天皇陛下の終戦の発表と日本兵の自決1

 メーホンソン県ムアン郡フォイポン村は、第二次世界大戦で日本軍が駐屯した村だった。この村はムアン郡とクンユアム郡の中間に位置し、クンユアムからは35kmほど離れている。当時この村は40〜50戸しかない小さな村であった。平地のこの村にはタイ人が住んでいた。そして、周りの山々にはカレン族やメオ族が住んでいた。お寺は一つあったが、名前をワット・フォイポンといった。小学校もあり、また警察の派出所もあった。小さなマーケットも開かれていた。

 ナンノーイ・マンコンは当時、フォイポン村の小学校で先生をしていた。その時ナンノーイは15歳だった。戦争が始まり、日本軍が進駐してきたが、40〜50人くらいの部隊だった。そして何人かに別れて、学校、お寺、村人の家に住んだ。この部隊は道路建設の部隊だった。その後、兵隊は道路建設のそれぞれの組に別れて仕事に出かけた。一か所に2〜4人くらい行った。どこでも仕事は同じ方法で行われた。道幅は4mで作られていった。木を切り倒し、そして泥濘がないように砂利を敷いた。山の斜面の雨道になるような難しいところは、日本軍の専門部隊が作業を受け持った。それぞれの組では、タイ人が賃金を貰う作業員として働いたが、一つの組で20〜40人くらいの人員だった。地元の人は少なく、ほとんどが他の土地の人だった。フォイポン村は日本兵が生活をして働く、そして食料の保管や各種の修理も行う、そして通信設備もある重要な兵站基地であった。北部にある基地との交流も頻繁に行われていた。道路建設は急がれていたので、日本兵は休むことなく毎日働いた。村人は日本軍に食料、おかし、果物などを売った。日本兵がどこに行っても、そこまで村人が食料品を売りに行った。そのため村人たちは景気が良かった。村の広い家などは日本軍が借り受けた。ナンノーイ先生の家もミウラ大尉が住んでいた。一ヶ月150バーツだった。

 ミウラ大尉はこの部隊の幹部だったが、終戦後20年くらいたったある日に再び家を尋ねて来られた事があった。ナンノーイ先生はまた、当時、若い女先生ということもあってか兵隊さんによく話しかけられた。日本兵はノーイさんのところに日タイ辞書などを何冊も持ってきた。日本兵はノーイさんに日本語を教え、そしてノーイさんはタイ語を教えた。こんな勉強を毎日した。ノーイさんは少し日本語が話せるようになった。村人は分からないことなどノーイさんに相談した。