日々のパレード

日々の瑣事に追われて、最近どもならん。
どもならんときはどないするかといえば、旅に出るに限りまっしゃろ、いうことで、
なんで大阪弁なのかはわからんが、ふと目覚めた時の空や雲の具合が旅を誘うってことはままありまんねん、いうわけで、
目的もなく電車に飛び乗ってみる。

昼前にぶらりと家を出て、適当に切符を買って、適当なところで降りてみる。
特に珍しいものはなくてもいいし、いけてる風情のカフェイなんぞなくてもいいし、
そこらのうらぶれた喫茶店でしなびたトーストにかじりついたり、
人様の家と人様の家が並び小汚い鉢植えが花を咲かす、その路地裏を徘徊するのもいい。
地元の寺だの神社だのがあれば言うことはないし、
ないならないで漫然と過ごして、他の駅に向かう。

行雲流水といえば聞こえはいいが、
実際は何かしら心にひっかかった場所を闇雲にそぞろ歩いているだけで、
なんら生産的でも文化的でもない行為ではある。
とはいえ、それを悪いことだとは少しも思わない。

歩き出してから行き先を決めるタイプである僕のような輩からしてみればおよそ理解しがたい発想ではあるが、
人生において無為の時間を作るということをまるで許しがたい禁忌のように難じたり、
少しの沈黙にも耐え切れなかったりと、常に自らの時間を何色かで塗りつぶさねば気がすまないという人が結構いるようだ。
それは人が自らの時間を切り売りするようになった近代以降の思想の発露であって、
人間本来の生活と思考のリズムからは遠く離れた発想であると言わざるを得ないのだが。

「目的」にはどうしても、人生や時間に対する作為がつきまとう。
我々が生きるのは限られた時間・空間であるからこそ、
ときには少しの「隙間」が大切なのだと思う。
なにものにも染められていない、無色の時間・空間を経験すること。
許容範囲を超えたスピードに慣れた精神と体をリセットすること。
それはどこかで自らの原風景、その本来の色を発見する行為に他ならない。

どれだけのものを見聴きしどれだけのものを手に入れたか、ではない。
大事なのは、そこに何が残りそこから何を創るか、であろう。
それがないことには、色とりどりの人生も統合を欠いたジャンクに堕す。
逆に思想の内的調和が取れていれば、雑然と重ねていた行動も、いずれひとつの豊かな流れを形作るだろう。
無為の時間の中で自らの内宇宙と語り合う時間を持つことは、
ある内的調和への目覚めの一助となるのではないか。

繰り返される有為と無為の中で磨き上げられ、輝きを増すものがある。
外見や世評などに頼った薄っぺらな基準では量りきれない価値を持つそれぞれがある思想にまで昇華し、
やがて新しい流れを作り、モノクロームのような時代を彩ってゆく。
そんなラディカルな可能性が、まだまだそこかしこに眠っているはずなのだ。
路地裏に。街並みに。自然に。そして、人の心にも。


といった感じで、知らない街をただほっつき歩くだけの休日や
仕事中にふらりと散歩に出てしまう癖を自己正当化する文章を締めくくろうかと思います。

 

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