第63回ピースボート25周年記念プロジェクト
「ヒバクシャ世界一周証言の航海」を終えて
― おりづるプロジェクト ―
(渡辺 淳子)
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~ デコボコ4人組ヴェネズエラ・エクアドル代表団15日間の奮闘記(上) ~
何時の間にか、デコボコ4人組と名うって私達ヴェネズエラ代表団は、川崎武彦(長崎)、井口健(広島)、田中稔子(広島)、渡辺淳子(広島)、に通訳の吉田綾子さんは、ギリシャから途中一度飛行機を乗り換えて一路ヴェネズエラへ飛びました。
乗船前には黄熱病の予防接種を義務づけられていましたが、ヴェネズエラは要注意と蚊に噛まれない様にし、綾子さんは人一倍完全武装で空港に降り立ちました。
PBの先乗りスタッフ「現地語の解る人」(全ての寄港地では船が着くまで、現地の日程準備の為、早くから乗り込んで現地交渉、準備をします)が出迎えて下さりホテルまで直行です。
ちなみに私達の先乗りスタッフは5人とカメラマン1人、を含む総勢8人のスタッフが居られました。
カラカス市の素敵なホテルでヴェネズエラでの宿泊は全てこのホテルでした。
このホテルでは久しぶりに心置きなくメール(と言ってもメールに費やす時間が無く)(船中でのメールはカードを買って使うのですが無線の状態が悪く時間ばかり過ぎてすぐ無くなります)が出来ました。
森田会長と私はこの船旅では協会との連絡にはどうしてもパソコンが必要と思い持ち込みましたが、駄目でした。
本当にこの航海の間はテレビニュースも無く、寄港地にて何日も遅れた新聞が届くのと、インターネットでのニュースの貼り出しを食い入るように読んだものです。
実にこの4ヶ月ばかりは世の情勢とかけ離れた生活を我々はした訳です。
それでも、イスラエルのガザ攻撃をした時はすぐに船中で抗議のデモストレーションを行ないました。
甲板にて、皆、赤い服を身に着け「すぐ攻撃をやめるよう!」にと言う字を書いて皆で仰向け
に寝て抗議し、インターネットに流すと言う事もやりました。
又、PBスタッフの企画で最近のニュースとしてスライドを交えた発表がありニュースに飢えていた我々はこぞって聞きに行ったものです。
ヴェネズエラの政情、私としては隣りの国に住んでいて全然と言って良いほど無知でした。
丁度大統領選挙前で世情が混沌としており我々も絶対に一人歩きは危ないと言う事で外に出る時はスタッフが必ず前後について歩きました。
この日程の中で、ウゴ・シャーベス大統領に面会の日時がありましたが、ぎりぎりになって急遽取りやめになりました。
何処に行っても水だけはミネラルを買って飲まないと腹の調子が悪くなるので結構水代に費やしました。
ホテルの近くにスーパーが有り一度皆で買い物に行きました、面白い事に私達外国人には清算の時、パスポートを見せる様で、どうやらその人達は現地の人より高額な値段となっていると聞きました。
スタッフが日本から持って来られたソーメンを作って下さったり、いろいろ我々の食事の心配をして下さり有り難い事でした。
毎日、ばっちり日程が決まっていて、それ以上にメディアの取材が車で移動中にも携帯電話にかかって来ると言う状態でした。
あまりびっしりと日程がありスタッフが心配して下さったのですが我々は全然元気でしたので「大丈夫ですよ!」と言う調子でこなして行きました。
まず、前日にはミーティングをし、その日が済むとホテルの一室に集まってその日の反省を含めた会議をし、明日の人選(時間により分かれて交流場所に行きそれぞれスタッフが通訳をかねて就いて行きます)をおこないます。
≪右・写真≫ ホテルの屋上でスタッフとミーティングしている所です。
右端(渡辺)、田中稔子さん(右回り)、川崎さん、井口さん
あとは スタッフです
夜、我々は一室に集まってラテンアメリカ勉強会をスタッフの一人、グテイエレス一郎さん講師で行なって頂きその歴史を基に現在を知ることが出来、以後の交流の場で多いに役にたちました。
※ 2008年5月23日 、 ブラジル、ブラジリア市にて署名
「 南米諸国連合(UNASUR)設立条約 」 が 設立されたばかりでした。
アルゼンチン共和国、ボリビア共和国、ブラジル連邦共和国、チリ共和国、コロンビア共和国、エクアドル共和国、ガイアナ共和国、パラグアイ共和国、ペルー共和国、スリナム共和国、ウルグアイ東方共和国、ヴェネズエラ・ボリバル共和国 です。
序文 この統合は、主権の平等と平和の文化が普及し、均衡のとれた公正な多極化世界、そして核兵器と大量破壊兵器のない世界を実現するために、多国間主義と国際関係における法の強化を可能にする決定的な一歩である。
― 省略 ― |
この様な条約がある事に私達は多いに勇気と力を頂きました!
ヴェネズエラ、ヘクター・ナバロ文部大臣は、こう仰いました。
「衝撃的だったのは、生きた証言だった事だ。
原爆が落ちた事は実際に起こった事であることだけれども、決して起こってはならなかったことだ!
証言をとうしての彼らの核廃絶への思い、苦しみは私達に対する偉大なる教えである。
この深い教えは私達一人一人に直接届くものである」。
最後に大臣は私達に対して、こうおっしゃって下さいました。
「私達は今、わが国でどんなことをすればいいでしょうか?」
それに対して私達はこうお答え致しました。
「帰船しておりづるの皆と話し合って後日返事させて下さい」。
大臣は、最後に 文部省の壁にかかっていた大事な絵をはずしその裏に大臣自らメッセージを書いて、船に飾って下さいと言われ私達に下さいました。
≪左・写真≫ ヴェネズエラのヘクター・ナバロ文部大臣と、頂いた絵画です。
その後、文部省での被爆証言を行なったあと、青少年フォーラム5人の楽団が私達の為に素敵な音楽を奏でて下さいました。
同時に原爆展も開催され我々の手でテープカットをしました。
≪右・写真≫ 青少年オーケストラ、メンバー5人が我々4人の為に平和に関する演奏を奏でて下さいました
ラガイラ市大学海軍兵学校にての証言の後、若い兵士達からいろんな質問を受け、中でも
「自分達は兵士として教育を受けているが、貴女達の話を聞いて、なによりも大切な武器は平和である事が解った」
と言う事を言って下さいました。
≪左・写真≫ ラガイラ市大学海軍兵学校で証言後に質問を受けている所です
ラテンアメリカ小児心臓病院にての質問に日本政府の援助についてありましたので、私が在外にいる被爆者の現状を説明すると、同じ被爆を受けているのに差別するのはおかしいと言うことを言ってくれました。
≪右・写真≫ ラテンアメリカ小児心臓病院にて
ラガイラ市庁舎(後日すぐ近くの港にモナリザ号は寄港しました)にての記者会見の後、昔、奴隷を収容していた建物を見学、青少年育成職業訓練学校の見学しました。
その時に何時もやさしく私達にカメラをまわして下さるカメラマン、国本隆史ことゴリ君が生徒達に
「あなた達は被爆者を知っているか?」
と聞いたら、NO! と答えたので、私達を紹介したのです。
それからどんどん生徒達が囲んで来て通訳を交えて原爆投下されたこと、日時、所、など説明しそれからどんどん質問があり、私達がその本人であり、現在、核の無い平和な世界になるように私達は証言をして世界をまわっている事を話しました。
先生が授業の為戻りなさいと呼びに来られるまで話し合いが出来た事、生徒達が真剣に聞いてくれた事、私は、生徒たちが私達との出会いで真の平和について考えてくださるきっかけになったと確信しました。
≪左・写真≫ 青少年育成職業訓練学校
(執筆日 2009年6月29日)
(「下」へつづく)