4月27日(水) “長崎被爆の元特殊潜航隊兵・芦原さん 県庁から手帳交付OKと連絡
          申請から3年 ようやく”

 一昨日からこちらは秋!急に小雨模様で寒くなりました。慌ててセーターを出して着ています。
 日本はこれから連休ですね。列車事故大変でしたね、こちらのテレビでも連日報道されています。
 昨年のこの時期は日本にいたのですが、森田会長夫妻も明日の朝サンパウロにつきます。いろいろのニュース心待ちにしています。

 嬉しいニュースです。
 長崎被爆の芦原学様(←3月25日付「事務局だより」で紹介しました)が、長崎県庁より手帳が取れるとの通知を受けられました。
 申請書を出して3年、本人はもう諦めていました、漸く出ましたと喜びの電話がありました。6月には長崎に行き手帳をもらわれるそうです。

 芦原様の事を少しご紹介してみます。
 戦時中、川棚高等小学校高等科を卒業(16歳)。後自分から志願して第21大村海軍少年航空隊に入隊、飛行訓練中大村湾に墜落し上官は死亡、自分は九死に一生で助かったが、軍法会議にかけられ、(軍の秘密を知ったものは死に追いやられる)後、特殊潜航隊に編入され、川棚町新谷で訓練(船もろとも敵艦に突っ込む)を受け、8月21日に出撃命令が出され、それまでの休養の為家に帰って(家族には軍の機密だから絶対話してはならないと命令されていた)いた時に、長崎に原爆(8.9)が落ち、(8:11)朝軍より非常召集の命令が出て、直ぐ大村に帰隊、そのまま長崎へ入市(8:11)川の中の死体を拾い上げ又瓦礫の中から死体をさがし、軍用トラックに積む作業をさせられ、水も、食も無く、夜は路上で仮眠し、長崎に行ったのは初めてで場所もわからず、知らず、ただ一緒に言った人がここは浦上川だと教えてくれたそうです。
 くたくたになって(8:12)夜、列車に乗って家に帰ったそうです。なぜ早く帰れたのかと思った時、もう一つ大切な死での旅がまっていたのです。もし長崎に原爆が落ちていなかったら、今の私は無いと!

 ・・・・と、これは軍の秘密だからと口止めされていても、辛い気持ちで日々を過された事を思えば、戦争がいかに人間の生きる権利を無視した非人道的権力にもとずいているか、長崎、広島の被爆者はその事を、自分の心と身体を実験台に今も苦しみ続けています。

 私も「在ブラジル、アメリカの被爆者を支援する会」(本部・広島市)の招きで、8月1日頃日本に行くかも知れません、まだ決定はしていません。

 今日はこれまで          ではまた

(盆子原 国彦)

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