第63回ピースボート25周年記念プロジェクト
「ヒバクシャ世界一周証言の航海」を終えて
― おりづるプロジェクト ―

(渡辺 淳子)

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 インドを出航して一路エリトリアのマッサワに向けてインド洋を航海中、
「海賊情報が入ったので予定の航路をはずれて遠まわりします」
との船内放送を聴き私も含めて多くの人は今時海賊などと笑っていたものです。が、今思えばニュースで知る限りソマリア沖ではとてつもなく被害がでて日本もこの海賊撃退に出撃している事を思えば、知らなかったとは言え危ない所を航海したのだと今さら緊張しています。海賊になった人達はもともと漁師で貧乏な為海賊になったとの事!その事も憂います!


≪左・写真≫ 船内にてエリトリア青年と交流の様子


 我々の船にエリトリア市長、青年達、を迎えて歓迎式及びグループ別交流を行いました。
 同時に原爆展(写真パネル、被爆した遺品等)も行い、非常に関心を持って質問が帰ってきました。私のグループが案内した青年の一人が被爆した着物を見て、これ(おしん・・・か)と言ったのには驚き、通訳の人にどうして(おしん)を知っているのか尋ねたら映画でみたと言いました。良いものは何処の国でも人の心に響くものと改めて思われます。

 マッサワ市長の挨拶は次の様な内容です。

 ―― 今回、私は世界の醜い側面、特に広島・長崎への原爆投下について学びました。同じ様に世界の醜い側面が1990年のマッサワ空襲でも見られました。エチオピア政府が市民を攻撃し手足を失った人も多くいます。しかしその後私達は、エチオピアや世界の国々と協力して戦争を防ぐ為に努力して来ました。
 隣国、イラクやソマリアはアメリカやエチオピアによって苦しめられています。それらの国に住む人々は世界の犠牲者なのです。その多くは子供であり、女性であります。その様な事が起こらない為に世界の人々は、互いに関係を築き戦っていかなければなりません。
――


≪右・写真≫ 爆撃された建物


 とにかく、マッサワは暑いと言う事で森田会長は船に残られ、私は始めて別行動しマッサワ観光に出かけました。船を降りバスに乗ったかと思うと目の前の光景はすべてが別世界でした。道でむじゃきに遊んでいた子供達は私達日本人が珍しいのかバスを追ってついて来ました。目の前の子供達は骨と皮と言って良い程痩せて、建物は砲弾がバリバリ打ち抜いた跡が生々しく当時の凄さを物語っていました。バスでそれこそ長い道のりを過ごし本当に行けども行けども砂漠で、ようやく汽車に乗る場所に着いたのは予定時間を大分過ぎた時です。

≪左・写真≫ 私達の乗った汽車(内藤達郎さん提供)

 又、私達の為にわざわざ動かせて下さる汽車なので、何人かの人が水を注いだり何とか間とか言い合いながら、あの暑い中を一生懸命に動かそうと頑張っていました。
 その間、なにしろ男性人はともかくにも、女性人はトイレの場所が無い事に喧々囂々でその後はどうなったかは覚えていませんが。そうしている内にようやく煙を吐き出したので急いで汽車に乗り込みました。窓枠はあっても窓が無く、首を出さないで下さいと注意があり、途中で、車輪に当たって石が飛び込んだり、たまに小枝がかすめたりとホンに楽しい思い出となりました。心地よい懐かしい、シュウ、シュウと言う音を聞きながら外を眺めていたら、死んで半ば干乾びた「らくだ」が何故か並べて何頭も置かれているのは今持って気になっています。だんだんと薄暗くなり水平線からまん丸いそれは大きな真っ赤な太陽がゆっくりと沈んで行く姿を心行くまで眺めていました。

 そして、真っ暗になり(貨車の一番前にランプがあるだけ)それでも外を眺めていると無数の白いテントの様な物が見えて、何だろう?(慌ててシャッターをきり)と言ったら各貨車に載っていた現地の案内人が難民キャンプだと教えて下さいました。だんだん民家が見えかすかな灯りに大勢の人だかりがして、私達の汽車が通るのに沿って一緒に手を振りながら子供達が走ってついて来、私達も手を振りながら通り過ぎて行きました。

≪右・写真≫ マッサワの子供達とピースボートスタッフ映像作家(コスタリカ在住)エリカさん

 ようやく船に着くと森田会長が心配して入口で待っていて下さいました。
 予定時間を遥かに過ぎては居ましたが、汽車に乗っている間中、最初に乗ったバスがずーと私達の汽車の後先を走りながら船に帰るまで就いて来ていました。もしかの時にと就いて来ていたそうで、有難い事です!決して裕福で無い国なのに、心が温かくなりました。

 航海中おりづる企画の中で、
 オーストラリア在住の絵本作家である森本順子さんは、被爆時の記憶を絵でもって表現されました。おおきなキャンパスに皆が見守る中、涙を流しながら自分の記憶を辿って一心不乱に書かれている姿は私の心に奥深く残って居ります。
 森本さんはこの航海の中で二度描かれ、最初の絵は私達がブラジルにて平和活動に使わしてくださいとお願いしたら快く譲っていただきました。今後大切に使わして頂きます。

≪左・写真≫ 森本順子さんが描かれた原爆絵。森本さんのご好意により、私達が頂いた絵です

(執筆日 2009年4月19日)

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