びのついでに友の好意を受けるのも良いだろう。
「では、明日早速コーテックスにレイヴン名変更申請をして来よう。私・スキュラは――これより、ブルーネージュと名乗るとしよう」
スキュラ改めブルーネージュの決意の後、3人は部屋を舞う蒼い雪を一緒に眺め続けた。
「マナ……聞こえてるか?」
聞こえていると、アストライアーは友に目を向ける。
「今日は……色々と有難う」
「……気にするな」
私は兎も角、互いに友として認識しているのだからありがたいし嬉しい所ではあったのだが、それが上手く言葉に出来ない。以前、直美の時もそうだったのだが、感謝しているつもりでもそれを表に出すのが苦手だ。人を貶し騙す事が恒常化し、常日頃から疑心暗鬼となる事で生じてしまったこのヒネクレ具合はどうにかならんものかと、アストライアーは内心で思っていた。
しかし、とりあえず関係改善が出来たのでアストライアーにとっては御の字である。
暫くホログラフ装置を運転させると、照明をつけるようアストライアーに促し、ブルーネージュはホログラフ装置のスイッチを切った。蒼い雪が消え、一瞬真っ暗になったと思った間には、照明が点けられて部屋の様子は元の通りに戻った。まだ残っていた粥を口にし、おかゆがさめちゃったとエレノアは呟いた。
その前で、ブルーネージュは装置をリュックに戻していた。
「さて、話したい事も話し終えたし、私はそろそろ帰る」
「良いのか?」
ブルーネージュはまずエレノアへ、次いでアストライアーへと視線を向ける。
「……病人の邪魔になると良くないからな」
それもそうだなとアストライアーは頷いた。
「さて、また次の依頼かガレージで」
「そうだな。今度は“敵”ではなく“味方”として会おう」
アストライアーはブルーネージュを送り出すと、リュックを背負ったその姿が見えなくなるまで、玄関から見送った。またBBの時みたいに裏切らないでくれと願いながら。
「おかーさぁん、おかゆあっためなおしてー!」
友の姿が見えなくなった所で、エレノアの呼び出しに応じてアストライアーは家へと引っ込み、再びキッチンへと向かった。
そして翌日、目覚めたばかりのアストライアーにブルーネージュからのメールが届いていた。
送信者:ブルーネージュ(旧スキュラ)
件名:レイヴン名及び機体変更連絡
先日の知らせ通り、レイヴン名変更申請を完了した。
よって、本日からブルーネージュ名義となるので宜しく。
また、機体も「プレーアデス」と名を改め、
脚部を4脚から2脚に変更、メイン武器もマシンガンとミサイルにした。
これで、ヴィエルジュが苦手とする遠距離戦は
此方でカバー出来るようになった。
何か、役に立てそうな依頼があったら是非呼んで欲しい。
出来る限りの事はしよう。
名前以外にもメールエフェクトまで変更されており、ブルーネージュとなった友のメールエフェクトは、新たなレイヴン名を物語る蒼い吹雪が舞い込み、雪が晴れた後には「プレアデス星団」の七つ星を描く配置で7つの蒼い雪の結晶が出現、それを蒼白いリングが取り囲んでメールエフェクトは終わった。機体名の由来も、恐らくはプレアデス星団だろう事が、アストライアーにはすぐ分かった。
だが、メールの文面だけではどんな機体なのかは分からなかったので、とりあえずガレージに出向いて機体を拝見するつもりではいた。
「なあ、エレノア」
アストライアーは風邪から復活し、ジャムを塗ったフランスパンに噛り付いているエレノアに訊ねる。
「ちょっとガレージ行こうと思うのだが……」
エレノアはフランスパンを口から放した。フランスパン丸ごとではない、エレノアが食しているのはあくまでも輪切りにした中の一切れだ。
「おかあさんについていきたい」
だろうな。そう来ると思ったとアストライアーは肩を落とした。出来る事なら自宅で大人しくさせたかったのだが、この歳の子供の例に漏れずエレノアも甘えたい盛りの上に遊びたい盛りなので、じっとしている事が出来ないらしい。
そもそも、外に出るとレイヴン同士の抗争に巻き込まれ、BBがした様な事をされる可能性も高い。だからこそ自宅待機させるべきだとは思っていたのだが、エレノアの頼みを断れなかった。
よって、朝食を終えたアストライアーは、エレノアの頼みを断れなかった自分を呪いながら、グラディウスを飛ばしてガレージへと向かう事となったのだった。
昨日までと打って変わり、トレーネシティには季節相応の暑さが戻っており、昨日までの季節外れのコート姿は見られなくなり、都市部を行き交う人々も、ビジネススーツ姿や作業用のつなぎと言った仕事着の類を除けば、シャツや薄手の上着と言った姿ばかりだった。これが普通の姿ではあったのだが、赤い短パンに「魔法少女ピクシー」柄の半袖シャツというエレノアとは対照的に、アストライアーの姿は季節外れも甚だしい、昨日届いた真っ黒なオーダーメイドのトレンチコートである。
ガレージ到着後、見てるだけで暑いから脱げと言う声が周辺の整備士達からしばしば上がったのだが、アストライアーは元より露出が嫌いなので、それをしたがらない。お馴染みのサイラス達整備士連中や、整備完了していつでも出撃可能な状態のヴィエルジュをスルーし、アストライアーはバイクに跨ったままブルーネージュの所へと向かう。
その中で、アストライアーは気が付いた。
「ストリートエネミー達がいないな……」
ネージュやスタティック・マンと言った機体は有るのに、肝心の搭乗者の姿が全く見当たらない。少なくとも、いつも彼らがタムロしているサイラス達の周辺にはいない。
いや、今日は顔見知りの姿が全く見当たらない。トラファルガーとパイク、ツヴァイハンダーは負傷で戦線離脱中、テラはヴァッサーリンゼの看病だから仕方ないにしても、お馴染みの面々がいない。アストライアーは微かな寂しさと、苦手な人付き合いをしなくて済むと安堵している人間嫌いの自分がいる事に気が付いた。
「マナ……じゃない、アストライアーか」
ブルーネージュがその姿に気付いた。アストライアーも友の姿を認め、すぐ近くにグラディウスを停めた。エレノアがその後部からすぐに降りる。
「機体を変えたそうだな」
「ああ、この通りな」
ブルーネージュが指差した先では、すぐにでも出撃させる事が可能な状態に整備されていたプレーアデスが、ハンガーに固定されていた。
「このまえはむしとかどうぶつみたいだったのに、ずいぶんかわっちゃったね」
エレノアが率直な感想を抱いた。
プレーアデスの頭部とコアはデルタ時代と同じ、MHD-MM/004にCCM-00-STOであったが、腕部はCAL-44-EASに、脚部は最早見慣れたCLM-02-SNSKに取り替えられていた。腕にはCWG-MG-500に投擲銃KWG-HZL50が携えられ、背部にはMWM-DM24/1とMWM-S42/6と言う2種類のミサイルを搭載、更にエクステンションにもMWEM-R/24が接続されていた。カラーリングも紺と青白で、モノアイの光がコバルトブルーだったりと、全体的に青系の塗装に変更されていた。
そして、アストライアーの目を引いたのが、左肩に刻まれた「プレアデス星団の星配置と同じパターンで配された、7つの蒼い雪の結晶」を描いたエンブレムだった。メールに添付されていたアニメーションの最後に表示されるエンブレムと全く同じだ。
エンブレム以上に、機体からチェインガンが外され4脚ではなくなったことで、見た限りでは最早別物となり、かつ随分と物々しさが薄れたような印象を、アストライアーに抱かせた。だが、その分クセが無く性能バランスは遥かに良好な機体に仕上がってそうでもあった。
「武器をミサイルにして大丈夫か?」
「大丈夫だ。昨日、貴女と別れてからテストランして、大体の操作感覚は分かっている。いずれ、以前のように使いこなせるようになる筈だ」
そう言うと、ブルーネージュはそっとアストライアーに耳打ちした。
「実はBBが死んだと聞いたその日から、こっそりアセンブリだけはしていたんだ……」
その割には姿が見えなかったのが疑問であったが、恐らくはアストライアーやBBの残党の目を隠すようにアセンブリした後、地下の格納スペースにプレーアデスはしまい込まれていたのだろう。何にせよ、それが本当ならば大丈夫だろうとアストライアーは納得した。
「ストリートエネミー達が見たら何と言うかな」
ブルーネージュが言う通り、今までの連射兵器てんこ盛りのアセンブリから一新されたこの姿を見た時の反応が想像出来ないところだが、そこでアストライアーはある事に気が付いた。
「あいつ等はまだ知らないのか……」
「何でも、ミルキーウェイは夏風邪にかかってダウンしたらしい。ストリートエネミーはその看病をしていたそうだが、風邪をうつされてくたばったそうだ」
さっきメールで自己申告があったとブルーネージュは言い、携帯端末を提示した。確かに、彼女の携帯端末では「レイヴン名及び機体変更連絡」と銘打たれたメールの返信で、「ミルキーのヤツにカゼ移されて寝込んでるから当分顔合わせ出来ねぇ」と言う主旨の返信が届いていた。
「先程からいないなとは思っていたが、風邪でダウンしていたのか……」
これでブルーネージュやヴァッサーリンゼに続き、アストライアーの周辺で4人のレイヴンが風邪で倒れた計算になる。更に、エレノアも昨日まで風邪で寝込んでいる。
「……最近風邪流行ってるらしいな」
「おかあさんもきをつけないとダメだよ?」
「ああ、全くな」
明日は我が身かと、アストライアーとエレノアが風邪に対する警戒意識を強める隣で、ブルーネージュは新たな機体とその戦いぶりについて、考えを馳せていた。
「普段はマシンガンと投擲銃で事足りるとは思うが……」
「ミサイルの御厄介にならなければそれに越した事は無いだろう。ミサイルを依頼で使うと弾単価がえらく掛かる」
「うん、だからミサイルはAC相手でもない限りはなるべく温存したい所だが……」
アストライアーとブルーネージュはそんな事を呟きながら、しばしプレーアデスの姿を眺めていたのだった。
16/05/21 13:11更新 / ラインガイスト