歴史の一頁

                      

メーホンソン県クンユアム タイ日友好記念館



第二次世界大戦には多くの残忍な思い出があるでしょう。
でも、私たちタイ人は違います。
この戦争はタイ人と日本軍兵士との間に愛と絆を同時にもたらしたのです。
私たちは、決して忘れることはないでしょう・・・

The second world war was a brutal memory to many,
Yet, for Thais like myself,the war brought love and bond together
between the Thais and Japanese soldiers.That I will never forget...



大東亜会議
アジア人によるアジア人のための初の国際会議
昭和18年11月5日〜6日 主催、日本国政府

      



日本国 東條英機 内閣総理大臣
タイ国 ワンワイタヤコーン 殿下
中華民国国民政府 汪兆銘 行政院長
満州国 張 景恵 国務総理大臣
フィリピン国 ホセ・ペ・ラウレル 大統領
ビルマ国 ウ・バー・モウ 内閣総理大臣
自由印度仮政府 チャンドラ・ボース 首班


大東亜共同宣言
大東亜会議、11月6日に採択された大東亜共同宣言
世界史に燦然と輝く金字塔


 抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス

 大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス 
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス 
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス 
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ増進ス 
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス 



大東亜会議

 1943年11月5日午前十時、大東亜会議は東京の国会議事堂で正式に開幕した。七ヵ国から集まった四十六人の代表、随員、傍聴者たちが十億の大東亜諸民族を代表して開会式に出席した。・・・
 あらゆる観点からみて、それは記憶されるべき出来事だった。この偉大な会議はアジアにわき起こっている新しい精神を初めて体現したものであり、それは十二年後、アジア・アフリカ諸国のバンドン会議で再現された精神であった。この精神は、すでに1943年の東京での会議でうぶ声をあげたものだったのだ。アジア新秩序の五つの基本原則から成る共同宣言にしても、バンドン会議の五原則、パンチャシラの前兆になった。

バー・モウ
ビルマの夜明け



 大東亜戦争においてわれわれの希求するものは勝利であり、大東亜共栄圏についていえば共栄である。大東亜各国はそれぞれ自らの国を愛し、その隣国を愛し、ともに東亜をあいすべきである。中国のモットーは中国の復興、東亜の防衛であり、これは中国が自主独立を獲得した時、初めて東亜防衛の責任を分担する能力が生じ、同時に東亜防衛を獲得して、初めて中国の自主独立が保障されるのである。

汪兆銘 主席



 東亜に恒久的繁栄をもたらす原則は相互の独立と主権を尊重し、互恵の基礎に立って、相互の経済関係を増進し、正義に従って相互に協力援助し、もって物質的、道義的、精神的力を含む各国力を最高度に増進し、各国ならびにこの地域全体の平和、幸福、繁栄を確保するにある。

ワンワイタヤコーン 殿下



 満州国民は、国土の繁栄と国民の福祉の前進を真に追及する自主的道義国家を建設するという唯一の目的のために団結している・・・新しい東亜の意識に目覚め、古い東洋の倫理的教義の上に樹立された、強く正しい国家としての満州を全東亜の安定勢力にするということが、われわれの目標である。

張 景恵 総理



 歓迎会場に入った時、私の両眼からは涙があふれ出た。そして勇気づけられ、鼓舞され、自らにいった。十億のアジア人、十億の大東亜諸国民――どうして彼らが、しかも大部分が特に英米に支配されてきたのか。
 大東亜共栄圏はこの地域の利益のために確立されるものではない。・・・全知全能の神は日本を見捨てず、大東亜諸国民を見捨てない。神は天から下ってわれわれとともに泣き、われわれ国民の勇気と大胆さを讃え、われわれ自身を解放して、われわれの子孫に自由、幸福、繁栄をもたらすだろう。

ホセ・ペ・ラウレル 大統領



 過去、ずいぶん長い期間と思われるが、今日、われわれが一堂に会するように、アジアの各国民が会合することは、とうてい考えられなかったことである。
 本日の会議は偉大な象徴的な出来事である。東條首相の述べたように、われわれは正義と平等互恵、相互援助の大原則のもとに、現実に新しい世界を創造しているのである。あらゆる見地からみて、東アジアはひとつの世界そのものである。
 東條首相は、特徴的な勇断によって、その基本原則が正義、互恵、および独立と主権の相互尊重にあるべきことを宣言した。これは明瞭確固たる言葉であり、東アジアの憲章として永久に残るであろう・・・。

チャンドラ・ボース 首班



バー・モウ
ビルマの夜明け



THAI                   NIPPON


                   

大東亜戦争での在タイ日本軍の訓令

一、泰國は南亜細亜に於ける唯一の獨立國にし
  て我が同盟國なり日本の兄弟國として協同作
  戦の遂行及大亜細亜共榮圏の建設に邁進しあ
  り
  将兵は特に軍紀風紀を正しくし禮儀を重んじ
  敬禮態度に深く注意して泰軍将兵に活模範を
  示すと共に兄弟の情愛を以て泰國國民を善導
  誘掖し公明正大至誠至仁以て皇軍の威容眞姿
  顕現に精進すべし

二、泰國は佛教國にして上下の信頼頗る厚く且
  儀禮を重んず
  将兵は常に寺院を愛護すると共に僧侶に對し
  ては勉めて動作應對に注意し苟も粗暴の行為
  あるべからず
  又泰國國旗を尊重し毎朝十時(日本時)の國旗
  掲揚式等に際しては敬意を失はざる様留意す
  べし

三、泰人は其の風習上頭部を大切にし頭を撫で
  又之に手を觸るる事をさえ極度に嫌悪し之を
  侮辱と思ふを常とするのみならず一般に復讐
  心強し故に泰人の頭部に觸れ特に泰人を毆打
  する時は必ず復讐行為に出づるのみならず時
  に國際問題を惹起することさえあり
  将兵は絶對に泰人を毆打せざるは勿論其の頭
  部に手を觸るることを厳に愼むべし

四、泰人は其の風習上泥酔者及裸體者を蔑視す
  ること吾人の豫想以上に大なるものあり
  将兵は路上及列車中等に於ける酩酊放歌及裸
  體を堅く戒め泰人の輕侮を受くる勿れ
五、近時沿道に盗難多し
  将兵は機密密書類及兵器の保管は勿論貴重品
  其の他身の廻りの品物にも常に注意を拂ひ特
  に列車搭乗中の監視竝に宿舎の戸締及警戒を
  厳重にし不覺を招かざること肝要なり

六、泰國には「コレラ」 「ペスト」 「チブス」及 「赤
  痢」等の悪疫流行し性病多し
  将兵は常に衛生に注意し生水は絶對に飲まざ
  ること特に生物及暴飲暴食を愼しむと共に寝
  冷に注意し就寝時腹巻の使用を勵行すること
  必要なり

七、泰國に於ては言語及通貨の不通に基く事故
  多し
  泰國人は獨特の文字言語を有し手眞似等も異
  るもの多く理解一般に容易ならず
  又泰國に於ては軍票其の他の外國通貨と泰貨
  との交換は盤谷義部隊司令部のみに於て行ひ
  他の部隊及正金銀行支店等に於ては之を行ひ
  あらず
  将兵は常に言語及通貨の不通に注意し漢字の
  筆談等を以て氣短か且無理強ひに用務を辧ず
  るが如きことを避くべし
  尚一般に南方地域に於ては個人の使用し得る
  通貨は制限せられあるも特に泰國に於ては邦
  貨の流出激増しつつあるを以て時局柄節約を
  旨とするを要す


  義部隊司令部
              盤谷市サートン路
              電話三一三八一番

  義部隊兵站連絡所
          盤谷驛構内
          盤谷の宿泊及泰國内の輸送
          に関し適宜連絡利用せられ
          度




THAI




ククリット・プラモード

(タイ王国元首相、サイアム・ラット紙主幹)


MR. Kukrit Pramoj

12月8日

― 日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが生まれた子供は
すくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話しが出来るのは、いったい誰のおかげであるの
か。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を
示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さん
が、病の床に伏した日である。われわれはこの二つの日をわすれてはならない。 ―
 
  (1955年6月、元タイ駐屯軍司令官であった中村明人陸軍中将がタイ王国に国賓待遇で招待された時)
サイアム・ラット紙




THAI




タナット・コーマン

(タイ王国元副首相、元外相、ASEAN設立)


MR.Thanat khoman

― あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そしてこれは、日本が勇戦してくれたお陰
です。新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明
白です。―
(航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」平成七年新秋号)小室直樹著「日本国民に告ぐ」より抜粋




THAI




ソムアン・サラサス

(タイ国軍元顧問、上野動物園にインド象の「はな子」を私費で贈る)


26日・アジアの独立を祝う夕べ

― 日本は敗れはしたが、アジアのプライドをかき立てた。・・・戦争が始まったとき、日本は負けるという不安もあった
がタイは日本についた。私は、日本が負けても、英米に対してアジアもこれだけのことができるという証明になると友達
と話した。―
(「アジア賢人円卓会議」のレセプション)産経新聞 東京版 平成7年4月27日




INDIA




スバス・チャンドラ・ボース

(自由インド仮政府首席、インド国民軍最高司令官)


英米帝国主義のアシアからの撲滅
Extermination from Asia of Britain-U.S. imperialism
―インド解放の夢を抱き、インド・アッサム地方を進撃する日印同盟軍―
    
Netaji Subhas Chandra Bose 

― この戦闘における日印同盟軍の成功によって、いまやインド国民軍は国境を越えデリーへの進撃を続けている。 
  大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦い
  に参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うのではなく、英米帝国主義のアジアからの撲
  滅を期し、さらにインドの完全な無条件の独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府はインド独立闘
  争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、 
  アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。
   いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合 
  国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジア
  の自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定して 
  いる。
   自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明す 
  る。―
(―インド国内の同志への呼びかけ―1944年3月20日ラングーンで自由インド放送を通じて)
スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー著「ネタジと日本人」より抜粋





― インドに関するかぎり、われわれの運命は日本及びその盟邦の今次大戦における運命と不可分にある。インド国
民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や生き残って自由インドを見られるか
は問題ではない。ただ一つの関心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドから駆逐
されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章
となることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんことを。 ―

昭和18年11月5日(5/11/1943)から東京で開かれた「大東亜会議」での演説




INA進軍歌

チェロー・デリー

征け征けデリーへ(岩原唯夫氏の資料による)

一、
征け征けデリーへ母の大地へ
いざや征かんいざ祖国目指して
征け征けデリーへ母の大地へ
いざや征かんいざ祖国目指して
進軍の歌ぞ高鳴る
我等の勇士よ靴あげて
見よ翻るよ独立の旗

二、
征け征けデリーへ母の大地へ
いざや征かんいざ祖国目指して
征け征けデリーへ母の大地へ
いざや征かんいざ祖国目指して
聞かずやあの声自由の叫び
屍踏み越え征けよ強者
赤き血潮もてわが旗染めん
  征け征けデリーへ母の大地へ
  いざや征かんいざ祖国目指して

 *「チェロー・デリー」は「日本会議」が製作した「自由アシアの栄光」で紹介されております。本HPでは、日本会議の了解を得てここに音声を紹介させていただくものです。歌詞はスバス・チャンドラ・ボース・アカデミー編纂「ネタジと日本人」より抜粋させていただきました。




INDIA




ラダビノード・パール博士

(極東国際軍事裁判のインド代表判事)


Dr.Rabhabinod Pal

パール判決書終末の言葉(第七部「勧告」の結語)

When time shall have softened passion and prejudice,
when Reason shall have stripped the mask from misrepresentation,
then justice,holding evenly her scales, will require
much of past censure and praise to change places.
Radha binod Pal

― 邦訳文 ―

時が、熱狂と偏見をやわらげた暁には、
理性が虚偽から、その仮面を剥ぎとった暁には、
その時こそ正義の女神は、その秤を平衡に保ちながら、
過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう。
ラダビノード・パール 


― 以上述べてきた理由に基づいて、本官は、各被告はすべて起訴状中の各起訴事実全部につき、無罪と決定され 
  なければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張するものである。―
(パール判決文第七部冒頭のことば)田中正明著「パール博士の日本無罪論」より

― 私は日本に同情するがための意見を呈したのではない。私の職務は真実の発見である。真実を探求した結果、か
  のような結果になった。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。同情に感謝するというのはまったくの見当
  違いである ―
(東京弁護士会での講演で主催者の紹介に答えて)清瀬一郎著「秘録東京裁判」より

― 東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまった
  とは思わなかった。東京裁判の影響は原子爆弾の被害より甚大だ。―
(昭和27年広島の原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」という文字を見て)
日本・インド国交樹立五十周年をお祝いする実行委員会編「日本とインドが築く明日のアジア」より

― 私は1928年から45年までの18年間の歴史を2年8ヵ月かかって調べた。とても普通では求められないような各
  方面の貴重な資料を集めて研究した。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文
  の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかる
  に日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に「日本は犯罪を犯したのだ」「日本
  は侵略の暴挙をあえてしたのだ」と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の
  判決文を通して充分に研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流れ 
  てゆくのを私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。
   誤られた彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤られた歴史は書きかえられねばならぬ。
(昭和27年11月6日、広島高等裁判所に於いての講演録から抜粋)「やすくに」平成7年8月1日より




INDIA                NIPPON


                

フラバイ・デサイ博士

(デリーインド国民軍裁判首席弁護人)



―宣言するや、全印度兵は総立ちとなって狂喜歓呼した。鳴りもやまぬ拍手、
舞上がる帽子、打ち振る隻手、果ては起ってスタンドに押し寄せんとする興奮のどよめき、正にパークは裂けるような感激のるつぼと化した。― 
(昭和17年2月17日、シンガポール)
        
Major Fujiwara Iwaichi

  ファラパークの5万人の英印軍インド兵捕虜を前に、歴史的大 演説をする藤原岩市少佐と、英語訳する国塚一乗少尉とヒンズー語訳するギル中佐。
  ―そもそも民族の光輝ある自由と独立とは、その民族自らが決起して、自らの力をもって闘い取られたものでなければならない。日本軍は印度兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の闘いのために忠誠を誓い、INAに参加を希望するにおいては、日本軍捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面的支援を与えんとするものである。―

― 日本は、初めて敗戦の痛苦を嘗めることになり御気の毒である。しかしどの民族でも、幾度もこの悲運を経験して
  いる。一旦の勝敗の如き、必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日
  本が極めて近い将来に、必ず、アジアの大国として、再び復興繁栄することを信じて疑わない。
  印度は程なく完うする、その独立の契機を与えたのは日本である。印度の独立は、日本の御蔭で三十年早まった。
  これは印度だけではなく、ビルマ、インドネシア、ヴェトナムを初め、東南亜諸民族共通である。印度四億の国民  
  は、これを深く肝銘している。印度国民は、日本の復興に、あらゆる協力を惜しまないであろう。他の東南亜諸民族
  も同様と信ずる。―
(藤原岩市氏等が日本側証人として召喚されたときのデサイ氏の挨拶)藤原岩市著「F機関」より





― ヒトラーが、「インドが独立するまでは、百五十年はかかる」と暴言をはき、またインド法曹界の最長老であるパテル
博士ですら、「まだ三十年は必要だろう」ともらしていたその独立が、今次大戦終了後、思いもかけず早くやってきた。
今世紀最大の世界史的な出来事であった。
 この奇跡ともいうべきインド独立をもたらした男は、たったの二人である。この二人の夢が、インド独立を実現させた。
 一人は日本人の藤原岩市中佐であり、もう一人はインド人のスバス・チャンドラ・ボースである。
・・・・・
 ひとたびインドから発したこの独立の炎は、東南アジア、中近東、アフリカと世界各地に飛び火して、圧政と搾取に苦
しんできた植民地はいずれもつぎつぎと独立した。世界地図の色はすっかり塗りかえられ、戦前には五十余国しかな
かった独立国家が、いまや百八十余国にまで増えている。
 この二人の夢の実現が、いまやなん億という人間を植民地という桎梏から解放し、多くの良識ある日本人のいだいて
いた夢も、世界のいたるところで生きているのである。

「インパールを越えて」
国塚一乗




  INDIA                NIPPON




                

日本INA戦友代表の御挨拶

奥田 重元
1996年1月23日
Calcutta

 外務大臣プラナム・ムケルジー閣下、西ベンガル州知事ラグナダ・レエデイ閣下並びに紳士、淑女の皆様方、
Chairman of International Netaji Centenary Committee,Dr.Sisir Bose and Members of Netaji Research Bureau !

 私の最も尊敬する世界的偉人であり、インドのNational Hero である Netaji Subbas Chandra Bose のCenterary 
Inaugural Convention at Netaji Bhawan に御招待を頂き、深く感謝申し上げます。最高司令官 Netaji の指揮のもとに
インドの独立獲得を目指して戦った Indian National Army (INA) の同盟軍であった日本軍から、INA に配属せられたひ
かり機関の military coordinators の一員であった私は、INA の将兵と厳しい戦場で苦楽を共にした日本の戦友がたを
代表して、本日この盛大かつ重要なる会合に出席できましたことは、私にとりまして最大の名誉であり、無上の喜びと
存じております。

 私は日本を出発するに先立ち、 best wellwishers of India in Japan である彼等から、本日御集りの親愛なる友人方
に、集会の大成功と皆様方の益々の御健勝を御祈りしている旨の message の伝達を依頼されましたので、御伝え申し
上げます。

 又、1945年以来、東京の蓮光寺に眠っておられる Netaji の尊い御遺骨を、最大の敬意を表してお守りし、毎年御命
日の御供養を続けている私ども戦友たちの平均年齢は、既に80才を越えようとしていますが、私どもは、余命の許す
限り一人でも元気なうちに、 Netaji の御遺骨が母国インドの地に御還り頂けますよう、日々心から念願していることを
重ねて御伝え申し上げます。

 私ごとでありますが、日本軍の一兵士として召集せられた私の最愛の兄の一人が、インパール(Imphal) 郊外
(Kanglatongbi) の塹壕に埋まったまま未だ還って参りません。インド、ビルマ国境のジャングルの中で、奇しくも数年振
りに再会した兄が私に最後に残した言葉は、「この度のインド独立支援作戦が終わったら、除隊になって日本に帰れる
と思う。平和になった日本へ元気で帰ろうね」と言うものでありました。INA の将兵と共に戦ってたおれた数万の日本軍
将兵方は、INA との協同作戦と言う彼等の尊い使命は理解しつつも遠く故国を離れた戦野で強い郷愁の念にかられ、
妻子の行末を心配しながら死んでいったものと思い、私は今回インドの地を訪れるに当り、彼等及び彼等の家族方に
想いを寄せ、感慨真に無量なるものがあります。私は遠からずインパールの地を訪れ、インドと日本との同盟軍将兵と
同じく、夫々の国是に殉じた英連邦軍将兵の霊を併せて弔い世界人類の永遠の平和と幸福とを
祈りたいと考えております。

 今、日本ではテレビも新聞も、9億の優秀なる人的資源と広大な国土に恵まれたアジアの有力なる友邦、大国インド
の目覚しい経済発展の状況と将来の可能性について、しばしば報道し解説記事を掲載しております。私どもは、それら
のニュースを知る毎に恰も我が国の事のように喜び合っております。

 Netaji 及びNetaji の統率するINA を通じて、貴国民と日本国民とが固く結ばれ、同一目的の達成のために全力を尽く
して協力し合った歴史的事実を、夫々の子々孫々に語り継ぎ、両国及び両国民間のより良き理解とより密接な協力関
係を末長く築いてゆきたいものと、私どもは心の底から強く望んでおります。私どもは、インド国の素晴しい発展と、皆
様方の御健康と御幸福とを重ねて御祈り申し上げます。

 終わりに、私は50余年前、国境のジャングルの中で毎朝インド国旗を揚げてINA の将兵とともに合唱したINA の歌
を、記憶はおぼろ気になりましたが、御紹介申し上げて、私の御挨拶と致します。

( Mr.Okuda concludet by Singing the INA Song.ED.)

Shigemoto Okuda            
On behalf of old comrades
of INA in Japan              




日本の遺骨収集に寄せて

C.N.メレン
ナガランド州儀典次官補
2次収骨団コヒマ監督官

 第二次世界大戦の際、インド最東部のナガの人々は、日出づる国の人々と接触を持った。日本人と初めての出合い
である。
 日本の兵士達は、この地に敬慕の念を残していった。数千の兵士らに不品行はなく、日本軍が駐留していた処には
学校が建ち、日本の歌が教えられた。ナガの人達は今でも幾らかの日本語を憶えており日本の唄を歌う。大部分のナ
ガランドの人達は、生ある限り日本将兵に対し友情と信頼を持ち続けるであろう。彼らは、ナガの人々の心に消すこと
の出来ない印象を植え付けて、去って行ったのだ。



インパールの青年からの手紙


  Unluckily, I was born after the 2nd World War i.e. November 1956. and I am aviate in dark for the Same. I only 
hearing the story of the 2nd World War which fought in Manipur and the heroic activities of your countrymen 
against the British colonialism in India for independence as to help the I.N.A. I always request and thanks to Shri 
Netaji Subhas Chandra basu and your countrymen for such contributions to the Indian independence since I heard 
the story of the 2nd World War.
  Secondly, let me know whether you should come to our country in the 2nd Mission as you have planned sometime 
in the next year. If to do so I personally introduce my family members to you as a brother of the eastern most 
corner of the world. …omit…


 全ビルマ戦連協が、インドにおける第1次、第2次、戦没者遺骨収集(S50.3.10〜)の聖業に際して、インパールの四青年の通訳を得た。
 全次派遣団通訳として、勇猛果敢な日本軍を尊敬し、勇士の収骨に献身的協力の青年達で、代表格のR.K.イサモナ君の手紙の一部を紹介する。
「勇士はここに眠れるか」 511ページ



Union of Myanmar               NIPPON



                   

ビルマ独立宣言
(昭和18年8月1日午前11時20分)


バー・モウ博士
(初代ビルマ国家首席、ビルマ行政府長官)


ビルマ独立式典
Prime Minister U Ba Maw


― ここでもうひとつの歴史の曲解の例をあげよう。時間的順序では、われわれの植民地主義からの解放は、1943
年に英国が初めの敗北を喫し、ビルマから去ってわれわれが独立を宣言したときから始まる。ビルマ軍は独立を獲得
するために英国軍と中国軍に対して果敢に戦ったのであった。しかし、この重大な事実は、独立がその数年後、植民
地勢力からの贈りものとしてわれわれの手に入ったとするビルマ自身の戦後の宣言よって隠されていった。このように
してわれわれは戦争中のもっとも重要な歴史的業績のひとつを現実には否定してきたのである。・・・―

「ビルマの夜明け」
序文

太陽出版
1995年7月10日新版
バー・モウ著



― 残念ながら私は、海山越えて、日本に親しく手をさしのべることはできないが、親愛の声をお届けすることはでき 
 る。舊秩序の下では吾々は常に英米に苦しめられている。しかし今や世界新秩序建設下に、吾々は日本に心から 
 信頼している。この新秩序を創りあげた日本にこそ、吾々の感謝は捧げられている。吾々、両民族の親愛の盟いは 
 東亜新秩序建設に相携えて戦っているこの大戦の中に、血と汗を以って鍛えられていく。
  ビルマ人は、東條首相によって約束されたことばに絶対的信頼をおいている。ビルマが戦場になった時、ビルマ人
 は血を以って日本人にその親愛の念を現はした。もし今後とも必要あらば吾々は喜んで血を捧げるだろう。―

昭和17年8月1日、ビルマ行政府長官就任時の挨拶




ウ・ヌー

(初代外相、首相)


MR. U Nu

― 歴史は、高い理想主義と目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためのみに生命と
財産を犠牲にした例を、ひとつくらいみるべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割りを果たすべく
運命づけられているかにみえる。―

1943年8月1日 ビルマ独立宣言日
ビルマ全国民へのラジオ放送での演説

「ビルマの夜明け」
太陽出版
1995年7月10日新版
バー・モウ著


Union of Myanmar



 

ビルマ政府より叙勲 「オン・サンの旗」最高勲章授与


General Aung San

 六名と鈴木敬司陸軍少将未亡人

Colonel Suzuki Keiji

 ビルマ独立義勇軍は、南機関長・鈴木敬司大佐との別れを悲しんで軍刀と肖像画と感謝状を贈った。感謝状の左側に書かれた絵は、大佐がビルマ兵士を抱き上げ、その兵士がビルマの鉄鎖の鍵を開いているところ。
ASEANセンター編
「アジアに生きる大東亜戦争」より

ビルマ独立貢献 六旧日本兵に最高栄誉称号(ラングーン四日共同)

― ビルマ独立三十三周年目にあたる四日、旧日本帝国陸軍関係者六名に、第二次大戦中ビルマ独立に貢献したと
して、同国政府から最高の名誉である”オン・サンの旗”の称号を贈られた。この六人は1942年、英国軍をビルマから
追い出すためビルマ独立の志士たちと一緒に同国に侵攻した通称”南機関”のメンバーで、杉井満・水谷伊那雄・川島
威伸・泉谷達郎・高橋(別名北島)八郎・赤井(旧姓鈴木)八郎の六氏。杉井氏らはビルマ建国の父オン・サン氏やネ・
ウイン現国家元首ら当時のビルマ独立の志士グループを助けて”ビルマ独立義勇軍”を結成、軍事訓練をしたり、同軍
の司令官兼参謀を務め、独立に大きな貢献をした。―
(昭和56年1月6日サンケイ新聞)木ノ下甫著「大東亜戦争大勝論」より




  MALAYSIA





ラジャー・ダト・ノンチック

(南方特別留学生、ASCOJA初代会長、元上院・下院議員、ASEAN設立)





日本人よありがとう



かつて 日本人は
清らかで美しかった
かつて 日本人は
親切でこころ豊かだった
アジアのどの国の誰にでも
自分のことのように
一生懸命つくしてくれた

*

何千万人もの 人のなかには
少しは 変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて
いばってばかりいる人だって
いなかったわけじゃない

*

でも その頃の日本人は
そんな少しの いやなことや
不愉快さを越えて
おおらかで まじめで
希望に満ち明るかった



戦後の日本人は
自分たち日本人のことを
悪者だと思い込まされた
学校でも ジャーナリズムも
そうだとしか教えなかったから
まじめに
自分たちの父祖や先輩は
悪いことばかりした残虐無情な
ひどい人たちだったと 思っているようだ

*

だからアジアの国に行ったら
ひたすら ペコペコあやまって
私たちはそんなことはいたしませんと
言えばよいと思っている

*

そのくせ 経済力がついてきて
技術が向上してくると
自分の国や自分までが
えらいと思うようになってきて
うわべや 口先では
済まなかった悪かったと言いながら
ひとりよがりの
自分本位の えらそうな態度をする
そんな
今の日本人が 心配だ



本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を知っているわたしたちは
今は いつも 歯がゆくて
くやしい思いがする

*

自分のことや
自分の会社の利益ばかり考えて
こせこせと
身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は
これが本当の日本人なのだろうか

*

自分たちだけで 集まっては
自分たちだけの 楽しみや
ぜいたくに ふけりながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている
その国と 国民のことを
さげすんだ眼でみたり
バカにする



こんな ひとたちと
本当に仲よくしてゆけるだろうか
どうして
どうして日本人は
こんなになってしまったんだ


1989年
クアラルンプールにて
ラジャー・ダト・ノンチック




                                       

日本の人たちへ

 私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア
各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、
驚異の感動と自信とを与えてくれました。永い間眠っていた自分たちの祖国を自分たちの国にしよう〃というこころを
目醒めさせてくれたのです。
 私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで
感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞ
れの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。
 私もあの時にマラヤの一少年として、アジア民族の戦勝に興奮し、日本人から教育と訓練を受けた一人です。私は、
今の日本人にアジアへの心が失われつつあるのを残念に思っています。これからもアジアは、日本を兄貴分として共
に協力しながら発展してゆかねばならないのです。ですから今の若い日本人たちに、本当のアジアの歴史の事実を知
ってもらいたいと思っているのです。
 先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、「日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べ
にきたのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません」と私は答えてやりまし
た。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の
将兵も血を流しました。
 どうしてこのように今の日本人は、自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりし
ていたような先入観を持つようになってしまったのでしょう。これは本当に残念なことです。

1988年
クアラルンプール邸にて土生良樹への言葉
ラジャー・ダト・ノンチック


「日本人よありがとう」
日本教育新聞社
1989年11月1日初版
土生良樹 著より




INDONESIA               NIPPON



                                     

インドネシア ラヤ


インドネシア独立宣言


皇紀2605年8月17日 インドネシア独立宣言



独立宣言書


われわれインドネシア民族は、ここにインドネシアの独立を宣言する。
権力の移行、その他に関する事項は適当、かつ迅速に処理される。

 17・8・05
スカルノ  / ハッタ



独立宣言に関わった四人の日本人
前田精海軍少将、吉住留五郎氏新聞記者、三好俊吉郎氏陸軍司令官通訳、西嶋茂忠氏海軍嘱託




皇紀2605年8月17日 インドネシア独立




PETA

昭和18年10月3日 PETA創設
インドネシア義勇軍組織である郷土防衛義勇軍
 PETA (Soekarela Tentara Pembela Tannah Air) 



 日本占領軍がインドネシア民族主義の為に行なった数々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍および準
軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事であろう。この作業は、特にジャワ、バリ、およびスマトラで推し進められ
た。のちにインドネシア独立軍の将校や下士官となった者たちのほとんどすべて、および何万という兵士達は、この訓
練をへて軍事技術を身につけ、日本の敗戦後に戻ってきたオランダ軍を相手に独立戦争を闘ったのであった。もしこ
の訓練がなかったなら、そして日本の降伏後、インドネシア人の手に入った日本軍の武器や軍需資材がなかったなら、
インドネシア独立戦争の行方はちがった方向に進んでいたかも知れない。こうして、日本の占領は、インドネシアの民
族主義勢力を権力の戸口まで導いた。そこで、戦争が、八月一五日、突然終結をむかえたとき、民族主義者は、日本
の降伏によってつくりだされた真空状態の中で国家権力を握る用意ができていたのである。三年半の年月のあいだ、
民族主義者は非合法から主権国家の戸口にまでの道をのぼりつめていた。民族主義者にとって、日本の占領時代
は、独立への、単なる序曲以上のものであったかも知れない。



「日本軍政とインドネシア独立」
George S. Kanahele著
1981年6月25日初版
維新報知社発行より




日本はアジア解放の戦いを語り継ぐべきだ

IDRISNO MADJID
(世界イスラム連盟 特派員)

 インドネシアの独立戦争では、約3,000名の日本兵がインドネシアのために戦ってくれました。その日本兵たちはイ
ンドネシアの基本をなすイスラム文化と宗教を大切にしてくれました。日本とインドネシアの間では、スカルノ前大統領
の言葉のように、「ダリハティカハティ」です。「ハートツウハート」です。「心から心」です。インドネシアの独立を挟んで
「心」が通ったのです。私たちはその「心」を大切にし、同じアジアの民族として伝えなければなりません。その「心」は日
本とアジアばかりではなく、世界の平和にもつながるのです。
 ところが、インドネシアの独立で通じ合った日本の犠牲的精神を、今の日本の若い人たちはほとんど知りません。残
念でたまりません。

 私たちの独立のために戦ってくれた日本兵のことを、きちんと日本で語り継いでほしいと思います。そしてインドネシ
アに来られたら、ジャカルタの英雄墓地に眠る日本兵の奥城(オッキ)にお詣りして下さい。その墓標には、みなイスラ
ムの名前と日本人の名前が彫られています。
 「独立は一民族のものならず、全人類のものなり」(1958年2月15日、東京にてスカルノ大統領、東京都港区青松寺境
内の碑)



 私たちも日本訪問のときは、九段の靖国神社にお詣りいたします。

 日本の天皇陛下は世界平和と民族のため、日々お祈りを捧げていると漏れ聞いております。そのことは、本当に素
晴らしいことです。私たちイスラム教徒も日々、神に世界の平和を祈っております。その祈りの心は共通しています。

 私の個人的な歴史観ですが、近代史においては、1776年(7月4日独立記念日)イギリスの植民地からのアメリカ独立
戦争、1789−99年(7月14日パリ祭)のフランスで起こったブルジョア革命と共に、欧米人によるアジア・アフリカの植民
地解放を目指した今世紀の大東亜戦争が、世界史における三大戦争であることを明記すべきであると思っています。


イドリスノ・マジット
インドネシア福祉友の会
NO.183 月報 1997年7月号

―福祉友の会・200号「月報」抜粋集―より



United States of America




ダグラス・マッカーサー元帥

(連合国軍総司令部最高司令官)


General D Macarthur

STRATEGY AGAINST JAPAN IN WORLD WAR U

 Senator HICKENLOOPER. Question No.5 : Isn't your proposal for sea and air blockade of Red China the same
strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?

 General MACARTHUR. Yes,sir.In the Pasific we bypassed them.We closed in. You must understand that Japan had
an enormous population of nearly 80 million people,crowded into 4 islands.It was about half a farm population. The
otherhalf was engaged in industry.

 Potentially the labor pool in Japan,both in quantity and quality,is as good as anything that I have ever known.
Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when
they are working and constructing than when they are idling.

 This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on.They built the factories, they
had the labor,but they didn't have the basic materials.

 There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton,they lack wool,they lack
petoroleum products,they lack tin,they lack rubber,they lack a great many other things, all which was in the Asiatic
basin.

 They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their
purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.


― 邦訳文 ― 

 ヒッケンルーパー 問: では五番目の質問です。中共(原語は赤化支那)に対し海と空とから閉鎖してしまへといふ
貴官の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。

 マッカーサー 答: その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々は包囲したのです。日本は八千
万に近い膨大な人口を抱へ、それが四つの島の中にひしめいてゐるのだといふことを理解していただかなくてはなりま
せん。その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事してゐました。

 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴
史上のどの地点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産してゐる時の方がより幸福な
のだといふこと、つまり労働の尊厳と呼んでもよいやうなものを発見してゐたのです。

 これほど巨大な労働能力を持つてゐるといふことは、彼らには何か働くための材料が必要だといふことを意味しま
す。彼らは工場を建設し、労働力を有してゐました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることができませんでした。

 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無
い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域に
は存在してゐたのです。

 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れて
ゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたので
す。


昭和26年(1951)5月3日
米国上院軍事外交委員会に於けるマッカーサー証言

東京裁判 日本の弁明
「却下未提出弁護側資料」抜粋
小堀桂一郎 編
講談社学術文庫より

United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland




日本の読者へ

 日本の読者はすでにご存じのように、コヒマは、貴国の陸軍が敗れた激烈な戦闘である。しかし、著者は、日本の読
者がかつての敵軍もさることながら日本軍の将校、連隊将校、兵士たちに対して寛大な気持ちをもって、この記録を読
まれることを希望する。戦史を通じて、彼らがその守備に見せたほどの優秀な戦術と勇気はほとんど前例がないので
ある。彼らは四六時中、飢餓と疫病と砲撃に苦しみながら、しかもなお諦めなかった。わが偉大な司令官、スリム元帥
は「かかる戦況で陣地を死守できたのは日本軍をおいてほかにない」と書いている。この敗北は日本軍の恥辱となるも
のではなかった。いや、日本軍の勇気と忍耐力とは誇るに足るものであった。

KOHIMA
Arthur Swinson
1966年9月13日 セント・アーロンズにて



 コヒマの第二局面は第一局面と同様困難な戦いであった。処罰と熱狂に裏づけされた正規日本陸軍兵士の抵抗の
激しさは、他に比すべきものがない・・・・・・かかることをなしえた軍隊を私は知らない。

スリム元帥


 日本兵は第一級の兵士であった。砲撃をやめると、半堀壕から飛び出してきて防戦をいつまでも続けた。

グルカ隊隊長 D・ホースフォード中佐


コヒマ
アーサー・スウィンソン
ハヤカワNF文庫 初版より


China




蒋介石
中華民国南京国民政府主席


日本軍人精神は、東洋民族の誇り

 ・・・・・ かくては国軍の名誉を失墜するのみならず、ひいては中国の世界的地位をも疑はしむるに至り、諸連合国側
に対しても、重大なる影響を及ぼすものなり。長官以下よく団結し、かのミチナ、拉孟、騰越を死守しある日本軍人精神
は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む。


1944年8月26日、拉孟、騰越の包囲軍に与えた訓令

玉砕
長尾唯一 著
日本文芸社より