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「東京をトウケイと読む文人派』日本橋を九時に出て、ゆっくりと 歩き、神田、御茶ノ水を経て本郷三丁目に辿りついたのは十時 半頃でした。東大の赤門を入って三四郎池を眺める頃になると 東大の構内も随分と大勢の人々の観光で賑わってきました。と ころで東京をトウケイと読んでいたのは森鴎外の史伝「伊沢蘭 軒」の中で『九日磐は全家の東京(トウケイ)に寄留せむことを 静岡県庁に云々」又二葉亭四迷も「浮雲」の中で「捨てる神あれ ば助くる神ありで、文三だけは東京(トウケイ)に居る叔父の許へ 云々」これは漢詩文に親しんだ文化人の間に「トウケイ」派が多く それは漢文で洛陽を東京(トウケイ)という異称で読み慣わしてい たからであろう。と新潮社の「江戸東京物語」の中に出ています。 |