天皇陛下の終戦の発表と日本兵の自決3
日本兵に食べる物はなかった。薬もなかった。とても悲しく、見るに耐えない状況だった。日本軍は混乱していた。日本兵はビルマから敗走してクンユアムに入り、そしてメーホンソンに退がっていった。病気や怪我の兵を置いて、歩けるものから退がっていった。終戦後20年程経ったころ、日本から国の遺骨収拾団がきて、遺骨を掘り起こして荼毘に付した。そして、少しの灰を日本に持ち帰った。その後、平成8年から平成9年にかけて、再び遺骨収拾団がきた。たくさんの遺骨が見つかった。そして、日本とタイのそれぞれの方法で慰霊の式典を行った。
昭和20年8月15日、日本時間の正午。ビルマの日本軍基地からクンユアムの基地に電話が入った。天皇陛下の命令で戦争を終結するという内容だった。日本は戦争に負けたのだった。そして武器は取ってはならないというものだった。日本兵は皆悲しんだ。信じられないといった様子だった。その瞬間、大きな静寂がこの場を支配した。誰一人として声を発するものはいなかった。動物の鳴き声だけが聞こえた。ただ皆の目から涙が流れるだけだった。村人たちは言った。日本兵は戦時中には皆活き活きとして、まるで虎のように一生懸命に活動していた。しかし天皇陛下の発表の時では、皆とても静かで力も抜け、おとなしい猫のようになった。このときの日本兵は父母を亡くした子供のように悲しく泣いていた。
その日の夜。名前は忘れてしまったが、フォイポン基地の新任の将校の一人が服毒自殺をした。戦争に負けたという、天皇陛下の終戦の発表が原因だった。この日、自決した日本軍将校は各基地で何人もいた。クンユアムの基地、ムアンの基地、パイの基地でもそうだった。部下の兵隊も多く自決した。日本の言葉で「ジサツ」という。日本兵の自殺はフォイポンの村人たちに大きな悲しみを与えた。今でもフォイポンの村人には多くの話が伝えられている。この服毒自殺した将校は部下の手によって埋葬された。それがアンカニー・マニーソンの家の庭に埋葬されたことを今でも村人は忘れていない。この家はノーイ先生の隣にある。このとき葬式が行われた。日本酒のかわりに地元の酒を使った。花と線香が置かれ、ご飯とお菓子が供えられた。そして線香に火をつけて、全員の兵隊が順番に焼香した。なかなか立ち去らない兵は、戦友が手を引き次ぎに促がした。この将校の埋葬では軍服や身のまわりの物を一緒に入れた。そして最後に日本の国旗を被せて入れた。
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