2.出立

「疾風さん!」
「おっ、待ってたぞ威都樹♪」
 疾風が御山の小屋に住み着いてから、はや三日。彼は威都樹を丸め込むと、後は威都樹の必死の懇願をいれ、外にも出ず大人しくしていた。疾風の食事は、勿論威都樹がこっそりと調達してきているのだが、これが恐ろしく困難なことで、毎度神経をすり減らす思いでやっている。たった数日のことなのに、今朝威都樹が鏡を覗き込んだ時、自分の頬が若干すっきりしているような気がした。それを疾風は知っているのだろうか――いや、そうではないに違いない。
「はい、食事ですよ。あの……」
 威都樹は、受け取ってすぐに食物をむさぼり始めた疾風に遠慮がちに話しかけた。
「疾風さんはいつまでここにいらっしゃるつもりなんですか?」
「ぁあに、お前、いい加減ここのお偉いさんに叱られたくなったのか?」
「い、いえ!違いますよ!ただ、貴方のような人ではない方が人間の前に姿を現されるだなんて、何か目的でもあったのではないかと――」
「へぇ、結構鋭いな、お前」
「疾風さん、そのとても意外そうな顔は、もしかして私のことを相当過小評価していましたね?」
「あ、わかる?」
 威都樹は、はぁ、と溜息を一つ。と、言うか、(やむなく)疾風に一生懸命尽くしているというのに、とてつもなく悲しい。
「俺、実は都に行くつもりだったんだよ」
「都――ですか?それはまたどうして」
 威都樹は重ねて訊ねたが、その途端に疾風の表情がにわかにかき曇った。彼がそんな顔を威都樹に見せたのは初めてだ。
(ど、どうしましょう、もしかして非常に言いづらい事を質問してしまったのでは――)
 だが、威都樹の心配を余所に、疾風はその先をちゃんと続けてくれるようだった。
「実はさぁ、人捜しなんだよ」
「人捜し……ですか?」
「ちょっと前に、俺のツレが都に呼び出されたんだが、普通は用事を済ませたらすぐに帰ってくるはずなのに……」
「帰ってこなかった、というわけですね」
「ああ。じれったいから俺が直に捜そうと思ったんだが、あいつの事が心配で集中力が欠けちまって、降臨する地点を間違っちまったんだよ。それでこの山に入っちまって、後はお前も知ってのとおり、という訳さ」
「はぁ……ですが、それならば一刻も早く都に行くべきではないのですか?疾風さんの怪我は既に治っている訳ですし」
「そこなんだよ!」
「わ、わ、わっ(汗)」
 疾風はびしいっ!と指を威都樹に突きつけ、その勢いに押されて思わず威都樹はのけぞる。
「この山にゃあ強力な結界が張ってあって、誰かがちょっと触れただけでも物凄い反応がするんだよ。それで、奴等に見つかっちまったんだ」
「なるほど……」
「それで、だ。一刻も早く俺が都に行くために、お前が必要だ」
「――はい?今何と仰いました?」
「何、って、俺がお前に取り憑いて、お前に山を出て貰えば、少なくとも僧兵連中には捕まらないだろ」
「ええええーっ!!!???だ、駄目ですよそれはっ!」
「威都樹〜、俺、これから本堂とか見物に行ってもいいかぁ〜?」
「うっ……」
 実にワンパターンな、丸め込まれ方である。ここまで来ると威都樹の不甲斐なさが滑稽にも思えてくるほどだが、しかし、今回の彼はこれで引かなかった。
「ですが、私だって――私だって、この寺から決して出るなと言われて来たのです!」
 故郷や家族から離れて過ごすのは辛かったが、父の命令は自分を想ってのことなのだ、と思って威都樹は御山で生活してきたのである。それを破ると言うのなら、彼の心を襲うのは、きっと躊躇いだけでは済まされない。
「だとしてもよ、ここにとーーーーっても困っている奴が一人いるんだぜ?ツレの命に関わるかもしれない事態だぞ、それを威都樹は見捨てるって言うのか……?」
 だが、疾風はやはり、威都樹よりも数段上手であった。そう言ってよよと泣き崩れるふりをされて、極めて人の良い威都樹の心が動かされないはずはない。結局、最終的に折れるのはいつも威都樹なのだった。
「わ、わかりました……」
「じゃあ、お前に取り憑くから、じっとしていてくれ」
 そう言うと、疾風は正座したままかたまってしまった威都樹に近づいた。
「そんな怖い顔するなよ、『取り憑く』って言ったって、ただお前の身体に入り込むだけなんだからさぁ。もっとちゃんとした手続きを踏まないと、俺の意思でお前を動かすことはできないんだ」
「それはつまり、肉体の主導権はあくまで私にある、と言うことですか?」
「そう。だから心配しなくて良いぜ、結界さえ抜ければすぐに出ていくから」
「はぁ……では、お願いします」
「じゃあ、もっと身体の力を抜けよ」
 威都樹が言われたとおりにすると、疾風はおもむろに威都樹に覆い被さるようにして抱きしめた。
「わっ!」
 だが、威都樹が慌てる間も無く、まるで杯の水が川の水に溶け合わさるかのように、疾風の身体は彼の身体に吸い込まれていった。
「お、終わったんですか?」
『ああ。なかなか快適だぜ、お前の身体は。入ってじっとしているだけで、かなり気持ち良いじゃん』
「へ、変なことを言わないで下さい、疾風さん!」
『まぁまぁ。じゃ、俺は気配を悟られないように大人しくしているから、後はよろしく頼むぜ』
 そう言うと、疾風は本当に、威都樹が呼びかけても反応しないぐらい静かになってしまった。

 その後。威都樹は真夜中までに苦労して旅の仕度を整え、誰にも見つからないように寺を出た。後がとても怖かったが、もう考えないことにした。
 月のない夜道を一人きりで、いや、そもそも牛車を使わないで外出すると言うことなど生まれて初めての威都樹は、殆ど恐怖に呵まれながら山道を駆け下りていった。「追い剥ぎ」「怨霊」「魑魅魍魎」という言葉がぐるぐると巡る。恐怖に思う事に集中していたので、木に衝突しなかったのが不思議なぐらいだ。
 やがて、威都樹は自分でもそれと気付かないうちに、御山に張り巡らされた結界を走って突き抜けた。
『はいーっ、そこでいったん止まれー!!』
「うわぁぁぁぁ、で、出たぁぁっ!!」
『おい、何言ってんだ威都樹、俺だ俺、疾風!!』
「え、あ、ははは、はいぃっ!」
『――ったく、何怯えてるんだよ、男らしくねぇなぁ」
 威都樹が硬直すると、疾風はすぅっ、と彼の身体から分離するように出ていった。
「は、疾風さん……」
「とにかく、これでやっとあの忌々しい結界から抜けられた訳だ。助かったぜ。じゃあ、さっさと都に行こうぜ」
 威都樹は口をへの字にして頷く。そして、今度は疾風の肩にしがみつくようにして、彼の後に付いて歩き出した。
「おい、お前、まさかまだ怖がってるのか?やれやれ……」
「で、ですから!私はこんな夜道を歩くのは初めてなんですっ。夜盗なんかが出たりしたら――」
「ほう、察しがいいな、坊主」
「!?」
 突然、木々の影から山刀を持ったむくつけき男どもが現れ、疾風と威都樹を取り囲む。彼らは正に、威都樹が言った夜盗だった。
「おい、お前ら、見たところかなり良い身なりをしているな。とっとと身ぐるみ全部置いて行け」
「疾風さん、ど、どうしましょう、本当に出てきたではないですか〜……」
 すっかり硬直してしまい、口を開け閉めするたびにカタカタと音がする、威都樹。
 だが一方で、疾風の方は困った顔の一つすらしていない。あろう事か、夜盗に呆れている風でもある。
「何で俺達がお前らに身ぐるみやらなきゃなんないわけ?身の程知らず、ってのはお前らみたいなのを言うんだぜ、解る?」
「この餓鬼、生意気な口を利きおって!儂らの『これ』が見えんのか!?」
 疾風の言葉に逆上した夜盗の一人が、これ見よがしに山刀の峰で掌をぽんぽんと叩く。何人かは既に二人に向かって刀を構えているようだ。
「疾風さん!何で彼らを挑発するんですか!!」
「威都樹、お前、俺を誰だと思ってる?そんじょそこらの人間とは訳が違うんだぜ」
「た、確かに貴方は人じゃありませんけどっ!ですが、矢に射られていたじゃないですか」
「だから、あん時は油断しただけだって!」
「何ごちゃごちゃ言っていやがる!」
 遂にしびれを切らした夜盗が、疾風達に襲いかかる。
「うわあっ!」
 しかし。彼の刀は疾風に届かなかった。
 吹き飛ばされ、木に叩きつけられる男。恐怖のあまり疾風にしっかりとしがみついていた威都樹は、男が飛ばされる瞬間、風を感じた。
「な、何だ今のは!?」
「どうした?さっきの勢いは。ほら、かかって来いよ」
 疾風は夜盗達を思い切り見下した目線で、彼らを手招きする。
「う、うおおおおお!!」
 何が何だか解らないが、とにかく、こんな少年に馬鹿にされたままではいられない男達は、がむしゃらに疾風に突っ込んでいった。
「威都樹、しっかり捕まってろ!!」
「はいっ!?
「おらっ、突風一丁!!」
 疾風がそう叫ぶと、二人を中心として物凄い旋風が起こり、飛びかかってきた夜盗達をいっぺんにはじき飛ばした。
「ぐおぉっ!」
「かはぁっ!!」
「うぐっ……」
 ある者は先程の男のように木に背中をしたたかにぶつけ、またある者は太い枝に引っかかる。運良く地上に激突した者達は、我に返ると「ば、化け物だ!」と口々に叫びながら逃げていった。
「ほら、威都樹、もう大丈夫だぜ」
「疾風さん、貴方、一体――?」
「俺はこの秋津島の風神。あんなただの人間ごときに負ける訳ねーよ」

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