ジャルーン・チャオプラユーン 第一回


 












  名前:ジャルーン・チャオプラユーン
  生年月日:1934年9月25日
  出身地:タイ チェンマイ県
  元運輸大臣

ジャルーン・チャオプラユーン氏は、仏暦二四七七年(昭和8年)(*1)九月二五日、チェンマイ市内で生まれる。ジャルーン氏の父はタイ北西部管轄の警察官であった為、父の転勤に伴い七歳(昭和十五年)(*2)の時クンユアムへと移り、十二歳(昭和二十年)まで警察署の近くにあった官舎で過ごした。


初めて見た日本兵

―戦争当時の日本軍について記憶されていますか。
 「あー、良く覚えているよ。その頃はだいぶ体も大きくなっていてね、確かポー三(*3)の頃だったな。最初に会った日本の兵隊さんは道路(*4)を造りに来た兵隊さんたちだったな。」

―その道はまったく何も無い所に造ったのですか。
 「もともと場所によっては人が徒歩で往来していた道だが、これを自動車用の道にした。戦前は車やバイクは無かった。初めて見た車は日本の兵隊さんの物だった、ずいぶん驚いたよ。自転車は、金持ちと何人かの公務員は持っている人もいたね。警察が賊を追捕するときは歩いて行ったもんだ。あの頃は賊が出るのは稀で平和なもんだった。多少の変更は有ったが現在もこの道はチェンマイ〜メーホンソーン〜クンユアムを結ぶ重要な道として皆の役に立っているよ。」

―その道はどういう人が造ったのですか。
 「メーホンソーンの人たちだけでは足りなかったので、チェンマイやランパーン、ランプーン、プレー県の住民まで徴発して日本の兵隊さんたちと協力して造らせた。」

―その作業はどんなものでしたか。
 「人が一人通れるような道を車が通れるような大きな道にした。だいたい道幅が四メートルぐらいだ。作業は鉈や鍬で行っていたな。タイ人たちは自分たちで食事を作っていたが、日本の兵隊さんたちは担当の兵隊さんが食事を運んでいたな。作業中の兵隊さんは鉄砲も持たず軍服も着ないで裸で作業していたのを覚えているよ。」


トングエイン橋 日本軍建設の橋。現在は使用されていないが最近まで使用されていた。


父と日本軍













警察大尉 ジャン・チャオプラユーン氏
         (ジャルーン氏の父親)

―クンユアムの郡警察の署長をしていたお父上は当時どうされていましたか。
 「多くの村の人が父の所にきていろいろな話をしていた。また会議もよくしていた。子供だったので内容まではわからないが真剣に話をしていた。郡長のレーク・キャットチャムナーンさんもよく訪ねてきて話し込んでいた。また、急にメーホンソーンやチェンマイへの出張も多くなった。公の仕事なので馬や象を使っての出張だった。」

―日本軍と合同で軍事教練などをしたことはありましたか。
 「合同での軍事訓練は無かった。しかし、村人は警察官が指導して自分たちで訓練をしていた。七十〜八十名の参加者がいた。訓練は夜間か、さも無ければ夕方に警察署で行っていた。」

―連合軍の空襲はありましたか。
 「無い、クンユアムに爆撃は無かった。しかし、空襲に気をつけろということで灯火を禁じていたし、どの家にも防空壕を掘っていた。警察署にだって防空壕が有った。飛んで来る飛行機は偵察して行くだけだったようだ。」

―警察署の防空壕はどのくらいの大きさでしたか。
 「部屋一つくらいの大きさだったな。飛行機の音が聞こえれば大急ぎで走って入り込んだ。当時のクンユアムのタイの戦力といえば、将校が一人、准尉相当が一人、下士官が四人だけだった。学校は全部休みになっていたな。おかげで随分日本の兵隊さんと遊んだもんだよ。
  そうそう、メーサリアンで英国の複葉飛行機が一回落ちた、撃たれたのか不時着だったのかはよくわからない。」

―日本軍がシャン州を占領した際にお父上に占領統治を手伝わせましたか。
 「仏暦二四八六年(昭和十七年)四月二二日に行って七月二三日に帰ってきたよ。記録が残っているので間違いないと思うよ。どんな理由でシャン州の何処に行ったのかは判らないが片道六日六晩の行程だったと言っていた。
 そういえば、チェントゥンのチャオファー(*5)が来たな。こっちに着くと私の家に二〜三回訪問をしたけど幾らもしないうちに帰っていった。彼は最後のチェントゥンの領主で英国に留学をしていた。この人の奥方はタイ人で難を避けて死ぬまでチェンマイに住んでいた。」

―チャオファーというからにはチェントゥンは君主制だったわけですね。
 「君主制の連邦だった。その頃我々はシャンステートと呼んでいた。」

―その他のチャオファーを見たことがありますか。
 「日本の兵隊さんが逃げて来る時、トラックの荷台に乗せて連れて来ていたな。荷台の幌を付けたまま何処かに連れて行った。この事は秘密事項のようで村の人もほとんど知らないと思う。」











ウ・バーテン氏一家(マンダレー王家)
次男(後列右より2人目)
写真出展:井上朝義著「彷徨ビルマ戦線」より


敗走する日本兵

―その後のお父上の仕事はどうでしたか。
 「逃げてくる日本の兵隊さんの対応を計画、準備をしたよ。」

―具体的にはどんな準備をされていましたか。
 「タイ側の準備としては、食料、たとえば南瓜とか豚、そういった物を買ってハンバーン寺に備蓄保存していた。新しく建てたばかりの寺だったのでここに準備した。僅かではあったが日本食もおいてあったようだ。」

―その他の準備物資はどのように手配しましたか。
 「タイ人が手配した。郡役所や郡警察が主に手配して買ったんだね。準備のために最初に来た日本の隊は医療関係者だったね。チェンマイの方から来た。最初は寺のサラー(*6)に泊まった。十人少しだったと思う。」

―日本の女性はいましたか。
 「男性もいたし女性もいた。女性は三〜四人いたね。医者もいたと思う。ビルマからの敗走に備えて送られてきた。準備だね、移送計画も立ててあったのかも知れない。最初に医療関係者を送って来た意味が後になって判ったよ。酷いもんだった。
 医療関係者の次に来た一団はとても秩序のとれた人たちだった。その後、続いて傷病人が入ってきた。初日は軍用車で三十〜四十台も到着した。この人たちはチョンクン寺のサラーに宿泊した。その後も続々と日本の兵隊さんが入ってきた。多い日は一日二十〜三十台も到着する日があった。」

―その車は乗用車ですか。
 「いや、乗用車もない事は無かったが、ビルマで確保したやつだね。来た車は軍用車ばかりだった。日本軍の車ばかりでなく連合軍の車も多くあったと思う。その後は徒歩で続々と入ってきた。日本の兵隊さんが来ると私の父を訪ねて何処の寺が空いているのかを教えてもらっていたんだ。村人が便宜を図ってあげていた。戦争の間、日本とタイの官吏の間には全く問題は無かった。日本の兵隊さんが食糧の提供を懇願したことを除いては・・・だが、それでも村人たちは万事につけて便宜を図った。ここに駐留していた日本の兵隊さんたちも奉仕活動をしていた。日本語や柔道を教えてくれたり、村人の稲刈りを手伝ったりしていた。トーペーに稲刈りに行く時、私も一緒に歩いて歌も一緒に歌った。『俺とお前は・・・』といったフレーズは今も覚えているよ。」

―稲刈りには大体何人くらいで行きましたか。
 「百人単位で行ったな。」

―日本の軍隊に何か問題はありませんでしたか。タイ人と悶着を起こしたとか。
 「大丈夫だったよ、個人レベルではあったかもしれないけど・・・酒を飲んで殴り合いのような事はあっただろうね。ピストルで撃ち合うような大きな問題は見なかったし聞いた事も無い。」

―日本軍は医療の手伝いはしましたか。
 「あったかもしれないが、直接見たことは無い。しかし、色々な薬を貰ったな。また、様々な薬を食べ物と交換していたよ。」

(*1)西暦一九三四年
(*2)タイは数え年を使用
(*3)初等教育三年。日本の小学年三年に相当。
(*4)第十五師団「祭」により建設された。チェンマイからメーホンソーン・クンユアムを通    り、ビルマのトングーに抜ける道。チェンマイトングーラインと呼ばれた
(*5)地方領主の意
(*6)お寺の中の休憩所


この「タイに生きて」―ジャルーン・チャオプラユーン第一回―は在バンコクの日本語情報誌「the Voice Mail」NO.229号に掲載されたものです。当HPでは、ヴォイスメール誌の了解を得て、全文を掲載させていただくものです。