8.閑話休題 - 船橋博士のこと -

 彩葉の特訓が始まってから、二ヶ月。仕事と掛け持ちのアルバイトにもすっかり慣れて、識菜とも上手くやっている。
「あ……はい、レポート用紙一つですね。判りました、研究室の方にお届けいたします」
 識菜はESTLの内線電話の受話器を置くと、軽く溜息を吐いた。
「レポート用紙一冊をわざわざ配達?何かそれって嫌味だよねー」
「違うんです、一冊ではなくて、段ボール一箱ぶんなんです」
「え゛っ!?」
「前もちょっと言ったかもしれませんけど、たまにレポート用紙を大量注文するところがあって――今、店長はいませんよね?」
 確かに、重い紙束の詰まった箱は一見華奢な識菜の腕に余りそうだ。識菜はもうバイト歴は長いし、運ぶのにもリヤカーを使うのだろうけど、ヴィジュアル的にちょっといただけない。と、言うか、今の世に、それもよりによってESTLの中で人力配達のシステムが残っていると言う事自体、彩葉には驚きである。
「じゃあ、あたしが配達しに行くよ。配達ってやったこと無いし」
 ついでに、こんなに大量のレポート用紙を一括注文する輩の顔を見てみたいし。
「本当に?有り難うございます。宇宙工学棟の船橋研に運んでください」
「宇宙工学棟、船橋研、ね。じゃあ、在庫から出してくるー」
 彩葉は埃っぽい在庫置き場に入った。二ヶ月前は戸惑ったが、今はもう一人でも平気だ。●-10○N(レポート用紙の品番だ)の箱はすぐ見つかったが、少し面倒な場所にあった。
「ま、いっか。やっちゃえ♪」
 彩葉は軽く深呼吸して肩をストンと落とすと、段ボール箱をじっと見つめた。
 ずるっ、ずるっ、と、引きずる音。頭上で埃が舞って、彩葉はむせた。
 そして、箱は彼女の胸までぐらいの高さで浮いていた。
「よいしょっ、と」
 何となく最後は自分の腕で抱えてリヤカーに乗せた。
「じゃ、言ってきまーすっ」
「あの、彩葉さん、頑張ってくださいね」
 識菜の言葉に何となく不安を感じたのだが、彩葉の予感は不幸にも的中することになる。

「板橋さん」
「あー、晴海君だー!!今晩はー」
 船橋研に向かう途中、彩葉は偶然晴海と遭遇した。晴海は何かの袋を抱え込んでいる。
「それって、ねぇ、もしかして……」
「ご名答。十条博士の夕食だよ」
 晴海が彩葉を見いだしてからも、結局彼の基本的日課には何ら変わりは無いのだった。瞼の下は疲労の色が濃い。
「板橋さんはバイトで配達か」
「うん、レポート用紙一箱」
 レポート用紙、と聞いて、晴海の足が止まった。
「どしたの?」
「いや……とてつもなく嫌な予感がして……」
「あ、ここだここだ、『Y.N.船橋研究室』」
 ずささささささっ!ばんっ!!
 後ずさって廊下の反対側の壁に激突した晴海の様子を擬音化すると、こんな感じだろうか。
「へっ?」
 彩葉が首を傾げていると、研究室のドアが開いて、壮年にさしかかろうという男が一人出てきた。中肉中背で顔の輪郭も丸かったが、眼鏡の奥の瞳が物凄く神経質そうだった。
「――注文していた奴だな。さっさと中に運び込んでくれ」
(なーんかこの人、やな感じ)
 男が親指で室内を指したのを、彩葉はそう思ったが、今は仕事中と思い、すぐに営業用の顔を作った。
「はーい」
 彩葉がその研究室内に荷物を降ろすと、男は先程よりもかなり棘を含んだ声でぼやいた。
「いつもより配達が遅かったんだ、どうせ何処かで油を売っていたんだろ」
「ぐっ……!」
「板橋さん」
 その先の展開を予測した晴海が、彩葉の肩を掴んで小声で制止した。
「ん?十条のところの伊集院じゃないか。お前、まだあんな出鱈目をやっている研究室にいるのか?早く考え直さないと一生を棒に振るぞ」
「ちょっとぉ!晴海君に何ひどいこと――」
「ふ、船橋博士、失礼いたしました!」
 晴海は更に強引に彩葉の腕を引っ張り、逃げるようにその場を去った。
「何よあの男!究極的に凶悪にむかつくっ!!」
「あれが、十条博士肩を並べるぐらい違う意味で有名な、別名『レポートの鬼』吉弘=ノギス=船橋博士だ。陰険かつ神経質、今時紙のレポートにこだわって、ESTLの伝説では、自分の助手の論文を全部チェックして、全ページ、余白までミリ単位でチェックして、気に入らないところを徹底的にやり直させたらしい……」
「よくわかんないけど、聞くだけでぞっとするんだけど」
「で、うちの博士と物凄く仲が悪くて、顔を合わせれば下手すると軽く一時間以上は口論するんだ。船橋博士は『銀河遺伝子論』を荒唐無稽かつ全く信用できない代物として、馬鹿にしているふしがある」
「ますますやだ、そいつ。識菜が配達嫌がったの、わかる」
「とにかく、船橋博士と会話したら九割九分九厘嫌な気分になるから、関わり合いになるのを避けるか、意図的に向こうの言葉をシャットダウンするしかない」
「わかった、肝に銘じとく」
「そうだ、十条研を通り過ぎてしまった。じゃあ、僕は研究室に戻る」
「うん、じゃ、あとでねー」
 後戻りする晴海を見送りながら彩葉は、店には遠回りをして戻ろう、と決意したのだった。

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