井上朝義氏の忘れられない思い出2

 それから6ヶ月ほど過ぎていた。日本軍の戦況はますます悪くなっていた。部隊は囲まれ、そして戦闘で大きな損害を
受けていた。補給路は寸断され、兵隊は怪我、病気で死者が増えてきていた。この戦での敗走は日本にとって大きな
痛手だった。日本軍は少ずつ下がってきた。ビルマの支配権はだんだんと失われ、そして完全に敵に奪い取られた。
 
 日本軍が下がってきて、国境に近いサルウィン河を渡ってタイに入った。入ったところがメーホンソン県のクンユアム
郡ホイトヌン村であった。撤退途中の将校朝義氏は、サルウィン河を渡って二日目にマラリアで脳がやられてしまった。
何日も意識不明となり、病院に入院した。日本軍の病院はクンユアムのワットムアイトーの中にあった。更家一等兵と
村人一人が付き添いで残ってくれた。このことは今でも忘れられない。仲間はメーホンソン、そしてチェンマイに行ってし
まった

 怪我、病気にかかっている兵隊はクンユアムの基地においていかれた。亡くなった兵隊は近くに埋められた。軍はど
んどんと下がって行った。治った兵隊、良くなった兵隊はすぐ追いかけて行った。一番大きな基地がナコンナヨーク県に
あったが、ここが最後の決戦のための基地だった。

 平成12年3月30日に私は朝義氏と、メーホンソンのワットノンチョンカムでお会いした。ここでいろいろな話をした。ド
クター朝義氏はときに泣きながら語ってくれた。あの時自分はマラリアに掛かってしまって、ワットムアイトーの病院に入
院してよくなった。2〜3日して歩けるようになり、ワットムアイトーからワットノンチョンカムまで歩いていった。この間67
Kmあるが休みながら行き、着いたのが昭和20年5月半ばだった。このときまだ完治しておらず、着いたところで倒れ
た。ここでまた入院した。このとき怪我や病気の兵隊が多くいた。自分は死にかけていた人間だった。食べ物もなく体も
弱っていた。髭ものび、髪もボサボサで汚かった。ここで大切なピストルを盗まれてしまった。盗んだ兵は、これを村人
に売ってしまった。いろいろな所で撮影したフィルムは残った。




井上氏とロアンポーの遺影 於ワットノンチョンカム

 私は運が良い。その写真を今見ることが出来るから。ドクター朝義氏が写真の人物を指差した。ロアンポーブンジン・
ブンヨー。当時のワットノンチョンカムの偉いお坊さんだが、数年前に亡くなられた。
このとき3週間入院したが、このお坊さんには大変にお世話になった。少し良くなってきて境内を散歩していた、そのと
きロアンポーが手招きして誰かを呼んだ。誰を呼んでいるのか分からなかったが、私だと気が付いてロアンポーのとこ
ろに行った。座って少し話をしたが、ロアンポーがカミソリを持ってきた。