―「更家よ死ぬな・・・」―

 次の到達点ホイパーにも、川のほとりの竹ヤブの中の二階家に患者中継所があった。ここで今度は更家が倒れた。積もった疲労とマラリアのためだ。杖とも頼む彼の発病に私は動てんした。「死なせちゃ申し訳ない」と私は、なれない手で飯盒を洗い、料理をした。マラリア患者のうち、何とか食物を食う者は助かったが、それを受けつけない者はあらかた死んだ。患者は、手近な医薬品があるわけではないので、食べて寝て休養を取り、後は死ぬか生きるかの運命に身をゆだねるしかなかった。
 「更家よ死ぬな。食ってくれ」。必死の思いの私は、雑草を取ってきて雑炊を作り、いやがる彼をしかったり、なだめすかしたりして懸命に食べさせた。「残しちゃいかん。全部食え。これは命令だ」と怒鳴ったりもした。全従軍期間中、私が将校風を吹かせたのは、前にも後にも、この時だけである。そのうち、衛生兵が、自分が発病した時のためにと、マラリアに効く「バグノン」を隠し持っていることが分かったので、拝み倒して彼に注射をしてもらった。山口県・小郡町出身で炊事班長をしていた入江軍曹が、そっと恵んでくれた豚の頭の肉を削って食わせたことも覚えている。おかげで彼は、徐々に元気を取りもどしていった。


マラリアが全快した時の更家一等兵(20年7月)

 入江軍曹とはどんなきっかけで知り合ったのか思い出せない。おおかた言葉のなまりがきっかけだろう。話しているうちに山口県・小郡町出身と分かった。
 私は、田舎の小学校から小郡農業学校へ入学、寄宿舎生活を三年間、吉敷郡小郡町で過ごした。町の様子も多少は知っていたので「小郡の入江といえば、ガラス店ではないか」と尋ねたところ「そうです。それが私の家です」といって、親しさが急に増した。たまたま彼は、炊事の班長だったので、雑炊をつくる際に味つけに使う豚の頭の肉を私に恵んでくれたのだ。
 軍隊の食事は、だれもが同じ献立のものを食べるのが原則で、特別に給与をすることは軍紀、軍律の面からは許せないことだが、彼はそれを冒して私にくれた。なんとありがたいことか。ここでも天は私と更家の二人に味方してくれた。帰国後、私はすぐ、戦後は山口県小野田市にガラス店を開いて経営していた彼にお礼にいったが、脳梗塞(のうこうそく)で病の床にあった彼は、とうとう私を思い出してくれなかった。残念なことである。
 この中継所を出る二、三日前のことである。寝ていた土間の天井からポタポタ水が落ちてきた。そのうち二階で異様な声がした。何事かと上がってみたら、マラリアで狂った三十歳前後の少尉が軍刀でノドを突いていた。「急所を外れているから助かるだろう」と、手当てをした軍医はいったが、果たして助かっただろうか。ポタポタ落ちたのは失禁した彼の小便だった。その翌朝、同じ二階で今度は銃声がした。若い憲兵伍長の拳銃自殺で、頭から血が噴き出していた。弱って動けぬ同室の患者が「オレもああして死ぬのかなあ、もう一度、くにに帰りたいなあ、お母さん」と、うめくようにつぶやいていた。