5.識菜しきな=アローサ=赤羽あかばね

「――また、あの、夢?」
 まだ夜は明け切っていないが、もはや寝直すことも出来ないだろう、と、その少女――識菜は思った。諦めて、肩にストールを羽織る。たまには母親の代わりに朝食の仕度をしても良いだろう。
 トーストにする食パンを取り出しながら、彼女は夢の内容を反芻してみる。識菜が見る数々の夢の中で、それは一番回数が多くかつ最も印象的なものだった。
 一人の若い男が、ジャンパーで覆った赤ん坊を抱きかかえて走っている。時々後ろを振り返っていることから、何者かに追われているらしい。
 やがて、彼を追う者達の影が現れる。彼らは、見たことのない揃いの服を着ていた。追われる男はきびすを返し、別の方向へ走る。しかし、追っ手は一体何人いるのだろう、新たな行く手もすぐに塞がれてしまった。
 男は諦めずに、また追っ手達の隙をついて逃走を続けた。だが、激しく揺すぶられた赤ん坊は泣き声をあげ、完全に相手をまくことを不可能にしてしまっている。
 そんな追い駆けっこが延々と続き、やがて追われる男は何かを発見したらしく、それがあるのであろう場所に向かって駆けだした。
 ここで、男の姿はいったん遠ざかり、見えなくなる。追っ手達も、彼を見失ってなにやら訳の解らない言語で言い争いをした。が、またしばらくすると、ジャンパーでくるまれたものを大事そうに抱えた男が、再び彼らの前に姿を現した。既に体力を使い果たしたのか、足取りが重くなっているのが見るからに判る。
 そして、男と追っ手達はある一点に消え、遠くで悲鳴がする――そう言う、夢だ。
 ひどく息苦しくて、怖くて、悲しくて。それでも識菜には、その内容を変えることは出来ないのだ。

 識菜=アローサ=赤羽は、かつて未知の事柄を告げる不思議な少女として、その名を知られていた。
 最初に「それ」が起こったのは、彼女がまだ初等学校に通っていた頃、友達と一緒にとあるテレビ番組の収録を見に行った時であった。その番組内容に催眠術が入っており、客席から識菜が「催眠術で食べ物の味が変化するという実験」の被験者に選ばれたのだ。しかし催眠術をかけられた後の識菜の反応は、周囲の予想とは完璧にかけ離れていた。彼女は深い催眠状態に陥ると、突然、うわごとのように何かを喋り始めたのである。しかもその内容は、当時ニュースで騒がれていた、凶悪な強盗殺人事件の顛末であった。
 識菜の供述が、まるで彼女がその場に居合わせていたかのようなものであったこと、そして後に捕らえられた犯人の自供と完全に一致したことから一躍世界の注目を浴びた。以来、普通に寝ているときにも「啓示」は起こり、それらは全て的中した。覚醒しているときはその内容を憶えていない、まるで二十世紀のあまりにも有名な超能力者の再来のような少女に対する、マスコミや政府研究機関からの注目は当然ながら熱かった。出演依頼や調査の申し出が、毎日のように赤羽家に押し寄せた。
 だが、識菜の母の知花ちか=プラータ=赤羽は、娘がその特異な力によって有名になるのを望んでいなかった。いや、むしろ頑なに拒否したのである。誰が頭を下げても、知花は決して首を縦に振らなかった。識菜が何故かと訊いても、彼女は娘が生まれる以前の過去と同様、理由を全く話さない。
 だが、そんな日々はやがてぷっつりと途絶える。識菜自身が、「もうそんな力は無くなった」ときっぱり言い切ったのだ。彼女は啓示を意識できないはずだったが、事実識菜は催眠下に何か口走るようなことは無くなっていた。力を喪った少女に人々は急速に興味を無くし、赤羽家には日常が戻ってきた。何かに怯えているかのようだった知花も、やっと安心したようだった。
 しかし。識菜は周りに嘘をつき続けているのだ。啓示は、「夢」と言う形に成り代わり、彼女に直接語りかけてくるようになっていたのである。

識菜とママ

 コーヒーの湯気の香ばしい香りが、ダイニングに立ちこめているのに気付いた知花は、何もかもすっかり仕度を整えている娘がそこにいるのに気がついた。
「あら、おはよう。今朝は識菜が御飯用意してくれたの?」
「いつもよりずっと早く目が覚めたから……」
 母親が席に着いたのを確認してから、識菜も自分のトーストにバターを塗り始めた。
「今日はバイトの日だったかしら?」
「ええ」
 赤羽家は母子家庭だ。識菜の父は、彼女が生まれるのを待たずにこの世を去ってしまった。知花は再婚せず、たった一人で娘を育て上げてきた。識菜は飛び級でハイスクールに通うようになってから、いつか奨学金の返済に当てるためにESTLの購買センターでアルバイトを始めた。母親に、これ以上負担をかけたくないと言う心からである。
「一人辞めたから、仕事が増えて大変じゃない?」
「今日から、新しいバイトの人が入るんですって。だから大丈夫よ、お母さん」
「そう。でも、帰りが遅くなることには変わりないじゃない?くれぐれも気を付けるのよ」
「解ってます」
 学校があるため、どうしても識菜の勤務時間は夕方から夜にかけてになる。また、ESTLは赤羽家から近い場所にあるとは言えない。もっと、条件の良いアルバイト先はあるはずだった。
 それでも識菜がそこを選ばざるを得なかったのは、正に彼女の能力ゆえであった。夢で見たESTLのゲートをくぐる自分の姿に、運命的なものを感じてしまったのだから。

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