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小樽観光の アドナイス

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小樽観光情報雪あかりの路

             製作者の独り言
小樽で産声をあげ結構腕白に育ち、(裕次郎世代の少し下)何せあの運河が現役バリバリで、ポンポン蒸気の漁船がやたらと往来し、石炭の粉が運河を黒く染めていた時代、何故かそこで泳いだ記憶があります。悪餓鬼共の肝試しだったのです。やがて日も暮れようとする帰り道石畳の銀行街を走り抜け、水天宮から見た日本海の綺麗だった事、今でも目に浮かびます。石原裕次郎の「おれの小樽」〜(夕日溶かした海に染められて、子供2人が家路を駆けて行く)正にあの歌詞そのものの世界でした。
下段へ続く
やがてこんな腕白者も成人し、一応銀行員とやらでご多分に漏れず転勤、小樽を離れる事数十年 離れてみて始めて知った、素晴らしい小樽の魅力の数々、〜何処かで見た様な・・・幼い頃の故郷への思いを呼び起こす、不思議な魅力を持つ街小樽〜観光客をこんな想いに誘い込む魅力が小樽にはあります。然しここに気になることが少しあります。かって小樽が繁栄を極めた証でもある倉庫群の大半は、役目を終え観光施設として姿を変え活用されておりますが、小樽市指定の歴史的建造物は一部地方の業者に依って取り壊される事態も出始めております。先人が残した偉大なる資産を健全な形で残す事、これこそが小樽を訪れる観光客に報いる唯一の手段であると私は考えます。

「坂 これは地元の生活者にとっては不便この上ない苦痛なものですし、歴史的建造物も保守に莫大な費用が嵩み大変です。でも「坂」があるから風光明媚な海の展望があり、安らぎを誘う建物があるから、それを求めて観光客が訪れる!この様な小樽の良さを映像として残し、少しでも多くの人に小樽を訪れて頂きたく、ホームページを開設し、なおかつ観光ビデオ"わが街小樽”を自主将に制作致しました。(全47分、販売もしてdります)


                 
あえぎ行く坂ありてこそ懐かしき 
                                 
古色の街よ振り向けば海
       地獄坂〜

小樽商大に向かう途中の坂→旧小樽高等商業学校生が、当時民家も少なく冬期間天狗山の吹き下ろしと急な坂道の為、通学に難儀した事から呼ぶようになった。

      「もう一つの地獄坂」〜

小樽駅から山に向かって左側の坂→この坂道に沿って小樽警察署、法務局、小樽地検、小樽税務署等が建ち並び、市民が喜ん
で行ける場所では
ない事から、密かに呼ばれている。

     
  「船見坂」〜

小樽駅横より山に向かって右側の坂→明治37年に稲穂から色内、石山、手宮の一部まで燃え尽くした大火があり、その後道路の新設改良が行われた。(小樽駅より海に向かって左側、竜宮神社の辺り)大正4年にその辺りを船見通りと名付けられ、この道を横切って山側に登る急な坂を船見坂と呼んだ


小樽雪あかりの路が第10回イベント大賞を受賞しました。市民参加型の浪漫溢れるイベントとして今や全国的に知られる冬の行事も、関係者の並々ならぬ努力があればこそと、頭の下がる想いです。関係者の皆さんおめでとう御座います。受賞の対象は2005年度1月〜12月迄全国市町村で開催されたイベントの中から、創意と工夫に富み、地域の活性化に大きく貢献したとされるものです。大仕掛けではないが、人々を浪漫に導き癒す、小樽らしいこのイベントに大賞が与えられた事は、小樽のこれからの進むべき道を暗示している様な気がするのは私だけでしょうか。

追記 私事になりますが”わが街小樽”のビデオに収録されている、雪あかりの路の画像は
大賞となった2005年度のものが主流です。2度と無いチャンスに恵まれた事に感謝しております。

    小樽は街その物が生きた博物館

近代史的に札幌等の経済状況や、文化の発展度合いを見ると、結果的に大多数の部分で
明治時代に先人の残した、偉大なる資産を消滅させております。事の善し悪しは、論議の
分かれる処ですが、それに伴い遺産を守ろうとの見地から開拓村や明治村等が開設され
ました。然し此処に残念な事があります。この「場所」を見学しても、これは飽く迄も所謂
「展示物」でしかなく、そこに生きた人々の生活感が伝わって来ないのです。(知識等で
想像は出来ますが・・・)一方小樽の場合は小樽市指定の歴史的建造物は約70棟あり、
その主要物件の大半は街並として保存されており、しかも倉庫群は商業施設として転用、
中でも特筆に値するのは、100年以上も時を刻み続ける大時計を設置、明治29年建設の
建物がその儘で営業を続ける商店ありで、明治の街並と人間の息吹が、そのまま現代に
タイムスリップ出来る街になっております。

   移転の過去を持つ歴史的建造物

今小樽では運河沿いを中心に、景観上問題の多い建造物が建てられ、物議を醸し出しております。例えば景観上問題視されているマンション、銀行協会を取り壊した跡地の居抜き小路、更に隣接地の大型紳士服のビル等、目を被いたくなる現状があります。そこで過去に目を転じ少し溜飲の下がる話題を取り上げます。小樽を代表する銀鱗荘と祝津の鰊御殿、この何れも実は他町村からの,移転工事であった事はあまり知られて居りません。明治から大正にかけて、日本海沿岸は鰊漁で大いに賑わいその利益で経営者たちはこぞって、母屋や番屋等を各地に建設しました。銀鱗荘は明治6年に自宅用として余市に建設された物を、昭和12年に現在の平磯岬上に1年かかりで解体復元したものです。(銀鱗荘の命名は当時の石黒道長官)移築場所があまりにも適地であつた為、移築と気付かない人が多いのです。祝津にしん御殿は積丹半島の泊村に明治33年に自宅兼作業i員の宿舎として建設され、昭和33年に高島場所で知られた現在地へ移築され、北海道炭鉱汽船より、小樽市に寄贈されたものです。かたや壊し、かたや他町村から経費を掛けてわざわざ小樽に移築する、この違いは何でしょうね。

      小樽観光の為のミニ情報

     
   運河は埋立て方式だった

小樽と云えば先ず最初に想い浮かぶのは「小樽運河」ですが、この運河実は埋め立て方式である事は、意外と知られていない様です。今も運河沿いにある倉庫群の前面は当時は海岸となっており、船からの荷降ろしは、岸壁に梯子を掛けて行われていました。この運河も誕生する迄は紆余曲折、賛否両論があり10年以上もの激しい論争の末だったとか。何処かで聞いた様な?確か埋め立ての時も!・・・兎も角着工してから完成迄に9年もの年月を要し、完成したのは大正12年でした。規模は幅40メートル、水深2.4メートル、延長1.324メートルと堂々たるものでした。工法は埋め立て予定地に、地元石切山から切り出した石で外郭等を囲い、港内から掬い採った土砂を利用し運河の枠外だけを埋め立て港の整備もしたという、一挙両得の人海戦術だったようです。あの時代北の小都市での、広大な土地の埋め立て工事、膨大な経費」と労力、それでも採算が採れると踏んだ小樽の実力は矢張り凄いものだったのでしょう。昭和58年にはその内の約半分が幅を縮小埋め立てられました。


      小樽市歴史的建造物の指定意義

昭和40年以降の小樽は、銀行 商社等徹退の続く多難な年月の連続でした。銀行を例にとると旧三井銀行を除き小樽から銀行が徹退していつたのは、小樽に観光ブームが訪れるかなり以前、今から30年以上も前のことなのです。都市銀行が集まるような大きな都市の場合、何がしかの方法で復元力があり、札幌市の大通り等では銀行街消滅などと言う現象は起きないでしょう。しかし当時人口18万の街に都市銀行と呼ばれる銀行が8行もあつたのです。商社も三井、三菱等そうそうたる有名会社が名を連ねており、それらが短期間に徹退を繰り返し小さな街である小樽市全体が対応出来なかった訳です。ところが去られて見るとこの建物が素晴らしい。何とか保存しょうと云う機運が高まり「小樽市指定歴史的建造物」となった訳です。ですから今でもあそこは何々銀行だったと言う具合に歴史として名を残すことになり、跡だけ残つた様に見られますが。もし歴史的建造物として保存されていなかった場合は、そこに銀行があった事等は忘れ去られ、所謂○○銀行の跡地としての認識は無くなっていたと思われます。その跡地という認識が観光客に、浪漫と郷愁を呼び起こさせ、小樽を訪れる動機を作り出しているのではないでしょうか。