草っぱらのアレグリア

世界が燃え上がるような夕暮れ時には、野面に奴らがやってくる。
奴らは突然現れるように見えて、実は僕らの暮らしのすぐそばに潜んでいるのだが
夜には煌々と明かりを灯し、闇を駆逐してしまった僕らは、いつの間にやらその姿を見る力を失ってしまったらしい。

この世界は何千年もの間に気の遠くなるような数の人々が生き、死に、泣き、笑い、喜び、苦しみ、愛した、その轍そのものだ。
僕らはテレビや雑誌の中に並ぶ「新しいもの」への誘惑、もしくは刷り込みによって
いつでも何か大きな流れに乗っていなければならないかのように錯覚してしまうけれども、
流れては消えていく「新しいもの」の奔流に惑わされず、また決してその流れに洗い流されることなく刻まれ続けるものこそが、
確かに僕らを存在させている。

「逢魔が刻」。
眩しい光が少しずつ闇を連れてくる頃、奴らはそれを伝えにくる。
いかに浮世が移ろおうと、奴らはいつでも野面で、安酒とドタ靴とカンカラ三線の宴を続ける。
この世界に人が生き、やけっぱちに酔いつぶれたり女にふられたり財布を落としたりしながらも、
少しずつそれぞれの轍を刻んでいくことを讃え、唄い踊る。



奴らの姿をとうに見失ってしまった僕らはしかし、まだその擦り切れてダミ声の賛歌に耳をすませることができる。
それが聴こえた時、あなたはもう少しの豊かさと優しさをもって、この世界に再び出会うことができるだろう。

 

prev

next

top