COSMOS ; からっぽになってくれればいいの。

ひきつづき、宗教曲について語るおふたり。信仰・言葉・想い・・・

C ; 「まこっちさんは、宗教曲とかいっぱい歌ってるでしょ」
ま ; 「はい」
C ; 「あれは、どういう気持ちで歌うんですか、普通の人は」
ま ; 「普通の人は・・・うーん」
K ; 「普通の人はって、・・クリスチャンじゃない人はー」
C ; 「そうそう」
ま ; 「いや、だけど、内容とかあんまり考えなくなっちゃう、」
C ; 「一応、習うんですよね、指揮者に、ここはこういう意味でこういう風に、こういう気持ちで・・」
ま ; 「いや、あまりつっこまれないですね」
C ; 「え、そうなの」
ま ; 「ええ、ほとんど」
K ; 「訳詩を読んだりとかーしないんですか?」
ま ; 「いや、読みますけど、ほとんど、それは最初の一回とかなんでー」
C ; 「えー」
ま ; 「ほとんど、歌い方とか。ここがアクセントだからーとか。。。その程度はしますけどね」
C ; 「そうなんだ」
K ; 「宗教曲以外も歌うことあるんですか?日本語の歌も?」
ま ; 「歌いますよ」
K ; 「日本語の歌の時もそうですか」
ま ; 「うーん、そうですねえ、大人になればなるほど、そのへんは突っ込なくなってるというか」
C ; 「そうなのー」
K ; 「わたしは、ジョリメールでかなり、かなり詞のことで指導されるというか、言われることが多くて」
C ; 「それじゃ、そういう意味がこないよーとか、ね、しょっちゅう言ってる」
K ; 「だから、何を優先するかってことですよね、合唱の曲を作る時に」
C ; 「音が、いい声で、ピッチがはまってて、ハモってて、流れがこうで形ができて、
   その次に言葉がきたりするのかな」
ま ; 「うーん、ほとんど、いかないですもね、その段階にはいけない」
C ; 「段階ってことは、だから」
ま ; 「やっぱり、音楽としてまとめる方が先になっちゃう」
C ; 「だって、音楽ーっていうのは、あ、言葉じゃなくて音楽ーって狭い方の意味ね」
K ; 「メロディとかハーモニーのほうの」
C ; 「でも、歌である以上、言葉がついているわけじゃないですか。言葉も入って歌でしょう。。
はあーそれはびっくり・・・」
K ; 「だから、いってるじゃないですか・・」
C ; 「私ってあんまり普通じゃない・・」
K ; 「そうですよ」
ま ; 「自分が間違ってるとは思うんですけど」
C ; 「いや、間違ってるとかそんなモンダイじゃなくて、でも、きっと普通のコーラス大好きな人って
   そういう人が多いのかもしれないね。それが当たり前なのね」
ま ; 「高校ぐらいまでは、時間もあるから、そういうことやってたよなあ、って気はするんですけどね。」
C ; 「そお。。」
ま ; 「解釈が先にあって、そのための、っていうのは自分にはあったんですけどね。
   大人になるともう、そこまで、めんどくさくなっちゃってーいやそこまで、やりたいんですけど
   出来上がってる人とそうじゃない人の差があまりにも激しくなっちゃうから」

K ; 「出来上がってるって、音楽的な部分ですか?」
ま ; 「そう、声がでてるとか」
C ; 「あ、私はまったく逆で、うちのコーラスって、今はいわゆる専門的にやったような人が休んだり、
   いなくなっちゃったりしてるんですけど、それが、すごい音大出たようなひとから、
   いまだに音符が読めない・・かな?って人がかなりいたりして、めちゃくちゃなのね」
K ; 「へへへへ」
C ; 「その、めちゃくちゃいろんなひとたちの気持ちをひとつにするってことが、
   私にとって、きっと歌の意味なんだな。」
K ; 「ほお」
C ; 「だって、音楽的な経験関係なく、音符は全然読めませんっていう人だって、この歌のイメージと意味に
   共感することはできるわけでしょ?そこでひとつになれるじゃないですか」
C ; 「・・・そうなんだ、きっと・・ね」
K ; 「そ、そのようですね。」
C ; 「私、自分のやり方が普通だと思ってたから・・・そうなの、ふうん・・・そうか」
ま ; 「やらなくちゃいけないとは思ってるんですけど」
C ; 「じゃあ、逆に聴く時にも音楽が優先で聴く?」
ま ; 「そうですね」
C ; 「そうなんだろうね、そうなんだ(笑)」
ま ; 「そういう耳になっちゃってるんですよね」
C ; 「そうでしょうね」
K ; 「たとえば、ハモリがはらはらするような、それでずーっと歌っているところは、たとえ、
   すごくこう何かを伝えようとしていても、それがじゃまして聴いてられないってことあります?」

ま ; 「ありますよ」
K ; 「はあ〜」
ま ; 「だから、マタイ受難曲も曲として聴いちゃうんですよ」
C ; 「ああ、なるほど。」
ま ; 「曲として聴いちゃうと、だから、ソロのところとかは全然つまんなくなっちゃって。
   まあ、普通のところはいいんですけど、長くて長くてきけないやーって」

K ; 「あれに似てますよね、絶対音感ある人が、音程として聴いちゃって曲として聴けないーみたいな」
C ; 「うーんと、今のでいうと、音楽と言葉って言うのが両方入ってて歌だとするじゃない?
   それで、こっちがちゃんとできててはじめて、この歌のコトバの方に意識が広がる、聴く時も歌うときも。
   っていう順番があるように聴こえるんですけど、私は、この音楽と歌が両方がひとつになって、
   その表現が出来てる時にはじめて何かが届く。
   だから、いくら歌だけ、音楽的に声がちゃんと出てて、ピッチが合って、ハモってたとしても、
   言葉をぜんぜん、そうやって歌おうとしてなかったりしたら、届かないものがいっぱいある。
   で、逆に、気持ちがいっぱいあって、その言葉をほんとに心を込めて気持ちひとつにして言ってれば、
   ちょっとぐらい、あんまりひどかったらやだけど、ちょっとぐらい音程がひどい場所があったとしても
   ぜんぜんOKなの、そんなの。。。だから、審査員にはなれないですね(笑)好みでぜんぶつけちゃう」
K ; 「それって好みなのかなあ」
C ; 「好みじゃないのかな。好みっていえば、ハモってなきゃ絶対だめっていうのも好みーなのかな」
K ; 「好みって、たとえば、同じように届いてきたとしても、あ、この歌は好みじゃないっていうのも
   あるじゃないですか」

ま ; 「有名な指揮者とかでも、ぜんぜん宗教は信じてませんていう人はけっこういるみたいで。。。
   ヴェルディのレクイエムを、あれを振ったアバドっていう指揮者も、宗教自体を信じてませんていう人で、
   でも、曲を聴いたら素晴らしいって思っちゃう」

C ; 「ただねえ、外国人の・・・また話が広がりすぎるけど、まあいいや。外国人の場合はねえ、
   宗教を、キリスト教を信じてないっていっても、文化のベースにキリスト教があったりするじゃないですか。
   だから信じてなくても別にいいの。何かが、本質的なことがわかってれば、それでいいんだとは思うの。
   だけど、全然意味も知らないで歌えるのかなあ、って感じがあるのね。」
C ; 「でも逆に意味を知らなくても、宗教曲ってすごく音がきれいで、ほんとにこう天上の音楽のような
   響きが出る、それが素晴らしいって思うってことはそれはそれでいい曲もあると思うよ。
   だから、全部が言葉に心をこめてって言う意味ではない。ただ、何を歌ってるか。。。
   歌ってる人たちが、何を歌ってるのかをぜんぜんしらないで、でもいい音程でいい声で、ハモ・・・ったら、
   それはそれで、その音楽がもっているものは伝わる、とも言えるんだよね。
   それでいい曲もあるのかもしれない」
K ; 「そこはどうですか?」
ま ; 「うーーん」
K ; 「そういう、なんか言葉をこえた、音楽のハーモニーの伝える力みたいなのがあれば。。」
C ; 「だから、歌い手がまったく楽器になっちゃって、言われたとおりの音を言われたとおりに出せば
   そこに音楽が出来る」
ま ; 「子供の声とかで歌う宗教曲を聴いたら、信じてなくても感動しちゃいますよね」
C ; 「そう、それはだから曲自体がもうもっている力ですよね」
ま ; 「曲の力ですかね」
K ; 「ということは、パイプオルガンと人間の声と同じ楽器としてとらえるかということ。。。」
C ; 「でもパイプオルガンも弾く人がいて、同じピアノの同じ曲が、ピアニストのタイプによって、
   全然違う曲になるでしょ。片方の極端が、フジコ・へミングさんみたいな感じで、もう、うわーって
   出します〜って、ああやって出てくる人と、全く自分を消して、ほんとに忠実にその音の中に入っていって
   できるのと、ぜんぜん違う、どっちも音楽じゃないですか。
   で、ある種のーあ、宗教曲っていう必要ないね、ある種の曲は、言葉の意味もわからなくても、
   書いてあるとおりに歌えば素晴らしい音楽になると思うけど、私は、少なくとも日本語の曲に関してはー
   日本語の曲だけじゃないや、本当に、歌い手が言葉の意味、言葉に心を込めて歌わないと許せない、
   足りないって思うものがあるかな。2種類あるかもしれない」
K ; 「そういう意味で足りないと思うことあります?合唱を聴いて。上手いんだけど・・・」
ま ; 「うまいけど何かが足りない・・・」
K ; 「曲の途中で帰っちゃったっていうのは、うまいんだけど、これ以上聴いていなくていいやって・・・」
ま ; 「それと結びつくわけでは・・」
C ; 「それと違う?」
ま ; 「だけど、歌詞を信じてなくても、宗教曲とかそうだけど、音楽を信頼してるというか
   音楽を信じているっていうのは好きなんですけど」

C ; 「ああ」
ま ; 「だから、子供の宗教曲聴いて、信じてもいないのに感動したりするのはーそれかなって。
   とにかく音楽を信仰してるというか・・・それも宗教のひとつ?って思ったりするんですけど」

C ; 「ああ、それはそれですごくわかるなあ。違うかもしれないけど、私の言葉で言うと、
   それぞれの合唱団の個性っていうか、その合唱団らしいアプローチで何かを作ってくれるんだったら
   すごくいいけど、それが違って借り物だったり、まねだったり、なんか違っちゃってると、
   うまくてもきっと、面白くないというかそれはあるね。」
C ; 「そうするともう一個宗教曲のことで、モンダイなのはね、じゃあ下手でもいいから心をこめて、
   信仰のある人が歌えばいいのかっていうと、それはもちろんそうじゃない、それだけじゃだめなのね、
   だけど、うーーん。。
   何年か前にね、東京のクリスチャンばっかりで作ってる合唱団がヨハネ受難曲をやったんですよ、
   日本語でね。聴いてません?キタラ大ホールでやったんだけど。
   でね、最初は私ね、ああなんか足りないって思ったのね。声も届き方も、音楽としては足りないなって
   思ってたのに、でも、最後にはすごく感動して、共有できるのね。それはやっぱりクリスチャンの人たちで、
   意味が、ほんとに心からそういう言葉どおりの気持ちで歌ってるのが、もう、伝わるとか
   そんなレベルじゃない、もうそういう空気がどんどんできるっていうか。
   あれはその音楽としての感動じゃなくて、礼拝の時の感動と同じ。
   でも宗教曲って本来そういうものなのね、ホントのほんとは、最初はね。
   だから、そういう風に聴きたい曲を、すごくうまいけど、全然言葉の意味を考えないで歌ってると、
   いやなの。なんかこうさめちゃうというか。なんか、下手なほうがマシっていうくらい。
   うまいだけで心が入ってない宗教曲って、とってもいや」
ま ; 「ほお」
C ; 「なんか、偽善者みたいで」
K ; 「ふうん・・これはオフレコなんだろうか、うーーん。」
C ; 「いや、一般的なことを言ってるんです、いいですよ。。、そういうのは大っキライっていう。」
C ; 「・・・そうかー今話しててわかったけど、音楽を聴こうとして聴く耳と・・・」
K ; 「そうそう」
C ; 「そこがもともと違うっていうことね、宗教曲聴く時の私がちがっちゃってる」
K ; 「きこうかなーどうしようかなーって・・」
ま ; 「普通の曲とは違う耳で」
C ; 「当然違っちゃう。耳を別にモードをかえるとかそんなんじゃなくて、当然変わっちゃう。」
K ; 「歌う側として、こう、ためらいはないんですか?」
C ; 「うん、」
K ; 「ごめんなさい、自分がそうだからーなんていうのかな、歌っていいのかな私がって気持ちが
   先にたっちゃって歌えないんですよ。いや、歌うことは歌うんですけど、すごくその、そういう気持ちを
   持ちつつ歌っている自分がいて、だけど、歌ったら歌ったでそれなりに、これが歌の持つ力なんだって
   実感はあるんですよ、だけれども、いいのかなーっていうのがすごくある、すいません・・」
K ; 「だから、掲示板のやりとりを読ませていただいて、どこらへんで、そう思ってらっしゃるのかなって」

ま ; 「昔、某合唱団の30何周年で、ヴェルディのレクイエムを歌って、200人位集まったんですけど
   それが、ぼろくそに言われたことがあって、あいつらはイベントのために集まっているだけだーとか、
   宗教をまったくわかってないくせに、って。それには、むかっときましたよ」

C ; 「ああ」
ま ; 「そこまで、全員歌詞を考えてやらなきゃいけないものかーとは思いましたけどね」
C ; 「目的が違うんだよね、宗教曲を使って、お祭りをやるっていうわけ・・・かな?・・・」
K ; 「・・い、いいんですかぁ?」
C ; 「そうか、それはでも、いいとか悪いとか誰かが決めるんじゃなくて、それもありっていう人と、
   それはやだっていう人がいるのはしょうがないわけよね。」
K ; 「ふうん」
C ; 「逆に、私が仏教の歌を歌わなきゃなんない、歌うとして、どんな気持ちで歌えばいいんだろう。。
   だって、イメージはわかるよ。宗教的な共通の気持ちっていうのはあるから。だけど、仏様っていう言葉を、
   こんな中途半端なほんとはわかってない人間がいっていいんだろうかって、私、思うだろうなあ。
   私は歌えないと思う。」
C ; 「だからっていって、クリスチャンじゃない人が歌っちゃいけないってことでは全然ないんだけど。
   それと、あの、Yさんも書いてたけど、あれ、わかるんだよー、なぜわかるのか、わかんないんだけど・・」
K ; (笑)
C ; 「ほんとに信じてそこに信仰の心を持ってこの歌が歌われていて、その心が歌に乗って届いてるか、
   音だけで中身は何も考えないで歌っているか、わかるんだよ。なぜ、どこがどうだからっていうんじゃなくて。」
ま ; 「なんか、本で読んだんですけど、日本で一番人気のあるレクイエムっていうのが、
   フォーレのレクイエムで、どうしてそれが日本人にウケるかっていうと、その理由は日本人がもともと
   信じてないからじゃないか、ほんとにキリスト教を信じている人ならあれを好きにはならないだろう、って
   いうことが書いてあって、ある程度適当で、おいしいとこどりのっていうか、無宗教だから、
   あれをよく思うんじゃないかー実際に、フォーレ自体が、カトリックの教会に勤めてはいたけれど、
   あんまり信じていなかったんじゃないかって。歌詞とかも大事なとこが抜けてて、おかしいんじゃないかって、
   本場の人には言われてて。」

C ; 「あのね、それはそうなのかどうかもわからないし、そう簡単に言えることかどうかもわからないけど
   少なくとも、バッハの、この間のーって限定してもいいや、この間の聖トーマスのマタイ受難曲に
   その、音楽の中に神様が入っちゃってる感じ、すごいへんないい方だけど、
   わざわざ何かのために作ったっていうんじゃなくて、もう、神様に作らされたんじゃない?、って
   感じに聞き取れちゃう」
ま ; 「マタイ受難曲自体が?」
C ; 「理屈じゃなく、すごいストレートに天国とつながっているっていうか」
K ; 「じゃ、歌ってる人たちは巫女さんなんですか?」
C ; 「うん、だから、わざわざこうやって表現して、ってやってほしいんじゃなくて、
   そこに神様に向かって身体をあければ、それが通ってくるっていう感じ。この間のはそういう風に聴こえたの。」
K ; 「へええ」
C ; 「だからソロなんかがそんなに一生懸命歌わなくていいわけ。からっぽになってくれればいいの。
   媒体であればいいっていう感じ。」
K ; 「ほかの、宗教曲以外の歌でそれはないですか?あるのかしら」
ま ; 「宗教曲の他に?」
C ; 「あるんじゃない?そういう風に届く歌ってあるよ。宗教じゃなくても、なんかこう、
   どっかとつながっているみたいなかんじ」
K ; 「たとえば、歌を作った人の想い・・・」
C ; 「想いというか、歌が出来ちゃった・・私ね、知らない歌だったら作曲ができるんじゃないかと
   思うんだけど、いつも曲が聴こえてるの。
   ある種の作曲ができる人って、聴こえちゃうんだと思うんだよね。
   仏像をね、木を見てたら、そこからこう仏像が見えてきて、そのとおりに彫ってるだけ、とか。
   わたし、それ、すごいよくわかるの。ジョリメールがこれを歌うんだったらこうでしょうって聴こえるんですよ。
   そのとおりにしているだけなのね。」
K ; 「ほお・・(笑)」
C ; 「そう、なんだよ」
ま ; 「ふうん」
K ; 「はじめてききました」
C ; 「だからきっとそういう風に、なんか自分が作り出したとか、表現しようと思ったんじゃなくて、
   聴こえちゃってできちゃった音楽ってけっこうあるんじゃないのかな。」
K ; 「ふうん」
C ; 「それって、なんか余計な小細工をして表現をしようとかどうのこうのとかしないで、
   カラッポになった方がちゃんときこえる、みたいな。」
ま ; 「ふううん」
K ; 「ちょっと、あまり神がかった指揮者っていないですよね(笑)」
C ; 「そう、なのかな・・・・」


そして話は、神社から雅楽・民謡、ゴスペルとコーラスの微妙なカンケイ??へ

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