□2003/12/28(Sun) Music/Book
小沢健二 『刹那』
小沢健二の編集盤が出ている。
いわゆる「オザケン」なんていう愛称でおかしなブームを巻き起こした彼だけど、芸術家になるべく生まれてきたようなこの人は
もともとは最高の批評精神を備えた男で、もう一人の批評家であり音楽気違いでもある小山田圭吾(現コーネリアス)とともに
フリッパーズ・ギターという、これまた批評精神剥き出しのバンドを組んでいた。その解散後にソロデビューし、最高の名曲である「天使たちのシーン」という曲が収録された
求道者のように素晴らしいアルバムを出した後、突如ディスコテックソウルブラザーと化して「アムール!」なんてぶち切れたのが
あの『Life』であり、その後の数枚のシングルであり、みんなの「オザケン」像はここから来ている。
勝手に渋谷系の筆頭にされ、ポップスター的なブームが起こってしまい、それに辟易したのか自分で突っ込みを入れたくなったのか
突如ジャズ・アルバムを作り、さらにはソウルフルでジャジーな何枚かの傑作シングルを放ち、
全てを一曲の中に集約し昇華した「ある光」という名曲を残した後、彼は長い長い長い沈黙に入る。2002年に突然あまりにもディープスロートで素晴らしい愛のアルバムを出して僕を狂喜させた後は、またしばらく音信不通になっている。
冴え渡りすぎな批評精神と繊細すぎな感性が同居してしまった完全な天才であるこの人は、
それだけに自分のやることなすことに突っ込みを入れながらもわざと偶像を引き受けたり、自らそれを補強したり、
突然「あ、あれ全部無しね」なんて言ったり、極からもう一極に走ることを繰り返しながらその繊細さゆえに疲れていった、様な気がする。シェイクスピアの「リア王」における王と道化二役を一人で演じてしまう彼。
この突然の、しかもさっぱり意味のわからない選曲が為された編集盤はそんな彼からの謎掛けのような気さえする。
とりあえず、さっさと戻って来い。
個人的な好みとしては微妙な時期の曲が多いんだけど、やっぱり素晴らしい。
最高の詩情と旋律によって刻み付けられたひとつひとつの瞬間を、僕は一度たりとも忘れたことは無い。
これから聴く人に訪れるそれぞれの瞬間をも、この歌たちは輝かせ刻み付けるだろう。
記憶。時代。感情。生まれ出ずるものと消え行くものが交差する、その刹那の美しさ。
年末年始にはぴったりです。
ただ、俺はまだ買ってないんだよね。だって小沢の曲は全部持ってるし。
どうしたもんかな。-----------------------------------------------------------
リービ英雄 『ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行』量子論という学問においては、全ての事物はそれを認識する主体があるからこそ存在する。
そういう考え方は別に科学的な話にとどまらないわけで、
例えばこれを読んでるあなたが自分を自分だと信じていられるのは、
近くにあなたをあなただと信じている人がいるからだ。
本当に確かなものなんてこの世には存在しないのであって、
全ては世の中に張り巡らされたさまざまな相互認識の糸が織り成すネットに引っかかって中空で安定するだけの、
不確かであいまいな存在に過ぎない。
その不確かなものをアイデンティティと言う。もしもそのネットが無くなってしまったら?
それでも私は安定して存在している、だとか我思う、故に我在りなどというのは
人間の自意識が生み出した傲慢さであって、実際は自らの存在する基盤を見失い、虚空を滑っていってしまうだろう。
我々の精神は、決して虚空に浮いたままで安定するものではない。
新しく暮らし始めた町に友達がいなくて寂しいだとか、恋人と遠く離れてしまって不安だとか、ペットの死で落ち込んだりだとか
そんな些細なことでさえも、ネットを構成する糸が一本一本抜かれてぐらついているという証なのだ。
多くの人たちはまだまだ多くの糸が準備されていたり新たな関係性の構築によって糸を補充しているために、
少しぐらつく程度ですぐに平衡を取り戻すけれど。
どこか遠くに長旅に出てみたりすることは、普段は認識しないそのネットから離れることで
自らをここまで存在させ育んだものは何だったのかという問いを喚起させる。
この物語の主人公であるヘンリーたけしレウィツキーは、常にそういう問いを抱えて生きてきた人だ。
イギリス人とユダヤ人のハーフであり、父の友人である日系人「たけし」の名前を与えられ、
第二次大戦後の占領下にある台湾で幼少期を過ごし、
アメリカで育った男 (それは作者であるリービ英雄の境遇とも符合する)。
常に周囲には自分と同質の人間がいない状況で「自分は誰で、なぜここにいるのか」を問い続け、
自分につけられた「たけし」の名を頼りに、日本に辿り着いた男。
彼はそこで自分をHenlyでもMr.Lewitskyでもなく「たけし」と呼んで受け入れてくれる人々と出会った。
それ以降主に日本を拠点として生活をしていた彼が、自らの幼少期の記憶に残る風景を探すために
(もはや先進都市と化した台湾ではなく)中国の発展途上都市へと旅をし、
そこでも「老外(日本語で外人と言うくらいの意味)」である自分と否応無く対面することになる。
そんな風にして疲れきったヘンリーが見たのは、
かつて日本で出会った人々の夢。
彼がその複雑な境遇で育つきっかけでもあった「血筋」ではなく、
何の関係もない日系人の名前をきっかけとして辿りついた最後のセーフティネット、それが「日本」であった。
「たけし、ごはんだよ」「たけし、いしんでんしんってわかるか」
孤独な日々の合間に彼が見たそんな過去の記憶はあまりにも美しく、そして切ない。「大昔にユダヤ人がキリスト教を伝えた(景教のことだろうか)」という「古い京」に辿りついた彼は、
そこにそのユダヤ人の子孫、すなわち自らと同じく異郷でノマドとして生きた人々の子孫を探す。
「彼ら」はいなかった。だが、確かに、かつては、いた。
彼らは何を思い、その地で生き、死んでいったのか。
自らが幼少期に育った台湾にあったのと同じような古い路地が「再開発」によって取り壊される様を見ながら、
どこにいても「老外」であった彼の胸に去来したものは悲しみか寂しさか、それとも何らかの安息なのか。
「どこにも属せなかったもの」として生きてきたこのリービ英雄という人は
一貫してアイデンティティというものに関する著作を世に問い続けており、
そんな中でも、この半自伝的小説はその切なさにおいて群を抜いている。
人は皆ノマドだという。
周囲との関係性、すなわちネットの構成要素が常に再編成されるこの人生においては誰もが不安定であり、
だからこそ宗教でも金でも恋人でもアートでも、まあ人それぞれに
自らを安定させてくれる何かを求めてはなかなか見つからず、優しくて弱いまま生きていく。
この物語が歌うのは、そんなノマドたちの為のブルースだろうか。
New Order 『Get Ready』
あまりにも恥ずかしいがゆえに最高なJUNのエレポップを聴いていたら、やっぱりマンチェスターの音楽が聴きたくなって
そうすると、つまるところマンチェの神のような存在であるニューオーダーに行き着く。そもそもJoy Divisionというポストパンクバンドのヴォーカル、イアン・カーティスが自殺した後に
残されたメンバーが途方に暮れながら作ったのがこのバンドで、
当然ながらいきなりヴォーカルを兼任させられたギターのバーナード・サムナーの歌声はヘロヘロで
本業のはずのギターの音色までそれに輪をかけてヘロヘロだった。
試行錯誤しているうちに生まれてしまった暗黒のハウス・ナンバー「Blue Monday」によって彼らはカリスマとなり
その後もヘロヘロながら実に美しい曲群を生み出していった。
やつれ果てているのかソリッドに研ぎ澄まされているのか、どっちなんだかわからない憂鬱な表情のまま。
「Ceremony」「Let's Go」「World」なんて特に最高だ。バンドは93年の『Republic』以降は解散状態になり、バーナードは元スミスのジョニー・マーと一緒に
エレクトロニックという実に胡散臭い名前のユニットを結成していた。
それがまたえらく美しいメロディとロッキンなサウンドとヘロヘロの歌声という、要するにUKロックの珠玉の作品を作ってしまい、
しかもそこには奇妙な安定感があったために、
ニューオーダーはもうやらなくても仕方ないなと誰もが思っていた、と思う。なんて言ってたら2001年に突如この作品で完全復活、フジロックにも出た。やはりヘロヘロだった。
いつの間にか全員太っていたが、美しいメロディとサウンドスケープは変わっていなかった。
彼らが音楽シーンに与えた測り知れない影響を示すかのように、
このアルバムにはボビー・ギレスピーやビリー・コーガンが嬉々としながら参加している。
そのせいか、サウンドはこれまでに無くロッキンだ。今ごろオリジナル・パンクスとしての出自を思い出したのだろうか。
なんて思っていたら、さらに驚いたのはラスト曲「Run Wild」。
これまでひたすらにアイロニカルで陰鬱で張り詰めていて絶望的であるが故に美しい音を奏でてきたバーニーが、
アコギ一本で「いい時代がすぐそこまで来てる/きっと、暖かくなっていく」だとか
「ジーザスが君を連れて行こうとしても、僕は君を離さない」なんて、何のひねりもない最高の愛の歌を歌っていた。そのスタートからずっと彼らの頭上に立ち込めていたイアン・カーティスという暗雲は、いつの間にか晴れていた。
「Run Wild」は、もがきながら彷徨い歩き続けてきた自分たちの過去への優しいエピローグだった。
国内盤ではその後にボーナストラックとして「これぞニューオーダー」的な陰鬱で美しい曲が収録されていて、いいような悪いような。その後、映画『24HOUR PARTY PEOPLE』の主題歌としてリリースされた
ケミカルブラザーズ(ニューオーダーのとびきり優秀な子供たちの一人だ)とのコラボレート曲のタイトルは「Here To Stay」。
タイトルだけで十分だった。聴くまでも無く、彼らは過去を完全に乗り越えたのだと思った。
ともかく、この曲は切なくなったり闇雲に力づけられたりする最高の曲だ。
今ごろ最高傑作を作り出してしまうこの中年のおっさんたちに感動しないわけにはいかない。
□2003/12/26(Fri) Music
JUN 「サンセットシティライト」
WINOというバンドは基本的にマンチェスターの血を受け継いでいて、
ニューオーダーやストーンローゼズやハッピーマンデーズやその他あの頃のアシッドなどなどに影響を受けた、
要するにちょいとセンチにグルーヴするロックンロールを鳴らしていたバンドだ。
彼らの出すシングルは本当に外れなしの名曲ぞろいだったので僕は欠かさずチェックしていたんだけど、
アルバムになるとどうにもいまひとつ抜け切れていない感じの曲が多かったために
いつの間にか「シングルが出てたら聴いてみるバンド」みたいな扱いに成り下がっていた。
そのうちに「始まらない物語は捨ててゆこう」なんていう必殺フレーズを放ったかと思うと、
WINOはなんだかわからないうちに解散しやがった。このバンドのヴォーカルである吉村潤という男のメロウネスは素晴らしく情けなかった。
その情けない男がナンバーナインに身を包んで逆ギレ的なロックンロールを鳴らす様はえらく格好よかった。
日常を救済するものとしてのグルーヴに満ちていた。「Everlast」なんて最高だったんだ。
それでも彼らは常にどこかで割り切れない思いを抱えていて、それはつまり「マンチェ」そのものだった。その男が「JUN」なんて冗談みたいな名前で帰ってきた。
ていうか、音も冗談みたいな80年代サウンドだ。ヴォコーダーに四つ打ちハウス。そしてハンドクラップ。
マンチェやアシッドが好きなのはわかってたが、ここまでレトログルーヴ全開でくるとは思わなかった。
刑事ドラマのコスプレみたいな格好して、ボディビルダーと化したクラフトワークみたいな男たちに囲まれて歌うPVを見て
アウトバーンを疾走中に事故って頭でも打ったのかと思った。
「ウソもホントも/テロップつけてみりゃ/全て同じサ」なんて、カタカナの使い方まで恥ずかしいくらい80年代だ。
「サ」って。ダサさの極みだ。
作詞は光ゲンジやマッチなんかも手がけ、最近じゃ「カウボーイ・ビバップ」の脚本を書いたりしている佐藤大。
完全に狙っている。だけど、そんな恥ずかしい歌でさえブルージーなんだ。
もちろんフォーマットは対極なんだけど、そこにあるのはブルーズだとしか言いようが無かった。
僕は基本的にブルーズしか聴かない。
それはジャンルのことではなく、そこで鳴らされている「人生」の質のようなものだ。
ピアソラもベートーヴェンも沖縄民謡も津軽じょんがらも、僕はブルーズだと思っている。
パンクにもロックンロールにもボサ・ノヴァにもハウスにもブルーズはあるし、
同時にそれらにはブルーズを救済するものとしての機能もある。
逆に、「ブルース」の体裁をとっていても「ブルーズ」が無かったりするものもある。
要するに、年月とともに幾多の悲しみを味わったり、あの子に愛を告白したいけど勇気が無かったり、
しょぼくれた今に比べて過去がやたらと美しく見えたり、それでもひと時の空騒ぎの楽しさに心から笑ったり、
それが終わってみると余計に虚しい気分になったり、酷いニュースを見てやりきれない気持ちになったり、
誰かのために祈るような気持ちになったり、ついつい辛いことや面倒くさいことから逃げたり、
時には前向きに頑張ってみようと思ってもなかなかできなかったりしながら日々を過ごす僕らがそこにいるかどうか。
僕が音楽でも映画でも、およそアートというものをジャッジするポイントははそれだけだといってもいい。
ただ単にノリがよかったりお洒落だったりするだけのものに興味は無い。
この冗談みたいに恥ずかしいエレポップ(と言ってしまおう)は、そんな僕らへの最高のアンセムだ。
飲み屋やクラブにでも繰り出して、酔っ払って一晩中空騒ぎしなければごまかしきれない思いがある。
そんな自分を省みて「インチキしてる(このフレーズも十分恥ずかしいです)」とよけい落ち込んでしまいながらも、一時しのぎを毎晩毎晩続けていく僕らの生活。
それは恥ずかしい、ほどに切ない。ちなみに、このシングルのジャケット写真も実に恥ずかしい。
初めてエロ本を買う中学生のごとく、思わずジャケットを伏せてレジに出してしまった。
□2003/12/22(Mon) Movie
Coen Brothers 『O Brother, Where Art Thou?(邦題:オー・ブラザー!)』
アメリカン・ルーツ・ミュージックへの憧憬というのは僕がトム・ウェイツを聴き始めた中1くらいから続いているもので、
知った面でアンビエントだのポストロックだのクラシックだのと言いながらも、
最終的には1890〜1940年代くらいのフォークやブルースやヴォーカルのスタンダードに勝るものはないと思っている。
知ってのとおりアメリカは純粋な人工国家で、ジャコバン派の流れを汲む左翼的(実はね)性格を持った国として誕生した。
すなわち、個人の権利や幸福が最大限に優先されるべきもので歴史や伝統や文化は二の次だという発想の国だ。
アメリカは戦争するから右翼の国、みたいな歴史認識および思想的知識のかけらもない発言をする人が知識人といわれる人々の中にすらいるが、
系統立てて見ていくとあんな純粋な近代的(短絡的にいうと左翼的)国家はない。
だからこそ自らの政治・経済的優位の下に世界を再編成しようとして、そのことにまったく疑問を抱かないのだと言うこともできる。
こういうのはアメリカ批判・グローバリゼーション批判の文脈においては実に便利に使われる常套句なんだけど、まあちょっと待てと。人工国家・アメリカの中にも当然人々の営みはあって、そこにはそれぞれの小さな歴史が着実に根付いている。
まあ国家の成り立ちとしての大きな歴史はないが故に、9.11の例を出すまでも無く
ことあるごとにナショナリズム(というよりも自由・民主主義というある種の宗教的狂熱)のもとに人々は収斂されやすい。それは事実だ。
なんだけど、(奪った土地とはいえ)それぞれの土地に根付いて生活をしてきた人々の中にはそれぞれの記憶があって、
もう何代かにわたってそれが継承されていたりもする。
アメリカン・ルーツ・ミュージックというのは要するに、大きな歴史がないが故に分断されやすい各々の世代や人々を繋ぐよすがのようなものだ。
主に中西部の独立自営農民が多い地域で歌い継がれてきたこれらの歌には、
歴史無き土地で必死にそれぞれの拠って立つ所以を見つけようとしてきた人々の素朴かつ真摯な人生そのものが表れている。
テネシー・ワルツとか聴いてみろよ。
アメリカを悪者にして満足するのは簡単だが、そんな単純な解釈じゃ理解できないのもまたアメリカなんだ。アメリカが世界経済の中心となるに伴って東海岸メガロポリスの勃興は繁栄を謳歌する都会の賛歌としてのシナトラを生み出し、
虐げられ続けた黒人たちの魂はブルースやロックやファンクやソウルやヒップホップを生み出し、
大都会ニューヨークの孤独はヴェルヴェッツやテレヴィジョンを生み出し、
アメリカ的価値観の「果て」である西海岸ではイーグルスが「ホテル・カリフォルニア」を歌い、それはアメリカの斜陽に伴ってグランジ、オルタナへと変化していった。
マリリン・マンソンやナイン・インチ・ネイルズ、スリップノットのような「アメリカの鬼っ子」すらも生まれ始めた。
1900年代の最後にアメリカという価値観の崩壊・敗北を宣言したニルヴァーナやレッチリの前には、歴史無き人工国家であるが故に生まれた無数の音楽がある。
それらはあたかも「今、自分がここにいる理由(それを説明するものを、我々は歴史と呼ぶ) 」を必死で書きとめようとするかのような動きだったといえる。
そんなことを考えながらアメリカの音楽を聴いていくと、アメリカという国は単純に色分けなんてできないということに気づくはずだ。歴史無き土地に生きた人々の価値観・人生観の発露としてのアメリカン・ルーツ・ミュージックの思想に触れることができるこんな映画は、
アメリカという国に好悪どちらの感情を抱いていたとしても、表層のイメージの奥にある「生身のアメリカ」を感じさせてくれるはずだ。それにしてもジョン・タトゥーロはいい役者になったな。
Godspeed You! Black Emperor 『Yanqui U.X.O.』
例えばそれは浅井健一が爪弾くグレッチの音色だったりマイルスのトランペットだったりキャパの写真だったり、まあなんでもいいや。
ともかく、どんなに並べ立てられた言葉よりも明確にその本質を語る表現というものがある。
ていうか今は毒にも薬にもならないようなものが溢れているせいで忘れられがちだが、優れた表現というものはクラシック音楽の頃からそんなもんだ。そんなことに改めて気づくのは、例えばこのつのだ☆ひろみたいな名前のバンドのアルバムを聴いたときだったりする。
例えば1曲10〜20分超、全5曲による3部構成のこのインスト・アルバム。
何者かの足音のようなドラムや不安脅迫症のようなヴァイオリン、廃墟に昇る朝日か迫る夕闇のようなクラリネットなどなどが描き出すのは
この世の風景か、それとも彼岸の遠景か。
タイトルにもなっている「Yanqui」とはメンバーいわく「ポストコロニアル帝国主義であり国際的警察国家であり多国籍企業の寡頭政治」、
すなわちアメリカのことらしい。まあ、ヤンキーだし。
「U.X.O.」は不発弾のこと。まあ要するにそういうことだ。
この不吉極まりない音が描き出すのは、「Yanqui」の影響下にあるこの世界そのものの光景。
ここまで露骨に、あからさまに、ひねりもなんもなくなされたステイトメントというのは
我々が「なんとなく感じていた」もしくは「見ないふりをしていた」不安を一挙に顕在化してしまう。
それこそ「王様は裸だ」というようなものだ。
小難しいロジックやレトリックじゃなく「音」だけで語ることによって、その説得力は倍加する。
そして、それに対するリアクションはすべて聴く側に委ねられる。安易な答えは用意されていない。
「何を感じ、何を考え、どう行動するかはお前次第だ」と、この誇大妄想狂たちは言う。
極端な話何も考えなくたって、何もしなくたっていいのだ。本当に自分がそれでいいのなら。
そういう自由さのあるステイトメントこそが、本当に力を持ちうるのだと思う。世の中の多くの理想主義者が偽善者にしか見えないのは、「こんなに正しい私の言うとおりにしなさい」オーラが出てるからなんだ。
本人たちもそろそろ気づかないもんかね。