ジャルーン・チャオプラユーン 第二回


持ち物を何でも売りさばく日本兵




―戦争末期、ビルマ戦線より敗走してきた日本軍はどんな状況でしたか。
 「病気や怪我をしていた人が多かった。医療関係の人たちが準備はしていたが、十分な治療は受けられなかった。薬も十分には無かったし食べるものは何も持っていなかった。我々が用意しただけだは十分ではなかった。だから、彼らは持っている物は何でも売ったり食糧と交換したりした。拳銃、時計、ペン、注射器、注射薬、医療器具、水筒、衣服、衣服の大部分は防寒服だった(*1)。私は子供だったが、学校が休みだったので菓子と交換で薬を手に入れて売った。」

― 一回の交換でどの位入手しましたか。
 「瓶で手に入れていた。本当によく売れたよ。チェンマイで引き取る連中は一瓶百二十バーツ払っていたよ。」

―百二十バーツ固定ですか。
 「どんな薬でも一瓶百二十バーツだった。日本軍が使っていたタイの貨幣で支払われていた。」

―どんな紙幣でしたか。
 「茶色のやつでラーマ八世の肖像があった。他にどんな紙幣があったかは覚えていない。子供だったのであまり興味もなかった。」

―当時の百二十バーツといえば現在であればどの位の価値になりますか。
 「おお、何千バーツにもなるよ。当時父は警察大尉(*2)になろうというときで、百三十バーツの月給しかなかった。」

―交換に用いたお菓子はどんな菓子でしたか。
 「普通に市場に売っている、もち米を使ったやつさ。駐屯地に売りに行ったが、私自身が売り歩く訳ではなくてまとめて買う人がいてその人が駐屯地の中で売っていた。」

―何処の駐屯地に売りに行きましたか。
 「私がよく行ったのはノーンプラコーとノーンサムヌアイ(*3)の駐屯地だよ。」

―駐屯地には日本兵はどのくらいいましたか。
 「沢山いたよ。駐屯地は主にお寺を使っていた。大きい所だと何百人単位、小さい所でも何十人単位といたよ。お寺だけでなく村人の家にも一軒に五人、十人といた。それでも収容しきれない人は野宿をしていた。」


クンユアムで死に、埋葬される日本兵



メーホンソーンの患者中継所(井上朝義氏「彷徨ビルマ戦線」より)

―多くの日本兵がクンユアムで亡くなったと聞きましたが、実際はどうでしたか。
 「おおー多くの人たちが亡くなったよ。ビルマから逃げ込んできた日本の兵隊さんは怪我をしていたり病気だったりで元気な人は少なかった。クンユアムが一番多くの日本の兵隊さんが亡くなった所と思う。体が動けるようになるとメーホンソーンに移りさらにチェンマイに向かって移動していった。一番多くの傷病者が逃げ込んできた時は傷病者が何百人単位もあって先に進めなかった。回復の見込みのない者は医者が薬を注射して殺していた。」

―薬を打ってですか。
 「ああそうだよ。そのまま生かしておいても苦しむだけだからね。」

―亡くなった日本兵は何処に埋葬されましたか。
 「大きい所で百人単位、小さい所で二〜三人ぐらいの場所が街の中にある。」

― 一番多くの日本兵を埋葬した場所は何処ですか。
 「クンユアムとメーサリアンとの間五キロと離れていないと父から聞いている。」

―その場所を明確に示せますか。
 「随分時間がたっているので大体の場所は判るが調べてみないと・・・。八十歳代の老人が残っているかどうか・・・その気になって探せば探せるはずだ。かなりの人を埋めた。」

―その場所へは行った事がありますか。
 「お化けが怖いから見に行ったりはしない。」

―どのように遺体を運びましたか。
 「一回に何十人単位で車に入れて運んでいた。」

―それ以外では何処に埋葬しましたか。
 「博物館の北。左手だったはずだ、間違いない。しかし、そのほとんどがまだそのままにされている。日本の兵隊さんは主に三箇所のお寺に滞在した。それ以外にもクンユアムの北側にも沢山いたよ。ノーンサムヌアイ、ノーンプラコーの間だな。」


日本兵を輸送する



現在も使用されているクンユアムの飛行場

―博物館の近くにある飛行場の跡地は日本軍が使用していた飛行場ですか。
 「いや違う。あれは終戦後、連合軍が造ったんだ。始めてイギリス軍が来た時は父はドンムアンまで迎えに行った。副部長のトゥーム氏が協力提携の任務を割り当てられた。トゥーム氏はチャビヤーという姓で・・・。」

―ビルマから来たと。
 「うん。それで日本の兵隊さんの送還の算段をするためにイギリス軍を迎えに行ったわけだ。日本の兵隊さんを送り出す前にイギリス軍はジープを何台も運転してきた。グルカ兵(*4)が運転手だった。彼らはローンリアン・プラチャバーン(*5)に泊まった。」

―ジープは何台くらいで来ましたか。
 「十台は超えていない。そうそう、飛行場の話だかイギリス軍の大尉が防空壕にやって来て会議をした。その会議の時に人力を調達して飛行場を造るようにしたんだ。日本の兵隊さんを使った。」

―あの飛行場は日本軍が使用するために造ったのではなくイギリス軍のために日本軍が造ったのですか。
 「そうだ、日本の兵隊さんを送るために造った。」

―この飛行場から飛び立った飛行機は何処に行きましたか。
 「飛行機は、ドンムアンでもチェンマイでもなくビルマに行った。そして人を下ろしてまた戻って来た。日本の兵隊さんはビルマからジープに乗ってやって来た新しい人たちを含め大尉以上の人たちで送り出す計画を立てた。最後の飛行機で帰って行った兵隊さんの中でワタナベという人が刀をくれた。出発の朝、うちに来て刀をくれたんだ長い奴ではなく短いのをネ。」

―そのワタナベさんという人は何処から来ましたか。
 「ビルマからという事以外は判らない。カムナイ寺(*6)のサーラーに滞在していた。確か第三陣で多くの傷病者と一緒にクンユアムに来たと思う。」

―名前はわかりますか。
 「判らない。ワタナベの従卒でノイという下士官がいた。ノイは私の父よりも若く二五歳を超えていないと思う。」

―ワタナベさんは何歳くらいでしたか。
 「四十歳は超えていないと思う。」

―所属部隊名や出身地は聞いていますか。
 「判らない。しかし学校が閉まっていたので毎日のように彼の所には通っていた。卵焼きやら何やらよく持っていった。彼も時間のある夕方には家に来て父と食事を共にした。」

―彼の階級は判りますか。
 「星が三つ、線は何本だったかな・・・。男前だったよ、いろいろな事を教えてくれた。とても楽しい思い出だよ。もう、生きてはいないと思うけど、もう一度逢いたいとずっと思っていた。私は彼を飛行場まで送っていった。」


クンユアム戦争博物館と慰霊塔

(*1)クンユアム村人が所有していた日本軍ゆかりの品々(拳銃や水筒、衣服など)を集めた「クンユアム戦争博物館」がある(写真上)。一九九六年、当時のクンユアム警察署長チューチャイ氏が尽力し開館。
(*2)タイの警察では一貫して軍に準じた階級制度が敷かれている。少尉以上がいわゆる高級官(将校)である。
(*3)いずれもクンユアム郡内にある。ノーンプラコーはクンユアム戦争博物館より北に2km、ノーンサムヌアイは東に3kmに位置する。
(*4)インドのイギリス軍が使っていたネパール人傭兵。英領インド帝国の軍事力を支えた彼らは勇猛な事で知られていた。両大戦を通じてネパール人三十万人以上におよぶグルカ兵をインドに供出している。
(*5)郡管轄の学校。
(*6)戦争博物館より南東約0.5km。

この「タイに生きて」―ジャルーン・チャオプラユーン第二回―は在バンコクの日本語情報誌「the Voice Mail」NO.231号に掲載されたものです。当HPでは、ヴォイスメール誌の了解を得て、全文を掲載させていただくものです。