7.斎の皇子、悲劇の大臣
忠行の言葉を耳にした途端、威都樹の表情が強張った。
「え、どうしたの?威都樹様」
「やはり忠行殿は全てをご存じだったのですね」
溜息を吐く、威都樹。
忠行は少し迷ったが、威都樹が軽く頷いたため、童子丸達に事情を説明することにした。
「先帝の皇子であり、今上帝の御弟であらせられる威都樹親王様の存在は、宮中でも限られた者にしか知らされていない。何故なら、威都樹様は本来皇女としてお生まれになるはずだったからだ」
「皇女?」
「はい……私は、女であれば斎宮として、伊勢に赴くはずだったのです」
伊勢の斎宮は、その身に太陽の女神を降ろせる最高の巫。帝の娘であれば誰にでもつとまるというわけではなく、一人の帝に必ず一人だけ存在するよう、その力を有した者が皇族の中から生まれてくるのだ。
「ですが、兄上が位にお就きになってから、斎宮たる資格を持った皇女や女王は生まれませんでした。そしてやっと誕生したと思いましたら――私は男だったのです」
「斎の宮に男皇子がなったという前例はありません。事情を知る者の殆どが威都樹様が斎宮の座にお就きになる事に反対したのです。ですが、宮様を普通に宮中でお育てあそばすのも非常に危険だった。童子丸、これがどういう事か解るか?」
「神様を降ろせるぐらいの最高の巫だから、生霊や死霊や悪鬼も簡単に入れちゃう……ってこと?」
「そうだ、良く出来たな」
「ですから、私は公から存在を隠され、父の命で御山に置かれることになったのです。本来ならば疾風さんのような天つ神々に仕える身ですから、せめて兄上の次の代の斎宮となるべき方が生まれるまでは出家することは出来ないのですが」
「だから俺が威都樹に乗り移ったとき、凄ぇ気持ちが良かったんだ。じゃあ今伊勢にいるのは何だ、いわゆる偽物か?」
「そう言うことになりますな」
「御山でしたら、悪しきものなど入り込んでは来ぬ、と父上は仰っていたんですけれど」
威都樹はちらと疾風を見たが、すぐに視線を逸らした。
「結界をほんの一瞬だけこじ開け、最高の巫である宮様の中に道真公を『吸い出す』のです。私は神主ではありませぬし、離れた場所からは難しいのですが、幸い我々は公のすぐ側にいる」
「なるほどな。あんたの言いたいことは大体解ったぜ。じゃ、さっそく儀式とやらをやろうじゃねぇか!」
意気揚々とした疾風の横で、寂しそうな表情を威都樹が浮かべているのに童子丸は気付いた。
「威都樹様、どうしたの?」
「えぇ……私は今まで、『斎宮』として必要とされたことはありませんでした。それに、斎宮は都と帝の――兄上の霊的な守護でもあるのです。私が男であったがために、都に『揺らぎ』が出ていると聞かされたことがありました。もしや今回のことも、元々の発端は私にあるのでは無いかと思うと、かなり複雑な気持ちでして」
まだ幼い童子丸には、威都樹の気持ちは良く解らなかったが、彼が自分に対して落ち込んでいるのは解った。
「威都樹様……」
「なーに暗ぇ顔してんだよ!」
「わっ!?」
突然背中を叩かれて、威都樹は飛び上がった。
「は、疾風さん、何をなさるんですか!?」
「んな風にうじうじするんじゃねぇ!そうしてる暇なんかあったら、とっとと道真引っ張り出すのを手伝いやがれ」
乱暴に言い放つ疾風に童子丸は呆然としているようだが、威都樹は少し救われたような気分になった。
忠行は自邸から色々と道具を持参してきたらしく、すぐに社の前に祭壇が築かれた。その前に忠行と威都樹が向かい合って座り、儀式が始められた。
忠行の声は低いが良く通り、威都樹にはまるで雅楽のように思われた。御山の教主の上げる経も、こんな感じがした。高名な術者や僧侶になるほど、そのようなものなのかも知れない。
そして突然、彼の意識は暗転した。
儀式の様子を見守っている童子丸達には、社の扉の前の空間が大きく歪み、そこから疾風が繰り出すような突風が一吹きした、というように映った。
威都樹の身体はくずおれ、再び起きあがったとき――既に事は成し遂げられていた。
『儂を呼びだしたのはどなたでしょうかな?』
明らかに威都樹のものではない男の声だった。それを聞いた瞬間、疾風がくってかかる。
「てめーが道真だな!?おい、御雷を何処やった!すぐに返せ、でねぇと徹底的にぶちのめす!」
忠行とその式神、そして童子丸が必死で押さえつけなければ本当に威都樹――いや、道真を殴り飛ばしかねない勢いであった。
『残念ながら、儂は存じませぬな』
激情した疾風を目の当たりにしても少しも動じることがない。道真には賢者の品格というものが備わっているようだった。
「何言ってやがる!復讐のために長い間都で物騒なことやりつづけてたってのはてめーだろ?時平を呪い殺した挙げ句に今度は御雷を利用して他の連中も始末しようってつもりなのかっ!?」
疾風が時平の名を出すと、道真の表情が曇った。
『違う……それは断じて違うのです……』
なぁにぃ!?とまた暴れそうな疾風を忠行は制止した。と、言うより彼の指示によって式神が疾風の身動きを封じ、童子丸が何やら呪符を貼ったという方が正しいのだが。
「大変失礼いたしました、菅原道真公でいらっしゃいますな?私は賀茂忠行と申しまして、これは一番弟子の童子丸と我が式神。道真公の寄依となられているのは先の帝の皇子、威都樹親王様。そしてこちらの方はこの秋津島の風神であらせられる疾風様です」
『何と、それは有り難き方々が、儂を召喚されたのですな』
「先程疾風様が仰りましたように、公をお呼びいたしましたのは長年続いた都の異変と関係があるのです。しかし、公のご様子からすると深い事情がおありの様子。よろしければ我々にお話しいただけませんか?」
道真はそれを聞くと、袂でそっと目元をぬぐった。
『確かに儂は、藤原時平殿と帝によって右大臣の位を追われ申した。時平殿のしたことは政の世界では珍しくないこと。帝が、上皇様に目をかけていただいていた儂を疎ましくお感じられるようになられたのも無理からぬ事と思っておりまする。抗いきれず破れてしまったのはこの儂の力不足。自らを不甲斐なく思いはすれど、どうしてあの方々を恨むことがありましょうや』
忠行は道真の語ったことに嘘偽りは無い、と感じ取った。生前は学者としても名高かった道真は、死してなおその高潔な精神を喪っていなかったのである。
『時平殿や皇太子になられた方々が次々とお亡くなりになられたのは不幸な偶然です。しかし偶然が続いてしまうと、何らかの理由付けを欲するのが人間というもの』
「じゃあ、道真様は何も悪いことはしてなかったんだね?」
『儂の望みは、今の境遇で政変や陰謀などとは無縁の、平穏な時を過ごすというものでした。のみならず、親切な味酒安行殿が建ててくださった祠を時平殿の弟、忠平殿が立派な社殿にしてくださり、帝が右大臣に復位させてくだすった。後は息子達の行く末が幸せであれば、それ以上望むことはありませぬ。しかしこの前突然、儂は何者かの術によって、自分の社から強引に連れ出され、代わりにここに閉じこめられたのです』
「術!?」
『そう、忠行殿が使われたのと同質の――陰陽の術だった。どうやらこの雷公社にいた神と入れ替えられたようなのです』
疾風が目の色を変えて暴れたため、忠行は彼に貼られた呪符を剥がした。
「そ、そりゃ御雷の事じゃねぇか!!てめぇさっき知らねぇって言ってたのに、嘘だったのかよ!」
『嘘ではございませぬ、その方の姿を儂は直接見ていないのですからな。ましてや居場所など存じているはずがありませぬよ』
疾風の顔が紅くなったり青くなったり、白くなったりする。これでも懸命に押さえているのだろう。
『しかし見当がつかないわけではございませぬ』
「何だって!?」
「疾風様っ!」
遂に、疾風は道真の肩に手をかけ激しく揺さぶった。彼を止めようと童子丸が必死で足にしがみつく。
『いやはや……そのように必死になられていらっしゃると言うことは、よほど大切な方だったのですな』
「御雷は、俺の何よりも大事な恋人だ」
『なるほど――では、儂の考えをお話ししましょう。この事件の首謀者が雷公、いえ御雷様を狙ったのは、恐らく、儂の左遷を止めようとした上皇様を足止めした番人が落雷事故で死んだからでしょう』
「当たり前だ、あの優しい御雷が自分から人間に雷を当てようなんて思うはずがねぇ」
『雷というものはいかにも祟りに雰囲気の相応しいものです。ですから、雷神を意のままに操って、儂の事件に関わった人々を襲っているのでしょうな。しかし、一番重要だと思われるのに、未だ自身は御無事であらせられる方がいらっしゃる』
道真の言葉に、忠行の顔が見る間に青ざめた。
「まさか……!?」
『そう、恐らく首謀者の最大の狙いは、宮中でしょう』
宮中には、親子ほども歳の離れた威都樹の兄――今上帝がいる。
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