最強の剣豪は誰か
宮本武蔵の巻(1)


さて、宮本武蔵はどれくらい強かったのだろうか。
最強の剣豪の尺度に対戦回数がある。
宮本武蔵は「五輪書」序文に「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざるといふ事なし。
其後国々所々に至り、諸流の兵法者に行合ひ、六十余度迄勝負すといへども、一度も其利をうしなはず。
其程、年十三より廿八、九迄の事也。」と書いている。
単純計算で21歳から28、9迄までで60数回だから、約2ヶ月に1回の割合で戦った計算になる。
かなりのハイペースになるが、これほど早く次から次へと相手を見つけることができたのだろうか。
自分から相手を見つけ求めたのではなく、挑戦を受けたのだと考えれば可能だ。
宮本武蔵は、よく、強者と戦っていないといわれるが、宮本武蔵は挑戦を受ける側だったのだ。
どんな挑戦者が挑んでも勝てないという噂が噂を呼び、最強伝説ができあがったのだろう。
「貴殿も武者修行でござるか」
「いかにも」
「ところで神田で宮本武蔵という者が道場を構えていて、これが滅法強いらしい。」
「それなら拙者も聞き及んでおる。何しろ、誰が挑もうとも木剣が着物に触れることすら出来ないらしい。」
「どうやら、あの宮本無二斎殿のせがれで、しかも、まだ、若いということじゃ。」
そう、若いのだ。宮本武蔵はこの偉業を20代の若さで達成したのだ。
「六十余度迄勝負すといへども、一度も其利をうしなはず」は、宮本武蔵の生涯の記録とはいえまい。20代のみの記録だ。
このペースなら生涯で300勝までいったのではないか。
ところで、真理谷円四郎に1000戦全勝というとんでもない記録があるが、
常識的に考えて勝ったのは1000人ではなく1000回だろう。
真理谷円四郎は天才剣士だったそうで、あながち嘘でもないだろうが、
極端なことを言ってしまえば相手は1人であっても数字の上では達成するのだ。
対戦回数は尺度にならない。
また、対戦エピソードも尺度にならないだろう。
どれもこれも剣豪列伝中人物の超人的な強さを語っているだけだ。
武蔵が強かった理由は、武蔵自身が分析している。
「五輪書」序文で「兵法至極して勝つにはあらず。自ずから道の器用ありて、天理をはなれざる故か、
又は、他流の兵法不足なる所にや。」と。
しかし、これは相手と自分の相対的なもので、三十歳を超えたあたりから「なおも深き道理を得んと」して
五十歳の頃になって、ようやくその道「天仰実相円満逝去不絶」と絶対的な境地にいきつくのだ。
宮本武蔵は刻限に遅刻するなど策を用いるので卑怯だ、とよく言われるが、
それは「二天記」の吉岡一門の決闘と佐々木小次郎の決闘の描写を想定していると思われる。
他にないのだ。この2つだけである。しかも、これは虚構の物語である。
宮本武蔵は、兵法は小の兵法、大の兵法があって原理は同じだ、と説いている。
「二天記」父子は、佐々木小次郎の仕合のときの描写に大の兵法(戦の戦法)を用いたのだろうが、
離れ小島で兵糧攻めにした、と書かなかっただけマシだ。
「遅いぞ、武蔵!もう昼飯どきではないか」
「小次郎負けたり。お弁当を持ってこなんだ貴様の負けだ。」

