巌流島決闘の仮説

「丹治峰均筆記」の信憑性(2)

「沼田家記」によると、決闘後に豊後の新免無二の元に送り届けたとある。従って、決闘時には新免無二は豊後にいなければならない。
「二天記」によると決闘が行われたのは慶長十七年四月のときとなっている。 「木下延俊慶長日記」によると、無二が召抱えられて、試合があったころ豊後にいることが分かるが、 日記に名前が出現するのは、慶長十八年の五月から十一月のみで、無二は慶長十八年五月には京にいたとある。 これでは、慶長十七年四月に豊後にいたことを証明するには不十分である。

一方、「丹治峰均筆記」では、決闘時の日付は記述されていないが、年齢が記述されているので逆算ができる。
武蔵の生年は、天正十二年説と天正十年説があるので、試合が行われたのは、十九歳のときだから、 天正十二年生まれなら慶長七年のことであり、天正十年生まれなら慶長五年のことである。 新免無二は関ケ原合戦のころは新免衆とともに豊後にいたことが、既に分かっていて、 黒田藩の分限帳の慶長六年正月から九年まで記録が残っている。「丹治峰均筆記」では決闘の時は四月ではなく十月となっている。 これなら岩流との試合は、慶長五年十月だったとしても、慶長七年であっても問題ない。