第63回ピースボート25周年記念プロジェクト
「ヒバクシャ世界一周証言の航海」を終えて
― おりづるプロジェクト ―
(渡辺 淳子)
14
〜 デコボコ4人組ヴェネズエラ・エクアドル代表団15日間の奮闘記(下) 〜
11月6日は、朝早くから手分けして、
TELESUR(生放送・テレビ局)、
AVN(ヴェネズエラ・ニュース局)新聞・ウエブ、
YVKE(国営ラジオ)、
ANTV(国会テレビ)、
RNV(国立ラジオ)、
EL MUNDO,VEA、
と言うメディアの取材で1日が過ぎました。
≪右・写真≫
ホテル屋上にて取材を受けている所です
RNV(国立ラジオ)は深夜生番組で3人の司会者でいろんな新しいニュースを次々に生放送している番組です。
≪左・写真≫
RNV(国立ラジオ)深夜生番組での様子
そこでの放送に伺った時、私達が紹介され証言した後、次々といろんな所から質問が入って来、またまた、私達の活動は本当に地道ながらでも世界の知らない人達に広まって行っている事に満足を覚えました。
時間は予定より長くなり、番組が終わった後、司会の人が、
「被爆者は人類に対して犯された最悪の罪の生存者です、もし日本で忘れさられようとしているのであれば、私達自身が我国の通信衛星を使って、世界中に届け、それが常に記憶される為の役割を担います。それが日本にも届いて忘れられた記憶が又蘇るでしょう!」
その様なメッセージを我々に下さいました。
11月9日、私達4人は通訳2人とカメラマンのゴリ君、と共にエクアドルの空港に到着するといきなり特別室に案内され そこには、外務次官のフェルナンドさんが奥様(日本女性)と真夜中にも関わらず待っていて下さり御丁寧なお迎えに頭が下がりました。
車と案内兼運転手の方はそれからずっとエクワドルを離れるまで私達の為にガードしてくださいました。
11日は、レニン モレイノ=エクワドル副大統領と面会し、4人の証言を聞きながら副大統領が涙を流されているのを私は見ました。
レニン モレイノ様は交通事故で片足が不自由になられ、すごく落ち込まれた時に友人から貴方はまだ生きているではないかと言われとても勇気づけられたと言うエピソードをお持ちで現在車イスを使っておられます。
≪右・写真≫
エクアドル、レニン モレイノ 副大統領との面会の様子
又、副大統領から
「家庭で、国で、世界で、平和を目指しましょう!でないと、平和は実現できません、それが全員の夢なのです」
と言うメッセージを頂ました。
又、大統領府では日本大使、府で働いて居られる方、もと高官、大使、外交官 など皆さんの前で4人は被爆証言をし核は絶対に人類を不幸にする事を訴えました。
最後にエクワドル外務次官から
「ヒロシマ・ナガサキの悲劇を聞くのは非常につらいが、励ましになる。
平和、核軍縮、核廃絶を達成する上で我々の使命感を新たにしてくれる、それは、ピースボートやヒロシマ・ナガサキのヒバクシャの方々が目指しているものと同じだと思う」
と言うメッセージをいただきました。
※ おりしも、2008年9月末に「エクワドル共和国憲法 第416条」が国民投票にて採択されました。
※ 以下(抜粋)
1項 | 国家の独立と法的平等性、国民による平和的共存と民族自決権を宣言し、それに基づく協力、統合、連帯を尊重する。 |
2項 | 国際紛争、国家間論争における平和的解決を支持し、解決する手段としては、いかなる威嚇、武力の行使を認めない。 |
3項 | 他国の国内問題への介入、軍事的侵略、攻撃、軍事的支配、経済封鎖と言ったいかなる侵攻を非難する。 |
4項 | 平和、そして普遍的軍縮を促し、大量破壊兵器の開発・利用、他国領土における軍事目的による基地の強制及び設置を認めない。 |
日本は憲法9条と言う素晴らしい憲法の基、今まで、平和に発展して現在に至っています。
南米諸国に同じ様な憲法が制定されたと言う事は将来に向って光が見えたと、そして、我々が願っている根がこの地にも芽生えていると感じました。
エクワドル・キト市では世界遺産の旧市街地を歩き遥か昔の素晴らしい建物、教会にはただただ驚きでした!
又、ブラジルに繋がっているアマゾンの源流であるとも聞き、感激しました。
≪左・写真≫
エクアドル、旧市街地(世界遺産)にて
ピースボート共同代表・吉岡達也さん、運転手兼ガードマン、スタッフのまっすん、カメラマンのゴリ君
赤道直下・0地点では地球のモニュメントから伸びた一直線の線上を跨いで、「あー、ここまで来たんだなー」と感無量になったのを思いだします。
≪右・写真≫
赤道直下・0 地点にて
ずーと私達をガードして車を動かして下さった 運転手さん、は
「貴方達を無事に最後まで送り届けるのが私の使命です」
と言って下さいました。
最後の日には自分の家族に逢ってくださいと奥様と小さな息子さんを紹介して下さり、自分の写真の裏にメッセージを書いて我々4人に、
「私達家族の事を忘れないでください」
と 渡して下さいました。
11日の夜、エクアドル 「ORIGAMIの会」 との交流をし、一枚の紙から想像もつかない程の作品を眼の前でしあげるのにはただただ、驚きでした。
≪左・写真≫
エクアドル、ORIGAMIの会 のメンバーとの交流で
今にも飛び立ちそうな羽ばたいている鶴を教えて頂きました。
この地でこの様な折り紙が根づいている事事態がびっくりし、嬉しくなり夜遅くまで鶴を折りながら話しが弾み、別れが寂しかった思い出があります。
11月12日には再びヴェネズエラ・カラカス市のホテルに到着です。
ヴェネズエラに来て何日か経ったある夜のミーテングの後、スタッフから船が違う船に変わると告げられ、とてもびっくりです。
私達の船内荷物はどうなるの? が 第一の心配! でした。
とにかく、私達は急にヴェネズエラ行きが決まったので部屋の中は整理もなしに飛び出した状態なので一番に気になりました。そして 金庫の中の物、など、、、、、
でも、スタッフの言われるのには全て心配しなくてもそっくりそのまま、責任を持って引越しをします、気になる事を各自紙に書いて渡して下さい、それを船の方に連絡します、と言う事で安心しましたが!
11月13日、朝一番にヴェネズエラ国務大臣に4人が面会、その次に2人ずつに分かれて交流、一方は国立ボリーバル大学に、私は国立科学研究センター「IVIC」にての意見交換会にての証言をしました。
ここは昔、研究目的で原子力センターがあった所です。カラカス市からちょっと距離があり山の上で入るのにも厳しいチェックがありました。
そこで私が、自分に罹った黒い雨の証言をした後で、ある御婦人が
「貴方は小さい時、黒い雨にかかってつらい思いをして来ましたね!でも、今、貴方の上に太陽の光が注ぎます様に!」
と 自分の首にかけていた(太陽の石)と言うネックレスを私の首にかけてくださいました。
その時、私は涙が止めどなく流れるのをぬぐう事もなくその方と抱き合っていました。
その後、ラガイラ市の野外イベントに出席の為に向かい、4人がここで合流し最後の証言活動を心おきなく行ないました。
この日でラガイラ市長とは3度お逢いし後に船で寄港した時を含めると4度お逢いした事になります。
≪右・写真≫
中央がラガイラ市長
(※ 写真は11月5日ラガイラ市庁舎で行われた記者会見の様子)
ヴェネズエラ、ラガイラ市のトレード市長は
「我々は過去に何が起こったか知る必要がある、そしてそれを広める必要性がある。
大戦後に残ったものを私達はきちんと見なければならない。
健康になるのが難しかったり、生涯を乗り越えるのに多くの時間がかかると言った問題や、心の深い傷を残す事が無い戦争なんて一つも無い!」
こう仰いました。
11月14日はヴェネズエラ・カラカスから一路空路でスペイン・ラスパルマス寄港中のまだ見ぬモナリザ号に向いました。
ヴェネズエラのボリーバル国際空港内でたくさんの軍隊が出ていて、荷物検査が厳しく2人が奥に連れて行かれ、なかなか出て来ない為、飛行機の出発時刻が迫るので飛行機内に入るよう指示があり、一人スタッフを残して私達は先に行き途中で体のチェックがありました。
ようやく入って来てやれやれと思ったら飛行機は出かけてまた戻ると言うような調子で、とにかく出発しましたが、途中の乗り換えは間に合わないで次の便にてようやく夜中、ラスパルマスに到着しその夜はホテルに宿泊し、15日にモナリザ号に乗船合流しました。
≪左・写真≫
スペインからラテンアメリカ五共和国を独立に導いた、偉大な解放者、シモン・ ボリーバルや各英雄の銅像がある公園にて
15日間、精一杯の活動に打ち込み悔いはありません!
とにかく、ヴェネズエラ・エクワドル 共に 暑く、暑く 燃えて人間が暑い!
エネルギーを沢山頂きました!
≪右・写真≫
ヴェネズエラにて。
PBスタッフ7人、と 現地の役人2人、ヒバクシャ4人です
この間、我々4人を支えて下さり、後にヴェネズエラに寄港し大勢の市長が広島市長会議、ヒロシマ・ナガサキ議定書に賛同し、沢山の市長から署名を得られたのもスタッフの大きな力と愛情の賜物と考えます!
有り難うございました。
そして、4人のデコボコであったけれど支えあって最後まで頑張ろうと心を一つにした事……有り難うございました。
本当に!決して得る事の出来ない経験をさせて頂きました!
(執筆日 2009年6月29日)