さてさてさて、鬼といえば鬼退治ですが、有名な鬼退治譚といえばなんといっても桃太郎でしょう。桃から生まれた桃太郎が、犬・猿・きじをお供に鬼ヶ島へ鬼退治…、日本人なら誰でも知ってますよね。さて、このお供、なぜ犬・猿・きじなのでしょうか。仮にも鬼退治しようってのにあまりにも頼りないと思いませんか。魑魅魍魎の類いを相手にするのですからせめて狼・マウンテンゴリラ・鷲ぐらいはいっときたいところです。
実はこれも十二支に関連します。鬼のいる鬼門、丑寅の対極には何があるか、というと、未申より、申、酉、戌と並んでいます。したがってこれらの動物は鬼を倒すのにうってつけな神聖な動物、ということになるわけです。
ではなぜ桃か、というと桃は古来より神聖な食べ物と考えられていました。中国の史書「春秋左氏伝」にも桃の実は邪気をよく祓うということが書かれており、「典術」には「桃は五木の精なり。故に邪気を圧伏し、百鬼を制す。故に今の人、桃符を作り、門の上に付けて邪気を圧う。これ仙木なり」とあります。
さらに、日本でも「古事記」において黄泉の国で黄泉津醜女に追いかけられたイザナギが、醜女の撃退に用いたのが髪飾りが変化した葡萄、櫛が変化した筍、そして傍らにあった桃の実で、最後の桃の実の神通力に恐れをなして醜女は逃げ出してしまっています。
このように桃を神聖視するのは、桃が一本の木にたくさん実を結ぶことから多産に通じ、また桃の種や実、葉には閉経回復や血行促進などの漢方薬としての効果があることがその根本にあります。つまり桃は回春薬の一種なのです。
そして、仙木である桃からの誕生とは、一種の英雄誕生奇譚であるといえます。英雄誕生奇譚とは何かというと“英雄・偉人のような通常人と違う人間は、その誕生からして普通ではない”という考え方です。このような考え方は日本に限らず世界中に普遍的に存在します。
その頂点にあるのが、白い象の夢を見て妊娠した母親の脇の下から生まれると同時に三歩歩いて右手で天を左手で地を指して、「天上天下唯我独尊」と語ったという釈迦誕生奇譚です。また、西洋でもマリアの処女懐胎や預言者の登場などキリストもまた誕生奇譚をもっています。マイナーな例も挙げるなら、北朝鮮の金正日総書記もまた、誕生のとき霊山に雷が落ちたという誕生奇譚をもっています。もちろん日本においてもそのような話は多く、有名なものでは豊臣秀吉は日吉神社の加護によって生まれたとする太閤記の話でしょう。
しかし、私やこれを読んでいるあなたはもちろん、様々な物語を作る語り手たちもまた、その辺の男とその辺の女が適当にまぐわって生まれた“その辺の人達”の一人です。自分自身が英雄にはなれないことを知っています。そこで自分がだめなら自分の子を英雄に、というのが誕生奇譚型の物語です。古い説話集には女性が蛇の変化した美丈夫と交わる話なども多く、例えば竹取物語、あるいは蛇女房、また飴を買う幽霊の話にでてくる子も長じて高僧になったと伝えられています。
桃太郎もそうした話の一つで、仙木から誕生したのだから普通じゃない、という話なのです。
ちなみに、桃太郎の話にはモデルがいまして、桃太郎=吉備津彦尊(だからきび団子なのか?)、犬=犬飼武、猿=鼓彦尊、きじ=楽々森尊(百里を飛べるとされた)で、いずれも実在した人物です。百里を飛んだというのは実際にはものすごい快足の持ち主ということでしょう。ところで犬飼ってどこかで聞いたことありませんか?そう、あの五・一五事件で暗殺された犬養毅首相です。実は犬養首相は伝説では犬飼武の子孫とされています。直系ではないでしょうが。さらに、桃太郎の原作者はかの菅原道真であるとも言われています。
ところで、もしあなたの知り合いが知ったかぶりをして「桃太郎ってなんで犬・猿・きじかって言うとなー」などとこの話をしてきて、鬱陶しかったらこう切り返しましょう。「東京芝の増上寺って知ってるか」と。
比較的有名な話に、比叡山延暦寺がなぜ京都御所の北東に建てられたか、という話があります。ここまで読まれた方なら察しがつくでしょうが、御所の丑寅に寺を建てることで、御所を鬼門から守ろうとしたわけです。徳川家康のブレーンとして有名な南光坊天海は、この比叡山に倣い、江戸城の鬼門に寛永寺を置くことで江戸城の守りとしました。ですから、寛永寺の山号は「東の比叡山」という意味で「東叡山」といいます。さらに天海は江戸城の南西、未申の方角である今の港区芝に増上寺を建てています。これはなぜかというと、陰陽道では丑寅を表鬼門、未申は裏鬼門といい、ともに不吉とされていたため、その裏鬼門の押さえとして増上寺を建てたのです。
つまり、丑寅の対極もやっぱり不吉なのに、そこにいる犬・猿・きじを神聖視するのはおかしい、ということになるのです。
もっとも、十二支において、犬・猿・きじの中央にあるのは何かというと、もちろんそれは酉でして、酉とはつまり西のこと。そして仏教では、西方(さいほう)には、阿弥陀如来のおわす極楽浄土があるとされていますから、酉とその両側の干支を神聖視するのもあながち間違いではないようにも思います。