9.風神、疾走

 威都樹は、もう一度兄帝に心配は要らないと念押ししてから疾風の後を追った。煙を吸い込まぬよう、袖で口元を押さえる。
「待って、ちょっと待って!」
 童子丸も慌てて威都樹について行った。やはりまだ童なので、二人の背中を見失わないようにするのが精一杯だ。
「疾風さん、どちらに参られるんですか?」
「さっき、公家連中の中に一人だけ火事に動揺しねぇで何処かに行った奴がいた」
「つまり、その人物が何らかの形で関わっている可能性が、と?」
「俺の勘だとな」
 初めて見せたと言っても過言ではない、疾風の真剣な表情。彼は今、この場に残る御雷の気配を最も強く感じ取っているのだろう、足取りが速い。迷うことなく進んでいく。
「ほら、あいつだっ!」
 角を滑るように曲がる男の影。三人は彼を追う。
 男が入ったのは人気のない広間だった。いや、正確には祭壇らしきものの前に先客が一人立っている。足下に何やら輪にされた縄が落ちているのに威都樹は気付いた。
「あいつ、坊主か……嫌な事思いだしちまったぜ」
 疾風達が追ってきた男がここで漸く三人に気付き、怯えるように法師の側に寄った。
「あ!あの人」
「童子丸、知っているんですか?」
「朝にお師匠様の所に来た人だよ!」
「何ですって!?では、あなたは藤原忠平殿?」
 道真公の鎮撫を願っていた貴方が何故、と問うと、忠平は表情を歪めた。
「――全ては兄・時平の一派を追い落とすためだ」
 しばらく経って、漸く苦々しい声が絞り出される。
「菅原道真を失脚させて台頭してきたのは兄だ。だが、兄は病で死に、代わりにわしがその座に納まった。だが、わしが完全にまつりごとを掌握するには、邪魔者を全て退けねばならん」
「それで貴方は『道真公の呪い』の噂を利用したんですね、さも自身が被害者であるようなふりをして!」
 忠平に憤る威都樹の隣で、疾風は身じろぎもせず法師と睨み合っている。
「……てめぇだな、御雷を攫ったのは」
「いかにも。その様子からすると、貴公は雷神が事ある毎に名を呼んでいた風神と見た」
「御雷を返せ!でねぇと今すぐてめぇをぶっ倒す!!」
「ほう、そのような事を仰ってよろしいのかな?」
 法師は不敵に笑うと、手で印を組み何か唱え始めた。すると、先程威都樹が目に留めた縄が宙に浮き、輪の内側に一人の少女が徐々に姿を現した。
「御雷っ!!」
「疾風さん、疾風さん!!」
 この国にも唐人にも見られない、まるで金糸の滝のような髪をした娘だった。泣きはらした目元が赤く腫れているのでなければ、さぞ愛らしかったろう。
「しかしこの雷神、思った以上に御しやすくて拍子抜けした」
「うっ……ひっく……!?」
 法師が素早く印を組み直すと、御雷の身体が硬直した。次の瞬間、彼女の身体から青白い電光が迸り、轟音が轟く。
「うわっ!?」
「危ねぇっ!」
 疾風はとっさに横に飛び、威都樹と童子丸を突き飛ばして自らも転がる。三人がいた場所の床板には、焼け焦げた大きな穴が空いていた。
「てめぇ、御雷に無理矢理力を使わせてやがるんだな!!」
 疾風は姿勢を立て直し、法師に向けて風を放った。
「破っ!!」
 しかし一瞬間に合わず、法師の気合いにうち砕かれたかのように風が直前で霧散する。
「きっとこのお坊様だよ、さっきの式神使ってたのは。す、すっごく強い!」
 童子丸は威都樹の衣の陰に隠れた。彼には法師の力量が威都樹より強烈に感じられるのかも知れない。
「疾風さん、に、逃げて!」
 身動きを封じられた御雷が叫んだとほぼ同時に、法師は呪を唱えながら片手で彼女の背に触れた。
「御雷ぃーっ!?」

 再び先程のような光が迸る。しかし今度はいかづちが宮城の床を貫くことは無かった。光は法師の体内に収縮していく。
「み、御雷さんを取り込んだ!?」
「ふふふ……これで拙僧は雷神の力を極限まで自在に使役することが出来る」
 言うなり彼の掌から放たれる雷光が、威都樹達と疾風の間をまたも裂く。
「くそっ!」
 疾風は再び突風で反撃するも、眼前で腕を交差させた法師はいくらか後退するもそれに耐えきった。返す手で再び攻撃を仕掛けてくる。疾風も同様に防御しようとしたが、最後に激しい音がしたかと思うと、彼の身体は弾かれた。
「うわぁっ!?」
「疾風さん!」
「心配すんな、だ、大丈夫だ――」
 と言うものの、疾風の衣はあちこちが裂け、焦げている。顔に焦りの色も濃かった。
「あいつ、御雷の力に自分の力を載せてきてやがる」
 最初に疾風が威都樹に憑依した時のように、身体の主導権は法師が握っているうえ、更に取り憑かせた御雷を完全に支配しているという状態である。二人分の力を最大限まで使える分、力量差で疾風が不利だ。
 忠平は巻き込まれるのを恐れたのか、既にこの場から立ち去っているようだ。
 法師の雷が再三疾風を襲う。
「童子丸、加勢しろ!」
「うん!白虎、おいで!!」
 童子丸の隣に雪のように白い巨虎が現れた。唸り声をあげる。
「いけえっ!!」
 白虎は主の命を受け、一目散に法師に躍りかかった。
「とうっ!」
 法師は一瞬の雷撃の放出で白虎の腹を撃った。ギャウッ、と鳴き背から落ちる。
「貰ったぜぇっ!」
 法師の攻撃の瞬間をついた疾風が飛び上がり、背後から襲いかかった。
「笑止!!」
 だが法師の動きの方が一瞬早く、左肘が疾風の鳩尾を痛打した。
「がはぁっ!」
「白虎、頑張って!」
 疾風がやられた隙に起きあがった白虎は姿勢を低くし、相手を威嚇する。法師はそれを牽制するように、幾つもの電撃を白虎の直前に放った。無論背後に落下した疾風への警戒も怠らない。彼の強さは夜盗や式神の比では無かった。
 戦いの最中、威都樹はただ一人何も出来ないことに苦悶していた。
(相手は御雷さんだけでなく、道真公や兄上らにも害を及ぼしたというのに、私は、この場では童子丸よりも疾風さんのお役に立てない。ただ寄依の才があると言うだけで――寄依?)
 危機に際する彼の閃きは、賭けに近いものだった。

 威都樹は懐を探ると、一降りの五十鈴いすずを取り出した。御山に入る前に、父から受け取ったものだ。柄は中空になっており、小さな巻物が一巻納められている。
(ここは私の『斎宮』としての能力を試すしか策は無い!)
「童子丸、これを私に向けて読み上げられますか?」
「えっ?一応字を読むだけなら出来るけど……」
「それで構いません、早くお願いします!」
 法師は今、決して諦めぬ疾風と白虎の攻撃を迎え撃つのに専念している。こちらに注意が向かないうちにやり遂げねばならない。
 威都樹の真剣な眼差しに事の重大さを悟ったのか、童子丸は強く頷くと巻物を開いた。威都樹は五十鈴を手に持ち、舞の構えを取る。
 童子丸が巻物を読み始めると同時に、威都樹の身体が動いた――神楽舞だ。
 斎宮は、都と帝を守護する最高の巫。あらゆる存在をその身に降ろし、神は巫の身体を用いて力を振るう。だが、人ならぬ者と完全に相手と同調するのは容易なことではなく、その鍵を開放する必要があるのだ。それが、威都樹らが今行っていること。
(疾風さん、私を使ってください!私の身体の全てを、貴方に託します!!)
 威都樹が仰向けに床に倒れたと同時に、法師の前から疾風の姿が消えた。
「何っ!?」
「やった、成功したよ!」
『すげぇ、こいつの身体、俺の力を増幅させやがる……!』
 立ち上がった威都樹の瞳は既に彼のものではなく、金茶色の光を放っている。
「貴公も憑依同化を計ったのか」
『しかもただの憑依じゃねぇぜ。なんつったって陽女のババァすら呼べるんだからな』
「何と、その少年は斎宮だと言うのか!」
 法師の表情が、初めて険しいものとなる。その両手が激しく光り始めた。
「ならばこれで決着を付けてくれよう!!」
 だがもはや疾風は動じない。威都樹の顔で表情を引き締める。
『お前らが何が目的でこんなことやりやがったのかには興味がねぇ――』
 その腕を中心として風が渦巻く。速度を増す。
『けどよ、人の恋路を妨害した奴にゃあ天罰が下ると決まってるんだぜ!!』
 法師が攻撃に移る直前に疾風の拳が繰り出された。風は周囲の空気を巻き込み、凄まじい勢いで敵に牙を剥く。
 木の裂けるような音は、法師から放たれた雷光の塊が疾風を見失って屋根を突き抜けた音だ。
 法師の身体は建物の柱の中程に叩きつけられ、跳ね返って床に落ちた。
――その全てが、一瞬の出来事だった。

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