武蔵随想
巌流島決闘後に試合を申し込んだ相手


巌流島決闘の直後のことは、「沼田家記」に詳しく記述されている。
まだ、息のあった小次郎は武蔵の弟子によって討たれた、という例の文献である。
このことで、武蔵は卑怯者扱いされるが、武蔵批判派はともかく武蔵肯定派も依存がないらしく、武蔵を弁護していない。
史料の信憑性の高さからいって否定のしようの無い事実ということか。
その後、小次郎の弟子に追われた武蔵は、沼田家にかくまわれて、豊後の無二斎の元へ無事に送り届けられた、とある。
ところが、巌流島決闘の直後のことで、「沼田家記」に書かれていないことが「二天記」に書かれているのだ。
「沼田家記」記録者たちが知らないことがあったということか。
武蔵は決闘の後、細川家の者に対し、再度、試合を申し込んだが合議のうえ断られた、という内容がそれである。
そりゃそうだろう。佐々木小次郎を倒された後である。断られるのも当たり前である。無茶なことを言うヤツだ。
仮に小次郎が暗殺されたとしても、細川藩にも世間体というものがあろう。
しかし、である。
「沼田家記」では武蔵は小次郎の弟子に追われているのだ。
何故、このとき、小次郎の弟子たちは、この申し出を受けなかったのか。
合議の間、しばらく逗留しているのだぞ。
あるいは、リベンジしたかったが藩の上層部から止められて、それで陰で、こっそり武蔵を追ったということなのか?
ならば、小次郎の弟子も汚い。
「二天記」に書かれている相手は名前が書かれていない。
武蔵本も、ここは詳しく述べられていない。もっとも名前が分からないのだから述べようがないのだ。
決闘のとき、小次郎は十八歳と書かれているから、それは二代目で本家(初代)に対して試合を申し込んだということか?
小次郎老人説ではどうだろう。
十八歳にしても七十八歳にしても、相手にふさわしくなかったから、少しはまともな相手を出せ、という要求か?
小次郎暗殺説では、うまく説明できるのか。
「二天記」「沼田家記」の連続性は、誰も取り上げていない。
ところが、である。実は、この相手は名前が分かっているのだ。
このサイトを読んだ人はお分かりでそう。
そう、吉岡伝七郎である。こいつは、試合を断ったのだ。

