「天衣家の家系に関する古文書が読みたい?」
 屋敷中の人間の診察を一通り終え、やっと休もうとしていた越智は、突然で意外な落葉の申し出に流石に驚いたようだ。
「確かに、この屋敷の蔵にはそう言ったものがたくさん眠っているがね――だが、落葉はそれが読めるかい?」
「多分、いや絶対に無理だな」
 落葉とて、越智に言われたことを考えなかったわけではない。思わず、苦笑いの表情が口元に浮かぶ。
「古典なんて殆ど外国語と同じだからな。けれど、この屋敷の人間でそう言うのが得意な奴はいるんじゃないか?」
「それは恐らく、宝珠殿ぐらいじゃないと駄目だろうね」
「……」
 流石に、それ以上の言葉を失う落葉。宝珠は、落葉とは互いに出来うる限り顔を合わせたくない長老会のおさである。落葉が皇王を助けようとするのを、最も快く思わないはずの人物だった。
「諦めるか」
「一体何を調べようとしていたんだ?」
「歴代の『皇王』の翼の色だ――あいつの翼は、初代と同じ色だった。もしその事に意味があったなら、と思ったんだ」
「それは、考えてみたこともなかったな。けれども、それを調べたとして、どうするつもりなのかい?」
「俺も、しっかりした目的があるわけじゃ無い。だが、それでも知りたいんだ。じゃあ、俺は自分の部屋に戻る。越智も病気なのに、悪かったな」
「いや、構わないよ。それより、あまり変な事ばかりやって、長老会を怒らせないように。いくら宝四家当主が『皇王』に次ぐ地位にあるからと言っても、落葉はまだ高校生なんだ。年長者と言うものは、なかなか手強いものだから」

 次の日は日曜日だった。落葉は、すっかり静かになってしまった天衣邸の敷地を、一人散策していた。その一角には越智が言っていた蔵が幾つか建てられており、一族の繁栄の歴史を物々しく語っていた。扉にかけられた錠はその堅固さを誇示するかのように大きい。白壁には細かいひびが走っていた。
 調べるのは無理だと解っていても、中に入りたいという未練がましい気持ちを抑えることが出来ず、落葉はその場から動くことが出来なかった。
「蔵の中が見たいのですかな?」
 突然声をかけられて、落葉は凄い形相で背後を振り返った。が、相手の顔を見て、肩の力を抜く。
「呉絽さん」
「落葉様はお若いのに、古いものに興味を持っておられるのですね」
 呉絽は体力の低下によるものなのか、精気が半ば抜けたかのように肌がすっかり白っぽくなっていた。しかし、双眸はいつもと変わらぬ穏やかな光をたたえている。
「この中には、昔の皿や掛け軸など、今世間で『お宝』なんて呼ばれているものがたくさんありますよ。皇王様のお血筋を所望された方々が献上なされたんでしょうねぇ」
 それは、落葉にも想像が付いていた。他人に同じ事を言われてから改めて蔵を見上げると、薄気味悪さが増したような気がする。
「いや、俺は骨董品にはあまり興味がないんだ。ただ、古文書で昔の天衣のことを知りたいだけだ」
「古文書、ですか」
 呉絽はなにゆえ、とは尋ねない。彼には、これまで毎日のように落葉と紗綾の二人を高校まで送迎し、落葉が一族に対してどのような感情を抱いているのか察するところがあるのだろう。落葉も全てを話すつもりは無かったが、ただ一言だけ、言っておかねばならないと思った。
「俺は、皇王のことは嫌いじゃない」
 呉絽が、柔らかに微笑む。
「蔵の鍵は館のことを取り仕切っておられる宝珠様がお持ちでいらっしゃいます。ですが、古い書物を読むだけでしたなら、この呉絽でもできます」
「――え?」
「私も若い頃は、学問の道を目指しておりました。兄が亡くなり『呉絽』の座を継ぐために呼び戻され、それも敵わなくなりましたが。妻の『紙布しふ』は、代々一族の産婆を勤めておりまして、もちろん皇王様を取り上げたのも妻です。代々の皇王様の生まれたときの記録は、代々の紙布が記録して蔵の中に納めさせていただいておりますが、その写しの殆どを、今は妻が保管しております」
 落葉の目が驚きと困惑で見開かれる。突然開かれた道に戸惑っているのだ。
「ご覧に成られますか?古いものは私が読んで差し上げますよ」
「是非」
 呉絽がどう言うつもりなのか解らなかったが、またとない好機には違いなかった。
「では、私の家に参りましょう」

 天衣邸に使える使用人達は、敷地内の一角に建てられた別棟で寝泊まりしているが、結婚し子供を育てている間は外部に居を構え、屋敷に通う場合もあった。呉絽夫婦の子は既に一人前になっているので、彼らはまた別棟の方に戻ってきているのだと聞いた。
 呉絽達の部屋は、あまり物が無く、片づいていると言うより時が止まっているような印象を落葉に与えた。
「狭いところで申し訳ありませんが、とにかくこちらにお座りください」
「おかえりなさい、あなた――あら、その方は」
「こちらは今の落葉様だよ。すぐにお茶をお出ししておくれ」
「いや、お構いなく」
「お客様に何もしないのは気が引けます。紙布、それと、皇王様のご出生の記録も全部お持ちして」
「はいはい、わかりましたよ」
 紙布は、いかにも人の良い老婆と言った風体の女性で、呉絽の隣で繕い物をしているのが似合いそうだった。
「有り難う」
 自然と落葉の口からそんな言葉が出た。
「お礼には及びません。昔、皇王様に私の身の上をお話しする機会があったのですが、あの方はまるで自分のことのように感じておられたようでした。誰よりもお優しいあの方に、落葉様は心からお味方してくださっている。この年寄りも、そんなあなたのお力になりたいのです」
 呉絽の言葉に、落葉は右手で両眼を覆う。暖かく湿った感触が掌を伝った。
「どうなされたのです?」
「いや、俺は嬉しいんだ――」
(ここにも、あいつを大事に想っている人間がいる)
 それが何よりの、救いであると信じたい。

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