□2004/3/6(Sat) Music
Amy Winehouse 『FRANK』
まあ、まず何に惹かれたのかというとジャケットなわけです。
「ジャケ買い」という行為が嫌いな僕だけにそれは決してお洒落なデザインのジャケットというわけではなく、
安っぽい服(露出過多、っていうか単純に着方が変)を着て、アイライン&マスカラを塗りたくって、
いかれた色をしたコードで夜中に犬を散歩させているところを少々被写体深度浅目に撮っただけ。
イメージで言うと、目白下落合あたりの安アパートに住んでて歌舞伎町にお勤めのホステスさんが
出勤前に契約違反でこっそり飼ってる犬を散歩させてる感じ。
裏ジャケに至っては、路上に無造作に脱ぎ散らかされたヒールが映ってるだけ。
そこかしこから安っぽい香水の匂いがしそうな、非常にとっぽいアートワークなわけです。そのとっぽいアートワークからお水の匂い・・・というかなんというか、
夜の街に漂う情念や業を毎夜その身に浴びつつもギリギリのところで自分を保って生きてるお水の人がいるように、
人生における様々な喜怒哀楽や不条理の奔流の中で
それに流されてしまわぬようにと何とか踏ん張ってる意志の匂いのようなものを妙に感じてしまって、視聴してみた。
で、55秒後にはレジにいたんだ。まず、声がいい。酸いも甘いも最大限に増幅することができそうな演歌声であり、ソウル声だ。
アレンジとしてはタメの利いたベースラインがソウルフルではあるが決してソウル一色というわけではなく、
ジャズやボサ・ノヴァといった音楽の要素を積極的に取り入れ、うまく消化している。
全編から漂うのは何気ない日常における心象と、少しの寂寥と。
日常を彩る様々な感情が、強めの筆圧と弱めのコントラストで(ここが非常に微妙な匙加減の要求されるところだ)
静かに、しかしはっきりとした輪郭をもって眼前に立ち現れてくる。
自分の人生を自分でコントロールするために、毎日を大切に生きる人の姿がそこに見える。
とっぽいジャケ写から感じたことは、あながち間違ってもいなかったというわけだ。それにしてもこれはほんとに掘り出し物だった。
どうってことない日常を、静かに満たすソウルミュージック。
それは全ての部屋に、街に、人に、笑顔に、涙に似合うだろう。沢山の人に聴いてもらえるといいと思うけど、こんなセンスの無いジャケットじゃ無理だろうな。
□2004/2/27(Fri) Music
槇原敬之 「彗星」
もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対だとか、
君はどうしようもない僕に降りてきた天使だとか、
この巣にかかる愛だけを食べてあの子を逃がすと誓おうだとか、
その他諸々の素晴らしい愛の言葉を吐いてきながらも、それが全て「この相手全部男なんだよね〜」なんていう
なんだか薄ら寒い笑い話に変えられてしまいかねないほど色々と下世話な語り口で伝えられた事件のあとで、
あんたならどうする?ということだ。
真っ向スウィングでバックスクリーンに叩き込む弾丸ストライクバック。
逃げも言い訳も一切無し。
音楽でも文学でも絵でも何でもいいが、そもそも表現者なんていうのはこの世で最も恥ずかしい商売だ。
自分の精神の内奥を人前にさらしてしまうというメンタル・ストリップ。
さらにはその内容について何やかや言われたり、
過剰に共感・依存されてしまったり(こっこだってそれで一度歌を止めちまったじゃないか)、
挙句の果てには商品として売れなきゃ用無しの世界。
そんな場所で長年ど真ん中のポップスをやり続けてきた者のプライドと一人の表現者としての余りにも真摯な想いは
自らをして自問自答自己完結の、小難しい精神世界に逃げ込んでしまうことを許しはしなかった。
「汚れていて止まって見えるあの川は確かに流れていた」
「僕はもうあまねく風にわざと背を向けたりしたくない」
全てを引き受けて、もう一度曲を書く。
これまでと同じように、ただただ偽りのない想いだけを静かに放てばいい。
色々と勘繰ったり冷笑したり深読みしたりするのは他人の仕事だと。
これがこの男の答えだった。
本物のポップスっていうのはこういうもんだ。
だからこそ、僕のようなひねくれた阿呆スノッブにも響いてくるんだよね。
この曲だけは、本当に、少しでも多くの人に聴いてもらいたい。
□2004/2/11(Wed) Music
The Baker Brothers 『Ten Paces』
いや〜、バカっていいよね。
だって、アルバムの冒頭でいきなり「ファイヤ〜!」なんて叫んでるんだぜ?
そんな人、どっかのレスラーかこの人たちくらいのもんだろう。
バンド名も「バカ兄弟」に見えなくもないしね。で、そんなベイカー兄弟(+1)がこのデビュー・アルバムで何をやってるのかというと、
これがまた超絶技巧アシッド・ファンク・ジャズなのだ。
ジェフ・ベックやフェラ・クティを思わせるフレーズ、ジャズボッサ的展開、
さらにはモンドなドライヴィングナンバーも散りばめつつ、非常に洗練された英国流ファンクが堪能できる。
これだけ豊かな音楽的語彙を持ちながらただのコラージュに堕することなく、
また、これだけの技巧をもちながら単なるインプロ一発録りにしてしまうこともなく細密に練り上げられた音世界は、
ちょいと畑違いではあるが往年のストーンズやポール・ウェラー師匠さえも髣髴とさせる。
ジャミロクワイあたりにも通じるこの洗練された感じは、やはり英国の血なのだろうか。
それとも、あらゆるブラック・ムーヴメントの震源地から一歩離れたところにいるがゆえに
すぐ飛びついてしまうのではなく、少し間を置く事で自分たちなりの咀嚼ができるという地理的要件なのか。
何はともあれジャズを初めとするヨーロッパのブラックミュージックはなかなか興味深いのだ。
クラブと密接に結びついているせいで日本において僕の嫌いなお洒落コンピの類が乱発されるのはどうもいただけないが、
音楽的な進化の方向性としてはまだまだ可能性の宝庫であると思う。
まあ欲を言えば一枚のアルバムの中で録音レベルくらいは合わせて欲しいものだが、
このファンク・バカ兄弟(+1)、今後の注目株ナンバー1です。
□2004/2/10(Tue) Music
くるり 「ロックンロール」
例えば淡いパステルで描いた無数の日常を織り上げて一枚のタペストリーを作るように、
泣いたり笑ったりして過ごす泡のような日々をひとつひとつ頬に感じながら歩く冬の朝のように、
静かに眠りに沈む夜の街が自分に向かって閉じ、またそこから世界が倍速で広がっていく感覚のように、
じりじりと照りつけ、僕らを静かに、けれど確かにどこかに追い立てる夏の日の太陽のように、
くるりというバンドは常に「5割増しの皮膚感覚で捉えた世界」を音像にしてきたといえる。
優しさも、切なさも、孤独も、内省も、全ての感情に対してあまりにも自覚的なバンドであることは昔から変わっていない。最近ではジム・オルークやトータスなんかのシカゴ音響派の影響を受けた音作りをしていて、
バンド自体はますますその微妙な皮膚感覚を表現することに自覚的になっていた印象がある。
世界に向かって自らの感覚をオープンにしていく、寒気がするほどクリアな瞬間をあまりにも美しく切り取った
「ワールズエンド・スーパーノヴァ」というふざけた名前の名曲と、それに続いて発表された
ひとつひとつの感情のエッセンスだけを抽出し、その他の要素をひたすら漂白していったかのような『The World Is Mine』で、
彼らはそのひとつの極みに達した。
なんだけど、こんなものを作ってしまって次はどうするのって感じでもあったのは事実だ。
この後に結成時から叩いていたドラマーが抜けたことからも、バンド内での微妙な行き詰まりが伺えた。乳首に巨大ピアスを開けたファンキーかつ滅茶苦茶に上手いアメリカ人ドラマーを迎えた新生くるりを目撃したのは、昨年の夏。
正直言って、頭を100トンあるピコピコハンマーでぶん殴られた後に撫で回されているような、
意味のわからないほどのロックンロール・タイムだった。
時にストレートな四つ打ちを、時にタメを効かせたへヴィなグルーヴを、まるで夏の魔物を飼いならすかのように自在に操り、
オーディエンスを煽り、鼓舞し、躍らせ、舐め回し、遠いところに連れて行き、置いて行く。
音は至ってシンプルなバンドサウンドに戻っていたが、線の細い体に血管切れそうな顔で叙情とエモを掻き鳴らしていた初期とは違う、
確かな表現力とより確固としたモチベーションを彼らは手にしていた。
くるりは完全に壁を突き抜けたのだと思った。その後発表された2枚のシングルを経て、今日(正確には明日だ)発売されたばかりのこのシングル。
もう、はっきり言って完全無敵です。
今まで彼らが描きそうで描かなかった、切なさと希望と迷いをない交ぜにしつつスコーンと晴れ渡った蒼天の風景。
そこにあるのは革命だのなんだのといったマッチョぶってるだけの言葉でも無責任なポジティヴィティなんかでもなく、
崖っぷちギリギリの愛と誠を泣き笑いで奏でるチキンガイズが、新たなフェーズに入るに当たっての決意表明だ。
男は万歳三唱するしかない。
あまりにも鋭敏すぎる数々のバンドが短命に終わっていく中で、
くるりとグレイプバインはその感覚を失うことなくタフになっていっている。頼もしい限りだ。
来月発売されるアルバムが待ち遠しい。