巌流島決闘の仮説
「丹治峰均筆記」と「二天記」(1)


「丹治峰均筆記」と「二天記」は、二天一流門弟による覚書きや聞き取りを元にして書かれているので情報元は基本的には同じはずである。
この二つの伝記は、吉岡一門の試合と岩流の試合などを除けば重複している箇所は少ない。
これは、「丹治峰均筆記」側が覚書きを所有してしまったなどの理由で、「二天記」側が見ることができなく、
また逆に、「二天記」側が知っていることを「丹治峰均筆記」側は知らなかったと考えられる。
まず、「丹治峰均筆記」の吉岡清十郎との試合であるが、その描写は大雑把にはこうだ。
試合の当日、武蔵は病気になって、起きられなくなり延期を申し入れたが、使いの者がしきりにやってきた。
しかたなく武蔵は夜具(どてら)を着込み駕籠にのって試合の場所に行った。
清十郎は病気の様子を尋ねようとし近づいたところ、武蔵が駕籠から飛び出してきて一撃で倒した。
実は、これは「二天記」の巌流島の決闘の描写と全く同じなのだ。その描写は、こうである。
試合の当日、武蔵はなかなか起きず、使者が何度もやってきたので、船に乗って試合場所に向かう。
途中、船の中で武蔵は綿入れを着て寝る。
試合場所に着いたとき、岩流が声をかける。そして武蔵が一撃で岩流を倒した。
つまり、「丹治峰均筆記」と「二天記」とでは吉岡清十郎と岩流の試合経過が誤って伝わった、あるいは、どちらかがもう一方のどちらかの試合を下敷きにしていることになる。決闘に遅参した話しを、「丹治峰均筆記」は吉岡清十郎の試合とし、「二天記」では岩流の試合とした。
「二天記」には遅参の理由が書かれていない。
武蔵が遅刻したのは、通説のような作戦ではなく、四月(現在の五月)にもかかわらず綿入れを着込むほどの体調不良であったため
延期を申し込んだが聞き入れられず、やむを得ず、その日に開始時間を遅らして試合った、とも考えられるのだ。

