Wodanの徒然草

時間がない〜日頃の健康

目次


時間がない 細菌の話  歴史  子供の頃のテレビ  携帯電話  いらなくなった本  懐かしのヒット曲  外国語教育  ホームページ作り  テレビ  古典教育  人命は地球より重い  イメージ  お彼岸  不惑  大型店舗    クラシック音楽  花粉症  鉄腕アトム 論文
 SARS  哲学  デジタル社会   日本社会  国語力   娯楽    SARS続き   日頃の健康


時間がない

 よく時間は作れといいます。しかし、どうも最近その時間を作ることができなくなってきている自分に気づかされます。のんびりしたいなと思っても、気持ちが焦って何もできません。のんびりと読書をしたいと思ってもそれもできない。のんびりホームページを作成したいと思ってもそれもできない。いつも時間に追われている感じがします。最近は年のせいか、あまり夜更かしができなくなっています。学生のときに徹夜や寝不足をかなりしたためかななどと思っていますが、どうも疲れやすい。今も睡眠は不足しているような気がします。しかし、7〜8時間も寝ているのです。そんなに寝ていれば、当然やりたいことも出来なくなります。効率的時間の活用とよく言います。しかし・・・そのためには難問があります。

 撮りためたVIDEOをパソコンに取り込んで編集したり、自分の書いた様々な原稿(手書き)をやはりパソコンに取り込んでまとめてみたいなどとも思っているのですが、じっくりする時間がないのです。せめてパソコンのCPUが今の2倍くらいあればもっと楽にVIDEOの編集ができるのにと思います。ハードディスクに乱雑に保存されたファイルなども整理したいのですが、どんどんたまる一方で…

 こういうものはまとまった時間がないとなかなか手をつけられません。特にビデオの取り込みと編集、保存となると30分くらいのビデオテープでも3〜4時間かかってしまいます。しかも、最終的にはCD-Rに書き込みたいのです。そう思うと時間が全然足りないと思うのです。もちろんパソコンを暇なときにずっといじっているわけにも行きません。

 たぶん性格的にせっかちなんだと思います。人からはそのように言われることはほとんどありませんが、パソコンに作業をやらせて何時間も待つというのがなかなかできない性分です。どうもパソコンに縛られた生活を送りたくないのです。しかし、パソコンで遊ぶのは好きです。そのようなギャップがひとつのストレスにもなっています。同じような悩みをお持ちの方はいないでしょうか…


  細菌の話

 みなさんは細菌を培養したことがありますか? 多くの方はないと思います。しかし、ある種の職業の人たちは細菌を培養し、検査や研究を行っています。病院などで細菌培養のために肛門から綿棒を入れて、その綿棒を検査に出したことのある人は沢山いると思います。

 細菌は人体内にも沢山常在菌として住んでいます。よい菌と悪い菌がいます。また、人体内のある部分に住んでいる分には問題なくてもある部位例えば血液の中とか、呼吸器の中に混入すると悪さをするということもあります。

 細菌はある種の条件下では非常によく育ちます。その条件も菌の種類によって異なります。塩分の多いところが好きな菌や温泉の中でないと育たない菌だとか、室温がよかったり、低温がよかったりとバラエティーです。

 これらの細菌は条件さえそろえばものすごい速度で増殖します。数ミリグラムくらいの喀痰や膀胱炎などの尿でも寒天に塗りつけるとコロニーをどんどん作っていき1日か2日でそこに細菌がいたことがはっきりわかるようになります。この作業を一回でも見てしまうと細菌感染は簡単に起こりうるのだなってわかると思います。

 清潔すぎると今度は免疫力が衰えてしまいます。しかし、ちょっとしたことから病原性の細菌は簡単に口の中に入ってきたり、やけどや傷の部分に入って繁殖するということは十分に理解しておいてもいいと思います。


歴史

 歴史とは何か。

 歴史とは為政者を正当化するためのひとつの人文科学であり、思想ではなかろうか。あるいは為政者を誹謗し貶めるための人文科学であり、思想ではないだろうか。

 どのような時代にも歴史があり、歴史学がある。ところで、どの時代の歴史も、それを記述する人にとって不都合な事柄は曖昧にするか、あるいは抹消していないだろうか。しばしば歴史に学べという。しかし、それは過去の例を取り上げて自説の説得力を増すために作られたものばかりではないだろうか。すなわち、歴史学は人為的なものである。

 歴史学者にとって歴史は真実であるということもあるが、真実であるという義務はない。客観的記述というものがあるか。客観的記述というのはありえない。客観的に記述をしようと考える時点で主観が入っているのである。主観は客観に変われるものではない。そのようなことは矛盾である。ある歴史的事象が隠蔽されていて百年後明らかになることもある。

 しかし、為政者にとって都合のよいことが必ずしも支配される人々にとって不幸なこととは限らない。そこは各個人の環境や状況に応じて異なる。また、生きる目的を与えるひとつの教育でもありうる。

 現代は相対主義で、人々は歴史学の唱えるものを正しいと信じてもそれは個々の興味であり趣味であるかという問題に帰結する。一方、現在教育されている歴史学が、誤っていると考え、その他で唱えられている歴史を支持することも現代の日本では許容されている。真実はひとつであろうが、人それぞれで個々の事象に与える意義は千差万別である。ひとつの歴史観や世界観で解釈したものを他人に押し付ける事は個人個人の自由に対する侵害であり、名誉毀損である。国家が与える歴史解釈に疑問を呈するのは自由である。しかし、その疑問を押し付け、強要するのは問題ではなかろうか。百年後今の国家による歴史観が現在と同一であるとは考えられないし、一方で在野の歴史観が百年後も同じものであることも考えられないからである。もし、これを押し付けるならそれは、信仰の強要と同じであろう。


子供の頃のテレビ

 私が子供だった頃は白黒のテレビでした。鉄腕アトムも鉄人28号も初回放映時に観ています。子供の頃はテレビ漫画ばかり見ているとよくしかられたものです。当時のテレビ漫画というのはテーマが明白でまた、勧善懲悪のものが多かったと思います。雑誌の漫画などでは必ずしも勧善懲悪とは限りませんでした。テレビはいろんな年齢の人が観るのであまり、非道徳的なものは好まれなかったのだと思います。それに比べると今のテレビ漫画は内容も色彩も豊富です。また、映画などは非常に美しく作られるようになりました。私自身はもはやテレビ漫画を見ることはありませんが、子供にはあまり見せたくないなと思うのです。
 テレビ漫画が情操教育までフォローしてくれるとは思えません。しかし、製作者によってはそこまで考えているかもしれません。それが、良心だと思っているかもしれません。子供の心がすさむようなものから温かい気持ちがはぐくまれるようなものまでいろいろあるでしょうが、子供が一度テレビ漫画の面白さを覚えてしまうと、絶えずテレビ漫画を求めるようになると思います。子供にはよい漫画、悪い漫画を区別することはできません。ですから、はじめから見せなければすむのなら見せないほうがいいのではないでしょうか。それよりはもっと情操教育に役立つようなプログラムを漫画という形ではなくテレビ局が与えてくれ、また、非道徳的なものは一切放送しないで欲しいと思うのです。言論の自由といいますが、言論の自由が本当に幸せなのでしょうか。発言者にとっては都合がいいが、それを聞いたり見たりものにとってはそれが醜悪であり、不快であり、不幸であることがあるのです。
 その基準をどのように求めるか、それが問題です。基準は人によって異なるからです。価値観の相対化は本当に正しいでしょうか。社会の様々な問題は多くの場合、否、ほとんどの場合、価値観の相違から生じております。世の中が堕落し、退廃的な文化が栄えていくのは自由を主張しすぎ歯止めが利かなくなった人間の欲望がその源泉なのではないでしょうか。


  携帯電話

 携帯電話はここ数年物凄い勢いで普及しています。インターネットにつながり、ホームページを見たり、メール送受信ができるようになってより多くの人たちが使えるようになりました。これらはパソコンを持ち歩かなくても情報収集や人とのコミュニケーションが可能となったために非常に便利だと思います。
 私自身もしばしば携帯電話を用いてメールをします。相手が電話を取れないときでも自分の意思を伝えられるので重宝しています。
 しかし、パソコンで見られるネット情報はかなり多くの無料で見られるコンテンツがあります。もしある情報提供者がAという情報を有料でインターネット上で配布していたとしてもBという人が無料で配布していることもしばしばです。一方で携帯電話で見られるホームページは多くの場合有料です。無料のものももちろん数多くありますが、携帯電話で検索するとパケット量が発生し、膨大なデータ量の中から目当てのものにたどり着くのに結構無駄な料金を支払うことになるのです。また、一応HTML文書は(携帯の機能にもよりますが)ある程度の量までは読み込みできるようですが、思う存分情報収集に役立つとは思えません。また、携帯電話用に作られたHPは利用者にとって暇つぶしのようなものが非常に多いと思うのです。もちろんそうでないものも沢山ありますし、あるときには人の命を救うこともあるから無用というわけではないのですが…
 もちろんパソコンでも同じ様に通信費や接続料が発生するのですが、携帯電話よりも使い方さえうまくすればずっと格安に多くの情報を入手できるのです。しかも、情報の質も携帯電話で見うるサイトの数よりずっと多い中から選べるので、検索する人の経験や能力によってかなりの差がでてくると思います。携帯電話がもっと多くの情報をダウンロードでき、また、情報料金、通信料、パケット量の心配をしなくてもすむようなときがくればもっと便利だなと思うのです。今は写真を撮れたり動画を撮れたり、メールで送受信したりする機能がついている機種が増えていますが、やはり、コストパフォーマンスを考えるとADSLに繋いだパソコンなどと比べたら非常に低いと思うのです。
 これだけ普及したのだから次は料金をずっと下げて欲しいし、無料で見られるHPをもっと増やして欲しいと思います。今の状況ではバカらしくて、インターネットに接続するのはメールのやり取りをするときと、外出先で電車の時刻を調べたいときくらいじゃないでしょうか。普及している割には面白味にかけるのが携帯電話のインターネット機能だと思うのです。多くは経済効果に期待をかけているのかもしれません。そういう意味では今の不況の世の中に光を刺すのかもしれません。しかし、今のままずっと同じ状況が続くのであれば、きっとユーザーは飽きてしまうだろうなと思います。


いらなくなった本

 世の中には本をごみとして処分する人が沢山います。私はこれは問題があるなと思います。もったいないなと思うのです。

 ごみというのはその時点で当事者が必要と思わず、また、自分の生活範囲からその外へ運び出したいもののことです。そのようなものは毎日生活をすれば必ず出てきます。しかし、ごみは今日いらなくても明日は必要かもしれません。人間の心は移りやすく今日必要でも明日ごみかもしれません。思い切って捨てられれば物は減っていきます。しかし、整理したいなとは思うのが人の常です。整理術の本などを見ていると、一年間使わないものは捨ててしまいましょうなどと書いてあります。まあ、そうかもしれません。しかし、まだ使えるものを捨てるのはやはり、抵抗があります。

 ある物体をごみと人が認識するのはどのようなときでしょう。例えば読んでしまった新聞を後生大事にとっておく人は少ないと思います。しかし、切抜きをしている人にとっては切り抜かれた部分はごみではありません。その人その人で明らかにごみと判断されるか保存するべきものと判断されるかが異なってきます。何かにとらわれているとそれはごみとはならないのです。

 昔の日本人はあまりごみを出さなかったかもしれません。それはものを買うことがあまりなかったからです。一方今の日本は何かを購入し消費することを知っています。これによって経済が活性化されるとより日本が栄えるような感覚がありました。

 バブル崩壊後また、消費はしりつぼみになっています。しかし、本当に消費がしりつぼみになったわけではないと思います。購入金額は低下しても、購入する物の数はそんなに減っているわけではなく、単に安いものを探し出して購入しているからです。また、車や冷蔵庫のような高額製品は一度買ってしまえばしばらくは必要となくなります。ですから、バブル崩壊後もごみの量はもしかすると減っていないのかもしれません。

 私はそれほどごみを出さないほうだと思います。どうも、なかなか物を捨てられない性分だと思います。もう少し思い切って捨てられたら部屋も片付くのにと思うのですが…何でもかんでもいらなくなったら捨ててしまうのはやはり問題だと思います。それなら、リサイクルして欲しいと思います。書物や衣類などリサイクル可能なものは沢山あると思います。私の知り合いで今から20年くらい前なのですが文庫本などを買い、通学途中で読書をし、読み終わったら駅のゴミ箱に捨てるという人がいました。

 私個人の考えでは世の中の人が書物は絶対にごみに出して欲しくないと思っています。本というのはベストセラー以外だと一度に1000〜3000部くらいしか印刷されずその後重版のないものが沢山あるのです。貴重な文化財もあるかもしれないですから、これはオークションや古書店で処分して欲しいと思うのですがいかがです。


懐かしのヒット曲

 最近懐かしいなと思う曲がありません。何かこうノスタルジックなムードになれるものがないのです。
 テレビやラジオで昔の曲を頻繁に流しているせいか、現在も過去もあまり考えなくなってきました。懐かしの何とかって言うのはもう、過去のものかもしれません。昔は良かったって思うことも余りありません。ただ、昔のヒット曲は今より古臭いなとしか思えないのです。こういう感覚になったのはテレビの影響だと思います。最近はテレビもほとんど観たいと思えるものがありません。40を越えると昔の人たちは自分が若かった頃の音楽を聞いて懐かしいなと思ったのかもしれませんが、今は過剰に音楽が流れていてかなり鈍感になっている気がします。しかし、ひとつだけ懐かしいと思えるものがあります。それは洋楽です。今も学生の頃も意識して洋楽を聴いたことはないのですが、自分の学生の頃に流行った音楽は当時のことをいろいろと思い出し、感覚もよみがえってきます。
 テレビではあまり、懐かしい洋楽というのを放送しないからだと思います。ですから、洋楽なんてそんなには聴かなかったにもかかわらずノスタルジックな感じがしてくるのです。聞いていると忘れていたクラスメートの顔が浮かんできます。
 テレビやラジオはちょっと「懐かしの〜」という番組を今まで流しすぎたのかもしれません。また、街の店などで自然と聞いてしまったのかもしれません。
 新しい面白い番組が少なくなると懐古趣味な番組が作られるのかもしれませんが、懐かしい音楽がなくなってしまうことは非常にさびしく思います。ですから、ある種の不可侵的な神聖さを持った郷愁の内的領域まで侵食するような番組がなくなってくれればと思います。そして、本当に自分が老人になった頃学生時代に聴いた曲が聞けたらなと思うのですが・・・皆さんはいかがでしょう。


  外国語教育

 今から20年位前は第二外国語として多くの人たちがドイツ語を選択していました。医学・科学・哲学・社会学・心理学などはドイツ語でないと読めない文献が多かったからでしょう。もっとも医学は戦後は米国から来た文献で学ばれたので、ドイツ語の重要性は戦後と戦中とでは著しく異なるのです。
 最近は小さな本屋だとドイツ語の参考書は置いてなく代わりに中国語や韓国語・イタリア語などが置かれるようになって来ています。20年前と比較してもドイツ語学習者は減ってきているのではないでしょうか。
 もちろん一番多く学ばれているのは英語です。最近は英語教育もだいぶ変わってきているようです。その教育方法の効果はわかりませんが、私が高校生のときと比べたらぐっと会話の勉強する機会が増えた気がします。私は高校生のとき英語が読めたらな、とは思いましたが、英語が話せたらなとは思いませんでした。外国の友人など一人もいませんでしたし、私が住んでいたところにも外国人はいなかったからかもしれません。
 後からわかったことですが、十代の貴重な時間を無駄にしたなと思います。当時外国語をある程度まで理解できるようになるにはどのくらい勉強したらよいのかが全くわからなかったから、「どうせ勉強しても英語なんて出来るようになんかなるものか」と思い、受験で必要な英単語をちょっとだけかじった程度で勉強しなかったのです。今思うのはどうせ勉強するなら役に立つまで位はやっておけばよかったな、ということです。
 今、私は英語を学ぶ時間は作る気持ちはありません。勉強する時間がもったいないのです。英語よりはドイツ語のほうがわかるのですが、そのドイツ語がある程度の状態にするまでには相当な時間を要しました。その経験を考えると英語がそのドイツ語力に到達するまでにどれだけ時間を要するかはわかります。そのような時間があれば、すでに錆付いているドイツ語力をアップしたいですし、さらには仕事の超音波画像診断の勉強する時間に当てたいのです。語学は毎日しなければすぐにその実力は落ちていってしまいます。
 今外国語を学んでいる中学生、高校生の皆さんはぜひ中途半端にではなくしっかりと自分の第一外国語を学んでください。今が一番吸収できるときですから。


 ホームページ作り
 ホームページを作ることは楽しくもあり、苦しくもありです。ホームページ作りで、自分の思っていることを上手に表現できたときは非常に楽しいです。また、閲覧者が多いとその日はご満悦です。しかし、思い通りに行かないでしかも、閲覧者が少ないとがっかりですね。ある時は物凄くいらっしゃってある時は全然です。このムラはなんだろうと考えるのですが、さっぱりわかりません。また、この娯楽館と医療館とではヴィジター数が全然違います。医療館のほうが多いんです。医療館は臨床検査がメインだからはっきり目的が見えるのでしょうか。一方こちらの娯楽館は私の趣味領域です。特にこれがメインというものはありません。自分の楽しいものが他の人に面白ければいいなと思って作っています。

 以前は医療館のアドレスだけでした。大きくなったので思い切って医療関連とその他の物とを分断し、別のアドレスを作成したのです。段々とホームページが大きくなっていくとまた、娯楽館が分裂していくと思います。

 自分が訪れたいホームページというのはやはり、テーマが明確なものです。ある語句を検索ロボットを使ってアクセスしていくやり方をとります。そして、広く浅くではなく狭く深いホームページのみ観ています。

 娯楽館では時間はかかりますが、広く深いホームページを作れたらなと思います。


テレビ

 最近めっきりテレビを観なくなりました。パソコンでニュースを見たり、いろいろ情報を集めたり、メールをチェックしたりしているとすぐに寝る時間になってしまいます。テレビとパソコンでは両方ともモニタを使いますが、テレビは好きなときに自分の欲しい情報が手に入りにくく、またその情報の質もどちらかといえば万人向けです。しかし、パソコンを用いると自分の欲しいものをテレビよりはずっと忠実にしかもあまり時間とは関係なく入手できます。パソコンの操作に慣れるとテレビよりずっと便利なことを感じます。

 仮に今日の新宿の天気予報を知りたいとすると、テレビだと天気予報の時間にならないとそれを知ることはできません。しかし、インターネット接続した環境であれば、好きなときに調べることができます。

 家族の人たちがクロスワードパズルが好きでよく解いているのですが、こういうものもわからない部分は検索エンジンにわかっている文字を入力するとその文字を用いているページが沢山表示されます。また、インターネット上の辞書を用いても同様のことができます。

 便利な時代です。時間に追われてしかし、情報は入手したい人にはパソコン生活が非常に有効です。

 これだけ情報の入り口に立っていると選択する能力も必要になってくるでしょう。真実の情報と虚偽の情報の選別です。

 私はもともとドラマや映画があまり好きではないのでテレビを見ることが非常に少なかったのです。そして、その他の番組も要らない情報が大部を占めているので、パソコンのほうがずっと自分の欲しいものに接しやすいなと思うのです。

 ただ、新聞は読むようにしています。これは自分の考えが偏向しないようにです。モニタをずっと観ているとやはり疲れます。その点新聞のあの紙の肌触りと、インクの香りが非常に新鮮で心が落ち着くのです。

 私の子供の頃は娯楽があまりなくテレビやラジオくらいでした。今はPS2とかゲームボーイとかがありますから、テレビっ子も昔ほどはいないと思います。退廃的な番組がどんどん増えていってます。段々テレビが見離されていく時代が来るのではないかと思います。ある程度見離されたほうが良いと思います。そのときテレビの製作者たちは何が本当は求められていたのかを知ると思われるからです。あと、十年位でテレビもデジタル放送が主流になるそうですが、テレビを新しく買ったり、チューナーを取り付けたりと、面倒です。今のままの放送内容ではテレビの価値をそんなに感じないので、悩んでいます。 自分だけでなく子供がテレビを観て精神を破壊されていくのも見たくありません。現在自宅ではテレビが80チャンネル以上観れる環境ですが、観ている時間は20分もないなと思います。でも、選択肢を多くしていないと自分で選んで見ているのであるという主体性を感じることができないので、テレビ視聴料に九千円近くの投資をしています。テレビがつまらないからこういうことに返ってなっています。さびしいですね。


古典教育

 戦前戦中の翻訳書を読んでいると、文章が格調高く、また、意味がわかりやすいものが多いなと思います。ところが、戦後の本を読んでいると結局何が言いたいのかよくわからないというものに出遭います。全ての本というわけではないのですが、何度も読み直したいとあまり思いません。これはどういうことでしょうか。戦後の人が翻訳したものは今の人たちですから、自分と近い感覚のはずです。私は戦後生まれですから、近い感覚を抱いてよいはずだと思うのです。しかし、事実は違います。
 翻訳書に対して学生時代非常に違和感を感じていました。その後戦前戦中の翻訳書に触れるうちに何かが違うと思いはじめました。戦前戦中の翻訳書の多くはカタカナ語が少ないということです。今の翻訳書はひらがなやカタカナが非常に多いのですが、戦前戦中の翻訳書は漢字が多いのです。現代の漢字でないので最初は戸惑うのですが、慣れてしまえば、旧漢字であることは全く意識しなく読めるようになります。一方現代の翻訳書はカタカナが多く出てきますが、一見わかったかのような錯覚を受けるのですが、カタカナの元の単語の意味が本当にはわかってはいないので、煙に巻かれたような感じになるのです。
 戦前戦中以前の日本は漢籍を現在よりも重視していました。われわれ日本人は本当はカタカナより漢字のほうが馴染むのではないでしょうか。ですから、漢籍の素養のある人の書いた文というのはそれが西洋の文章であろうと日本語としてしっくりくると思います。もしこの考えが正しいとするならば、外国語の勉強をする前に日本人は漢文や古文の勉強をしてからの方がより正しい語学を身につけることができるのではないでしょうか。古文というのは漢文を学ぶ上でやはり、前提になると思うのです。ですから、古文も必須でしょう。
 文部科学省も英会話力をつけさせようと会話の時間を増やすようにしているようですが、その前にしっかりした日本語を見につけるよう、教育を受ける機会を国民に与えてくれればよいのにと思います。寡くとも自分はそういう教育を受けることができなかった悔しさがあります。


 人命は地球より重い
 日本では人命は地球より重いといわれた時代があります。
 最近の潮流はそれを感じることができません。昨年老人医療は窓口負担が無料であったのが、1割負担になりました。今年は社会保険の被保険者の負担が2割から3割となります。
 このことから病院での受診は急激に減少しました。そして、重症になってから診療を受けるような傾向となっています。しかし、現在の医療の多くは病気に対して不可逆的です。悪くなった臓器はたいてい元には戻らないのです。そのことを知らない人は病気が悪くなってから受診して「薬を飲めば治るでしょう?」とおっしゃるのです。

 医療負担が多くなれば受診者数は減ります。特に景気が悪ければ必然的です。社会保険の医療費負担が抑えられるのはわかりますが、そうすることで、確実に不幸になる病識のない患者は多いのです。これだけの改革を行うには、それが必要であるにしても、病気あるいは健康に対する国民への啓蒙がもっとなされなければならないと思います。病院に頻繁に行かなくてもいい状態とはどういうものか、必ず病院に行かなければならない状態とはどういうものかそういう教育が国民に十分になされているとは思えません。こういうものは小学校の一年生からしっかり教えてもいいと思うのです。
 今小学一年生で生殖器の名前を教えるというジェンダー教育が問題になっていますが、そんなことを教える暇があったら、もっと公衆衛生学をしっかり問題にするほうが先決ではないでしょうか。国民が不健康であれば、確実に国家は衰退するでしょうから!今の日本は人命を軽石より軽いとでも考えているのではないでしょうか。今、行われていることは姥捨てであり、病人を切り捨てる国家戦略にも譬えることができるでしょう。


イメージ(3月21日)
 
ホームページのデザインというのは非常に難しいと思います。自分のホームページを持つまではできてもその後が大変です。私はこのWodanの部屋の「娯楽館」と「医療館」を運営しています。「医療館」はやはり医療ですから少し堅めのデザインでいいと思います。ですから、トップページも直線がテーマです。こちらの「娯楽館」はやはり、直線ではリラックスできない。でも、ずっと直線のデザインでした。今日(平成15年3月21日)にちょっと丸いデザインに変えてみました。

 ホームページのデザインは作り手のほうは頻繁に見るわけですから、すぐ飽きてしまう。しかし、見るほうにしてみたらほとんどの場合は始めてくる方ばかりですから、頻繁に変えても意味がないかもしれません。どんなものがベストかというのはなかなかわからないものです。

 イラストがないとさびしいと思います。しかし、あまり多いと今度はダウンロードするのに重くて時間がかかってしまうかもしれません。そうすると、見てもらう以前に別のホームページにお客様は行ってしまいます。プロの人たちはすごいなと思います。非常に凝ったデザインでしかも、軽く作っていますからね。

 よくフラッシュ・ムービーがトップページにあるホームページがありますが、私は好きではありません。動画を見たくてネットサーフィンしているわけでもないのにそれが強制的に見せられてしまうからです。

 自分で作るときでもすばやく表示ができるように心がけているつもりです。また、これからもそうするつもりです。また、デザインも娯楽館に関してはできるだけ明るめにしていきますのでぜひご贔屓に。


お彼岸(3月23日)

 今年はお墓参りには行きませんでした。現在家族全員が乗れる車がないからです。電車で行くには乗り換えが多すぎるので一日がかりです。また、週末の金土日は仕事なので不可能でした。

 お彼岸は昼の長さと夜の長さが同じだといいます。随分日が延びました。でも、朝夕はまだ少し冷え込みます。こういうときに体調は崩れやすいです。現代は花粉症というものまであって非常に厄介です。病院は花粉症の人が大勢です。しかし、まだインフルエンザ感染症の人がいなくなったわけではありません。今日も二人インフルエンザに罹患した患者さんが私の勤める病院に、来院されました。これはインフルエンザ迅速検査キットで判定されたものです。おそらくは来院していない人たちの間でまだ、インフルエンザ感染症の人たちが沢山いると思われます。お心当たりのある方はぜひ病院で受診なさってください。天気の変動が激しい時期は体のリズムも同様に崩れがちです。

 また、今の時期は今まで寒くて物が腐りにくかったものでも、適度な暖かさで食べ物に細菌が増殖しやすくなります。冬の感覚で冷蔵・冷凍保存しなかったものは特に気をつける必要があります。

 自分が花粉症にかかってからはどうも春分の日というと花粉症をイメージしてしまいます。もう花粉症になってから23年です。一向によくなりません。困ったものです。

 お彼岸のお墓参りというのはあまり暗いイメージがありません。やはり日本全国の風習だからでしょうかね。しかし、核家族化するに従ってお墓参りも少なくなっているのではないでしょうか。


不惑(3月23日)
「四十而不惑」と孔子は『論語』の中で述べています。迷わずに生きていけるなどというのは聖人でないと無理でしょう。小さなことから大きなことまで人は普通迷います。迷って間違えて、反省して、人間的成長があるのでしょう。苦悩があるから考え、よりよい快適な生活を望もうとします。
 
現代日本は快楽の時代です。バブルははじけ日本の国際的地位は下がるばかりです。日本がよき国家であった時代に青春時代を過ごした人たちにとって、その揺り籠のような心地よさは忘れられないでしょう。その感覚を取り戻すために、人は働き、思考します。迷わないなんてありえません。衣食住に苦労しない人だけが迷わずやっていけるのです。40歳でも50歳でも迷ってよいと思います。また、30歳で立たなくてもいいと思います。立ってしまっては60・70の人はいったい何をしたらよいのでしょう。60・70でも現役で働いている方は沢山います。40代で学問を始めてもいいとも思います。40代で自分の仕事を決定してもいいのです。なぜなら平均寿命も延びているわけですから。


大型店舗
 最近は大きな店が増え、小さな店が少なくなっています。こういう傾向は消費者にとっては便利になっていると思います。沢山の店に行かずにひとつの店で済ますことができるかも知れません。ただし、やはり安くないと食指が動きません。また、画一化されているだけでは魅力はありません。個人個人はやはり、おのおの異なったものをその個性に従って購入します。もし、自分の欲しいものがその大型店舗になければやはり、別の店に行かなければなりません。

 大型店舗ができることで、個人個人の個性が失われることは大問題です。大型店舗で買い物を済ませようと思い、自分の欲しいものを別のもので代替しすぎると、個性はなくなっていくでしょう。大型店舗はどうしてもやはり、バラエティーに富んだ商品を揃えて欲しいです。一方で小型店舗には個性の強い「あの店にならある」という安心感を与えてもらえたらなと思います。


クラシック音楽
 最近クラシック音楽を聴く機会が少なくなっていました。忙しくなったために、CDをセットするのが面倒なのです。以前はこの気分の時にはこういうのが聴きたいというのがあったのですが、何が聴きたいかよくわからなくなっています。やはり音楽というのはいつも聞き馴染んでいるものが一番聴きやすいです。仕事中は有線で音楽が流れていますが、それはポップスです。しかし、ポップスというのは聞き流すのにはいいのですが、休日や仕事が終わった後あえて聴くとなるとやはり断然クラシック音楽が気分転換になります。
 私はR・ワグナーが大好きで十三大オペラの中でもニーベルングの指環が一番好きです。しかし、聴くとなると10時間以上かかってしまいます。そこで、その中でも好きな「ヴァルキューレ」の第一幕のジークムントとジークリンデの恋が燃え上がるシーンや「ジークフリート」の第一幕のジークフリートが剣を鍛えているシーンばかり聞いています。以前は「パルジファル」も好んで聴いていたのですが、なにかこれは鎮魂曲みたいでこれを聴くと自分は死ぬような変な強迫観念がでてきたのでそういう観念がでてからは一度も聴いていません。
 さて、ワグナーだけが好きかと言うとそれだけではありません。A・ブルックナーも大好きです。特に第八交響曲はストレス発散に役立っています。こういうのは大体ハンス・クナッパーツブッシュの指揮で聴くことが多いです。
 
ところで、最近家具が増えてしまい、部屋が狭く感じ始めているのですが、ステレオがかなりのスペースをとっています。このステレオを処分し、最近はやりのミニコンポにすれば部屋はずっと広くなるのですが、どうしても、現在のステレオを処分できません。ミニコンポでは1920年代〜1940年代のいわゆる歴史的指揮者たちの音を思ったような音で聴けるのかどうか不安なのです。ミニコンポも音がよくなったといわれていますが、本当にいいのか自分が聴き馴染んでいるものでないとあまり判断できないと思うのです。かくして、いまだ買い換えることができません。買い換えればスペースは6分の1くらいになりそうなのですが・・・
 眠りつけないときにはバッハがとても心を穏やかにしてくれます。おそらく音楽にはいろいろな心的作用があるのでしょう。皆さんにも心の一枚というのをクラシックでもお持ちになるといいでしょう。 


花粉症(4月3日)
 全く花粉症ときたら…今年は目のかゆみや鼻水だけでなく鼻閉まででました。葛根湯加弓川辛夷、メキタジン、アドメッセン、プリビナ点鼻薬、マゴチフェン点眼薬でしのいでいます。
 冬の間マスクをし風邪やインフルエンザ対策をしてきました。もうだいぶ暖かくなってきたので花粉症用の薄いマスクをしていたら、喉が乾燥したのでしょう、3月30日に頭痛、31日は何の症状もなかったのですが、4月1日朝急にだるくなり、2日は喉が痛く、ほぼ15時間ほど眠ってしまいました。それでも眠かったのですが、眠れず、3日つまり今日も非常に眠く、だるく、眩暈がします。
 食糧などを買いに行かなければならなかったので買い物には行きましたがどうにもこうにもパソコンの前にもやっとの思いで坐っています。
 去年も真冬より花粉症の時期の風邪のほうがつらかったです。風邪の細菌やウイルスは死んでしまえば体調が普通は戻りますが、花粉症の時期だと風邪からアレルギー症状が勃発し、体力を消耗してしまいます。大体いつも2週間くらいはひきずってしまうのですよね。今回は一体いつまでと心配です。しかし、花粉症というのはよく戦後の植林によって起こった病気といわれています。とすれば、人災だと思います。医療費はスギやヒノキを植林させた人たちが支払うべきではないでしょうか。にもかかわらず、4月からは社会保険の本人まで3割負担です。納得いきません。皆さんはどう思いますか。


鉄腕アトム
 
今年は鉄腕アトムが誕生した年だそうで各地で催し物があったり、おもちゃやお菓子が復活しています。私自身アトムで育った世代です。といっても、「少年」という雑誌ではなく、白黒アニメのアトムです。主題歌は非常に慣れ親しんでいて今でも覚えています。子供の頃はロボットランドの巻きという絵本もあり、何度も読み返しました。ここに出てくるサタンというロボットがなんとも魅力的でチンクというロボットがたまらなく怖かった覚えがあります。本当はサタンの方が悪役なのですが妙なことです。しかし、サタンはより人間らしく、チンクはどう見てもロボットなので気持ちが悪かったのかもしれません。アトム自体やはり人間的であってロボットを感じさせるものがないのもやはり好きだった原因でしょう。
 鉄腕アトムに出てくるロボットたちは加害者と被害者がいます。加害者に対しては違和感を感じさせません。人間の延長あるいは人間を超えた存在のような描き方だからでしょう。しかし、被害者はみな違和感があります。何か悲壮な貧相な異形の人みたいな描き方です。手塚氏は人種差別が地球に存在するという前提でその異形の人たちを描いているようです。しかし、この被害者たちはどちらかといえば、生まれてこなければよかったというメッセージを発しています。こういうニヒリズムが子供漫画にあったというのがひとつの奇跡だと思います。
 特に暴動などで壊れた手足の取れたロボットたちの顔つきは非常に寂しい。目を閉じることがないからなおさら寂しい。これはアニメでは表現されていなかったかもしれません。よく覚えていません。しかし、「少年」に連載されたアトムのロボット市民たちは一様にペシミスティックで、救いようがありません。
 この「少年」に連載されたのは昭和26年以降ですが、人間はそんな顔をしていなかったと思います。どちらかというと鉄腕アトムのような希望に燃えた目をしていました。でも、西暦2000年を過ぎた現代の日本人の顔つきはそんなロボット市民のようにさびしい目をしているように見えます。鉄腕アトムは何かを予言しているのではないでしょうか。
 願わくは再びあのロボット市民ではなくアトムや御茶ノ水博士のような目になれたらと思います。
 今日お菓子屋で鉄腕アトムのブリキのおもちゃのついているお菓子をつい衝動買いしてしまい、そんなことを思いました。「昔は良かった…」なんて自分は言わないだろうと思っていましたが最近思い始めています。


論文
 一年に一回は論文を書くようにしています。しかし、年々執筆時間が減ってきているようです。どんどん忙しくなっているのだと思います。パソコンを使うようになってから、その傾向はいっそう進んだようです。パソコンでしたいことがあまりに多いため、パソコンに向かっている時間が増え、その代わりに、読書をする時間がどんどん減っているのです。これはよくないのかもしれません。もちろん、インターネットを用いて論文を書くための情報収集も行います。しかし、最も重要なのは収集をした後の整理です。膨大になればなるほどその中からエッセンスを抽出する作業に追われます。また、論文は直接は自分の仕事とは関連がありません。いつも論文のために自分の人生を費やすわけには行きません。仕事のスキルアップも必要です。そのための時間は仕事中だけでは済まされずやはり、家にいるときにも必要となってきます。充実しているとは言えるかもしれません。こうやってHPを更新していく時間も貴重です。これ自体が楽しいのです。しかし、プライベートなことと論文と仕事は全て満遍なくうまくやっていかなければなりません。そうすると、時間の調節が非常に難しくなって来ます。楽しいからついこちらのHP更新にも時間を費やしてしまう。このHPを見てくださっている方がいらっしゃるのでそれがやりがいです。論文もHPも全部うまくいけばなぁと常々思います。ちなみに次回発表の論文の締め切りは9月です。また、このページで論文の進み具合など書けたらと思います。読んでいる方はつまらない??




SARS(4月4日)  新しいウイルスによる疾患が現れたようですね。いまだウイルスの同定ができていないようです。パラミキソ科あるいはコロナウイルス科ではないかといわれているようですね。抗生物質も効かないそうで、これはウイルスの場合は新型でなくても効かないですよね。
 エイズが現れたときも大騒ぎでしたが今度も大騒ぎということなのでかなり怖い病気のようです。感染者の3%の死亡率というのも高いです。厚生労働省も重大な問題と捉えているようです。しかし、何故そういう新しいウイルスが出現するか。生物兵器? ミュータント? それとも自然発生? もし人為的なものや環境破壊によるものであれば、われわれ人類はもう少し目を覚まさなければなりません。しかし、必ずしもそういう人為的でない未知のウイルスも地上には沢山いると思います。ウイルスが注目されるのは感染し、病気を起こすからその起因となる微生物の探求によって発見されるのであって、何も害をなさないウイルスも沢山いるのです。また、人間には感染しないけれど、細菌に感染するウイルスもいます。ひょっとすると、未知のウイルスが人間に感染し、やがて死をもたらすような疾患の原因細菌やウイルスを殺すこともありえるのです。この世の中にいかなる微生物がいるか、この探求が将来人類を救済するでしょう。



哲学
 近年大学には様々な新しい学問が出現し、学部や学科の再編成が進んでいるようです。時代に即した学問が興るのは当然ですし、必要です。しかし、そこには哲学がないといけないと思うのです。哲学はあまり盛んのような感じがしません。以前は不景気になると哲学が盛んになると言われていましたが、最近は哲学という言葉を耳にしなくなったと思います。
 なぜか、学問が専門化し先鋭化して行っているのにその先端を統括する哲学を問うということがなくなりつつあるのではないでしょうか。小手先の回避策で対症療法的に問題を解決していき、その結果さらに複雑な迷宮に入り込んでいるのが現代です。
 多くの現代の問題を哲学として問うのではなく個々の学問の中で解決する事を繰り返してきた挙句、何が問われていたのかも明確でなくなってくるのです。
  何でも問題解決する時にはフィードバックというのが大切です。最初の問題に戻りその地点と現時点での問題となっているものとの整合性を追及することです。その整合性を統括するときにどういう立場で見なければならないのかという方法論も取り上げられなければなりません。そして、「本当の最初の問題」がどこにあるかを見出す基準も必要です。そういうことを改めて問うということがこれからもっと必要になってくるのではないでしょうか。「本当の最初の問題」というのは存在論かもしれませんし、認識論かもしれません。それは結局は主観の問題になってしまうのかもしれませんが、出来る限り第一主題にまで問うようにしなければ、本当の人類の問題の解決には行き着かないと思います。
  なぜなら今多くの社会的問題は倫理が問われていることが多くの局面で見られているからです。倫理の問題は形而上学的な問題でもあるし、また、もっとも卑近な慣習の問題でもあります。宗教に答えを見つけるのではなくより、人間の本性に基づいた倫理学の創生が必要でしょう。しかし、倫理学だけでは、その現代的学問的意義が希薄になると思われます。そこでその倫理学をしっかりとした土台で支える哲学が必要です。それは真理であるとか偽であるとかという問題ではなく、ここ百年間あるいは五百年間くらい人間がよりどころにできる「学問」であればいいのだと思います。そのような学問を構築できる天才的な人が現れる必要があるでしょう。その天才は一切を単純化して明白な白黒をつけられるような人が望まれるのではないでしょうか。案外と答えは単純なのかもしれません。ある単純な観念によって世界の秩序が整理されると全ての人類が幸せになるというそういう観念をひょんなところから誰かが見つけることができるかもしれません。


デジタル社会
 現代は何でもかんでもデジタル化しています。デジタルというのは0か1かで全てを評価します。これは一見整然としていいような感じをします。しかし、現代社会が無機質な感じを否めないのもデジタル的に物事を判断することが求められてきた結果に生じたものでしょう。
 しかし、直観というのもやはり脳内のデジタルの働きによるものです。現代人は直観を働かす機会がまた少なくなっているのは事実です。全てがマニュアル化されつつあり、自分の判断で物事を処理するというよりはすでに制度化されているものに依拠しながら進めていきます。このことはあまり本人に意識されていません。
  このときはアナログ思考もデジタル思考もありません。ただ規制のものに準じて行動しているのみです。つまり何かの規範に隷属状態にあるということです。その何かの規範というのが問題です。自分で何かを生み出そうとしない限りわれわれの知的生活はどんどんむしばられ、自己を喪失していくのです。一時期、アナログ人間は駄目だといわれた時期がありましたがアナログ・デジタルを云々する前にもっと人間が主体をはっきり持っているということを認識し何かに依存するという行為をやめるようにしないと閉塞しているこの時代の波に押しつぶされてしまい、奴隷となってしまうに違いありません。
 人間は必ず目覚めることができます。しかし、そのためには眠っているということの自覚が何よりも必要なのです。


日本社会
 
日本がこのまま議会民主主義を続けていくと崩壊してしまう杞憂があります。大衆の欲望は巨大化し、その欲望に見合った社会生産が間に合わなくなってきているのです。欲望を縮小させなければなりません。しかし、大衆は逆に巨大化させることだけに収斂されていっています。国民一人当たりの借金は500万円というほどの財政赤字を抱えています。税金を上げれば国民は政府からそっぽを向きます。明らかに日本は没落に向かって行っています。消費力が衰えていると言われていますが、その前に生産がないのですから、消費が落ちるのも仕方ありません。一体誰が負債を負うか。子々孫々です。もはや政治は形骸化しています。このような日本にした人々は昔なら切腹物です。しかし政治家だけではありません。教育の形骸化も著しい。小学校でも学校崩壊が起こっているといわれています。 責任ある人々は全て責任をとる必要があるのではないでしょうか。



国語力(4月13日)
 
最近の日本人の言語生活は低下しているといわれ続けています。たとえば、ら抜き言葉があります。ら抜き言葉というのは〜できるという意味で動詞につけなければならない「ら」という言葉を省くことです。例えば、「食べられる」が「食べれる」というのがよく引き合いに出されます。ら抜きで喋らない人にとってら抜き言葉は非常に汚く聞こえます。
 「言語は常に流動的なもの」であるから、何が正しいかなどというものは存在しないと言う人もいます。社会的地位や職業によっても言葉は異なり、それを標準化するのは、言語の特性に対して冒涜的だという考え方です。

 私自身は標準語で育っていますし、標準語の地域でしたから、「食べれる」という言葉は一度も使ったことがありません。しかし、非常にこの人は知的水準が高そうだなと思う人が「食べれる」というのを聞くと非常に違和感を感じます。これは無意識に感じることです。ら抜き言葉を使う人はそれ自体は自由であると思うのですが、ら抜き言葉を使用する人は損であると思います。子供は食べるという語の動詞の活用を十分知らないから「食べれる」と活用することがあります。標準語の地域ではそれを大人が矯正して「食べられる」と直します。そうやって人々はら抜き言葉を使わなくなっていくのです。ら抜き言葉は標準語を子供時代から聞き使っている人たちにとって、聞き苦しいのです。ところが、ここ二十年くらいの間にテレビでもら抜き言葉を芸能人たちが使うようになっていますので、それが問題ないような錯覚を起こさせるのです。
 テレビなどでら抜き言葉が使用されるのが当たり前のようになっていますので、徐々にら抜き言葉は違和感を感じる人が少なくなってくると思います。しかし、現状では聞きたくないと思う日本語を愛する人たちの気持ちは揺れることでしょう。
 また、漫画ブームを受けて非常に読書の機会が減りました。不景気となってからは漫画すら売れない時代になりました。世界や日本の文学が読まれなくなり、実用書と雑誌ばかり本屋には並ぶようになりました。出版社も経営ですから売れない本を作っても仕方ありません。活字の大きさもどんどん大きくなり行間はどんどん広くなっています。読みやすくしないと誰も見てくれないのです。
 雑誌も実用書もなければ困りますが、一般的な書物が少なくなっていくのは非常に寂しいことです。一度に印刷する冊数も多くないので買い逃したら一般書店では二度と手に入らない本も沢山あります。残念なことです。書物もなかなか手にとって見ない人は多いと思います。しかし、国語力の低下は結局は各分野での進歩に悪い影響を与えると思われます。各専門分野において、日本語を使用しないで、横文字を多用する傾向があります。翻訳者たちももしかすると日本語力が低下しているのかもしれません。国民全部がとは言いませんが、多くの人たちがやはり雑誌や実用書だけでなく、日本文学といわれているものに接する機会をもっと増やすべきだと思います。
 特に若い世代の人たちにはもっと読んで欲しいと思います。高校の教科書から森鴎外がなくなったそうですが、やはり明治から昭和の小説にもっと触れるべきではないでしょうか。現在に連なる明治以来の様々な風習や文化や生活を読書を通してしり、また日本語を味わう。日本語を味わうことの楽しみをもっと国民は自ら得ようとするべきではないでしょうか。封建時代といわれた時代から近代化を目指している明治以降の人々の書物を読むと非常にわくわくしてきます。そういうわくわくする感覚を知っていただきたい。そうすると、日本語に対する感覚も鋭くなっていき、ら抜き言葉が間の抜けた言葉であると感じられるようになると思います。明治〜昭和をある程度読んだら今度は近代あるいは古代という風に広げていくと面白いと思います。
 中学生・高校生はまだ他の勉強が忙しくもしかすると時間的余裕がないかもしれません。それ以外の方々はもう文法なんて無視し、わからない語彙が多少あっても辞書など引かないでどんどん読んでいく。いわゆる流読というものですが、そういう流読というのをやっていくと、あまり現代と過去を意識しないで読めると思うのです。
 旧仮名遣いや旧漢字も読みなれない人にはきついかもしれませんが、これは完全に「なれ」です。なれてしまえば、現代文とほとんど違わないように読めるようになります。むしろ、現代文を読んでいるような感じで読めて、しばらくすると「あ、これは旧漢字だったんだ」と意識するようになります。古代はかなりわけがわかりませんが、江戸時代の書物などは、結構違和感なく読めるものです。
 昔と今を繋ぐものはいろいろありますが、文学などは一番人の息吹を感じることのできるものなのではないでしょうか。


娯楽(4月15日) このホームページをご覧になって頂きありがとうございます。
 こちらは「Wodanの部屋 娯楽館」です。娯楽館と名前がついていますが、映画も音楽もテレビもラジオもなければ、ダンスもゲームもスポーツもありません。きっと娯楽を期待して頂いた方にはびっくりかもしれません。ここで娯楽というのは私の考える娯楽です。私は映画もビデオもテレビも関心がないし、ゲームもギャンブルも旅行も興味ありません。
 中には私を楽しいことを全然知らない人のように思うかもしれません。しかし、私にとって娯楽といえば、パソコンや読書です。また、音楽もワグナーを聴くことを音楽鑑賞の中では最高のものと思っています。
  娯楽は本人が楽しいと思うことが一番の娯楽です。他人が楽しくても自分が楽しくなければそれは娯楽とは呼べません。そういうわけで、このホームページは私の娯楽と思えるものばかりを扱っています。もし娯楽とは何かと定義するならばそれは本人がそこに没頭でき、かつ楽しみながらできるものです。私にとって映画もテレビもゲームもギャンブルも楽しくはないのです。非常に苦痛です。もしそういうものを人から強いられたら修行のように感じます。
 ところで、エンターテーメントっていうのは、本来人間は違う生き物ですから各人異なっていいと思うのですが、どうも日本中画一的になっているようです。これにはマスコミが大いに国民の好みを画一化しようとしている意図を感じます。話題を提供するのがマスコミですが、でも日本中同じ様な人ばかりになってしまうのでしょうか。自分たちはそれぞれ個性を主張したとしてもそれを俯瞰すれば色は違うが中身は一緒くらいの差しかなくなっているのではないでしょうか。
 そこからはみ出していると仲間はずれみたいな雰囲気があります。しかし、日本の活性力のないのも案外そういうところに根ざしているのではないでしょうか。ある映画が流行ると猫も杓子もそれを見てみんながみんな感動するっていうのはよくわかりません。
 これは心に何かの箍がはめられていると思います。その箍に気づいていないのです。もっと自由になるべきと思いますが、いかがでしょう。


SARS続き(4月18日)

 どうやらSARSはコロナウイルスの新種のようですね。診断法はそれほど時間がかからずに出来るようになるらしいですが、治療法は1年から数年かかると発表されています。数年で確立すればすごいです。今まで、ウイルスに対する有効な治療法なんて殆どありませんでしたからね。数年でできるなんて、非常に難しいのではないかと思います。 


 日頃の健康(4月19日)
 
昨日は12時くらいまで飲んでいました。滅多に飲まないのですが、昨日は酔いました。ビール2本でした。空腹だったのでよく回りました。1本半くらいで食事をしたのですが、もう遅い!  家に帰ったときは12時くらいだったのですが、2時くらいは呼吸が速くなってしまい寝付けませんでした。アルコールは飲むと眠くなるのですが、昨日はそのタイミングで寝ずに同僚たちが歌う歌を聴いていたので、起きていました。どうもそのタイミングでないと眠れないのです。結局いつも処方されている入眠剤と安定剤を服用しました。アルコールが入っているときは服用するべきではないのですが、今日も仕事なので、きちんと寝なければなりません。それで、仕方なく服用しました。さいわい何も起こらなかったですが、もしかすると寝ている間に何か起こっていたかもしれません。40歳も超えると段々いろいろ機能が衰えてくるのを実感します。これを24時間ホルター心電図や血液検査を含めたいろいろな検査をすると一杯問題があるのだろうな〜と、感じています。これを読んでいる方はいかがですか。ちょっとでも不安を感じたら病院にいくのがいいですよ。
 しかし、社会保険も本人も3割負担になりなかなか受診しづらくもなっています。3割負担になっても病院側の収入が増えるわけではありません。老人も一割負担になり、だいぶたちました。しかし、近所のお葬式が増えているような気がするのは無関係なのでしょうか。年金で暮らしているお年よりも決して裕福だとは言えません。診察にかかるお金も減らしたいでしょう。そうすることで今度は診察を受けに行く回数が減ってしまい、病気が悪化することは十分考えられると思います。
 日本の不景気も関係あるでしょう。そして、最近は若い人たちがどうせ年金をもらえないんだったら支払わないと考えている人も多くなっていると聞いています。どんどん悪い方向になっているようです。
  自分で健康を最高の財産と思って、健康な人はそれを失わないようにすることはもちろんですが、不幸にも病気になってしまった人はそれ以上悪くならないよう出来る限り自己管理していくしかないのでしょうかね。今までのぬるま湯のような福祉の状態が少しずつ崩れていっているのは間違いありません。それでも、できる限りのことはやはり国民全体が協力してやっていく必要があると思います。


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