注連縄が張り巡らされ、数多くのへいと灯台の明かりで形成されたと薄暗い、不可思議な空間。
 そのただ中で、男がその空間のただ中でなにやら祈祷を行っていた。低い、何処か不気味な声が、すぐ側まで迫る闇の中を蛇のように這ってゆく。男は僧形であったが、行っている呪法は寺院が行うそれとは異なっているようであった。
 その様子を、傍らでまんじりともせずに見守っている一人の人物。服装からして高貴の者と知れた。身分の高い者が陰陽師などの祈祷師を重用するのは珍しいことでは無い。
 祈祷はどれほどの時間続いただろうか。突如、僧形の男の声が高まった。それに反し、身体からは力が抜け、突風になぎ倒されたかのように彼は倒れる。
 震えるような星空が、一転、夜目にも判る鼠色になり、瓦も割れんばかりの音を立てて豪雨が降り注いだ。雷光が一閃し、高貴の男が思わず驚いて後ろに腰を引く。
「成功いたしましたぞ――」
 言いながら祈祷の僧がよろよろと起きあがる。彼の前には、燃える黄金こがねの髪をした少女が、先程の落雷の轟音に怯えて座り込んでいた――。

1.異形の少年

 都からうしとらの方角にある御山の寺院にて、ある日事件が起こった。
「おーい、そっちにはいたか?」
 一人の僧侶が本堂の裏手に他の僧を見つけ、相手もそれに気づくと互いに向けて駆け寄る。
「いや……先程は拙僧の視界に入っていたが、彼奴きゃつは存外すばしっこくてな」
 彼らは歴としたこの寺の坊主であるが、常とは異なりそれぞれ煌めきも鋭い業物をしっかと握りしめている。時折牛車で参拝に来る育ちの良い都人が見たら、恐らく卒倒しかけるであろう。だが、僧達の武器は、結界で護られた御山に不躾にも侵入してきた人外の者を駆逐するためのものであって、勿論人間に向けられるものではない。
「しかし、この御山に白昼堂々と物の怪が忍び込むなどとは由々しき事態」
「都も近頃怪異が頻繁に起こっているそうだがな――おっと、無駄な話をしている余裕は無い、早く物の怪を発見せねば」
「その通りだ」
 そう言うと僧達は再び二手に分かれ、散って行く。その様子を、本堂の屋根瓦にはいつくばるような格好で見ている少年がいた。目にも鮮やかな浅黄色の水干のような衣に、それよりやや薄い色合いの袴といういでたちで、その年頃には珍しく髪を短く切ってしまっている。いや、その緑青のごとき色合いから、少年が人でないのは明白だった。
「……っくしょー、あいつら相当しつこいな」
 少年はそう言うと苦々しげに舌打ちした。
(ったく……降りる位置を間違えたな。直接都に降りれればこんな面倒な目に遭わずに済んだのによぉ)
 心の中でそう毒づくが、彼はそれが自業自得だというのをちゃんと解っていた。心配が先に立って、地点の目測を誤ってしまったのだ。いや、当初はちゃんとしていたはずなのだが……どうやらぶれてしまったらしい。
 しかし、ここでじっとしていても仕方がない、彼は一刻も早くここを抜け出す必要があるのだ。少年は意を決して器用に体を起こした。
 刹那。
 シュッ!
 矢羽根が風を切る音が近づき、そしてそれは少年の腹に吸い込まれた。
「ぐあっ……!」

 このような「物の怪騒ぎ」に、寺の中でたった一人気付いていない者がいた。
 教典の収められた倉の中、一人静かに読書をしているのは、白皙の額に掛かる黒髪も麗しい稚児姿の美少年。この寺には他にも大勢の稚児がいるのだが、この威都樹いつきという少年は都人の厳しい審美眼をも易々と突破出来る程の気品が、立ち居振る舞いに自然と顕れている。
「ふぅ、この巻物、今度写経させていただきましょうか――」
 威都樹は、格好からも判るとおり戒を授けられた修行僧ではないが、誰よりも勉強熱心だと評判だった。それに彼はある特殊な事情により、かなり自由に寺院内を動き回っており、それ咎め立てする者は誰もいなかった。無論、僧になればそう言うわけにもいかなくなるだろう。将来得度するかどうかは彼の意思に任されているのだが、威都樹はそうするつもりだった。
 さてそろそろ戻ろう、と威都樹が巻物を抱えて立ち上がったとき。
 ガラッ、と音を立てて倉の扉が勢いよく開いた。
「わぁっ!」
 思わぬ出来事に威都樹の身体がすくみ上がる。大切な教典が一瞬彼の手を放れるが、威都樹は慌ててそれを抱き直した。
 だが、何事かと思って威都樹が扉の方を見たとき、彼は驚愕のあまり声も出ず、折角守った教典をとうとう下に落としてしまった。
「お……い、おま、え――」
 緑青の髪の少年が、大量の血を流して立っている。腹を抱えた彼の腕から矢がはみ出して見えた。少年は二、三事良く聞き取れないことを口走ると、戸を支えにその場からずるずると沈み込んだ。
(何て事だ、まさかこの御山に、こんな大怪我をした人が現れるだなんて!)
 血のけがれは聖地にとって忌むべきもの。だがそれ以上に、威都樹はこの(正に)正体不明の少年を放っておけななかったのだ。
 だって放っておけば、彼は間違いなく死んでしまう!
 その時、何故か威都樹は少年のことを寺の者に話してはいけない、と感じた。流石の威都樹でもこんな重傷者の存在を黙っていていいはずがない。だが、威都樹は何かに突き動かされるように行動を開始した。

「うっ……ん」
「あの、大丈夫ですか?」
「ここは?――いでェっ!!」
「あの、矢を抜いて手当てをしたとは言え、まだ動いてはいけませんよ。まずは、この薬湯を飲んでください」
 意識を取り戻した少年は、威都樹から手渡された椀を、腹の傷を気にするように慎重に受け取った。
「これ、チャって言う唐渡りの薬だろ?こんな高いもの、良いのか?」
「薬は、こういうときに使わないと意味が無いんですよ。それに、誰が持ち出したかなんて、きっと解らないと思います」
 薬の点検なんてそうしょっちゅうやるものではないですから、と威都樹は微笑んだ。
「ここは、現在使われていない古い小屋です。前は寺男が住んでいたのですが、ついこの前新しくしたので、今は無用の物を仕舞っておく物置の扱いをされているのです。ですから、しばらくは誰にも見つからずに静養できると思いますよ。怪我が全治したら、私が手引きして外にお出しします」
「……お前、不思議な奴だな。お前は?」
 茶をすすりながら、少年は睨むような上目遣いで威都樹を見た。
 金茶色の、まるで猫のような瞳。
 威都樹は射すくめられて思わず身震いする。それは、初めてこの寺の本尊を見たときの感覚に、似ていた。
「あ――は、はい、私の名は、威信の『威』に『みやこ』に樹木の『樹』と書いて『威都樹』と読みます」
「ふぅん、いつき、か……」
 しばらく難しい表情で考え込んだ後、少年は「まぁ、いいか」と呟いて、それから威都樹の方を向いてにや〜、っと笑った。
「決めた。もうこんな所からおさらばしようかと思ったけど、俺、しばらくお前の厄介になるぜ」
「――は?」
 何を言われたかとっさに理解できず、やや切れ長の瞳を丸くした威都樹だったが、少年は彼に構うことなく勢いよく立ち上がって伸びをし、怪我人とは思えないほど乱暴に座り込んだ。
「ちょ、ちょっとお待ち下さい、安静にしていないと腹の傷に悪いですよ!!」
「んなもんとっくに治ったぜ。あの矢に妙な法力が込められたせいでさっきまで傷が塞がらなかったが、威都樹が抜いてくれたお陰で、ほら、この通り」
 折角威都樹が苦労して巻いた布が乱暴にはぎ取られると、そこには痕一つ無い、つるりとした膚。威都樹は喉の奥から気分が急速に悪くなっていくのを感じた。今まで思わなかった方が不思議なのだが、突然目の前の少年が恐ろしくなったのだ。
「おい、顔色が悪いぞ。でも、お前だって俺が少なくとも普通の人間じゃないってのを解っていて助けたんだろ?」
「た、確かに貴方の髪や瞳の色はこの国の人のものではありませんが、先程はそのような事を気にする余裕が無かったのです。で、でも、怪我が治られたのなら、もうこの小屋から出ても平気ですよね?」
 威都樹は何とか冷静になろうとして、袴をきつく握りしめながら言った。表情は作り笑いになってしまったかも知れない。
「何だよ、いきなり態度豹変かぁ?けど、俺がここを出ていってすぐ、この寺のエライさんの所に行ったらどうなると思う?」
「そんな事をしたら、今度こそ捕まってしまいますよ!?」
「だろうな。んで、そこで『俺、さっき威都樹さんにかくまって貰って茶まで貰いました♪』って言ってみたら――」
「そ、それだけはやめてくださいーっ!!」
 いくら威都樹でも、僧兵達が追っていた「物の怪」をこっそり助けて、あまつさえ貴重な薬を彼のために使ったと知れたら、どのような叱責を受けるか知れたものではない。流石にそれだけは避けたかった。
「じゃあ、決まりだなっ♪俺は『疾風』って書いて『はやて』って言うんだ。よろしくな!」
 少年、もとい、疾風は「してやったり」といった笑顔を威都樹に向け、威都樹はがくうっ、と肩を落とした。しかもこの構図、二人の関係の未来を暗示しているようだった――。

進む
entrance menu contents