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□2008/2/9(Sat) Music

終われねえストーリー

エレファントカシマシ 『Starting Over』

出張で地元の隣の宮崎県に行ってきた。
隣とはいえ特急電車で4時間はかかる、近くて遠い距離。
正直、物心ついてからの訪問は初である。
要するに、縁もゆかりも思い出もない街である。

それでも、大雪の羽田を飛び立ち1時間半。延々と続く海岸線が見えてくる頃になると、わけのわからん強烈な郷愁に襲われている。
打ち合わせなどなどを終えて、夜の街を一人歩く時もそれは続いたままだ。
方言のイントネーションなんかは全く違うし、当然ながら見たことのある建物など何ひとつない。
「ある種の九州的空気」なんていう、宇宙的にアバウトな言葉で括らざるを得ない正体不明の感傷に包まれながら信号待ち。
見知らぬ街。
のど真ん中。
の閑散とした。
目抜き通り。
心に浮かぶ。
のは戻らない時間。

「消えないココロの古キズに染みるぜ
 立ちつくす 賑やかなこの町で」(さよならパーティー)

男というものの思考を構成する半分以上の要素は、はっきり言って口にするのもバカバカしいことの数々だ。
すなわち、叶わなかった夢や、手に入らなかった女や、失われてしまった何らかの輝かしさのこと。永遠に戻らない風向きのこと。
そして、まったく根拠もなく抱いている、これまた何らかの勝利のこと。
それは、手に入れたこともないものを奪還する物語なのかもしれない。



そういう意味でエレファントカシマシ宮本浩次の音楽は、これまで完璧な「男の物語」であり続けた。
溢れ出す自分の理想と現実社会の違和感を、隠そうともせず曲とパフォーマンスに叩きつけていた初期。
「今宵の月のように」に代表される根源的な叙情を、「売れるため」と照れながら美しい作品にしていた中期。
そして、その中期を「青春だった」と振り返りながら、2000年以降、『good morning』→『ライフ』→『DEAD OR ALIVE』という一連の作品で
「俺は目覚めた!これが本当の俺だ!」みたいな半ば強迫観念的な「自分奪還」の幻想の中で迷走を繰り返し続け、
挙げ句の果てには名盤『俺の道』での「俺は俺で悪いか!」という逆切れ暴発を経て
『扉』『風』『町を見下ろす丘』で「やっぱり俺はダメだった。すまねえ魂」と急速に諦念にまみれ始め、枯れていく。
その動きとは裏腹に、現実の重さを引き受けるように、ソリッドに肉体性を獲得していくバンドサウンド。
これほど音楽性の変遷自体が「男の生」を体現しているバンドがあっただろうか。

初期からのファンとしては、正直、『町を〜』でエレカシは終わったような気さえしていた。
「諦念を体のいい“枯山水のごとき文藝ロックでござい”といった風情でコーティングした作品などもう聴きたくねえ」とも思っていた。
まさかこの『Starting Over』で、こんな完璧な復活劇が待っているとは思わずに。

アルバムを貫くのは、シングル曲でもある「笑顔の未来へ」に顕著な、
これまで焦燥も叙情も追憶も覚醒も悔恨も希望も闘志も諦念も全てを重々しく描いてきたエレカシとは思えない、かつてない身軽さだ。
「もう抜けようよパーティー だってこんなのつまんねぇ」と男子的迷走や独り善がりの「俺奪還」に見切りをつける「さよならパーティー」から、
クラクションひとつ鳴らして「さぁ行くか」とそれまでの地平を後にする表題曲「Starting Over」。
謎の、というか前代未聞のユーミンカバー「翳りゆく部屋」でリスナーの度肝を抜き、
そして、似た主題の作品は数あれど、初めて何の屈託もなく書かれたであろうラスト曲「FLYER」の、あまりに潔い希望の風景。

1曲1曲の完璧なポップさがその“身軽さ”を裏打ちするこのアルバムを聴きながら、
宮本にとっての「どうにもならねえ現実」を考えてみる。
これまでの宮本のキャリアは、いうなれば、
自らの理想と現実および実存としての自分の間にある、絶望的なまでの幻滅の荒野を彷徨う旅であった。
だからこそ初期の曲には「くだらねえ日常からの飛翔」を極端な形で表現した曲が満ち、
次にまずは実存を現実に沿わせるべく「売れようと思って」曲を作り、
その後人生で初めて免許を取り、「俺は生まれ変わった!突っ走るぜ!」と「覚醒したふり」をする。
『good morning』期の曲には車で突っ走るシーン(それはジャケットで最も顕著だ)がよく登場するが、
今考えると、これは「幻滅の荒野」から、無理矢理にでも猛スピードで脱出を図ろうとする無意識の焦燥の表れであったのかもしれない。

対して、8年後の「Starting Over」に登場する車の風景は、いたって余裕のあるものだ。
「どれくらい長い時間 こうして俺たち過ごした」と振り返る真夏の広漠とした砂浜を(この風景こそが「幻滅の荒野」なのか)後に、
「さぁ行くか」と走り出す。変わり果てていく街も、砂浜も、メロディーも祈りも、全てを残して。
一度として「突っ走って」も「戦って」もいない。「さぁ行くか」。
身軽ではあれど決してただ軽いだけではない、その確信の強度。
己の自意識や理想像に対する過剰な執着を捨て、ブラスや弦まで従えて「あなたを連れて行くよ 笑顔の未来へ」みたいな
宮本以外のものが歌うとスカスカにしか聞こえないであろうフレーズを歌える身軽さには、
『町を〜』の枯淡でも『good〜』の精神的マッチョイズムでもない、真の強さと優しさがあるではないか。
その闘争・迷走の歴史と顛末を知る者としては、その解脱っぷりに感無量としか言いようがない。
優しくなければ真に強くはなれない。エレカシはやはり、「男子の本懐」を完璧に体現する存在なのだ。

これまで幾重にも纏い続けてきた自意識の鎧と訣別し、「さぁ行くか」と新たなステップを踏み出したエレカシ。
とはいえ、これまでの歩みを見ていると、もう一度くらいは決定的に何かが崩壊する時もあるかもしれない。
理想と現実の狭間で自壊していく自意識。それもまた永遠の「男子」の姿なのだろう。



しばし放心したように交差点に佇んでいるうちに、歩行者信号は青からまた赤に変わっていた。
車が動き出し、街も動いていく。
男って奴ぁどうしょうもねえな、みたいな、これまた宮本的ヴァースを吐き捨て、歩道に沿ってまた歩き出した。


□2007/7/15(Sun) Music

レッツ・スロウ・ダンス

The Isley Brothers 「Summer Breeze」

物凄く久しぶりにこのページを更新したくなったのは、沖縄の海を見下ろす高台で久々にこの曲を聴いたから。
もともと好きな曲だったし、夏といえばチューブなんか聴いてないでこいつを聴け!と言い放つしかないほどに、
少し乾いた夏風のような爽快さと、夏の午後に誰にもやってくる、言葉にはならないあの憂いを完璧に描ききった超名曲なのだが
僕が言いたいのはそんなことじゃなく、サビの歌詞のあまりの秀逸さなのだ。

「夏のそよ風が俺を心地よくさせる 俺の中のジャズマンを吹き抜けて」(意訳:俺様)

なんて、完璧にダサい80年代風対訳をつけてしまわざるを得ないほど大味な比喩を用いた情景描写。
「俺の中のジャズマン」て!
それは小さいおっさんの親戚、ってことでいいのか。いや違うよな。
なんてことない散文の羅列に慣れすぎてしまった僕らを「歌詞」の叙情世界に引き戻してくれる、素晴らしいヴァースなのだが
それにしても「俺(こう訳すのが最も絶妙にダサくていい)の中のジャズマン」!
すごすぎるよアイズリー兄弟。
なんだかわたせせいぞうの絵のバックに流れていそうだ。


さあ、出ておいで。
恐れないで手を取って。
風を受けてスロウ・ダンス。

みたいな、わたせせいぞう的キャプションが入りそうなシーンが浮かぶ。

そんな曲。


※ 以下、7/18追記

↑でこのようなことを述べておいてさっき初めて歌詞を見たら、

「Jazzman」ではなく「Jasmine」だったことが判明しました。
もう何年も「ジャズマン」だと思っていたのに。
つまり、あまりにも秀逸かつシュールかつ叙情的だと思っていたあのヴァースは
「Blowin' through the Jasmine in my mind  俺の中のジャスミンの花を吹き抜けて」という、
いたって普通の歌詞になっちまうわけです。

ショックを隠し切れない。
海から吹く夏の風に乗せて、聞こえるはずのないサックスのブロウまでも流れて来るような気さえしていたのに。
子供の頃からずっと「あだちじゅう」だと思っていたあだち充が「あだちみつる」だと知った時以上に恥ずかしくやるせない。

でも、僕にはいまも見えるんだ。
風を受けながら、ブロウを海に放つジャズマンの後姿が……。」

なんて締めでもいいですかね。
ダメ?あっそ。


□2006/11/24(Fri) Music

ここからみんながみえるよ

Tom Waits 『Orphans』

物凄く久しぶりに、11時頃帰宅した。
今日は朝から「今夜はUNITでフアン・アトキンスが回すんをしこたま聴いて、ぶっ飛んでこましたろ。ヒヒ」などと思っていたはずなのだが、
ちょっとした空き時間で立ち寄ったタワレコで、すっかり発売日を忘れていた「アレ」を見つけてしまい、
こりゃもうデトロイトテクノなんて聴いてる場合じゃねえっすとばかりにいそいそと購入し、こじゃれた代官山なんぞヘムっと無視して京王線に飛び乗ったわけである。
その「アレ」というのがさ。

ト、ト、トム・ウェイツの3枚組ニューアルバム6300円!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

中学校時代から僕の神である、ミュージシャンにして劇作家にして俳優にして
ガラクタ親父にして新宿3丁目ではバーの名前だのアートワークだのに異常にその影響が見られる、アメリカ史上4番目に偉大な酔っ払い詩人。
タワレコのポップに「オダギリジョーが“僕の神”と言ってる人です」とか書かれてあったのを見て、非常に不快かつ鬱屈した気分になりかかるが、
オダギリジョーは役に入れば笑いながら犬とでもヤるだとう、という点で僕が好きな俳優なので見逃すことにする。


ジョーはともかく、帰ってきてからというもの、酒を啜りつつとにかく聴いている。ひたすら聴いている。

あまりにも素晴らしい。

前作『Real Gone』の針を振り切ってしまったような混沌から脱却し、非常に自覚的かつソリッドになった印象がある。
相変わらず自作ガラクタ楽器の破壊されたアンサンブルが鳴り響く中、それでもトムの声が混沌の中に没入せず、
その役割をきっちりと果たしている感じだ。

詩作という点では、決してスポットライトなど浴びることなど無くままならぬ世界を生きる人々の暮らし、
その奥底に吹き溜まる感情の綾を、澱を、細大漏らさず掬い上げてゆく彼一流の世界観は今作でも無論変わることなく、
音楽性という点では主に中期の傑作『Rain Dogs』を下敷きにしながら、アメリカンルーツミュージックとカウンターカルチャーの全てを網羅する、
根源的かつ実にパーソナルな物語が展開される。

聴いていて頭に浮かんだのは、三島由紀夫がその異色の著『美しい星』の中に挙げた、人間の「滅ぶに任せるには惜しい美点」。
すなわち、
「彼らは嘘をつきっぱなしについた。
 彼らは吉凶につけて花を飾った。
 彼らはよく小鳥を飼った。
 彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
 そして彼らはよく笑った」

それは、決して時代の中に掻き消えることのない「個」の物語だ。
正確を期していうならば、時代の風潮や消費情報が華やかかつ馬鹿馬鹿しくテレビを騒がせている間にも生活を続けてゆく人間の、「存在」の物語だ。
一過性のブームやマーケティング、誰かの利益のためにあらかじめ計画された狂騒なんてものに振り回されながらも決して回収されてしまうことのない、
弱く優しく臆病で情けなく美しい「人間性」というものが確かに存在することを讃える歌。
それは不器用な堕天使がひとり歌う聖歌のように、病んだ世界に降り注ぎ。


トムがそのキャリアと変幻自在の音楽性を通じて奏でてきたそんな物語が、シュールなノイズと優しいララバイの陰に腰掛けている今作。
90年代以降のトムの作品としては最高傑作と呼んでも差し支えないだろうと思う。



□2006/11/10(Fri) Book

常世に踊るものたちの

目取真俊『群蝶の木』
川上弘美『真鶴』

凍りついた愛についての物語を、立て続けに2編読了。

質量と形而上学によって形を成す存在としての人間が他者との交信によってあるインパクトを受け、それをわが事として昇華してゆくなかで、
時として必ずしも明確な形を持たないしこりやケロイドのようなものが、残る。

たとえば、戦争によって心ならずも男と引き裂かれた女の内に。
たとえば、夫の突然の失踪によって娘と共に残された妻の内に。

2つの物語に登場する女たちは、それぞれが「あらかじめ部分の失われた」生を生きている。
ひとりは永劫とも思われる孤独を生きた果ての痴呆に、
またひとりはこの世ならぬ「ついてくる女」に、それぞれ導かれて、失ったものが待つ彼岸へと足を踏み入れる。
彼岸と此岸を往還する道行きで、それぞれが自分の生に折り合いをつけてゆくなかで紡がれる、死者達の物語。
ある者はそれを続けていくことを選び、ある者は自他の境界など疾うにないような群星(むるぶし)の空へと還ってゆく。

愛とはけだし憎しみや悲しみに似ているものではあるが、
その対象自体が永遠に失われてしまったことを了解したのちには陽性の虚無が残り、同時にいずくかの世で再び出会うための、かすかな希望もある。
行く者と戻る者のどちらにもカラリと晴れ渡った空のような一陣の悲しみが吹き、それぞれの物語が終わってゆく。
そこに残されるのは月9の三文ドラマのような手軽で大味なハッピーエンドなどではなく、もっと繊細で大切な、ひとしずくの慈しみにも似た何かだ。
それとともに、彼女らの心の内に潜む修羅の「ぞろり」とした艶めかしさに戦慄しつつ、自らの内にあるそれと感応し合う何かを感じずにはいられないという意味で、
後朝にも似たある種の官能すら残してゆく、秀逸な2編。

あなたがこの物語を読んでなお「自分にはなにもない」と思うのなら、家を出て、誰かの部屋をノックすればいい。
目の前のなんでもない世界に触れ、頭と体の隅々を使って愛すればいい。


□2006/6/22(Thu) Music

大人による正しいブルースの手引き

斉藤和義 『俺たちのロックンロール』

もう10年以上聴き続けているが、僕は斉藤和義のソングライターとしての態度を100%信頼している。

たとえば、今作の先行シングルとなった「ハミングバード」。
「『やってらんねー』なんて言うな」なんて歌いながら誰よりもやってられなさそうな倦怠と憂鬱を引きずったリズムに、
それでも人が抱いてしまう一瞬の飛翔への意志と、おぼろげな青空のように遠く浮かぶ希望のヴィジョンを託すメロディ。
それは世の中に「サムライブルー」なんてうかれたブルーが溢れる時期にドロップされた、本物の「ブルー」の風景だった。

倦怠や孤独、あるいは不安や怒り、絶望に焦燥。
何を歌おうが、斉藤和義は聴き手をその中に置き去りにすることはない。
どこかにひとかけらの希望を、愛を、おかしみを残すストーリーテラーとしての責任感と、その絶妙の匙加減。
人が「それでも」生きていることの重層性を活写するその振る舞いこそが、斉藤和義の真骨頂なのだと僕は思っている。

元くるりの森やエマーソン北村らを迎えて長期レコーディングされた今作は、まさにそのバランス感覚を堪能できる仕上がりになっている。
ロッカ・スウィングあり、弾き語りあり、ディストーションのみで構成されたようなサイケナンバーあり、ナイアガラ風フォークナンバーあり、
そしてさっぱり意味のわからない、あの「モルダウの流れ」ありと、非常にバラエティに富んだ構成ではあるが
全体のトーンとしては無用な抑揚を排し、真に描くべき感情を、鳴らすべき音を丁寧に吟味して各曲の中に配置した、ソリッドかつ柔らかいアルバムだ。

大げさな決意表明も、過剰に垂れ流されるセンチメンタリズムも、声高なアジテーションもない。
出会いと別れを繰り返し、時に立ち止まって振り返りながら色々なものをまとってきたこの人生を「続けていく」ためのブルース。
数え切れないほどの「それでも」にそっと寄り添うであろう、シンプルな名作だと思う。


□2006/6/10(Sat) Music

壊しに来たぜアイラブユー

Primal Scream 『Riot City Blues』

僕はそもそも「お洒落音楽」という奴が大嫌いだし、それを有難がる連中も気に食わない。
代官山あたりのクラブでロゼでも飲みながらジャズボッサなんか聴いたりして……も全然構わないんだが、
そういうものの表層だけをなぞって音楽を単に「趣味のいい」自分を飾るためのツールにしている奴や、
単なる現実逃避のBGMにしてる奴を見ると反吐が出そうになる。

「音の感じ」だけではなく、そこに内包される世界観や意図、思想のようなものをどこまで真摯に受け止められるか。
その感受性こそが、音楽を「聴く」力に相違ないと僕は思っている。
なぜなら、聴くものも鳴らすものも、すべて我々は等しく「生」の中にあるからだ。
「生活」の中にある喜びや悲しみ、愛や怒り、なんでもいい。
それが各人各様の表象となって現れ出でるのが芸術であり、その感情と我々の感情が共振するからこそ、我々はそれらを愛せるのだ。
お洒落な表層だけを追いかけて自足する連中には、その感情を推し量ろうとする努力もデリカシーもないじゃないか。
ただ、「こんなに趣味のいい自分」を確認したいだけで、音は「趣味のいい」ものならなんでもいいんだろう。
例え自分と全く同じものを聴いていようと、そいつが音楽を聴く態度から「生活の匂い」が伺えない限り
僕はそいつを「音楽好き」なんて呼びたくないと思っている。

何の話かというと、プライマルのアルバムが毎度毎度、これでもかとばかりにドス黒くいなたく、さらには毎度毎度コロコロと音が変わる件についてだ。
中途半端なデジロックだったりダブだったりアシッドハウスだったり、そして今回のアルバムが素晴らしいロックンロールであったりするように。
それでもプライマルがプライマルでしかなく、どんな音を鳴らそうともそれがダブでもアシッドハウスでもなく、ロックンロールでしかないという件についてだ。

それは、ボビー・ギレスピーのあまりにも大きな「ファック」がそのキャリアを貫いているからだ。
そして、20年近く歌っている人だとは思えないほど歌が下手で気怠く、体力もなくてライブではすぐバテバテになろうが、
全ての曲間に流れる「ファック」だけは、一度たりとも無気力やニヒリズムから来る「ファック」であったことはないからだ。
それは自らの人生への、そしてこの世界を覆う状況への、あまりにも能動的な「NO」――つまり、「変えてやる」という、宣戦布告。
ジャン・コクトーは「運命とは地獄の機械である」とその不可避性を嘆じたが、
プライマルの「ファック」はいわばその地獄の機械に立ち向かうための、ボビーの言葉を借りれば「夢の武器」に他ならない。
それが常に一貫し、自らもそれを信じているからこそ、どんな音を鳴らそうがプライマルはプライマルたり得るのだろう。

「生活」、ひいては人生への、能動的な関与。
ままならない日常の辛さ・やるせなさを紛らし、ときには共にどん底まで落ち、愛する人々と共に生きてこの世に在ることを寿ぐという意味で、
そもそも全ての音楽には「生」と「死」の匂いがせねばならないと僕は思う。
ときにはファッションツールとして、ときには大量生産の消耗品として平均化・パッケージ化された多くの芸術がその匂いを失いゆく中、
どんなスタイルを取ろうとここまで凶々しく不穏な、しかし希望と意志に満ちた「ファック」を放ち続けているのは、プライマルだけだ。
その点で、誰よりも信頼できる。


□2006/5/12(Fri) Music

永劫の蒼

元ちとせ 『ハナダイロ』

もともと朝崎郁恵なんかを長いこと聴いてるから奄美島唄も好きだったし、
この元ちとせが「100年にひとり」なんていわれるくらいの物凄い唄者(うたしゃー)であることもデビュー前から少しは知っていたのだが
メジャーデビュー曲「ワダツミの木」とそのPVで、正直ゲンナリしたんだった。
別に曲が悪いわけでも、歌が悪いわけでももちろんなくて、
なんだかこっこちゃんの劣化コピーみたいな体裁で作られたビデオと、確かに歌はいいんだけどあまりにも所在なさげな彼女の佇まいを見て、
全然気持ちよくなかった。いたたまれなくなったんだな。

島唄のみならず、ある種の共通認識が確立されたシーン(功罪はあろうが)のもとで幸福な育ち方をしてきたひとつの才能が
商業音楽という、不特定多数を相手にした関係性の中にポンと放り込まれた時にうまく対応できず萎縮してしまい、
売り手のイメージ通りに仕立てられた単なる商品としてマーケットに回収され、スポイルされてしまう前例なんていくらでも見ていたから、
「ああ、この才能も『こっこ風・センシティヴ裸足シンガー』か『ちゅらさん的・取ってつけたような島=癒しイメージ』の、
どっちかの商法に使われて駄目になるのかな」なんて思ったもんだった。

それからもう5年か。物凄くいいシンガーになっているじゃないか。
2003年の「いつか風になる日」は、その声がもつある種の聖性と、ポップスとしての機能が幸福に共存した名曲だった。
シマという空間の中で連綿と受け継がれてきた、シマで生き、泣き笑い死んでいった全ての人々の記憶と感情を
歌ごころの中に、そして我々の意識のうちに現出させる祭文としての、島唄。
そして、そのユタ(南西諸島における女性のシャーマン)としての唄者である自分。
失われしものへの追憶だけでなく、今を生きること、未来へとシマを繋いでいくことの全てを凝縮したその声の強度が
向かう先を「シマ」から「誰か」へと明確に広げた時、「シンガー・元ちとせ」は本当の意味での「唄者」になったのだろう。
「奄美」というシマから、その先に連なる「世界(これを『インターナショナル』と捉えてくれるな、頼むから)」「ひとびと」というシマへ。
その帰るべき場所を、とうに失った時代へ。

結婚・出産を経て発表した今作は、従来の作品と比べて、恐ろしいまでに透徹した、しかし混じりけのない「筆圧」に満ちている。
クローン羊のことを歌った「羊のドリー」や、ヒロシマ原爆で亡くなった少女の独白「死んだ女の子」といった直接的な楽曲。
また、隠喩に満ちた「前兆」「恐竜の描き方」。あまりにも張り詰めた筆致で世界の「かつて」「いま」を描き出す力。
そして「青のレクイエム」「詠みびと知らず」「語り継ぐこと」といった曲にみられる、代を数え星霜を超え、時代が移ろっても変わらぬ「こころ」へのまなざし。
それら全ての根底に流れるのは、美しさや喜び、そして全ての命は終わりへと向かうことや「世界が善意だけで出来てるわけじゃない」(祈り)現実をも
この「シマ」を未来へと、次の世代へと繋げていくために唄わねばならないという、覚悟。
それこそが、彼女の歌を今までにない高みへと押し上げている。
ほとんどの曲で自身は作詞に携わっていないのだが、そもそもこの人の歌のなかには世界があり人々が生きているのみであって、
そこに自意識の介在する余地はないがゆえに、唄者としての彼女の真価をいささかも曇らせるものではない。
このアルバムに並ぶ楽曲は間違いなく、シマ=世界の遠い記憶や感情を伝える無数の物語=島唄を憑依させてきた、ユタとしての唄者である彼女にしか昇華しきれない歌だ。
耳を澄ますべきはテーマや歌詞の字面ではなく、その歌声に宿るもの。
本当にすごい歌を唄うようになった。

ちなみに、タイトルの『ハナダイロ』というのは「縹色」、いわゆるサファイアブルーのこと。
それは人の愚行や汚濁をも浄化し包み込む(そして静かに傷ついてゆく)、澄んだ海と空の色。
その声に世界を宿してしまったユタの心の深奥でとこしえに輝く、優しき「シマ」の蒼。


□2006/3/19(Sun) Music

紅蓮の歌声

Maria Callas 『Grandi Voci Alla Scala』

いつの間にやら家にあった、マリアカラスの名演集。
ライナーもイタリア語なんでまったく読めないし、そもそもいつ買ったんだこれ。
きっとあの時かあの時なんだろうという見当はつくものの、思いつく全てのシチュエーションで酔っ払っていたのでいかんともしがたい。

オペラ歌手としてのマリアカラスがどんなに凄いかなんてことは漠然とでも皆知ってるんだろうし、なにより際限なく長々と書いてしまいそうだから飛ばすが、
ともかく、「女であること」と「歌い手であること」の両方を、ここまで激しく、というか極端に両立させてしまった人というのはいないし
そもそも出生時の体重が6キロ近くある肥満児で、母親に「そんな子、見たくもない」とか言われたという本当なのか嘘なのかわからんエピソードからも、
やっぱりいろんな神を背負ってしまったんだろうと思わされる。

スターダムに駆け上った姿も、富豪オナシスとの甘く激しい不倫の恋も、ジャクリーヌ・ケネディに敗れ捨てられる悲運も、
声を失って叩き落とされた生き地獄も、そこからの劇的な復活も、孤独に苛まれ薬物に頼った末の死まで、
何もかもが音楽の神話となってしまった。
抗しがたい運命(否、それを神と呼ぶのか?)によってミューズの庭に放り出されたことが、彼女にとって幸だったのか不幸だったのか。

自分が「女」であり「歌い手」であること、すなわち実も蓋もなく己が己であるとことからは逃げられないと悟った瞬間が、どこかにあったんだろう。
それは母親から一顧だにされなかった孤独な幼少期なのか、
体重を30キロ落とし、声帯が疲弊することを承知してでも高音の伸びを出す歌唱法を選択したときなのか、
結婚もし、音楽界の頂点にも立っておきながら、全てを捨ててオナシスになびいてしまったときなのかもしれない。
ポンキエッリ作『ラ・ジョコンダ』のハイライトとなる「Suicidio」での、情念の炎で自らをも灼きつくすような絶唱は
背負ってしまった「業」から逃れられぬ我が身をよじり絞りだした慟哭にも、
ある意味で1人の人間としての幸福を捨ててでもミューズの意思の伝達装置となることを引き受ける栄誉に浴した、その破滅的な歓喜にも聴こえるのだ。
己の感情を、内に潜む魔を、すなわち「生」そのものを毫も残らぬほど燃やし尽くすその激しさ。
歌声と共に自らの内より出でて己を灼くその劫火の中にこそ、彼女の求めたものはあったのだと思う。

歌い手としてではなく1人の人間としてのカラスが何を求めていたのか、なんてことを書く気はない。想像する気もない。
その後半生を描いた映画『永遠のマリア・カラス』の中には「普通の女であれば幸せだったのに」というセリフが出てくるが、これもなんだか的確な気はしない。
ただ、あまりにも多くの逸話を残し、その歌声を置き土産に、死して自らを物語へと昇華させてしまった彼女は
決して器用にも鈍感にもなれない生身の人間だった、ということはできる。
音楽は彼女を救いなどしなかった。ミューズの依り代となった1人の女は、弱く、哀しく、そして激しく揺れていたからこそ、あんなにも強く、あんなにも美しかったのだ。


□2006/2/28(Tue) Music

美しく強く在りつづけるために

吉井和哉 「BEAUTIFUL」

妖艶なグラムロックでも、ゴージャスなスワンプロックでも、わけわからじのモダニズム歌謡でも拭えなかった闇がある。
築き上げた全てを棄て、妙ちきりんな名前を名乗ってしょぼい宅録アルバムを出して
反動のように突きぬけたアメリカンなロックをやってみて、男はようやく気づいたのだろう。
「あ、これ拭えねえ」と。

YOSHII LOVINSON名義のアルバム『WHITE ROOM』のレビュー(2005/3/12)でも書いたが、
吉井和哉はずいぶんと身軽に、気楽になったように思える。
それは別に楽天的だとか、何かを放棄しているとかいうことではなく
自らの闇を、業を、全てを認め、その重さをも愛しながらただ生きていくことを受け入れたからなのではないか。

名義を本名に戻しての第一弾シングルとなったこの「BEAUTIFUL」だが、
バンド時代のファンには、もしかすると到底受け入れがたい作品であるかもしれない。
そこにあるのは、かつてのヨーロッパ古着や金髪ソバージュやロキシーもどきメイクの全てが醜悪に思えるほど静謐でシンプルな、1人の人間のあまりにも真摯な「生」。
過剰な自意識も虚飾も全てを削ぎ落としたあとに残された、傷口のように生々しい絶望と希望の歌だった。

この曲を発表するにあたって、吉井は雑誌のインタビューで
「エイミー・マンみたいな曲がやりたい。シンプルで地味なんだけど、クオリティは物凄く高い、みたいな」という趣旨の発言をしていたが、
それは、シンプルで誠実な「うた」そのものの強度を手に入れようというモードに入った、吉井の決意表明に他ならなかった。
「公園で散歩もいいじゃないか 簡単な格好でいいじゃないか コンビニの菓子パンでいいじゃないか」「髪を撫でて 手を握って 目を閉じて 小さな祈り知って」
あまりにシンプルでミニマムな、しかし何よりも深く重く切実な願い。
光も、闇も、残酷な現実も、全てを引き連れて紡がれる言葉。
強く触れたら壊れてしまいそうな大切なものを、そっと差し出すような歌声。
過剰な演出も、メロディのカタルシスも、派手なギターソロも、安易な救いや癒しも、何もない。
声を張ることすらない。なな何もない。NAI。ん、ネタわかりづらいか。
ともかく、以前ならこんな曲は絶対に生まれなかったはずだ。
3曲目「MY FOOLISH HEART」も、鳥肌が立つほど素晴らしい。

人の心の最も深い部分にある「何か」を震わせる、いや、「震わせる」という言葉すら大げさに思えるほどの、強く優しく真摯な歌ごころ。
おそろしく長い道程の果てに、吉井はそれをようやく手に入れたんだと思うんだよ。



誰一人笑ったままでなどいられないこの世界に流れる、ただ誠実な「生きること」の歌。
その美しさが全ての人に、愛に、恵むように。


□2006/2/21(Tue) Music

サウンド・オブ・涅槃

CAN 『FUTURE DAYS』

「Sound of Nirvana」ではなく、あえて「サウンド・オブ・涅槃」といいたくなる感じ。
空即是色常寂光モヒカン釈尊入滅全国ツアーといった感じ。
何がなんだかさっぱりわからない善男善女のために平易に表現すると、非常にハイブリッドかつ誠実に狂っている。
そう、狂っている。精神の座標軸がずれている。
そして、その乱調があまりにも美しい。

ドイツで結成されたカンに世界放浪の途次であった日本人・ダモ鈴木が加入したのは、1970年。
当時の世界はフラワームーヴメントの残響を残し、サイケデリックであったりプログレであったりと、
多分に精神的かつ前衛的な音楽が次々と鳴らされ始めた時代。
ジャズやクラシックロックを踏まえたクラウトロックのバンドであるカンがダモの加入によってその魔術的でトリッピンな音像に磨きをかけ、
ギターにドラムにジャッキ・リーヴェツァイトの気違いパーカッションなどが織り成す、複雑骨折を起こしたかのようなアンサンブルを奏でながら
その精神と思想の高みへと、五合目をすっ飛ばして駆け上ったのが、このアルバム『FUTURE DAYS』だ。

非常に癖になる。
なにせ体感プレイングタイムとでもいおうか、聴いてる時間が実際の収録時間よりも物凄く短く感じられる。
この世のものとは思えぬほど美しく狂った音世界に引き込まれ、気づくとアルバムが終わってしまっているのだ。

洗練されたアンビエント・ミュージックとしてはブライアンイーノよりも遥かに早く、
即興的にドライブしてゆくオーガニック・グルーヴとしてはメデスキ・マーティン&ウッドよりも四半世紀早く、
パンキッシュかつ抑制された熱量のべクトルとしては、10年早かったソニックユースでもある。
この音楽はすべてであって、すべてでない。
ここに確かに存在するが、世界のどこにもない。
そんなアンヴィヴァレンツをも軽々と飲み込んでしまうような、世界の可塑性を鳴らす音。
それは完璧に均整の取れるはずなどない世界の襞の裏から、凝り固まってしまった我々の認識を侵食する。
とても40年近く前の音だとは思えないが、技術や情報の目覚しい発展によってとてつもなく色々なことが出来るようになった現在よりも
この時代のほうが「精神の飛距離」それ自体は伸びたのだろう、という気にもさせられる。

それはもはやこの地球上に存在し得ない場所から鳴らされる、至高の美。
ハイブリッドな涅槃のサウンドトラックなのだ。