巌流島決闘の仮説

巌流島決闘の謎

実は、巌流島の決闘で分かっていることは少ない。
舟島というところで、宮本武蔵と岩流という武芸者同士が立会い、宮本武蔵が勝って、後に舟島を巌流島というようになった、それだけである。
それ以外のことは、試合の模様を記述した文献の間に矛盾があり、よく分かっていない。
試合を申し込んだのは、岩流とも武蔵ともある。
島に到着したのは岩流のほうが早かったともあり、武蔵のほうが先に着ていたともあり、あるいは両者同時だったともある。
見物人はいたともあり、厳重な警備の中で行われたともある。
決闘後に豊後の新免無二の元に送られたという記録もあり、それならば、そのとき新免無二は豊後にいなければならない。
また、細川家には記録が残っていないことが疑問視され、武蔵も「五輪書」序文に記述しなかった。
巌流佐々木小次郎は、富田勢源の弟子と記述されており、それならば決闘時は老人のはずなのに、十八歳だったともある。

およそ、こういった謎を解決しないかぎり巌流島の決闘の真相にはたどり着けない。
「丹治峰均筆記(兵法太祖武州玄信公伝来)」「二天記」を中心に他の資料を参考にしながら、数々の疑問に対して解決を試みる。

(注)
ここでは、武蔵研究本等で、どこにも書いているような事柄は説明を省略しています。
詳細を知りたいなら研究本を購入するか、次のサイトに飛んでください。大概のことは書かれています。
考証 巌流佐々木小次郎 http://homepage3.nifty.com/ganryu/