―米をくれた同郷の人―

 ほんのひとこと言葉を交わした人から、情けをかけられたこともあった。逆境でのことなので、その人が神にも仏にも見えた。クニヤムからたどり着いたメーホーソンのことである。タイの西北に在る同地は、県庁もある小都市で裁判所や刑務所もあって、時には鎖のついた鉄の塊をひきずって歩く囚人も見た。
 ここにも第105兵站病院の患者中継所が寺の建物の中にできていて、二人は世話になった。そこには、わずかばかりの医薬品を背嚢に入れて撤退したわずかな人数の衛生兵と軍医がいた。しかし、傷病兵が次から次に現れて手が回らず、実際は処置なしだった。「少しでも歩ける者は、早く後退してくれ。弱りきっている者は、早く苦しまずに死んでくれ」というのが彼らの偽りのない気持ちだったろう。事実、退がってくる兵で、まだ元気な者はごく少なかった。


メーホーソンの患者中継所

 ここの炊事係の上等兵がある日「中尉殿、あなたは山口県の人と思うが、どこですか」と聞いた。私のことばのなまりで分かったわけだ。「私は、阿武郡生雲村の出身だ」というと、相手は「なつかしいですなあ。私は同じ郡の高俣村で、佐々木といいます」と答えた。その時交わしたことばはこれだけだが、彼はその後、目立たぬように気を遣いながら、何くれとなく世話をしてくれた。そして、あすは出発という日に夕刻「当番を炊事場の私のところへ」といった。更家を行かせたところ、携帯天幕に包んだ白米三升をくれた。
 病院のほんとの主である寺の僧も親切だった。私がかたことのビルマ語を使って日本語を教えると、彼はビルマ語を使ってタイ語を教えてくれた。異国で生きつづけるためには、ことばはわずかでも覚えておく必要があった。私たちが気に入ったのか、僧は時々私たちを呼んで、供えものの果物のほか貴重品の食用油をくれた。伸び放題の髭もそってくれた。
 中年の日本の婦人が病院に時々顔を見せた。メーホーソン裁判所の判事か事務官夫人で、見舞いの品を置き、食料の調達に奔走してくれた。
 病院を出る時、僧はタイ文字で住所と名前を書いた。私は彼の写真を撮った。それは戦後ナコンサワン市の知人を通して送った。事情が許せば現地に行ってひとことお礼がいいたいといまも思い続けている。佐々木上等兵は、帰国後高俣村に行き、郵便局で所在を尋ねたが「不明」。生きているうちに会いたい一人である。
 もっともいいことばかりではなかった。私はここで睡眠中に拳銃をぬすまれた。革帯と軍刀を枕元に置いて寝たが、革帯に固定してあるケースから、盗っ人は拳銃だけを抜き取った。そのころ、拳銃は、街で一丁70バーツで売れた、という。決して安い金額ではない。犯人は、きっとホクソ笑んだろう。以後私は、軍刀だけの丸腰で歩いた。