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□2005/2/9(Wed) Music

カラカラに狂った風をくれ

The Mars Volta 『FRANCES THE MUTE』

突然変異の如くシーンに現れ、なんだかわけのわからない衝撃だけを残してさっさと解散してしまったアット・ザ・ドライヴ・イン。
そのうちの2人のメンバーであるオマーとセドリックを中心に結成されたバンドのセカンドアルバムは、いやはやとんでもないことになっている。

とりあえず一聴して聞こえてくるのは、カラッと乾きつつもドロドロとした狂気を内包する
カリフォルニアの砂漠に吹く西風のような音だ。
そして、夢と欲望の極北たるカリフォルニアのあらゆる混沌を混沌のままひとつの結晶にまで昇華させる、その強靭さだ。

マーズ・ヴォルタの曲の構成はほぼオマーの作るデモテープをベースにしているというが、
まずその構成が非常に難解かつ複雑であり、それを再現しなおかつ自らのものとして咀嚼するためには相当のプレイヤビリティが要求される。
そして何よりも大切なのは技術云々の前に、オマーの頭の中に浮かぶヴィジョンの共有であろう。
プログレ的展開、音響の要素を多分に含んだパート、果ては突然サルサが始まったりと音像は次々にその姿を変え、
それでいて終始散漫になる事はなく、一貫した世界観を提示する。
メンバー全員のヴィジョンの共有ができているからこそ、それが可能なのであろう。

「アメリカ的価値観」、そのどん詰まりにある西海岸という土地では静かにこの国を穿孔しつつあった矛盾や歪みがいち早く顕在化し、
それは少し遅れてアメリカ全土を覆うに至ったわけだが、
マーズ・ヴォルタの描くヴィジョンもまた、現代アメリカが抱える憂鬱や逡巡、それらが見せる悪夢のような現実の描写である。
グランジ・オルタナ以降使い古されてきたと言えば使い古されてきたテーマである「アメリカの憂鬱」を題材にしながらも
彼らが決定的に新しい点、それはその音とヴィジョンが持つ「内圧」ではないだろうか。
たとえるならば『AKIRA』において際限なく膨張に膨張を重ねていった鉄男や、
一旦喋り始めると自分でも抑えが利かないままに脱線や暴走を繰り返した挙句
「おい聴いてんのかおめえ、そこの、そこの、そこの、おめえだよ」なんてわけわからん事になってしまうエレカシ宮本のように、
「混沌のままに外側へ膨張せざるを得ない何か」が、彼らの世界には働いているように思える。

もうひとつ特筆すべき点といえば、彼らの放つ音には「レトリック的曖昧さ」が皆無であるという点だ。
「音のレトリックとはどういうことですか」てな感じで少々困惑させる書き方になってしまうが、言葉に関してはこれはもうレトリックと言うか、
抽象と具象が入り混じった阿鼻叫喚といった感じで難解な散文詩のような雰囲気をかもし出してはいるものの、
想像を絶する内圧によって無制限に膨張したヴィジョンはそのような詞の難解さを軽く超越する術を見出した。
それが、前述のように緻密かつ複雑かつ豪壮に組み立てられた音、彼らの世界を描きだすもうひとつの絵筆たるその音である。
「ここにある言葉」が「ここから発する音」に乗っかった瞬間、それは詩的表現や抽象性といった外見を飛び越え、
圧倒的な内容量をもった叙事詩となる。
「ある言葉とある音が共にある必然性」。
それをあまりにも強く感じさせるという点で、音楽的趣向や表現手法における共通点が皆無なことを承知の上で、
僕は彼らの音楽をエミネムやビースティーズと同等の破壊力を持った音楽であると評したい。
言葉はともかく音までもが雰囲気とレトリックの遊びに堕してしまったアーティストが数多く跋扈するロックシーンよりも、
圧倒的な情報の構成力において「この時代の表現」たるヒップホップ・シーンにこそ、マーズ・ヴォルタの思想は理解されうるのではないか。

全くもってカテゴライズできないが故に何かと単純化されたイメージで語られがちな彼らだが、
もったいないです。これはまじで。


だから、「ラウドロック」の棚に置くんじゃねえといってるだろうお前ら。


□2005/1/29(Sat) Music

それはきっと君の中にあるんじゃないか

東京スカパラダイスオーケストラ Tour2004-2005 追加公演@TOKYO BAY NK HALL

スカパラというバンドは非常に不思議なバンドだ。
バンドである以上そこには運命共同体的な雰囲気が漂うのは当然だが、多くのバンドがそのメンバーたちの個性によって認知されるのに対し
スカパラの場合は、運命共同体を通り越してもはやバンド自体が独立した一個の人格を持った存在なのではないかとすら思う時がある。

多くの夜を通り抜け、幾多の出会いも別れもその背中にしてきたひとりの男の姿。
そんなものが見えるのだ。

事実スカパラは度重なるメンバーの脱退と加入、そしてギムラ・青木達之の死という大きな節目を乗り越えながら、
その歩みを進めてきた。否、転がり続けるしかなかったといってもいいだろう。
確固たるヴィジョンを持ちながらも繰り返す出会いと別れの中で逡巡や激情に翻弄され自らの姿や根拠を見失う時があるように、
彼らもまた、自分たちの進むべき方向性を暗中模索する時期があった。

彼らと親交の篤い小沢健二がギムラの死に際し「僕、人死にに弱いんですよ」と
軽口を叩きながら史上最高の名曲「天使たちのシーン」を歌ったそのライヴで、裏腹なまでに華やかなホーンを炸裂させていた彼らの姿に、
そんな重みは見受けられなかったかもしれない。
しかし、それは確実に彼らの背にのしかかってきていたのだ。
杉村ルイ(ギムラの弟)の加入と脱退、レーベルの移籍、バンドの中核たる人間の不在・・・・
青木達之を線路上に横たわらせたものは一体なんだったのか。

そんな時期を経て、田島貴男・チバユウスケ・奥田民生の三人を迎え行われた一連のコラボレーションが彼らを蘇らせた。
あえて自らの物語・文脈を無視して為されたこの試みは、結果的に彼ら本来の姿を再び明確に浮かび上がらせ、
なおかつシーンからの広範な支持の獲得という副産物をもたらしたのだ。
その自信が明確なるヴィジョンに再び息を吹き込み、その息吹は大きなうねりとなって、彼らはあっという間に多くの人々を巻き込んでいった。

この夜のライヴはその証明であり、到達点であり、更なる物語への布石であったといってもいいだろう。
黒光りするまでタンニングした皮のように滑らかで、つややかで、しかし強靭なグルーヴ。
どんな時であっても、このグルーヴだけを信じて彼らは転がってきたのだろう。
ボロボロになりながらもたった一つ、それだけを守り磨き通してきた彼らのバックを同じような道を歩いてきた男・茂木欣一が今は支え、
各メンバーがかわるがわるバンマスやヴォーカルを務める。
オールドファンもかなりの数がいたであろうが、彼らが刻んできた壮絶な物語ゆえのドラマツルギーは会場内のどこにも見当たらない。
そこにあったのはまさにスカパラとオーディエンスとが築いてきた「今」、その幸福な関係性であった。

旅の途中で男が手に入れたもの、それはいったい何だったのだろうか。
それは果たして見つけたのものなのか、それとも取り戻したものなのか。
これから男はどんな地図を描いていくのだろう。
その問い、その回答。
ニューアルバム『ANSWER』が近い。



□2005/1/17(Mon) Music

漆黒は誘う

ROSSO 『DIRTY KARAT』

いつからか、気づけば周りには光ばかりがあった。
愛と希望と連帯と愛と希望と連帯と愛と希望と連帯ばかりを恥ずかしげもなく謳う音楽が街に溢れ、
渋谷の中心だか駒込の中心だか、自己完結した世界の中心で何を叫んでいるのかよくわからない顔した人の群れが
今日もせっせと誰かに会いに行っていらっしゃる。

なんて皮肉っぽく書いては見るものの、それら自体はとてもいいことだ。
人間というものが愛と誠を足して2で割って、きれいに割り切れる性質のものであったならば。

誰もが光の裏に潜むものを、自らの内に潜むものを、隠したがっているのだろう。
卑劣にして俗悪、狡猾にして浅薄なる性質が自らの内に潜むという事実から目を背け、ないしはその可能性を考えようともせず
のっぺりとした強い光で全ての陰影を塗りつぶし、自らをごまかしたその先に果たして何があるというのか。
人間の本質から目をそらしたままの、蛮勇のような希望か。
そりゃ強いだろう。目くらましのような閃光を放って消え、後には何も残りはしないだろう。

ブランキーもミッシェルもイエローモンキーもいなくなったシーンには、そんな不健全な「光」が溢れていた。
いつの世も本質に触れることができたのは自らの中でとぐろを巻く心の闇を自覚し、正面から向き合う事を選択した者だけであったというのに。
生ぬるく視界を遮る「光」を引き裂き、自らの心の闇と向き合い苛烈な自己への問いを重ねた結果として生まれる、ギリギリの表現。
真に希望というものが生まれうるとしたら、そのようなものの中にしかないのではないか。
自らの闇と向き合い、逃れられはしない死や倦怠、絶望といったものを全て見据え、丸呑みにした先に生まれてくる言葉の中に。

「疲れたカーニバル それでも笑っていたい/やがてスコールは降りやんで 鳥たちはまた飛んだ」

正邪が渾然一体となった一つの磁場であるこの世界そのものをどす黒いグルーヴで描写したミッシェルを経てチバユウスケが放った、新しい言葉。
その背後で鳴る音は、彼が「世界の終わりはそこで待っている」と唄った頃からさらに時を経て、すでに溶解を始めた世界を示すようなカオスだ。

世界の質量そのものを描ききることから、浮かんでは消えるヴィジョンを渦巻くカオスに叩きつけることへとその方向性を変えたチバ。
世界を引き裂いた浅井健一の絶唱、それに代わり得るだけの力を持った言葉を捜して彷徨った照井利幸。

黒い雨のように世界に降り注ぎ何かを侵食してゆく、安易なる希望。
ROSSOがここへ来て得た漆黒のグルーヴは、その呪縛から人の心を解き放つか。
悲しみとは。希望とは。愛とは。世界とは。
彼らはカオスの中から手招き、そんな問いを発する。


□2004/11/22(Mon)

言い訳をさせてください

いや、書きたい題材は山のようにあるのですがなにぶん時間がなくて。
こっちを書き始めるとひとつのトピックがえらく長くなってしまうので、ついつい「明日書こう」とか言うことを繰り返してるうちに早3ヶ月。


そのうち書きますので。


□2004/8/7(Sat) Movie

中絶された黙示録

大友克洋 『スチームボーイ』

彼と非常に関係の深い会社で働いてる身として、こんなことは言いたかないんだが
はっきり言ってああ残念。

スカーレットというヒロインが存在する必然性、(その素地は前々からあったと推察されるにしろ)親父の変節の理由、
(エンドロールで判明するものの)爺さんの安否、などなどに見られる物語としてのディテールの粗雑さ。
全般に描写不足であるがゆえに、最後まで今ひとつ感情移入できない登場人物たち。
そもそもスカーレットの声が小西真奈美だということに最後まで気づかなかった俺。
ああ残念。

しかし、映画としてグダグダなこの作品を僕は評価する。
なぜならばそこには大友克洋という作家が大友克洋の言葉として語りたかったことがあるからであり
今ひとつドラマツルギーに欠ける展開であるからこそ、むしろそれが鮮明になっているとも言える。

彼がこの物語の中で描くのは、この世界の裏側に潜み、しかし確かにこの世界を支配し動かしているもの。
エネルギーや金、そしてそれらに群がる人間といったものである。


科学の進歩とともに人間は武器を持ち、幾多の争いを繰り返してきた。

純粋なる私欲のためだけではなく思想のためであったり、宗教的熱情に駆られたものであったりしたときもあるが
それらも含めて、多くの場合は自らとその所属集団の利益のために人は武器を取り、人を殺す。
いつの時代にも富めるものは自らの権益を確保するために、より強力な兵器を求める。
その開発に当たるのは「人を殺したくて仕方ない」というような人間ではなく、
単純に生活上の利便性や知的好奇心などの要求に駆られて科学を志した人間であることが多い。
かのレオナルド・ダ・ヴィンチも当時のミラノ公ロドウィゴ・イル・モロの庇護のもとで多くの研究費を貰って自らの研究を進める傍ら、
散弾銃のような大砲や艦船魚雷のような兵器を考案している。
彼は研究途中で人間としての良心に基づいてそれらの兵器を封印したが、ルネサンス期には彼と同じように多くの科学者達が
自らの研究活動の保証と引き換えに新兵器の開発に携わっていた。
それでもなお、多くの人々が科学ではなく神と契約を交わしていたその時期における兵器というものはまだ牧歌的であったといえる。

化石燃料の発見と蒸気機関の発明によって人間がそれまでとは比較にならないほど大きな力を手にしたとき、
人間の飽くなき希望と欲望と叡智と狡知が複雑に絡み合ってその回転のスピードは早まり、世界は破局への道を転がり落ち始めた。
もはや神ではなく科学と契約するようになった人はより良い生活のために科学を必要とし、科学は実際にその期待に応えて見せた。
人はより強く、より大きなエネルギーを指向するようになる。
その裏では新技術の軍事利用が進み、兵器のマス・プロダクション化によって軍需産業が成立する。
その発注や軍事技術への応用可能な新エネルギー・新動力機関の開発に際して便宜を求めるべく軍需産業は為政者と結託し、
さらには一般消費財の生産も手がけることによって世間の目をくらまし、人々の生活の細部に巧妙に浸透していった。
兵器や動燃機関の性能上昇によって次第に「命を奪う距離」は長くなり、
ついには顔はおろか姿形すら認識できない相手を確実に殺傷できるようになったとき、この世から「人間の戦争」は消えた。
あとに残されたのは、寒々としたヴァーチャルな世界の中で繰り返される悲劇の連鎖。
いつしか戦争そのものさえもマーケティングの一環と化し、戦闘はセールスプロモーションとなった。

世界には絶え間なく血や涙が流れ、或る者はそれをすすって肥え太る。
我々の先人たちがかつて思い描いたのはこのような未来だったのか。
科学、技術、そして人間そのものに対する絶望と諦念と、それでもなお残る希望。
アンビバレントな感情とともに、我々の歴史は紡がれてきた。
旧約聖書の「かつてあったことは、必ずまたあるであろう」の言葉通りに、ただそのカタストロフの規模だけを大きくしながら。
その極北たる現在の、そのまた前夜。
狂騒と狂熱の19世紀末を舞台に描かれたこの物語は、その時代の牧歌性ゆえにその黙示録の「最終章・初頁」として機能する、はずだったのだろう。

惜しむらくは大友という作家の偏執狂的性格がそのプロットの提示の仕方ではなく、物語としてのドラマツルギーですらなく、
終始視覚的ディテールの書き込みに向けられてしまったことか。
人生を賭けたサーガが作れるほどのテーマであるのに、
その可能性すらも想起させないほどこぢんまりとまとまった作品になってしまっていると言わざるをえない。
非常に残念だ。