第63回ピースボート25周年記念プロジェクト
「ヒバクシャ世界一周証言の航海」を終えて
― おりづるプロジェクト ―

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≪ ピース・ボートによる被爆者世界一周証言の旅に参加して・・・。その三 ≫

(森田 隆)



≪右・写真≫ スエズ湾の入り口で


 2008年10月10日 、船はスエズ運河を目指し一路エジブトのポートサイドに向っています。 私達ヒバクシャの老人達は、広い世界の船旅にただただ驚き、驚嘆の毎日です。広島の被爆者三戸夫妻はブラジルにも住んだ人です、仲良くして頂き何時も一緒です。

 今時、海賊が出現するとの事で騒ぐ海域では進路を変え静かな海面を進みます、 私達は船の上甲板に出て、(スエズ運河には三つの湖が有りテイムサーフ湖は一番美しく中継地点となっており、アフリカ大陸側は近年リゾートビーチとしての開発が進んでおりシナイ半島側の砂漠の光景との対比が面白さを増しました)飽きない光景に何時間も見とれて話し合いました・・・



≪左・写真≫ 渡辺の誕生日に船内家族の娘達と乾杯をしました、ケーキは船からのプレゼントです


 ピース・ボートのヒバクシャは 船内活動で忙しくも楽しい毎日を送っていました。

 ある昼食後、私と渡辺さんは若い青年男女より 船内家族の誘いを受けました。ブラジルから参加の私達は 喜んで受け「ファミリア フロール」(花の家族)と言う名前で、六人娘のジイジ(爺さん)と成りました、 渡辺さんはママイ(母親)として嬉しい出会いが生まれ、船が日本に着くまで・・・いや、是から先も親密に親交を深めていく事を誓い合いました。楽しいママ渡辺さん誕生会には夕食に集いました、嬉しい忘れられない思い出でした・・・。



≪右・写真≫ ピラミッド前です


 ポートサイド港に無事着き ピース・ボートの我々は 数十台のバスに乗車して 現地のポリスの先導でカイロまで三時間かけて進みました、途中の休み場所での住民の物売りの姿・・・写真を撮ると 支払いの要求等・・・・世界の世相を知りこの船旅の力を有難く思いました・・・。

 首都カイロへ着くと、約4500年ほど前、古代エジプト王国第4王朝の時代に造られたキザの三大ピラミッド(クフ王、カフラー王、メンカウラー王)をはじめとする大きさ、形、も違う沢山のピラミッド、スフインクス、ツタンカーメン、など等・・・・・を見物してその規模の大きさに肝を抜かされました。



≪左・写真≫ カイロの街中で車の中から撮りました

※ スエズ運河とは?(船内新聞より引用)

 右手にシナイ半島左手にはアフリカ大陸――紅海と地中海を結ぶ171キロの海道、1869年(明治維新の頃)に建設されました。それを指揮したのはフランスのカイロ領事であったレセップスで、エジプト人農民達が駆り出され、その労働状況は劣悪で焼け付く日差しのもと無給で従事させられ、工事中に死亡した労働者は12万人に達するそうです。こうして困難の中ようやく完成しましたが、エジプト政府の困窮により完成からわずか6年後に英国に売却され、英国は膨大な利益を得ました。


≪右・写真≫ カイロ、ウーロ ハウス にて現地の少年が伝統楽器で奏でて下さいました

 1956年にエジプト共和国を成立させたナセル大統領が「スエズ運河の固有化」を宣言。しかし、これに対し、英仏、イスラエルが派兵し第二次中東戦争が勃発します。ナセル大統領は運河の封鎖を持ってこれに対抗、さらに米国が介入し結果的には運河の固有化に成功しました。


 その後1983年、日本の一企業によって拡幅増深工事が行われ現在に至っています (両岸に架かった大きな長い橋の中央部に両国の国旗が並んでほりこんで、日の丸が一際きれいに見えました)。現在では地元の子供達が水遊びに興じるようなのどかな光景も見られます。

≪左・写真≫ 両岸に架かっている長い橋(この橋の真ん中に日の丸がありました

(執筆日 2009年5月3日)

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