―人も泣け鬼も哭け―

 雨季入りした雨は、きょうも雨、そしてあくる日も雨、たまに晴れ間をみせたが、昼も夜も絶え間なく降った。二人は、雨の勢いが弱い時に肩を抱き合い、ぬれネズミのようになって泥の中を歩いた。「なんとしても生きようぜ、生きようぜ」と心の中で自分自身に声をかけながら。
 私の自殺未遂事件以後、二人の仲は、それまでにも増して親しみが増した。血肉を分けた兄弟以上のようになった。日毎に私の体力が回復するのに気づいた彼は、それをわがことのように喜び、野草の採取に精出した。ある日、私は彼にこういった。
 「なあ、更家よ。もう戦線を離れたので銃爆撃はまずあるまい。けんど、栄養不良やマラリヤ、アメーバ赤痢などでいつ死ぬかもしれない。別れ別れになっても、どちらが先に帰っても、日本に着いたら必ずどこそこまでは生きていたと、親に知らせあおうじゃないか」。そして、互いに本籍地を知らせあった。彼の本籍は、北海道釧路国厚岸郡浜中村字茶内。私は、山口県阿武郡生雲村。二人はそれぞれ、何度も相手の本籍を唱えてしっかりと頭にたたみ込んだ。行く先はまだ長い。戦争もいつ終わるか見当はつかない。私はこの時、生きて再び故郷の土が踏めるとはとても思えなかった。
 また、何日か山の中の細い道を歩き続けた。その時すでに泰緬国境は越えていて、五、六十戸の民家がかたまり、お寺のある部落にたどり着いた。タイのクニヤムという村だった。そこに患者中継所があった。第105兵站病院の中継所だった。
 久しぶりに屋根のある家に入った。だが、先客がいっぱい。二人は土間に寝た。それでも野宿よりはよほど体が休まった。ありがたいことに、ここでは食事を支給してくれた。ほんとに、何十日、いや何ヵ月ぶりかの、釜で炊いたようなメシ。それに実が入った湯気の出ている汁。ほんとうにおいしく、私は「生きていてよかったなあ」とつくずく思った。神仏の加護のおかげか、私の体は次第によくなってきた。更家の持ち物が盗まれないように監視できるまでになった。


歩ける者だけが助かった

 患者中継所の近くの木立の中には、あのビルマの戦いで生き残り、せっかくタイまで落ちのびたのについに力尽きて死んだ兵の遺体があって腐臭を放っていた。患者のたまり場で、手投げ弾を自爆させて自殺した兵の死体もみた。本人だけでなく、近くにいた何人かが道づれになったという。生への苦しみに耐えかね、前後の見境いもつかず、信管を作動させたらしい。爆発音は、本人が手投げ弾をしっかりと腹に抱き込んでいたためか、意外に小さかった、という。
 二十年七月はじめごろに書いた井上日誌には、そのころのことをこんなふうに書いてある。
 インパールの悲劇を繰り返さないために、働ける者は一人でも多く、一日でも早く後退させねばならなかった。三々五々、歩ける者のみが生きられるここでは、少々無理をしてでもと、出発した患者もあった。しかし、途中で発症し、水に餓え、食に餓えて、白骨となった者が、あちらの木の下こちらの川のほとりにとしかばねをさらしていたが、だれもどうすることもできなかった。人も泣け泣け、鬼も哭(な)け。だれが、いつ、どこでどうして死んだのか、それさえも確認できなかった。私にできたことといえば、ただ死体に手を合わせて拝んで通るだけのことだった・・・・・・。
 死者の氏名は、よほどのことがない限り衣服や持ち物(認識票)などから普通は分かるはずだ。しかし、タイへの逃避行路ではそれが明確にできなかったケースも多々ある。なぜか。理由の一端を知ってもらうために、ほんとうは書きたくないことだが、私の見たことを記しておこう。・・・・・・その兵は、熱を出して倒れてはいたがまだたしかに生きていた。その時、数人の兵が通りかかった。その中の一人は靴が、いま一人は上衣が破れていた。と、その二人は倒れた兵に近寄った。何をするのかと見ている私の目の前で、一人が倒れている兵の靴を、もう一人が上衣をはぎ取った。そこにはもう、あの厳しい日本の軍隊の軍紀、軍律はなかった。いうなれば飢餓の集団だ。追い詰められた人間の本性は、こうも汚くなるものかとつくづく嫌になった。