THAI NIPPON
THAI
― 日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが生まれた子供は
すくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話しが出来るのは、いったい誰のおかげであるの か。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を 示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さん が、病の床に伏した日である。われわれはこの二つの日をわすれてはならない。 ―
(1955年6月、元タイ駐屯軍司令官であった中村明人陸軍中将がタイ王国に国賓待遇で招待された時)
サイアム・ラット紙
THAI
― あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そしてこれは、日本が勇戦してくれたお陰
です。新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明 白です。―
(航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」平成七年新秋号)小室直樹著「日本国民に告ぐ」より抜粋
THAI
― 日本は敗れはしたが、アジアのプライドをかき立てた。・・・戦争が始まったとき、日本は負けるという不安もあった
がタイは日本についた。私は、日本が負けても、英米に対してアジアもこれだけのことができるという証明になると友達 と話した。―
(「アジア賢人円卓会議」のレセプション)産経新聞 東京版 平成7年4月27日
INDIA
― この戦闘における日印同盟軍の成功によって、いまやインド国民軍は国境を越えデリーへの進撃を続けている。
大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦い に参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うのではなく、英米帝国主義のアジアからの撲 滅を期し、さらにインドの完全な無条件の独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府はインド独立闘 争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、 アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。
いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合
国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジア の自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定して いる。
自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明す
る。―
(―インド国内の同志への呼びかけ―1944年3月20日ラングーンで自由インド放送を通じて)
スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー著「ネタジと日本人」より抜粋
― インドに関するかぎり、われわれの運命は日本及びその盟邦の今次大戦における運命と不可分にある。インド国
民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や生き残って自由インドを見られるか は問題ではない。ただ一つの関心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドから駆逐 されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章 となることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんことを。 ―
昭和18年11月5日(5/11/1943)から東京で開かれた「大東亜会議」での演説
INA進軍歌
INDIA
― 以上述べてきた理由に基づいて、本官は、各被告はすべて起訴状中の各起訴事実全部につき、無罪と決定され
なければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張するものである。―
(パール判決文第七部冒頭のことば)田中正明著「パール博士の日本無罪論」より
― 私は日本に同情するがための意見を呈したのではない。私の職務は真実の発見である。真実を探求した結果、か
のような結果になった。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。同情に感謝するというのはまったくの見当 違いである ―
(東京弁護士会での講演で主催者の紹介に答えて)清瀬一郎著「秘録東京裁判」より
― 東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまった
とは思わなかった。東京裁判の影響は原子爆弾の被害より甚大だ。―
(昭和27年広島の原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」という文字を見て)
日本・インド国交樹立五十周年をお祝いする実行委員会編「日本とインドが築く明日のアジア」より
― 私は1928年から45年までの18年間の歴史を2年8ヵ月かかって調べた。とても普通では求められないような各
方面の貴重な資料を集めて研究した。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文 の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかる に日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に「日本は犯罪を犯したのだ」「日本 は侵略の暴挙をあえてしたのだ」と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の 判決文を通して充分に研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流れ てゆくのを私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。
誤られた彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書きかえられねばならぬ。
(昭和27年11月6日、広島高等裁判所に於いての講演録から抜粋)「やすくに」平成7年8月1日より
INDIA NIPPON
― 日本は、初めて敗戦の痛苦を嘗めることになり御気の毒である。しかしどの民族でも、幾度もこの悲運を経験して
いる。一旦の勝敗の如き、必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日 本が極めて近い将来に、必ず、アジアの大国として、再び復興繁栄することを信じて疑わない。
印度は程なく完うする、その独立の契機を与えたのは日本である。印度の独立は、日本の御蔭で三十年早まった。
これは印度だけではなく、ビルマ、インドネシア、ヴェトナムを初め、東南亜諸民族共通である。印度四億の国民 は、これを深く肝銘している。印度国民は、日本の復興に、あらゆる協力を惜しまないであろう。他の東南亜諸民族 も同様と信ずる。―
(藤原岩市氏等が日本側証人として召喚されたときのデサイ氏の挨拶)藤原岩市著「F機関」より
― ヒトラーが、「インドが独立するまでは、百五十年はかかる」と暴言をはき、またインド法曹界の最長老であるパテル
博士ですら、「まだ三十年は必要だろう」ともらしていたその独立が、今次大戦終了後、思いもかけず早くやってきた。 今世紀最大の世界史的な出来事であった。
この奇跡ともいうべきインド独立をもたらした男は、たったの二人である。この二人の夢が、インド独立を実現させた。
一人は日本人の藤原岩市中佐であり、もう一人はインド人のスバス・チャンドラ・ボースである。
・・・・・
ひとたびインドから発したこの独立の炎は、東南アジア、中近東、アフリカと世界各地に飛び火して、圧政と搾取に苦
しんできた植民地はいずれもつぎつぎと独立した。世界地図の色はすっかり塗りかえられ、戦前には五十余国しかな かった独立国家が、いまや百八十余国にまで増えている。
この二人の夢の実現が、いまやなん億という人間を植民地という桎梏から解放し、多くの良識ある日本人のいだいて
いた夢も、世界のいたるところで生きているのである。
「インパールを越えて」
国塚一乗
INDIA NIPPON
奥田 重元
1996年1月23日
Calcutta
外務大臣プラナム・ムケルジー閣下、西ベンガル州知事ラグナダ・レエデイ閣下並びに紳士、淑女の皆様方、
Chairman of International Netaji Centenary Committee,Dr.Sisir Bose and Members of Netaji Research Bureau !
私の最も尊敬する世界的偉人であり、インドのNational Hero である Netaji Subbas Chandra Bose のCenterary
Inaugural Convention at Netaji Bhawan に御招待を頂き、深く感謝申し上げます。最高司令官 Netaji の指揮のもとに インドの独立獲得を目指して戦った Indian National Army (INA) の同盟軍であった日本軍から、INA に配属せられたひ かり機関の military coordinators の一員であった私は、INA の将兵と厳しい戦場で苦楽を共にした日本の戦友がたを 代表して、本日この盛大かつ重要なる会合に出席できましたことは、私にとりまして最大の名誉であり、無上の喜びと 存じております。
私は日本を出発するに先立ち、 best wellwishers of India in Japan である彼等から、本日御集りの親愛なる友人方
に、集会の大成功と皆様方の益々の御健勝を御祈りしている旨の message の伝達を依頼されましたので、御伝え申し 上げます。
又、1945年以来、東京の蓮光寺に眠っておられる Netaji の尊い御遺骨を、最大の敬意を表してお守りし、毎年御命
日の御供養を続けている私ども戦友たちの平均年齢は、既に80才を越えようとしていますが、私どもは、余命の許す 限り一人でも元気なうちに、 Netaji の御遺骨が母国インドの地に御還り頂けますよう、日々心から念願していることを 重ねて御伝え申し上げます。
私ごとでありますが、日本軍の一兵士として召集せられた私の最愛の兄の一人が、インパール(Imphal) 郊外
(Kanglatongbi) の塹壕に埋まったまま未だ還って参りません。インド、ビルマ国境のジャングルの中で、奇しくも数年振 りに再会した兄が私に最後に残した言葉は、「この度のインド独立支援作戦が終わったら、除隊になって日本に帰れる と思う。平和になった日本へ元気で帰ろうね」と言うものでありました。INA の将兵と共に戦ってたおれた数万の日本軍 将兵方は、INA との協同作戦と言う彼等の尊い使命は理解しつつも遠く故国を離れた戦野で強い郷愁の念にかられ、 妻子の行末を心配しながら死んでいったものと思い、私は今回インドの地を訪れるに当り、彼等及び彼等の家族方に 想いを寄せ、感慨真に無量なるものがあります。私は遠からずインパールの地を訪れ、インドと日本との同盟軍将兵と 同じく、夫々の国是に殉じた英連邦軍将兵の霊を併せて弔い世界人類の永遠の平和と幸福とを
祈りたいと考えております。
今、日本ではテレビも新聞も、9億の優秀なる人的資源と広大な国土に恵まれたアジアの有力なる友邦、大国インド
の目覚しい経済発展の状況と将来の可能性について、しばしば報道し解説記事を掲載しております。私どもは、それら のニュースを知る毎に恰も我が国の事のように喜び合っております。
Netaji 及びNetaji の統率するINA を通じて、貴国民と日本国民とが固く結ばれ、同一目的の達成のために全力を尽く
して協力し合った歴史的事実を、夫々の子々孫々に語り継ぎ、両国及び両国民間のより良き理解とより密接な協力関 係を末長く築いてゆきたいものと、私どもは心の底から強く望んでおります。私どもは、インド国の素晴しい発展と、皆 様方の御健康と御幸福とを重ねて御祈り申し上げます。
終わりに、私は50余年前、国境のジャングルの中で毎朝インド国旗を揚げてINA の将兵とともに合唱したINA の歌
を、記憶はおぼろ気になりましたが、御紹介申し上げて、私の御挨拶と致します。
( Mr.Okuda concludet by Singing the INA Song.ED.)
Shigemoto Okuda
On behalf of old comrades
of INA in Japan
日本の遺骨収集に寄せて
C.N.メレン
ナガランド州儀典次官補
2次収骨団コヒマ監督官
第二次世界大戦の際、インド最東部のナガの人々は、日出づる国の人々と接触を持った。日本人と初めての出合い
である。
日本の兵士達は、この地に敬慕の念を残していった。数千の兵士らに不品行はなく、日本軍が駐留していた処には
学校が建ち、日本の歌が教えられた。ナガの人達は今でも幾らかの日本語を憶えており日本の唄を歌う。大部分のナ ガランドの人達は、生ある限り日本将兵に対し友情と信頼を持ち続けるであろう。彼らは、ナガの人々の心に消すこと の出来ない印象を植え付けて、去って行ったのだ。 インパールの青年からの手紙
Unluckily, I was born after the 2nd World War i.e. November 1956. and I am aviate in dark for the Same. I only
hearing the story of the 2nd World War which fought in Manipur and the heroic activities of your countrymen against the British colonialism in India for independence as to help the I.N.A. I always request and thanks to Shri Netaji Subhas Chandra basu and your countrymen for such contributions to the Indian independence since I heard the story of the 2nd World War.
Secondly, let me know whether you should come to our country in the 2nd Mission as you have planned sometime
in the next year. If to do so I personally introduce my family members to you as a brother of the eastern most corner of the world. …omit…
Union of Myanmar NIPPON
― ここでもうひとつの歴史の曲解の例をあげよう。時間的順序では、われわれの植民地主義からの解放は、1943
年に英国が初めの敗北を喫し、ビルマから去ってわれわれが独立を宣言したときから始まる。ビルマ軍は独立を獲得 するために英国軍と中国軍に対して果敢に戦ったのであった。しかし、この重大な事実は、独立がその数年後、植民 地勢力からの贈りものとしてわれわれの手に入ったとするビルマ自身の戦後の宣言よって隠されていった。このように してわれわれは戦争中のもっとも重要な歴史的業績のひとつを現実には否定してきたのである。・・・―
「ビルマの夜明け」
序文
太陽出版
1995年7月10日新版
バー・モウ著
― 残念ながら私は、海山越えて、日本に親しく手をさしのべることはできないが、親愛の声をお届けすることはでき
る。舊秩序の下では吾々は常に英米に苦しめられている。しかし今や世界新秩序建設下に、吾々は日本に心から 信頼している。この新秩序を創りあげた日本にこそ、吾々の感謝は捧げられている。吾々、両民族の親愛の盟いは 東亜新秩序建設に相携えて戦っているこの大戦の中に、血と汗を以って鍛えられていく。
ビルマ人は、東條首相によって約束されたことばに絶対的信頼をおいている。ビルマが戦場になった時、ビルマ人
は血を以って日本人にその親愛の念を現はした。もし今後とも必要あらば吾々は喜んで血を捧げるだろう。―
昭和17年8月1日、ビルマ行政府長官就任時の挨拶
― 歴史は、高い理想主義と目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためのみに生命と
財産を犠牲にした例を、ひとつくらいみるべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割りを果たすべく 運命づけられているかにみえる。―
1943年8月1日 ビルマ独立宣言日
ビルマ全国民へのラジオ放送での演説
「ビルマの夜明け」
太陽出版
1995年7月10日新版
バー・モウ著
Union of Myanmar
― ビルマ独立三十三周年目にあたる四日、旧日本帝国陸軍関係者六名に、第二次大戦中ビルマ独立に貢献したと
して、同国政府から最高の名誉である”オン・サンの旗”の称号を贈られた。この六人は1942年、英国軍をビルマから 追い出すためビルマ独立の志士たちと一緒に同国に侵攻した通称”南機関”のメンバーで、杉井満・水谷伊那雄・川島 威伸・泉谷達郎・高橋(別名北島)八郎・赤井(旧姓鈴木)八郎の六氏。杉井氏らはビルマ建国の父オン・サン氏やネ・ ウイン現国家元首ら当時のビルマ独立の志士グループを助けて”ビルマ独立義勇軍”を結成、軍事訓練をしたり、同軍 の司令官兼参謀を務め、独立に大きな貢献をした。―
(昭和56年1月6日サンケイ新聞)木ノ下甫著「大東亜戦争大勝論」より
MALAYSIA
私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア
各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、 驚異の感動と自信とを与えてくれました。永い間眠っていた自分たちの祖国を自分たちの国にしよう〃というこころを 目醒めさせてくれたのです。
私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで
感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞ れの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。
私もあの時にマラヤの一少年として、アジア民族の戦勝に興奮し、日本人から教育と訓練を受けた一人です。私は、
今の日本人にアジアへの心が失われつつあるのを残念に思っています。これからもアジアは、日本を兄貴分として共 に協力しながら発展してゆかねばならないのです。ですから今の若い日本人たちに、本当のアジアの歴史の事実を知 ってもらいたいと思っているのです。
先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、「日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べ
にきたのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません」と私は答えてやりまし た。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の 将兵も血を流しました。
どうしてこのように今の日本人は、自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりし
ていたような先入観を持つようになってしまったのでしょう。これは本当に残念なことです。
1988年
クアラルンプール邸にて土生良樹への言葉
ラジャー・ダト・ノンチック
「日本人よありがとう」
日本教育新聞社
1989年11月1日初版
土生良樹 著より
INDONESIA NIPPON
日本占領軍がインドネシア民族主義の為に行なった数々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍および準
軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事であろう。この作業は、特にジャワ、バリ、およびスマトラで推し進められ た。のちにインドネシア独立軍の将校や下士官となった者たちのほとんどすべて、および何万という兵士達は、この訓 練をへて軍事技術を身につけ、日本の敗戦後に戻ってきたオランダ軍を相手に独立戦争を闘ったのであった。もしこ の訓練がなかったなら、そして日本の降伏後、インドネシア人の手に入った日本軍の武器や軍需資材がなかったなら、 インドネシア独立戦争の行方はちがった方向に進んでいたかも知れない。こうして、日本の占領は、インドネシアの民 族主義勢力を権力の戸口まで導いた。そこで、戦争が、八月一五日、突然終結をむかえたとき、民族主義者は、日本 の降伏によってつくりだされた真空状態の中で国家権力を握る用意ができていたのである。三年半の年月のあいだ、 民族主義者は非合法から主権国家の戸口にまでの道をのぼりつめていた。民族主義者にとって、日本の占領時代 は、独立への、単なる序曲以上のものであったかも知れない。
「日本軍政とインドネシア独立」
George S. Kanahele著
1981年6月25日初版
維新報知社発行より
IDRISNO MADJID
(世界イスラム連盟 特派員)
インドネシアの独立戦争では、約3,000名の日本兵がインドネシアのために戦ってくれました。その日本兵たちはイ
ンドネシアの基本をなすイスラム文化と宗教を大切にしてくれました。日本とインドネシアの間では、スカルノ前大統領 の言葉のように、「ダリハティカハティ」です。「ハートツウハート」です。「心から心」です。インドネシアの独立を挟んで 「心」が通ったのです。私たちはその「心」を大切にし、同じアジアの民族として伝えなければなりません。その「心」は日 本とアジアばかりではなく、世界の平和にもつながるのです。
ところが、インドネシアの独立で通じ合った日本の犠牲的精神を、今の日本の若い人たちはほとんど知りません。残
念でたまりません。
私たちの独立のために戦ってくれた日本兵のことを、きちんと日本で語り継いでほしいと思います。そしてインドネシ
アに来られたら、ジャカルタの英雄墓地に眠る日本兵の奥城(オッキ)にお詣りして下さい。その墓標には、みなイスラ ムの名前と日本人の名前が彫られています。
「独立は一民族のものならず、全人類のものなり」(1958年2月15日、東京にてスカルノ大統領、東京都港区青松寺境
内の碑)
私たちも日本訪問のときは、九段の靖国神社にお詣りいたします。
日本の天皇陛下は世界平和と民族のため、日々お祈りを捧げていると漏れ聞いております。そのことは、本当に素
晴らしいことです。私たちイスラム教徒も日々、神に世界の平和を祈っております。その祈りの心は共通しています。
私の個人的な歴史観ですが、近代史においては、1776年(7月4日独立記念日)イギリスの植民地からのアメリカ独立
戦争、1789−99年(7月14日パリ祭)のフランスで起こったブルジョア革命と共に、欧米人によるアジア・アフリカの植民 地解放を目指した今世紀の大東亜戦争が、世界史における三大戦争であることを明記すべきであると思っています。
イドリスノ・マジット
インドネシア福祉友の会
NO.183 月報 1997年7月号
―福祉友の会・200号「月報」抜粋集―より
United States of America
Senator HICKENLOOPER. Question No.5 : Isn't your proposal for sea and air blockade of Red China the same
strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?
General MACARTHUR. Yes,sir.In the Pasific we bypassed them.We closed in. You must understand that Japan had
an enormous population of nearly 80 million people,crowded into 4 islands.It was about half a farm population. The otherhalf was engaged in industry.
Potentially the labor pool in Japan,both in quantity and quality,is as good as anything that I have ever known.
Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than when they are idling.
This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on.They built the factories, they
had the labor,but they didn't have the basic materials.
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton,they lack wool,they lack
petoroleum products,they lack tin,they lack rubber,they lack a great many other things, all which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their
purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
ヒッケンルーパー 問: では五番目の質問です。中共(原語は赤化支那)に対し海と空とから閉鎖してしまへといふ
貴官の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。
マッカーサー 答: その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々は包囲したのです。日本は八千
万に近い膨大な人口を抱へ、それが四つの島の中にひしめいてゐるのだといふことを理解していただかなくてはなりま せん。その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事してゐました。
潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴
史上のどの地点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産してゐる時の方がより幸福な のだといふこと、つまり労働の尊厳と呼んでもよいやうなものを発見してゐたのです。
これほど巨大な労働能力を持つてゐるといふことは、彼らには何か働くための材料が必要だといふことを意味しま
す。彼らは工場を建設し、労働力を有してゐました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることができませんでした。
日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無
い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域に は存在してゐたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れて
ゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたので す。
昭和26年(1951)5月3日
米国上院軍事外交委員会に於けるマッカーサー証言
東京裁判 日本の弁明
「却下未提出弁護側資料」抜粋
小堀桂一郎 編
講談社学術文庫より
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
日本の読者はすでにご存じのように、コヒマは、貴国の陸軍が敗れた激烈な戦闘である。しかし、著者は、日本の読
者がかつての敵軍もさることながら日本軍の将校、連隊将校、兵士たちに対して寛大な気持ちをもって、この記録を読 まれることを希望する。戦史を通じて、彼らがその守備に見せたほどの優秀な戦術と勇気はほとんど前例がないので ある。彼らは四六時中、飢餓と疫病と砲撃に苦しみながら、しかもなお諦めなかった。わが偉大な司令官、スリム元帥 は「かかる戦況で陣地を死守できたのは日本軍をおいてほかにない」と書いている。この敗北は日本軍の恥辱となるも のではなかった。いや、日本軍の勇気と忍耐力とは誇るに足るものであった。
KOHIMA
Arthur Swinson
1966年9月13日 セント・アーロンズにて
コヒマの第二局面は第一局面と同様困難な戦いであった。処罰と熱狂に裏づけされた正規日本陸軍兵士の抵抗の
激しさは、他に比すべきものがない・・・・・・かかることをなしえた軍隊を私は知らない。
スリム元帥
日本兵は第一級の兵士であった。砲撃をやめると、半堀壕から飛び出してきて防戦をいつまでも続けた。
グルカ隊隊長 D・ホースフォード中佐
コヒマ
アーサー・スウィンソン
ハヤカワNF文庫 初版より
China
・・・・・ かくては国軍の名誉を失墜するのみならず、ひいては中国の世界的地位をも疑はしむるに至り、諸連合国側
に対しても、重大なる影響を及ぼすものなり。長官以下よく団結し、かのミチナ、拉孟、騰越を死守しある日本軍人精神 は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む。
1944年8月26日、拉孟、騰越の包囲軍に与えた訓令
玉砕
長尾唯一 著
日本文芸社より
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