□2004/5/23(Sun) Movie
薄皮の下の「生」を見よ
山本政志 『闇のカーニバル』
先に言っとくが、ハヤシライスとかトマトジュースとか食ったり飲んだりしながら見るな。見るなよ。
もうこれはなんというか、我々の日常というものが一皮剥けば血みどろで蠢くものたちの戦場であるということを語りすぎなくらいに語ってくれる。
饐えた場末の匂い。輝くを放つこともなく刹那に消えてゆくものたちの体臭。
そんなものが強烈に漂ってくる。
死や暴力といったものは常に我々の側にある。
我々はそれに意識してかしないでか蓋をして、見ないふりをして生きている。
この映画はカラーの場面が主人公の表の顔、モノクロの場面が裏の顔といった感じで構成されているが、
モノクロの場面に登場する一見最もおとなしい、新宿を地下から爆破しようとする男の存在がそのことを一層際立たせる。
男が爆破したかった「新宿」とは、常にポジティヴに、ルールブック通りに明るく楽しく振舞うことを求められ、知らず知らずのうちにそれに応えている我々の意識ではなかったか。
我々が背負っている数多くのカルマを見ようとせず、無責任に人生を謳歌しようとする我々の傲慢さではなかったか。人間なんて奪い合い、殺し合い、犯しあい、なおかつ求め合い愛し合う生き物だろう。
どちらかだけを見ようとせず、両面に活目せよ。
というそれだけのことを、山本政志はうんざりするほどエグい描写の中で語りかける。魚を生きたまま掻っ捌いてはらわたを掴み出しその身を貪り食っておきながら、
反復横跳びもできないほど狭い鶏舎の中で殺されるためだけに育てられ不自然に肥大した鶏を丸焼きなんぞにしながら、
アメリカ人が首斬られましたってだけで世界中でヒステリーが起こるのは何故だ。
それは「その映像」が怖いのではなく、その向こうに「我々もこんな風に、虫けらよろしく死ぬ可能性があるのだ」という冷然たる現実を見てしまったからだろう。
死を隠蔽し、汚物には蓋をし、ついでに我々の感覚そのものにもヴェールをかけてしまった近代の病理といえば病理か。
死期が近い老人は施設に送り込んで終末処理し、もはやそれが「生きていた」のかどうかすら感じられない肉を食べる時代に、
多くの人にとって生き死にはリアルなものではなくなっている。
そんな中であの映像は、生物が生き、死ぬということのリアルさ、生臭さを我々に突きつけた。ただそれだけのことだ。
あいつらが異常なんじゃない(残酷ではあるけど)。おまえらが麻痺してるんだよ。無菌室の中で育つととんでもないことになるから、そんな麻痺した神経をガシガシ揺さぶってくるような映画なり本なり出来事なりに、たまには出会ったほうがいい。
生きるということの生臭さを知らないヴァーチャルな人生は、いずれ大きな破局へとつながりかねない。
そんな中で育ってきた「一見普通の」異常者があまりにも多い時代に必要とされるのは、「生きる」ということを体感させるようなリアルな感触を持った体験である。
痛みを知らないものは、優しさの意味さえ知らずに生きることになるだろう。そんなことをあまりにも単刀直入に提示してくれるものだから、見る人によっては気分が悪くなったりするかもしれませんのでご注意を。
□2004/5/15(Sat) Music
拡張する「最後の聖域」としてのMY LITTLE LOVER
MY LITTLE LOVER 『NEW ADVENTURE』
まず僕が言っておきたいのは、この歳になった男が「マイラバが好きです」なんていうのは非常に気恥ずかしいことであるということだ。
可愛らしい(それだけじゃないがとりあえず後述)ボーカルに甘々で切ない詞とメロディー、なおかつ一度バカ売れしてメインストリームに乗っかったという実績。
どれもこれもがちょっと音楽知ったふりしてる奴らやサブカルマニアといった連中には鼻で笑われる要素だろう。
浅薄なスノビズムにマイナー至上主義。
それこそが小林武史の最も嫌うものだったりすると思うんだな。小林武史という人は非常に器用な人で、古くは桑田圭祐監督の『稲村ジェーン』のサントラや当時のサザン、
言わずと知れたミスターチルドレンにイェンタウンバンド、2002年発表のエレカシ『ライフ』や映画音楽なんかにおいて
実にポップ、かつ作品性の高いプロデュース・ワークを見せている。
一時「プロデューサーブーム」なんていうバカな言葉があったが、あの時代に小林武史と双璧をなした小室哲也とは違い
それぞれのアーティストの音でしかないんだけど、一聴すれば小林武史というフィルターを経て音のダマが取れていることが分かるという
「深みのあるフィル・スペクター」ともいうべき最高のプロデューサーだといえるだろう。で、そんな小林がAKKO・藤井謙二という2人をメンバーとして95年に始めたのがこのマイリトルラヴァーなわけなんですけど、
小林武史が小林武史として表現をする場としてそのコンセプトは初めから割とはっきりしていたと思うんだ。
ユニット名は「私の大切な人」ということだったんだけど、要は小林武史が小林武史としての表現をしていく場であるということ。
初めは裏方に徹して通常のプロデュースワークのような体裁をとっていたんだけど、
そのうちに「プロデューサー小林武史」を続ける中で封印していた「表現者・小林武史」騒ぎだしたのか、勢い余って自分が参加。
それに伴ってマイラバの音も単なる「高品質ポップス」からより深み・実験性を増していくことになる。
で、まあ社内恋愛だの結婚出産だの藤井謙二の脱退だのということを経て夫婦ユニットと相成るわけですが、
「夫婦であること」の空気感だの安らぎだのを売りにした(なんかドラマの主題歌にもなってましたが)凡百のそれらとは違い、
「表現者・小林武史」の世界観を少しのブレも無く表現する「表現装置としてのAKKO」という
息ピッタリなんだけれどそこには「情」の入り込む余地は無い、恐ろしく冷徹でもある関係が構築されている。
それにしても、気恥ずかしくなるくらい正直な音楽だと思う。
小林武史という人のロマンチシズム、センチメンタリズム、世界への眼差しといったものが全て、何の嘘偽りもまとわずにここに並んでいる。
様々な仕事をこなす売れっ子プロデューサー、当然そこに絡んでくる色々な現実世界の瑣事。ありていに言えば金だったり。
さらには、どうしたって綺麗なままではいられないこの世界。
それらを離れ、自らの内宇宙と向き合って「表現者・小林武史」に戻るための避難所としてこの場所はある。
自らを取り巻く様々な状況の中において自分が自分であるための最後の聖域、それが彼にとってのマイリトルラヴァーなのだろう。
仕事を終えた男が家に帰る、といったような感覚に近いのかもね。なんだけど、小林武史という人の内にある世界はそこには留まらず、常にそこから世界へと再び拡張しようとする。
汚れきってしまったこの世界や僕らには気恥ずかしいくらいの美しいヴィジョンをもって、我々を「こっちへおいでよ」と誘う。
そして我々をそこに巻き込むには充分すぎるほど強い力を持った「ポップ」という橋を架ける。
妙な情報や概念に凝り固まって、愛だの夢だの人だの美しさだのを信じきれなくなってしまった僕らの心に。
表層の可愛らしさだけを見てしまう人にも、そのポップさを毛嫌いする人にも、その橋を見ることはできないのかもしれない。
それでもなお小林武史は「ポップ」を諦めはしないだろう。
なぜなら、彼自身が「音楽で世界は変えられる」と信じてやまないからだ。それは非常に恥ずかしい、あまりにも理想主義的にすぎる考えだと思う。
けれど、信じるに値する恥ずかしさだと思う。
冒頭で「マイラバって恥ずかしい」と書いたのは、結局僕が恥ずかしいということの裏返しでもあるわけだ。
シニカルになんてなりきれやしねえ。
あ、ちなみにこの『NEW ADVENTURE』というアルバムを冒頭に挙げたのは、この中に「Stardust」という曲が入っていて
僕がその曲をコロ助がコロッケを好きなくらいに好きだからです。
□2004/5/9(Sun) Music
バーデン・パウエルからスクエアプッシャーに至る脱構築論:あるいは現実を切り裂くものとしてのジャズ
Squarepusher 『ultravisitor』
菊地成孔 『Degustation a Jazz』
Baden Powell 『孤独』なんていう風に、いつものごとく長ったらしくて内容の全くない駄文を書き散らしていると
時々自分が何に向かって生きているのかわからなくなったり、結局何に向かってもいないのだということだけがわかったりして
そんな時、僕は無性にスクエアプッシャーを聴きたくなったりする、ということ。今日は友達の誕生日プレゼントを買いに原宿へ、なんていう小粋なことをしている自分に我慢できなくなって
渋谷のタワーレコードで4時間も色々な音楽を聴き漁っているうちに、菊地成孔の(意外にも)初リーダー作を見つけて
聴いてみたらぶっ飛んでしまったということ。
プレゼントは確かにいいものが手に入った。ドイツのパイプ人形。
だが、それはこの体験とは何の関係もないんだな。
ギターを弾くということに方法論レベルの大きな地殻変動をもたらした男であるバーデン・パウエル。
一般的には「ボサノヴァ・ギターの神様」なんて言われている彼がヨーロッパ滞在中に録音された『孤独』というアルバムがあって
そこには一人の人間・バーデンさんの偽らざる心情、主に寂寥感や郷愁のようなものが強く投影されていて
泣きのギターでもなんでもないのにギターは泣いていた。
ついでに言うなら、ギター一本というミニマムな編成であれだけ豊かな音像を描き出すことのできる人もなかなかいないもんだ。
逆に僕がスクエアプッシャーを好きなのはその暴力的であると同時にあまりにも緻密なサウンドメイキングももちろんの事ながら、
そこには一切の感情も情動も投影されてはいないからだった。
強いて言うなら、テレビが放送時間を終了したあとの砂嵐を延々と見ているような感情。
「陰惨な事件があまりにも多すぎて、それら一つ一つにはなんの感興も湧かなくなってしまった」というような感情。
100%生演奏とは思えないほどの超絶技巧の嵐が(さらに言うならば、多くの場合それらはなんらハーモニーを奏でようとしてはいない)
吹き荒れるサウンドスケープの向こうには、全ての感情や実感や経験が情報の洪水の底でガリガリ削られたり削られなかったりしていた。
サウンドが何も喚起しない、ということが僕らの現在をあまりにも強く映し出しているという逆説。菊地成孔のアルバムにおいてはアフロやボッサなどの各種ジャズがことごとく裁断され、そこには「ジャズ的である」という意外には何の意味もないように思えた。
スペイン人の天才シェフ、フェラン・アドリアの開発した「デギュスタシオン」という料理概念にインスパイアされた、
(補足説明しておくと、デギュスタシオンとは彼同時の哲学に基づく数々の料理が64の皿に盛られて次々と出てくる形式。
一皿一皿は極少量ながら、「そのメニュー使われるべき素材や調理法が使われてない」という絶妙な構成で料理界に旋風を巻き起こした。
どうみてもプリンにしか見えないプリン仕立てのフォアグラだとか、ニンジンを泡立てたものだとか、いわば概念の再構築を第一義とする料理といえる。)
ジャズのドグマ、インプロヴィゼーショナルであること・エモーショナルであること・コンテンポラリーであること・・・といったものをことごとく無視した小曲集。
いわば、「ジャズ」の概念をことごとく解体することによって「ジャズ」がその第一義としていたものを取り戻そうとする試みであるといえよう。
気違いフリージャズであるスクエアプッシャーと比べると音の組成自体は非常にスタンダードとも言えるこのアルバムは、
しかしながらアルバム全体を見渡した時に、どうしようもなくスクエアプッシャー的なんである。
そこには何もない、ということがあまりにも大きな意味を持ってしまうというポスト・ポストモダニズム。スクエアプッシャー=トム・ジェンキンソンがその最新作の中で披露しているのは、バーデン・パウエルばりのサウダーヂ感溢れるギターだったりする。
相変わらずの音の洪水の中にほんのわずかだけ、エアポケットのようなそれらの曲が潜んでいる。
かつてバーデンはギターを「伴奏楽器」というその位置づけから解放したが、バーデンという存在を脱構築するジェンキンソンはそのサウダーヂを解放する。
還るべき場所を持たないものたちの鳴らす「サウダーヂ」は、この世界を吹き荒れる嵐の中心にあるものを逆接的に浮かび上がらせる。
結果、これまでの彼のアルバムよりも遥かに大きな力を持った作品になっていたりする。「なにもないこと」「落としどころのないこと」が持ちうる力。
それは芸術だけではなく政治であれ経済であれ、多くのことに通用する。
ポストモダンという概念が唱えられ始めてからすでに20年以上が経過し、それは「モダンへの逆切れ」でしかなかった時期を経て
ようやく成熟しつつあるのではないか。
というか、バーデンや沖縄民謡なんかを聴いているとそれはポストでもモダンでもなんでもなく「ただそこにあった」もので、
僕らが浮かれてそれを忘れていただけなのだろうと思わざるを得ない。
適正な量をとうに超えた多くの概念や情報が溢れすぎている今だからこそ、人々が少しずつそれに気づきつつあるのかもしれない。
スクエアプッシャーと菊地成孔は、それぞれのやり方でそれを提示する。
□2004/5/5(Wed) Music
「諦念と開き直りと見果てぬヴィジョンについての考察(大人向け)」
考察その2
斉藤和義 『青春ブルース』古いソファについた染みや洋服のほころび、日焼けした本の背表紙のように
もはや過ぎ去ってしまった時への想いをある種の諦念とともに喚起させるものがある。
後になってみればそんな風に見える、いくつもの盆に返らざる何とやらをそうとは知らずにこぼし続け、
そこに残った残滓のような想いを途方に暮れながらひとつひとつ寄せ集め、こねくり回してなんとかひとつの造形にまとめてゆく。そういうものが人生なのだとするならば、そこに寄り添う歌を唄うには斉藤和義のような男がふさわしい。
エレカシ宮本が途方もないほど長い間の世間、そして自分というものとの対話の中で
唯一無二の存在としての己を認識し、余計なものを削ぎ落として孤高に立つ覚悟を固めたのに対して
この斉藤和義は昔から現在に至るまで迷い続けている、というか確固たる己を認識しながらも
そこにまとわりついてくる全てを捨てきれないままここまで来てしまった人のように思える。
自然、色々な思いや出来事の残滓を体のそこかしこにこびりつかせたまま。
互いに様々なものを見せ合い理解し合う時期を過ぎて、ある程度の充足と引き換えに手にしてしまった恋人同士の倦怠や沈黙。
それでもどうしようもなく相手(時には誰でも良かったり)を求めてしまう、バカ正直な心と体。
夢に見た場所とは全然違う場所に辿り着いたあとで、それでも尚捨てきれずにポケットの隅に小さく丸めて隠し持った夢のかけら。
今のこの現実を見ろと言われたって頭に浮かんでしまうあの場所や「あのころ」。
ドラスティックな変化を求めながらも、目の前のささやかな時間を守りたいと思ってしまう矛盾。そんな全てを丸ごと抱え込み、「それでも全てが欲しいんだ」と思ってしまう心。
現実逃避としてではなく、冷静な現状認識の結果としてドッペルゲンガーのような「完全なる俺」を求め、
でもそんなもんは到底無理だからそれを補完してくれる存在としての女を求め、
結局自らが本当に必要としているのは目の前にいる恋人なのか始末に終えない自らの夢なのか、
それがごっちゃになったまま今日もとぼとぼ歩いている自分。
目の前の現実に対する冷静な眼差し、そして尚且つその向こうにあるものを求めてしまう心のアンビバレントな関係。
そんな永遠に折り合いがつくことのない二つが共存してしまう自らの精神に対するある種の諦念。
どうしようもなく目の前に立ち現れる「もう一人の自分」を振り払っては、
それに最も近い(すなわち、完全に分かり合えることなど永遠にない)存在である目の前の恋人と全力で対峙したり時には逃げたり。
精神の孤高よりも、何も捨てることなく誰かとともに生きることを選んだ男の諦念と幸福と一抹の寂しさと。
斉藤和義の音楽にはそんな日常と、何も捨てられなかったからこそ失ってしまったものたちへのブルースが鳴っている。
なんだけど、何も捨てられない男だからこそ、彼はいつか「その向こう」にあるものを掴みに、
そして道の途中で置いてきたものを迎えに行くだろう。
日常のカオスやけだるい諦念の入り混じった幸福の中で絡みついた余計なものの全てを引き連れて。
そして、愛する人を連れて。「迷わずにその瞳見つめれば いつの日か燃え尽きて死ねる」
そう歌う「楽園」は、彼なりの静かな、そして若干控えめな決意表明なのだと思ったりもする。
□2004/5/4(Tue) Music
「諦念と開き直りと見果てぬヴィジョンについての考察(大人向け)」
考察その1
エレファントカシマシ 『扉』これまでの人生で「おい今夜は酒持って来い、いいから酒持って来い、来いよ持って来いよ」
なんてフレーズで始まる曲を聴いたことがあるか君は。
ねえだろう。俺もない。
カラオケ屋に置いてある冊子の歌い出し検索のページに「おい今夜は酒持って来い・・・」なんて
掲載される曲は少なくともむこう10年は無いんじゃねえか。
ていうかカラオケに入るのか、これ。
そんな「化けモノ青年」なんていう得体の知れない曲が収録されたエレファントカシマシの新作『扉』。
現実離れした理想と分不相応な欲求と自分勝手な愛情の権化たる生物である「男」、
その駄目なところを100倍濃縮したような宮本浩次という齢37になるおっさんがいて、
彼の心の軌跡をそのまま辿るかのように狂った本能を剥き出しにしたり柔らかな詩情を歌い上げたりと
もはや意味わかんねえ唯一無二のキャリアを重ねてきたエレファントカシマシ。
それは言うなれば現実を生きている自分とこうあれかしと願う自分とのギャップへの苛立ちと煩悶、
そして二つの擦り合わせを指向する至極全うな精神の動きをあまりにも分かり易くトレースするものだった。簡単に言うとみんなと友達になりたいんだけどその為に自分を曲げるのは嫌だなあとか、
でも人気者になりたいなあだとか、頑張ってるのにどうしてまわりとうまくやれないんだろうとか、
無理して人に合わせてたらイライラしてつい八つ当たりしてしまったりだとか、
そういう子供レベルの心の動きを経て自らの存在というものに折り合いをつける、その過程をバンド自体が歩んでいたわけだ。普通の人は自分と世界との折り合いをさっさとつけてしまってうまいこと人生を送っていく。
過剰なるセンチメント、過剰なる死生観、過剰なる理想、過剰なる能力、
とにもかくにも何かしら過剰なものを持った人というのはその作業が非常に苦手だ。
だからこそ芸術家の卵(もう立派に孵ってしまった者も)が多く住む中央線沿線は自殺率が他沿線の3倍になったりする。
上に挙げた要素の全てを兼ね備えてしまった宮本浩次というダメ男が率いるこのバンドも、そんな作業の中で苦しんだ。
自らの居場所を探すかのように振り子の極から極へと振れ、辿りついた結論としては
『俺の道(これは前作のタイトルだ)』ということだったのだろう。
自らの孤高なる立ち位置と他の誰とも馴れ合うことのできない魂をようやく受け入れた宮本が鳴らしたのは、
何よりも気狂いじみていて何よりも美しい言葉と旋律の数々。
こんな過剰で過剰な奴は他にはいないんだ。
だからこそ苦しんだのだろう。その軌跡は、ここに結実した。で、その次作たるこの『扉』でもそんな宮本のメンタリティは思う存分炸裂する。
「男の歴史とは己のイメージと相克の歴史」
「トモよ あなたは思ったことが無いか 死ぬまでにどこまで たどりつけるだらう?」
「気に入った場所は何処だ 何度も探し辿り着いた やっぱり飽き足らない やれやれ俺また探すんだ」
まさに男というダメな生き物の本質を突いた言葉が並ぶ。
わけなんだけど、『俺の道』との最大の違いは「俺の精神を世に問う。文句あっか」といった逆ギレ&気狂い感が無く
どちらかといえば明鏡止水・・・には程遠いが、
男37歳が腹を括ってそっと差し出した決意の数々がクリアな印象を持って響いてくるという点だろう。
それは確固たる覚悟を持って人生に臨む男の横顔に似ている。
で、男という奴はバカだから、その隣に誰かがいてくれるならその人を守るためにはどんなことでもできたりする。
「もう二度と泣かなくていいように 夜空の星を全て君にあげよう」なんて恥ずかしいことも平気で言えたりするわけだ。孤独なる魂を受け入れ、孤高なる己を受け入れ、一握りの愛を握り締めたりしつつ、
「ゆっくりとゆっくり歩みをすすめていく/結論 結論 それが結論」。
ぬるい人生なんて必要ないし、そこには何の意味も無い。
余計なものなんて必要ないし、そこには本質だけがあればいい。
ルパン三世の主題歌じゃないが、男の美学をここまでクリアに歌えるのは世界にただ一人、宮本浩次37歳しかいない。
非常なるアナクロニズムのように見えて、ぬるいことだらけのこの世の中でそれは確かに「今」を我々に問うている、と思う。それにしてもあれだね、宮本君。
浜ちゃんと一緒にドラマに出てたころの君はなかなか笑えたよ。