ジャパニーズ・ティーレーズー2

 タイとの国境から20キロほど離れた、ミャンマーのパージョーン村で、日本兵はいかだをつけるための大きなセメントの浮き橋をふたつ作った。いかだは流れを順繰りに行ったり来たりして、武器や車などの軍事装備や物品を運ぶのに使われた。運搬の助けになるよう、いかだは河を渡したワイヤーに結びつけられた。日本軍は体力検査をして、傷ついた者や力尽きた者はクンユアム郡の病院に送った。まだ力が残っている何千人かの者がいかだを漕いでサルウィン河を下り、タイとの国境まで行った。このいかだを使った運搬手段は戦争時の運送手段として重要で、また速かった。これ以外にもまだ力のある兵士は休息をとり、密林に覆われた河の両岸を逃げやすく、移動しやすくするためにつくりなおした。そして連合軍からヤンゴンを取り返すために、まだヤンゴン郊外に残っている軍隊を支援しに向かった。しかし、この頃、嵐が来て雨が激しく降り、水があちこちからサルウィン河に流れ込んでいた。タイの国境の村、ソップモエイを過ぎてビルマに入り、6〜7キロの地点の滝で、水は大きな流れとなっていかだに衝突し、バラバラにした。兵士たちは生き延びようともがいたが、身に着けているものは重く、この悲劇から逃れる大きな障害物になった。かつての兵士の一人は、あの状況では泳ぎの名手で何も身に着けていなくても生き延びることは難しかっただろう、と言っている。
 筆者は、周辺に住むカレン族の老人たちにその事実関係を確かめた。「コボリ」の繁栄を探しに行ったことのある者たちはみな、この辺りで助けを求めるうめき声が聞こえることがあったと言っている。静かな密林のなかで、岩にあたる大きな水の音だけが聞こえている様子はどこか恐ろしく、ここに日本人の幽霊が出るという噂が広まり、次第に誰もここに立ち入らなくなった。



 カレン族には2種類ある。ひとつは、仏教を信仰するカレン族、もうひとつはキリスト教を信仰するカレン族であり、こちらのほうが人数が多い。しかし、このどちらも共通して、「ピー(精霊)」を信じている。彼らは死んだ人を恐れてその近くには近寄らず、死んだ人にも触れたりしないものなのだ。現在、村人は街中に移住したり、商人となってタイ国境付近に移動し、「ピー」を信じなくなり、「ピー」を恐れなくなった。そこでこの付近にも立ち入り、日本兵のいかだの残骸や鉄かぶと、銃剣、水筒、鉄の箱などが浅瀬に打ち上げられているのをみつけたのだ。生き残った日本兵と物々交換をした者もいた。筆者は村の人がそうして得た物をいくつか買い上げ、所有している。ここには確かに日本兵の痕跡がたくさん残されている。日本兵はビルマから敗走するとき、ビルマのものを身につけて運んでいたのだろう、多くの村人が短剣、銃、銀貨、金貨などを持っていたことがある。そして確かなことは、当時、イギリス軍とアメリカ軍は金の延べ棒やお札、銀貨、金貨などを運び込み、ビルマでの戦争中に使っていたのだ。このほかにも、ビルマ国内では金や宝石を多く産出する。日本兵が河を下ったときも、いかだにはこれらの財宝があり、このあたりに沈んでいるものと思われる。そう考えると、ここはコボリの財宝の隠し場所を探している者にとっては欲をおこす場所に変わる。第二次世界大戦の経験に基づいた実話、1972年の「ジャングルマーチ」の作者は、「ジャパニーズ・ティーレーズー」は「コボリの宝の隠し場所」であるかもしれないとしている。