風響のバザール

名も無い路地裏に、忘れられた夢の残影が転がっていた。
おそらくは経済的理由によって打ち捨てられ、野ざらしになったままの空き地には、
日常のエアポケットのような不穏さが漂う。

かつてここで企図され実行されていた「何か」が終わり
ただその痕跡だけを残して去っていったあとで、
時間の流れからも経済の流れからも取り残された場所。
しかし、たゆまぬ変化を続ける都市の一角にあって、
それはいわゆる廃墟とも違う、猥雑な空気をも含んでいるように思える。
様々な思念が吹き溜まりのように集うこの場所から、次に何かが生まれないとも限らないというおぼろげな胎動、
いや、未だそのレベルですらない「蠢動」の気配がするのだ。

「過渡期」にある廃墟、とでもいおうか。
匂い立つ不穏さの正体は、そこが都市の中に突如現れる異空間であるというだけでなく
日常に感じる機会の少なくなった我々の存在と生と死の循環、その本質が露わになっている空間であるということなのではないか。

哲学者アルフォンソ・リンギスは「われわれが吸う大気のすべては、死者の息なのだ」と言った。
もとより、日常的な炭素循環の過程において、我々は他者の呼気や肉を体内に摂取することで生きているのだが
リンギスはそれに留まらず、この大地は幾星霜のうちに埋葬され続けた死者(もちろん、動植物も含めてだ)で構成されていることを喝破する。
「これらの死体を吸収することなく、水を飲み植物を食うことはできない。われわれの肉体は、われわれの先祖の墓なのだ」。

ある存在がその存在において純一の、世界から独立した個体であることは不可能だ。
我々はその体のどこかしらに無数の、名前も知らない誰かの「生の痕跡(あるいは死の痕跡)」を宿しながら生きている。
ある生は死をもって完結するのではなく、細かく分散して転変し、
流れ着いた場所において、それぞれのシンフォニーやざわめきを奏でるのだ。

この荒れ地に集う様々な思念や欲望がひとつのざわめきを形づくるとき、ここからまた新たな何かが生まれるのだろう。
そこに生まれる「何か」とは生命(人)の活動の集合体であり、それ自体が生命でもあり、さらに都市という大きな生命のなかでざわめく、ひとつの要素に他ならない。
微小ではあっても、その「何か」を通して都市は再構成される。
ちょうど、我々の存在が世界に幾ばくかの影響を与えているのと同じように。

「もしおまえがこの世にいないならば、何かが狂ってしまうだろう(手塚治虫『ブッダ』)」
我々は全ての死者の仔であり、全ての生命の仔であり、
心次第でこの世界というポリフォニックなオーケストラのどのパートを担うこともできる存在なのだということ。

荒れ地に一陣の風が吹く。
「さあ、どっちを歩く?」と、問う声が聴こえる。

 

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