第63回ピースボート25周年記念プロジェクト
「ヒバクシャ世界一周証言の航海」を終えて
― おりづるプロジェクト ―
(渡辺 淳子)
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≪左・写真≫
1988年11月に放映されたTBSテレビ「世界ふしぎ発見」モアイ特集で、ラパヌイ知事のセルジオ・ラブ氏が津波で倒れたモアイ像を「クレーンがあれば倒れたモアイを起こせるのに…」と嘆いたのを見て、黒柳徹子さんが、「日本の企業が助けてあげればいいのにねー」と言うような発言をしました。
それを見た香川県高松市のクレーン製造会社の社員が会社と相談したのがきっかけで、1992年から4年間かけてポリネシア圏最大の遺跡・アフトンガリキ(十五体)「端から端まで100m」の修復を完成させました。
又、このそばには大阪万博に来たモアイが居ました
ラパヌイ(大いなる地) 2008年12月13日
南米大陸、チリ共和国から3800キロも離れているイースター島は、1722年4月5日復活祭の日曜日にオランダ人の提督ヤコブ・ロッゲーフェンが発見してこの名前がついたもので、島の人々はラパヌイと呼んでいます。
周囲約60キロ、三つの死火山でなり、生い茂る天然林は周りの島々から来る人々で人口過剰の為、食糧難となり、森林伐採や戦争、外来人との関係などで丸裸となりました。
島には「地球のおへそ」テビト・オテ・ヘヌアと呼ばれる場所や、「鳥人儀礼」が行なわれたと言う伝説の島、モアイ像遺跡はもとより、青と緑色のコントラストが何とも言えないアナケナビーチ、島全体が正に神聖な地である事は身を持って感じました!
初期住民は山から切り出した岩でモアイを刻み、権力を誇示する為にどんどん巨大化し、神聖な霊が宿ると信じていました。
モアイは海を背にして村の方に向き立っており、部族間の争いが激しくなると、モアイ倒しが始まり、眼から発する力を封じる為に他部族のモアイの顔を下に向けて倒しました。
殆どのモアイが倒された後、「鳥人儀礼」が行なわれるようになり、毎年渡り鳥が来る頃、部族の代表者が泳いで2キロ先の島から最初に鳥の卵を持ち帰ると、その部族の長が、その年の政治、宗教の実権を握れました。
途中で息絶えた人とか壮絶な戦いであったそうです。
≪右・写真≫
島のモアイが殆どこの「ラノララク山」から切り出されました。
私達がこの山を歩いてモアイを見るのですが、通り道がありそこ以外は歩いては駄目で、ちゃんと番人が居て注意されます。
創りかけの物もあり、殆ど形が地に埋まっているモアイもありました
島には大型客船が停泊出来ない為入り江に停泊しました。
ひょっとして天気が悪く大波なら島への上陸は断念しなければならないと言われましたが、当日は抜けるようなコバルトブルーの海にざぶんざぶんと左右に揺れる中、救命具を身にまとい、両腕を支えられて本船から8人乗りのテンダーボートに乗り込みイースター島に向って水しぶきを浴びながらつっぱしって行きました。
実に綺麗な透き通った海の色に大感激で、ついつい海水に手をつけたく成りましたが前もって駄目と言われて居たのでぐっと我慢をしていました!
モアイはアフと言う祭壇の上に立って居り、その上に上がったり、モアイに触ったりしては絶対にいけないと案内人に注意されていました。
自動車で島全体を巡って、いろんな場所に沢山のモアイを見る事が出来ましたが、中には祭壇だけしか残っていないものとか、多くのモアイが地に還りつつある事はなんとも寂しさを覚えました。
モアイは姿形、大きさ、顔つきなど違いますが、モアイ像の持つ優しさと島全体の気持ち良さに包まれた一日でした。
又、最後の対面となったモアイ像の前で私を含めた3人は座禅をくみ、大の字で空を仰ぎました。
その時、私達は手の平に凄いエネルギーを受け強烈な熱さを感じました!
それは不思議な体感でした!
そして、イースター島入港当時は満月をむかえていました。
≪左・写真≫
原住民の先生から現地の石でモアイ像の作り方を習っている所です。
私は作ったモアイをブラジルまで持って帰り、だいじに飾っています
南米大陸エクアドルの海岸から西へ約1000キロ、赤道直下の太平洋上にあるガラパゴス諸島は1835年イギリス人博物学者チャールス・ダーウインが訪れ進化論を唱えた場所です。
残念ながら私達は行く事は出来ませんでしたが、珍しい動植物と自然環境を国際社会が保護する目的で、1978年に世界自然遺産第一号として登録されました。
しかし、急激な人口増加・観光産業の拡大により固有種の絶滅や生態系の破壊が懸念され、2007年自然の維持が危機的な状況にあるとして危機遺産リストに載せられてしまいました。
ペルーのカヤオから水先案内人として乗船された藤原幸一さんは、地球環境に視点を於いた写真家で、1991年からガラパゴスの取材を続けられ、この状況を打破すべく「ガラパゴスの森再生プロジェクト」をピースボートと共同で立ち上げられ森再生に力を注いで居られます。
藤原幸一さんの抗議で凄い!と感激したのは、『三大陸砂漠の花』です。
―― 南半球の3大陸 { アフリカ、オーストラリア、南米 }には、毎年同じ時期に一週間だけ突如現れる砂漠の花園があります。
何千キロの海に隔たれているにも関わらず、三つの砂漠にはまったく同じタイプのおしべとめしべだけで形成される最も原始的なタイプの花が咲く事が解りました。
彼は南アフリカとオーストラリアの砂漠にある花園を取材していく中で、地形、緯度、条件など共通点があることに気づき、南米・チリのアタカマ砂漠を取材、予想した通り三つ目の花園を発見したのです。
その神秘的なことから現地の人々から「神々のいたずら」「神々の花園」とも呼ばれています。 ――
(以上、船内新聞より引用)
※ 裸足のガビ 〜頭の中はココナッツ〜
タヒチNGO「ヒティタウ」代表のガブリエル・テイテイアラヒ(通称ガビ)さんは、フランスが統治しているタヒチに住んで居られます。
ラパヌイから乗船されました。
彼は14歳で初めてムルロア諸島の核実権によるキノコ雲を見ました。
核の悪影響について何も教育を受けていなかった彼は「平和を守る核」と言う言葉を信じていました。
核がもたらす脅威について知ったのは18歳でフランスに留学してから。
偶然広島と長崎の映像を見てショックを受けたガビさんは当時自分の国で行なわれていた核実験を「絶対にやめさせる」と誓い、反対運動を始めました。
裸足にパレオの横断幕で反対活動をするガビさんに各国のメデイアが注目し始め、取材を受けたり国際会議に招待されるようになります。
仏領ポリネシアに於いての核実権が中止された今、次なる目標として先住民族マオイとしてのアイデンテイテイを取り戻し、フランスに頼らないタヒチ経済を確立すべく、バニラやココナッツオイルなど、伝統的作物の栽培を行なっています。
広島原爆の10〜17倍の威力を持つ核実権が計8回行なわれ、約5万人が放射能の影響を受けました。 ――
(以上、船内新聞より引用)
≪右・写真=内藤達郎さん提供≫
タヒチ・ペパーテ港の現在の様子です
フランス領タヒチのペパーテは、空、海とも綺麗な透き通った青で、椰子の木が生い茂る本当にあか抜けたと言う第一印象でした。
1963年以降30年以上にわたって200回以上も核実験がおこなわれてたと聞きます。
この楽園の様な島を感じさせる影で、核実験の実態を私達は今航海で知らしめられました。
主に被害をうけたのは核実験で働く現地の労働者(先住民族マオイ)であり、ポリネシア周辺では白血病・癌などが増加していると言います。
フランスは今もって現地の環境や人体への影響を否定し続けていますが、ガビさんは多くの被爆者の健康上の実態を話してくださり、フランスからの援助も無く葬り去られている現状に怒りすら覚えました。
船中にて同じ苦しみを持つ我々おりづるとの交流を望まれ、これからの活動をどの様にして行ったら良いか真剣にお互いの考えをぶっつけあいました。
現実には、実験施設で働く人にとって高収入は口を閉ざしている理由でもある!
その状態を変える為にも伝統的な作物を作り経済的自立を目指し、マオイとしてのアイデンテイテイを確立し、経済的にも文化的にもフランスからの独立をめざして戦って居られます。
我々がこの航海を終えてブラジルに帰ってから暫らくして
「フランス政府がポリネシアの被爆者に対して援助する」
と言うニュースが流れ、森田会長と手を取りあって喜びました。
……
〜石、月、タコ〜 の講座
ポリネシア圏では「タコ」は神様として信仰され、「月」は母なる大地が産み、その土地にある生命すべてのルーツが宿る『石』も重要な役割を果たしています。
ガビさんは何時も裸足で歩い居られ、それは、先祖の代から大地や川を感じるのに一番良い方法だと伝えられているからだと言われます。
又、ラパヌイ語のアルファベットは14個から成り、島の人々はラパヌイ語とスペイン語を入り混ぜて使っています。
この日のワークショップでのお手伝いをし、森田会長はガビさんから、タヒチのシャツをプレゼントされました。
乗船前に歩いた市場で、「パレオ」と言うカラフルな布が風になびいてとても綺麗だったのを思い出します。
この布は巻き方で自分が独身で恋人を募集中とか、結婚しているとか、アピールする事が出来、又、いろんな使い方が出来ると言う事で、ついつい、色合いと模様が綺麗で私も買い求めました。
※ 12月15日は、おりづる文化祭が開かれました。
「今、私たちにできること」と題して、若者が主体となって、おりづると一般参加者とが出会うきっかけをつくることを目的としたイベントでした。
一緒になって文化祭を行ない、被爆の事、戦争の事などに触れて、平和を創る為に、今、私達が出来る事を見つけるきっかけにして欲しい!との思いからなっています。
≪右・写真≫
おりづる文化祭で「こどもたちのそら」と言う歌を皆で歌い、踊り、そして、手話を行っているところです。
この歌は「63回クルーズにヒバクシャが100名乗船し世界を周りながら核廃絶を訴えるプロジェクトを行う」と聞いた[FUNKIST]と言うバンドが、テーマ曲として提供して下さった未発表曲です。
この曲は航海中、船内で絶えず流れていました
前夜祭から始まって次のまる一日は、以下の様なものを含めていろんな催しがあり全てを見る事が出来ず残念でした、
―― 吉永小百合編の原爆詩の朗読にのせて、一人の被爆者と2人の若者でライブアートを完成させ、同時に灯篭流しも行ないました。
―― 劇「千羽鶴・サダコの祈り」、では、いっぱいの観衆で1時間30分の劇にくぎ付けになりました。
―― 若者がこの航海で、ヒバクシャから直接話を聞く事で学び、感じたことを、次につなぐ事を考え、今、私たちがどう言う事をすれば良いかについての発表でした。
私達はこの発表を聞き、確実に次の世代に受け継がれたことを確認しました!
≪左・写真≫
被爆者でオーストラリア在住の被爆者(森本順子さん)と二人の若者とのライブアート。
まわりには灯篭があります
私と森田さんは、方言バトル「広島弁、長崎弁、東北弁」で広島弁を担当し、久しぶりに広島弁にどっぷり浸かり楽しいひと時を過ごしました。
≪写真・右≫
「おりづる文化祭」の方言バトル「広島弁、長崎弁、東北弁」の企画スタッフと共に
(執筆日 2009年10月26日)