第63回ピースボート25周年記念プロジェクト
「ヒバクシャ世界一周証言の航海」を終えて
― おりづるプロジェクト ―
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≪ ピース・ボートによる被爆者世界一周証言の旅に参加して・・・。
その 六≫
(森田 隆)
ピース・ボート ヒバクシャ地球一周 証言の船旅も順調に進み 早くも中南米になりました、
毎日が楽しく 夢の様な船旅の様子を・・・・
午前六時 目覚まし時計で起床 船の上甲板でのラジオ体操・・ 続いて船内の散歩
七時の朝食は 日本食の4階 好みの品 納豆 海苔 卵を好きなだけ取りゆっくり食べます・・・ 私達 外国住まいの者は 八階のレストランへ・此処は洋食です、 パンやコーヒーで軽く・ その日の気分次第で・・・。
自室に帰り 船内新聞に目を通し その日の行事に掛かります 私は常に渡辺女史と相談しての行動です。
人生で初めての恵まれた日々の毎日です。
この幸を頂いたピース・ボートの関係者の方々に心から感謝です・・・。
船はドミニカ共和国のサント・ドミンゴ港に入港しました
戦後 海外移住で問題になった国です、
おりづる・プロジェクトは現地移住者の日本人の方との交流、
ブラジル移民の渡辺さんと私は 広場に集まるドミニカ移民との抱擁 広島より植樹されたアオギリを囲んでの苦労話しは尽きません。
日本政府の移住棄民政策による犠牲
私達は 希望を胸に共に頑張る事を約し名残を惜しんで別れました・・・・。
≪左・写真=内藤達郎さん提供≫ 広島より送られた「アオギリ二世の木」を囲んで、ドミニカ移民の方が、日本政府の移民政策による苦難の様子を力を込めて話されている所です。
その中で
「元気で育っているアオギリは私達の魂そのものです!」
と言われた事は今も私の耳に残っていますし、その木を見た時、神々しくさえも見えました。
≪右・写真≫ 2008年8月末に広島平和公園にて撮影。 初めて見るアオギリの花に感激しました |
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歓迎の会場に着き心からのもてなしの昼食 其処で出された最後のアイス・クリームの大きさに目を見張りました・・。
船に帰ってからも その日の行動は何時までも心に残りました・・・・。
ドラを鳴らしモナ・リザ号は出港です・・・。
離れ行く港は 名残り惜しい光景です・・・・・。
≪左・写真≫ 出航のドラを船員さんが叩いている所。
どことなく哀愁をおびた音が船中に響き渡ります
※ ドミニカ共和国は常夏の島で、一年を通じてスポーツが出来、国技と言われるほど野球が盛んです。
サンペドロ・デ・マコリス市には、日本のプロ野球球団である広島東洋カープが運営する野球学校「広島東洋カープアカデミーオブベースボール」があります。
次ぎの港はベネズエラのラグエラです、
53年前 32歳の私が移民で通った港
不安な時、船に乗り込んだ現地の兵隊と子供が写った光景を思い出しました。
今回は特別です、カラカス市提供のバス五台でカラカス市平和式典まで直通で途中追突事故までありました。
盛大な歓迎会の途中で五名現地のユネスコに呼ばれて被爆体験を行いました。
記念の時計まで頂き特別車で港の船に着いたのは 夕食時間を過ぎた九時・・その日の食事は特別に美味しかった。
船は二日後、 パナマのクリストバルに着きました
私は懐かしい この港で多くの買い物をしました。
求めた木製の魚 同じく見事な豹の木製など 私の宝物です。
港で現地の人たちの ダンスやショウ など 珍しく夜遅くまで皆で 楽しみました・・・・。
≪左・写真≫ クリストバル港で。
原住民の踊りを見たり買い物をしたりで時間をすごしました
そして 翌日 パナマ運河の通過です・・・。
ブラジルに住む 私と渡辺女史は二回目の通過です。
50年前は移民船での不安な気持での通過でしたが 今回は先輩面で仲間達に説明です、
パナマ運河の偉大な事業は幾度通っても感動でした。
ブラジル組の三戸夫妻や私達は 通過の間 常に一緒に行動し 楽しみました・・・。
≪右・写真≫ パナマ運河を通過している最中で、両脇で引っ張って動いている状態です
〜 パナマとは!〜
パナマの歴史はパナマ運河そのもので、建築の歴史を築いたのはフランス人のレッセプス。
彼は運河建設の為に会社を興し建設に着手したが計画は難航につぐ難航、構想の失敗だけでなく黄熱病、マラリアなどの熱帯病も猛威をふるい、結局、当初の予算をはるかに超える経費増しとなり会社は倒産する。この工事を引き継いだのがメキシコとの戦争で広大な領土を獲得し、東海岸からの輸送における重要地としてパナマに注目していたアメリカだった。アメリカは、パナマ独立派と手を組み運河を完成させ、運河から生まれる富の多くはアメリカに流出したが、これに反対するパナマ政府はその権益の配分を要求するようになり運河返還を公約とする大統領が現れる。
パナマ人としてのアイデンテイテイはこの活動の中から芽生えたものといって良いが、これを決定的にさせたのが国家保安隊司令官のオマール・トリホスである。彼は独自の民族主義を育てながら中南米諸国を味方につけ20世紀末日、とうとう運河返還を実現させた。
そして現在、運河、領土、施設の多くが返還され、それらの活用によってパナマは大きく変貌しつつある。国の変化、それも卵から雛鳥の様に劇的な変化をなしとげた。
パナマ運河は、アメリカ大陸とパナマ地峡のもっとも狭い境界部分に切り開かれた閘門式の運河で、1914年8月15日に開通して以来、88万隻以上の船舶が通過しています。
この運河は約80kmあり、閘門を利用し太平洋から海抜26mのガトウン湖の高さまで上昇させ、また太平洋の海面レベルまで下降。運河通過時間は平均8〜10時間。3ヶ所ある閘門は平行に2組づつある為、両方向の航行が可能です。
近年、パナマ運河への依存度や重要性はさらに増しつつあり、また南米諸国の開発に伴い森林破壊による運河周辺の保水力の低下、エルニーニョによる降水量の減少などの環境問題などから、船舶の往来が限界に達しつつある為、パナマ運河開通100周年にあたる2014年の完成を目指し、2007年9月から拡張工事が始まっています。
( 以上、船内新聞より引用 )
(執筆日 2009年8月23日)