□2006/1/31(Tue) Book
都築響一 『賃貸宇宙』
人の家にお邪魔したり、逆に他人を自宅に迎える時の妙に一瞬意気込んでしまったり、身構えてしまったりする気持ち。
誰にでも経験があるはずのそんな心境の根底にあるのは何かと考える。
「住む」という行為をしないで生きられる人間がいない以上、「誰かの家を訪問する自分」も自宅に帰ればひとりの居住者なのであって、
自らの生活の主体である自分が、客体となってパラレルな主体である他者の生活の中に入り込んでいく気分。もしくはその逆。
人は誰かと関わりあって生きていく中で他者の内に自身を発見し、同時に自身の内なる他者を発見するわけだが
自らの最もパーソナルな部分、心の深層の部分は基本的に他者に開陳することはない。
だが、「住居」というものを考えるとき、この世に星の数ほどあるそれらは、それと同数の住人ののっぴきならない自己の投影なのであって
住む人間のパーソナリティによって無数のバリエーションを持つことになる。
すなわち、人の趣味趣向やライフスタイルはもとより、思想や信条・あるときは人生の軌跡までもが知らず反映された住居こそ、
日頃我々が他者には見せることのない、それぞれの内宇宙の一片であるのだ。
思想家・西部邁はかつて
「知識人は、ストリッパーより恥ずかしい存在なんです。ストリッパーは肉体しか晒さないが、知識人はあろうことか精神まで晒してしまう」と述べたが、
その「精神を晒す」行為と、自らの内宇宙たる住居に他者の侵入を許す行為は同質のものであるといえる。
それゆえに、我々は他者の家に入り込む時、もしくは他者を迎え入れる時、
パーソナルな絶対領域の境界線が揺らぐのを本質的に感じ取り、一瞬身構えるのだろう。
そして、一瞬の躊躇ののち、多くの場合はその“ゆらぎ”にあるカタルシスを覚えるのだ。編集者・都築響一は、そんなカタルシスに突き動かされるまま、ありとあらゆる人々の部屋を撮りまくった。
ベッドと机以外の全てを、自作の床下収納にぶち込んだ部屋。
バナナの木(!)の生い茂る庭に向かってテラスを作った部屋。
これでもかとばかりにセーラームーン物ばかりで埋め尽くされた部屋。
醍醐寺の敷地内の今にも崩れそうなボロ屋をなんとか改築した、「水道は小川です」という家。
学生の1人暮らし。2人暮らし。ときには11人暮らし。
自分がフィストファックされている写真をキッチンに飾るゲイの男。
終戦直後に占領軍にもらった砂糖の味が忘れられない、という老人に一軒家を借りたアメリカ人。
などなど。などなど。この写真集に出てくる、ファンキーだったりゴミ屋敷だったりおしゃれだったりレトロだったりグロテスクだったり何の変哲もなかったりする部屋、部屋、部屋。
当然のことながら全ての部屋に人が住んでいるわけで、それらの部屋のありようは、住人の心の深奥にある内宇宙へと限りなく近づいた結果だ。
興味深いのは、住人が写っている写真の約半数において、彼らは全裸で登場しているという点。
都築氏は文中で「多くの住人は、裸を見せることより“部屋が汚いんだけど”というようなことを恥ずかしがった」と述べ、
それこそがありのままの「自己」を体現するものとしての住居と、そして昨今の時代における肉体性への意識の希薄化の表われであると指摘する。
しかし、それは果たして可分のものなのであろうか?
端的な例を挙げれば、あまりにも汚すぎて足の踏み場もなくなり、もはや一定の動線にしたがってしか生活できない部屋。
そこまでいかずとも、およそ全ての部屋というものは人の精神性の体現であると同時に、肉体による行動の集積として形成されるものだ。
壁にポスターを貼る。棚を作る。物を配置する。片付ける。片付けない。壁を剥ぐ。雨漏りを修理する。下にバケツを置いてごまかす。
全ての物事は、行動という肉体性の痕跡としての必然性をもってそこに存在する。
そもそも、動線を考えて物を配置すること(もしくは、物が散らかった結果ひとつの動線が導き出されること)自体が、肉体性への意識に他ならない。
むしろ、希薄化しているのは精神性や肉体性以前に、自己が自己であるという「絶対性の確信」そのものではないか?
これだけ「濃い」部屋に暮らしていてもなお、いやむしろ、だからこそ自己を異化し、確認する「演出」としての全裸が彼らには必要だったのではないか?
なんにせよ、現在の時代状況の中で人間の精神と肉体のバランスに若干のずれが生じてきていること、それ自体は動かしようのない事実だ。
そんな“過渡期”の記録としても、また、覗き趣味や怖いもの見たさ、インテリアの参考(どれを参考にするかによって友達が増えたり減ったりするかもね)としても
非常に用に耐え、また読み応えのある本。
あああああ、こんなん読んでたらまた引っ越しの虫が騒ぎ始めた!
誰か、都心でアトリエ&書斎にできる部屋つきの2DKを10万以下で!(無理)
□2006/1/20(Fri) Music
MO'SOME TONEBENDER 『Rocikn' Luuula』
初っ端からなんだが、このアルバムに「2005年ベストロックアルバム」の称号を勝手に差し上げることにする。
先のグレート・アドベンチャー(こっちはいうなれば「新人賞」か?)の項にも書いたように
今年は実はそんなにロックを聴いていなかったような気がするのだが、
例年並みに聴いていても、洋・邦あわせて間違いなくこいつがベストだろうと思うのだ。モーサムというのはもともと物凄くグランジなヴィジョンとサイケデリアを持ち合わせた稀有なバンドで、
焦燥も激情も衝動も叙情も全てをあくまで冷たくタイトに掻き鳴らす、日本のロックシーンにおいてはブランキー以来の逸材だった。
僕がはじめて知ったのはもう6年くらい前になるんだが、ヴォーカル&ギター・百々の
深い思索の湖の底から一足飛びで情動の天空にまで駆け昇る、気の狂った龍神のようなテンションを見て以来、
これは化ける、化けると思って逐一チェックしていた。
ブランキーやサニーデイが解散して、エレカシが突如シフトチェンジを繰り返し始めて、ああやっぱり世紀の変わり目はいろんな事が起こるなあなんて思っていた頃に
届けられたシングル「HigH」。
ニューウェーヴ・ポストパンク的サイケデリアを鳴らすダイナソーJr.とか、ニューオーダーのカバーをしてるうちに頭のネジが緩くなってきたピクシーズみたいな、
いや、もはやそんな形容すらも「どうでもよくなる」音が、そこにあったんだ。
世界をハレーションさせるほどの熱量を放つこの音塊をただ呆然と受け止めながら、ついに来た!と膝を叩いたもんだった。
「僕らを別の世界に」なんて甘ったれた小僧たちの自分探し願望なんて蹴っ飛ばして、世界そのものをどこか違う宇宙に放り込んでしまうほどの
衝動とメランコリアとその他諸々全てを引っさげて、ていうか轟音の中に詰め込んで、自らの世界観をドライブさせていく音。
こいつらが新しいロックの代表選手になる!と思ったんだ。その時は。続くアルバム『HELLO』『LIGHT, SLIDE, DUMMY』でもその勢いは続いていたんだが、そのうちモーサムの音にある種の「抜けの悪さ」を感じるようになった。
過剰に実験的であったり、妙にフロアコンシャスな曲が増えたりして「なんだかな」と思っていた。
今思うとそれはモーサムの世界がもともと持っていた深みを最大濃度で抽出して、新しい何かを模索しようとしていた時期だったんだろうが
そのテンションの病的な落差と冷たい轟音にブランキーの幻影を見ていた当時の僕には、それは失速と映った。
ああモーサムでさえ違うのか、と思っているうちにミッシェルが解散したり、こじゃれてる割に深みのないアートロックみたいなのが流行ったりして
そろそろロックに何かを期待する時期ではなくなっているのかもしれん、などと半ば諦めていたのは前述の通り。バインの「その未来」やグレート・アドヴェンチャーの登場などがあって
「やっぱりロック、単純に好きだなあ」などと少しずつ思い始めた2005年の終わりに突如突きつけられたのが、このアルバムだった。
正直、驚いた。
モーサム特有の狂気や冷たいサイケデリアも残しつつ、基本は実にストレートでシンプルなロックンロール。
音にはどこか吹っ切れたような抜けのよさが戻ってきていて、
なおかつ上下左右に暴れ狂う感情の波をうまく手綱をつけてコントロールしているような、いい意味で抑制された、タイトなポップ感すら漂う。
もともとメロディーのいいバンドではあったが、ここまで総合的にポップ感があるアルバムは初めてなんじゃないか。
インダストリアルをやってみたりアンビエント的音像に走っていた時期を僕は「迷走」「失速」としか捉えていなかった間に、このバンドはここまでいいモードを手に入れていたのだ。
スピード狂なんだけど物凄くいい車を買ったから大切に飛ばそう、というか、せっかく人間ドックから出てきたばかりだから少し酒を控えよう、といった程度ではあるが
その狂気や過剰さの匙加減が、絶妙にうまくなっている。
小難しいことは抜きにしてここまでわくわくさせてくれるロックアルバムに出会ったのは、本当に何年かぶりだ。バックに椎名林檎の狂ったピアノが鳴り響く表題曲「ロッキンルーラ」を聴きながら、
「ビートルバーナー」のような初期の名曲が今ここで初収録されたことの意味を考える。
「2時間前」「In The Air」といったメランコリックな曲群の後に控えるは、悶絶必至の気違いロックチューン・3連発。
そして、その後に現れる、ラスト曲「ペチカ」。
これは物凄い曲だ。
何気ない日常風景の根底に流れるのは、
生まれたときのように純粋無垢ではあり得ない世界、そして人の姿に対する、決死ともいえる「祈り」。その内圧の凄まじさ。
これはベクトルこそ違え、ブランキーの「悪いひとたち」やイエローモンキーの「JAM」、ディランの「Hurricane」のように、
作り手を取り巻く世界の状況や、思想や意図を超えた「なにか」によって作らされた、そんな曲だ。
アルバム全体でなされていた感情の匙加減がここに至って崩壊したかのように、静かに、しかしとめどなく零れ落ちる感傷と、脆く美しい優しさ。
グレート・アドヴェンチャーに僕が見たものがロックの「意志と力」だとすれば、「バイバイ、世界」とぶち上げ、凄まじいまでに静かな祈りで終わるこのアルバムは、その「精神」だ。
ブランキーの幻影を背後に探さずとも、モーサムはモーサムとして唯一無二のロックを鳴らしていたことに、ようやく気づいたんだった。
欲を言えば、次は「HigH」のような気違い音楽が聴きたいのも本音だけれど。
□2006/1/16(Mon) Food
カープかつ
参ったな。
リアクションに困るじゃないか。
この突っ込み殺し!とでも言いたくなるようなオーラ。
昔あった漫画「丸出だめ夫」にも似た、身も蓋もないファンクネス。カツ、なんだよな。
カープが勝つからカープかつ、でいいのか?
味は駄菓子屋で売ってる「ビッグカツ」とまったく同じ。
「お好みソース味!」のスの字もわからないほど、ビッグカツの味。
製造元である「スグル食品」のサイトも、なかなかファンタスティックだ。
なぜに姿フライを。
もう一度確認するぞ。
カープが勝つからカープかつ、でいいんだよな。
それだけでいいんだよな。
ネーミングで大宇宙の真理とかを表現したりしてないだろな。
□2006/1/9(Mon) Music
Great Adventure 『ROCKS』
えらいことになっている。
えらいことになっているぞ。
日本のロックシーンに久々に降臨した、なんていうのすら恥ずかしくなるようなロックがあったんだ。僕は素晴らしいポップスも素晴らしいジャズも素晴らしいヒップホップも素晴らしいアンビエントも素晴らしい民謡も大好きだし、
そもそも音楽にはいいか悪いか以外の区分はないと思っている。
「オシャレ音楽しか聴かないの」ですと?ああ死ね死ね。
それはともかく、それでもなお、素晴らしいロックを聴くという体験は、僕の中で他の音楽の追随を許さない。
日常に潜むドラマツルギーと、全てが反転する刹那のカタルシス。世界観。生と死への態度。
そんなもののことを、何よりもロックから教わってきたんだ。グレート・アドヴェンチャー。
こんなのはどれくらいぶりだ?
ナンバーガールの「NUM-AMI-DABUTZ」とか、スパルタローカルズが出てきた頃とか、そのへん以来か。
もうロックンロールなんてものには、トトロのサントラを聴くのと同じ姿勢でしか向き合えなくなったのかと思っていた。
ブランキーが終わって、ミッシェルも終わって、ナンバーガールやモーサムがその場所まで登るかと思ったら途中で失速して、
ロックンロールに勝手に見切りをつけていたのか。エレカシやくるりだっているし、素晴らしい作品を作り続けているロックバンドはかつてないほど多い。もちろんそれは知っている。
ただ、シーン全体が底上げされていく中で、ロック自体が大きな安定期に入ってしまったような寂しさはずっとつきまとっていたんだ。
まったく新しい何かが突然変異のように生まれてくるような期待感は、いつの間にかなくなってしまっていた。
マーズヴォルタ、バンディッツ、クリニック、!!!、カサビアン、デッドコンボ、ブロークン・ソーシャルシーン、フトン、そしてアークティック・モンキーズ。
海外からは(米英だけじゃなく、ラテン圏からタイまでも)次々と素晴らしい、ていうか
気違いとしか思えないような新しいロックンロールが次々と生まれてきて、使っていない脳細胞に次々と電流が流れるように
新しい世界のかたちを我々に見せていたというのに。
そんな中で、こいつらが現れたんだ。
洋の東西も時代性も、あらゆる境界線を軽々と飛び越えていく、圧倒的でありながらへろへろのリズムとグルーヴ。
ニューウェーヴなんだかデジタルパンクなんだかさっぱりわからない音像の中に、僕らが憧れた幻想のロックが鳴っていた。
そして、それを未来へと走らせてゆく確かな意志が。
思えば昨年はバインがスコンと突き抜けた大名曲「その未来」を発表したり、モーサムが『ロッキンルーラ』で完全復活したりと、
物凄く久々に収穫の多い一年であった。
「ロック」を渇望することを、もう一度ここから始めてもいいと思えたんだ。
音楽の紡ぐ物語、そしてそれが再構成してゆく世界の姿を信じるための、「偉大なる冒険」。
その再びの幕を開ける、第一歩。
□2005/10/16(Sun) Music
Dead Combo 『Dead Combo』
久しぶりに、いや本当に久しぶりに、ちゃんとしたNYパンクに出会った気がする。
「ちゃんとしたNYパンク」ってのは、ようするに
「ちゃんと音に熱が感じられない」とか
「ちゃんとやる気がなさそう」とか
「ちゃんとダークである」とか、
褒めてんのかけなしてんのかわからない形容しかできない音楽であるということなのだが
それこそが70〜80年代という時代の知性たるニューウェーヴ、
そしてNYパンクからノー・ウェーヴに至る音楽の共通項であったはずだ。9.11以降加速度的に凶暴さを増した世界において
一時はNYパンクに代表されるような不穏な感性の息づく隙間がなくなってしまったといってもいいほど、
アメリカの音楽は単純化への強烈な圧力に晒された。ボウイの「Heroes」やスプリングスティーンの歌が本人の意図と違うところで国威発揚のために使われたり、
音楽業界の自主規制なんてものも大手を振ってまかり通っていた。
もちろん、情報統制は日常茶飯事。それは今だって変わらないようだ。
国論を、そして世界への認識を単純化することによって、ある種おとぎの国のような環境で挙国一致対テロ体制(それは挙「白」一致体制でしかなかったが)を
築こうとしていた時期のアメリカには、目覚まし時計のような表現など無用の長物であったのだろう。この世界は純一などではなく、人には実存以外の存在理由など何ひとつない、という
現実の不穏さをそのまま突きつけるような伝統的知性は、アメリカでは死滅したのかとも思われた。
ソニックユースやパティスミスといった大御所は別としても、新しい芽なんてもう出ないのかと思った。が。
ああよかった。NYはまだ、ちゃんと不穏だ。
□2005/10/14(Fri) Music
aiko 「マント」
「私は何のために歌っているのかしら」なんて自問自答を歌詞にするシンガーは多いし、
それもそれとしてひとつの重要な主題であったりするんだけど、
なかには世間の馬鹿馬鹿しい自分探しブームに擦り寄ってるだけの、聴くに堪えないような自己撞着ソングも多かったりする。自らの表現が拠って立つところのものを信じて1ミリたりとも動じることがない表現者というものは、実はとても希少だ。
それを高らかに謳う人は多くても、その信念は単に鈍感だったりただの自己陶酔だったり
要するに勘違いである場合の方が多いと思うんだけど、
「自らが歌う理由」というものを信じて疑うこともなく、それを大上段に振りかざすでもないという点で僕が絶大な信頼を寄せている、
そのひとりがaikoだったりする。といっても別にそんなにファンではないし、CDを買ったことは大昔の「カブトムシ」という曲しかないんだけど、
まあそのころから性懲りもなくラブソングばかり歌っておるわけです。
わけなんですけど、まあこれまたアホかといわんばかりにラブの諸相、たとえばその細かい襞の裏側までを描きつくすかのような
粘着質な詞の作りこみ方とかですね、よくもまあずっと続くもんだと思うわけです。
いや、これ褒めとるんですよ。いちおうね。「愛の絶対性を信じる」なんてことはごく当たり前のようでいて、すれっからしの我々にはなかなかできない芸当であったりもする。
「愛とはつまり幻想なんだよ」と歌った人もいるし、「そんなことないわ!」と思う人もいると思うが、
愛とはつまり、幻想や思い込みの類以外の何物でもない。
その幻想力をどこまで保持できるかというのがむしろ重要になってくるんだけど、
ジョンレノンばりの妄想狂でもない限りは、だいたい現実が幻想の薄い膜を破って侵入してくるものだ。
どうしようもなくのしかかる現実の重みと向き合ってなお「愛」なんてものを一点の曇りもなく信じることには、かなりの覚悟や努力を要する。
何もかもを暴かれてなお、それを信じることができるか?という抜き差しならない主題を
ここまでブレることなく、しかも決してただの頑迷や現実逃避ではなく、リアルに描くことのできるaikoという人は
いまどき珍しい、しかもこっちが気恥ずかしくなるくらいに命がけのラブソング職人だと思う。その職人が自らの表現の根幹と向き合った名曲が、この「マント」だ。
2002年発売のアルバム「秋 そばにいるよ」収録。
当時の僕はちょっと参っていたんだが、TVで見たこの曲だけのためにアルバムを借りて、この曲しか録音してないし、この曲以外の曲は忘れた。
「見上げた空を 黄色く塗って あるはずないものを作り出せばいい」
現実の重みを知り、それでも「何か(それが良きにつけ悪しきにつけ、だ)」を信じるために、人は自らの世界の神にもなることがある。
ある人は自らの贖罪意識を「バモイドオキ神」という神に塗りこめたし、ある人は自らを神のごとき絶対者とする共同体の王となった。
aikoがこの歌で表明したのは、そんな全体性への欲望と同じものだといえるだろう。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という映画があまりにも残酷に示したように、人は自らの世界の中においてのみ完全に自由かつ全能な存在である。
その世界の中での全能性を余すところなく表現し、ポップソングへと昇華することによって現実に何らかの作用をもたらそうという
ある種のテロリスト的心性が、美しいメロディとイメージの中から見え隠れするのだ。
そしてそれこそがおよそ表現といえる全てのものを作り出す、もっとも根本的でシンプルな原理であるが故に
僕はこの曲を絶対的に支持するし、3年経った今もなお聴き続けている。
自らの表現が拠って立つ「愛」というものの絶対性、そしてその普遍性さえも信じて疑わない、いや、自ら疑うことすら許されないという
もはや逃げも隠れもできない地点で愛を歌い続けるaiko。
なんと業の深い表現者であることか。